翡翠の一輪花【完】
「……聞こえなかったか?」
紺の声が落ちた瞬間、空気が一気に凍りつく。
「彼女は高瀬組のお嬢、東雲翠だ。……お前ら、そんなことも知らねぇのか」
「「す、すいやせんでしたっ!!」」
男たちがバッと、慌てて頭を下げた。
その様子を冷徹な目で見下ろしながら、紺は淡々と続ける。
「次からは顔と名前、ちゃんと覚えとけ」
淡々とした、短いセリフ。
決して怒鳴ってはいないのに、逆らう余地のない声だった。
「「は、はいぃっ!!」」
男たちが震えながら返事をした、そのとき。
門の奥や周囲にいた他の組員たちの空気が、ざわりと動いた。
「……お嬢?」
「今の……お嬢か?」
「帰ってきたのか……?」
そんな、小さな声が、あちこちから漏れる。
視線が一斉にこちらへ集まり、空気が少しだけ変わった。
――居心地が悪い。
そんなつもりじゃないのに、確かめられているみたいで落ち着かない。
「……翡翠」
そう呼ばれた瞬間、紺の声だけがそのざわめきを切り裂いた。
さっきまでの冷たい命令口調とは違う、柔らかい響き。
「久しぶり」
その一言で、周囲の視線がすっと外れる。
まるで“そこは踏み込むな”と言われたみたいに………。
「紺、久しぶり」
「……うん。おかえり」
その声は、さっきまでの男と同じ人物とは思えないほど穏やかだった。
その変化に、思わず目を瞬かせる。
……まただ。
この人はいつも、私の前でだけ、少しだけ違う表情(かお)をする。
「……みんな、翡翠に振り回されすぎ」
小さくため息をつく紺に、思わず口元が緩む。
「別に振り回してるつもりはないけど……」
「いや、今の流れで“してない”は無理あるよ」
「それは紺が勝手に言ってるだけでしょ」
「はいはい」
呆れたような口調でも、紺の声にはどこか優しさが含まれている。
そのやり取りに、周囲の空気が少しだけ緩む。
――あの紺さんが、あんな顔するのか。
そんな関心を寄せる視線が、どこかから向けられている気がした。
「……ほら、突っ立ってないで中に入って」
紺はそう言うと、軽く私の背中を叩いた。