ほたる先生は振り向かない
沢村先生が教壇の前をゆっくり歩く。

「人ってさー、自分でも意味分かんない感情あるだろ?」

突然そんなことを言い出されて、私だけじゃなく数人が顔を上げた。


「好きなのにムカつくとか」

「やりたいのに逃げるとか」

「近づきたいのに、近づかれると怖いとか」

「自分でも意味分かんないことで悩むとか」


沢村先生はこちらの事情なんて、知る由もない。
ただ、評論のテーマの話をしているだけ。

それでも、今の私は。


────どくっと心臓が音を立てる。

思わずシャーペンを止めた。
なんでそこ、ピンポイント?


先生は私の動揺なんて一切気づいてない顔で続けた。

「評論って、その“意味分かんない感情”を無理やり言葉にする学問みたいなもんだから」

黒板へ振り向いて、カツカツと文字を書く。


【矛盾 → 人間として普通】


「だから問題解く時も、“矛盾してるから変”じゃなくて、」

振り向いた沢村先生が、教室全体を見る。

「なんで矛盾してんのか考えろ」

教室が急にしんと静かになった。


私は無意識に、机に掛けているバッグにつけた青い犬を見やる。


……矛盾してて、普通。

それだけで。
少しだけ、肩の力が抜けた気がした。



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