翡翠の一輪花【完】
「───翡翠?」
「………っ」
あふれ出そうになる感情に蓋をして、早足で廊下を歩いていた────その時だった。
不意に頭上から降って来た声に、思わずビクッと肩が跳ねた。
顔を上げると、そこには紺が立っていて。
「……こ、ん………」
うまく声が出ない。
そんな私を見て、
紺がゆっくり眉を寄せる。
「どうしたの」
いつもの組員たちに向ける冷たい声じゃない。
───私にだけ向ける、柔らかくて静かな声。
その優しさに、胸の奥がまた痛くなる。
「……なんでも、ない」
そう言って通り過ぎようとした瞬間。
ぐい、と腕を掴まれた。
「……っ」
「なんでもない顔じゃない」
紺の指先が、
そっと私の頬に触れる。
そこで、初めて気づいた。
――あぁ、私、泣いてるんだ。
ぽたり、と。
頬を伝った雫が、
静かに畳へ落ちていく。
気づいた途端、
堪えていたものが崩れそうになった。
「……翡翠」
紺が小さく名前を呼ぶ。
責めるでもなく、
無理に聞き出そうとするでもなく。
………ただ、
壊れ物に触れるみたいに優しい声だった。