顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
「――ふふ」
胸の奥、刺すような痛みを感じながら、カティアは小さく自嘲した。
(そうよ。ちゃんと覚悟はしたじゃない)
罪は罪。だから、それをちゃんと支払っただけ。
あの夜の後、カティアは全てを失った。
名前も、家も、名誉も、財産も、未来も――なにひとつ、この手元には残らなかった。
家を追放され、わずかな手切れ金だけを握りしめて見知らぬ街に辿り着いたばかりだ。
そもそも、あの人はカティアの本当の姿や名前も知らない。
そんな中、ひとり隠れるように王都から出てきて、見つけてもらおうなどと虫がよすぎる。だから、がっかりするのはお門違いだ。
それでも、あの夜の言葉を信じて、ほんの少しだけ期待していた自分がいる。
彼なら、姿も名前も違っていても、カティアを見つけ出してくれる。そう期待させるなにかがあったから。
無茶な言い分であることはわかっている。それでも不安に押しつぶされそうな夜は、彼の言葉を思い出して自分を慰めてきたのだ。
(……なんて。夢見たところで、つらくなるだけ。ちゃんとわかってる)
これから、右も左もわからないまま平民として生きていく。そんな中で、新しい命を抱えていかなければいけない。
不安がないと言えば、嘘になる。
でも――。
(あの人との、子供)
お腹に添えた手のひらに、じわりと力がこもる。
一夜の夢。道ならぬ恋だった。
カティアだって、あの人がどこの誰なのかすら、今もわからないままだ。それでも。
(私は、恋だった)
あの夜、確かに恋をした。あの人の温もりも、くれた言葉も、全部が嘘だったとしても、カティアの胸に灯った温もりだけは本物だった。
だから、なかったことにはしたくない。
(……嬉しい)
泣きそうになった。全てを失ったつもりなのに、こんなに近くに残っていたものがある。
涙を堪え、カティアは前を向いた。
これから先、たったひとり、足場もなにもない場所で、明日もわからない日々を歩くことになるだろう。
恋した人は迎えに来ない。頼れる家族もいない。この先に待つものがなんなのか、想像すらつかない。
それでも、恋した人の子だ。ひとりでも、絶対に育てていく。
(セオ。私、ひとりで頑張ってみるね)
届かないとわかっている。それでも胸の中で呟かずにはいられない。
カティアはゆっくり目を閉じ、触れたままのお腹に意識を傾けた。
その手はずっと震えている。
でも、奥に宿った小さな命のぬくもりが、大丈夫だよと語りかけてくれているようだった。