顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
プロローグ

一夜で授かりまして


「え? 妊娠……?」

 見知らぬ街の診療室で告げられた一言が、カティアの足元をぐらりと揺らした。
 上手く言葉が出てこない。古びた木の椅子に腰かけたまま、カティアは息を飲む。
 開け放たれた窓から吹き込む潮風が、ミルクティーベージュの髪をふわりとさらった。大きく見開かれたアクアブルーの瞳を揺らし、告げられた言葉をただ反芻する。

「おめでとうございます。まだ初期ですが、間違いないでしょう」

 穏やかに微笑む医師の声が、ひどく遠い。
 もしかして、という予感はあった。
 このところ続く気怠さと、吐き気。この街に辿り着くまで、あまりに色々なことが積み重なりすぎて、疲れがきたと思い込もうとしていた。
 けれど身体は正直だ。直視しない訳にはいかない。

(ここに、あの人との子供が……?)

 考えられる相手は、ただひとりしかいない。
 いまだ信じられない気持ちのまま、カティアはそっと自分のお腹に手を当てた。
 蘇るのは、たった一夜の記憶。カティアが、まだ侯爵令嬢エルカティア・イヴ・リーヴスだったころの話だ。
 王都の下町にある、行きずりの宿屋。侯爵令嬢があんな場所で、初めて会った人と一夜をともにするなど、許されるはずがなかった。

 それでも、初めての恋だった。
 たった一日。道ならぬ恋であることはわかっていた。
 それでも、どうか許してくださいと、神に祈りながら身体を重ねた。

 そうだ。今でも鮮明に思い出せる。
 夜の空よりもなお深い黒。艶やかな黒髪がするりと流れ、前髪の合間からラピスラズリの瞳がのぞく。
 触れ合う肌の体温。しなやかな筋肉に覆われた均整の取れた身体で、彼はカティアを優しく包み込んだ。
 長い指を滑らせ、器用に何度もカティアを啼かせながらも、彼自身も余裕なさげに笑う。
 話していたときは、茶目っ気のある冗談ばかり言っていたのに、いざ夜の帳が下りれば、ゾッとするほど甘い声で囁きかけてくるのだ。

『絶対に君を迎えに行く。家の取り決めなんて関係ない。俺の花嫁は、君だ』

 嘘か本気かもわからない、夢みたいな言葉までくれて。
 そんな未来が来るはずないってわかっていたけれど、どうしてだろう。彼に期待し、夢想する自分がいた。
 だからカティアは、自分の全部を捧げる決意をした。
 自分の立場はわかっていたつもりだ。
 それでも。その足場が揺らいでも、後悔はしないと。どんなことになっても、受け入れると。
 これは一生の恋だからと、あの日、カティアは覚悟を決めたのだ。
 そんな、めくるめく記憶が鮮やかに蘇り――。
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