レッドパンダ・ブレイク ※本格・長編ファンタジー戦記、一括掲載

 トタン屋根の裏に釣られた傘つき裸電球の群れ。熱波の光が居並ぶボート級を照らしている。時間柄、照明が点っているのは一部だけで、横一列の奥は闇に沈んでいる。
 午後八時半に近い。明るいのはハロルド号のところだけだった。
 頭上の照明をストーブの光が助けている。
 ジュール技師長は油絵の具のパレットを手に、芸術家風に思案している。たるんだ顎には伸びかけの髭は白い。勤続四十年の特権は、担当する船舶への落書きである。大規模な修理のごと、手書きで図案のマークを入れてくれるのが恒例なのだ(たとえどんな絵であっても、乗り手が勝手に消したりすることはご法度だ)。
「うむ。今度はドラゴンにでもするか」
 このハロルド号はセリムとジュールの合作。セリムが中央のジオラマとワイヤード・パズル・システムを製作し、基本構造と外装や基本武装はジュールが設計したのだ。回転砲エイハブはブレイクが自作したものを接続し、第二の心臓部とした。思い入れのある一品である。仕事は盆栽よりも、良い。
「やはり色は赤がよいかな……」
 腕組みする老技師長。傍らの木のテーブル上には煎餅とコーヒーカップ。趣味の時間。
 突然に軽量で慌しい足音がした。
「出せるか!」
「?」
 ドックに駆け込んできたブレイク。おやっさん、ジュール技師長は面食らっている。
「やっぱりスクランブルなんだッ!」
 瓢箪から出た駒。先ほどの召集、どうやらプレート2の外部で問題が起きたらしい。
「そうか!」
 おやっさんは船体の固定を外しにかかる。ブレイクもそれを手伝う。
「もうお前、乗れ! あとは碇だけだ」
 ブレイクは甲板の上から、ウィンチで碇を巻き上げる。ジュールはドックの出入り口、鋼鉄扉を引きあける。冷え冷えとした夜気がドック内に流れ込んだ。
「おい、ブレイク! 途中で食え!」
 かくしゃくたる技師長はハンバーガーの包みを、船上のブレイクめがけて投げ渡す。どうやら自分の夜食用に買い込んであったものらしかった。
「さんきゅ!」
 礼を叫ぶブレイクを尻目に駆け出していくジュールじいさん。外の暗がりに進路を示す、二列の光が点灯する。加速、上昇するための道が明るくなる。上空に向かっても強烈なライトが投げかけられる。
 信号灯が合図を送る。
「加速進路、異状なし! 上昇経路、異状なし! 発進信号よし!」
『ボート級四番艦ハロルド号、ブレイク・ハート、これより出航する。 ……行ってくるぜ!』
 コックピットに乗り込んだブレイクは、ハロルド号を急発進させる。
 おやっさんは信号灯をふって、見事な手際で誘導する。
 空中快速艇はドックの入り口から滑り出て、一気に高度を上げる。二枚の尾翼は気流を制して、上昇力へと加算した。
「発進ッ!」
 ブレイクは操縦桿を引き倒し、輝く航跡で星の夜空を切り裂いた。



「…………」
 アネシュカは無言だった。頬がほんのりと紅く染まり、瞼がぷるぷるひきつっている。
 ブランシュはハードカバーの本を手にし、ページを繰って再び口を切った。玉のような声でお気に入りの本から、ところどころ朗読して聞かせてくれているのだ。
「シェイクスピアって……もしかして、えっちな人?」
 アネシュカは適切な言葉を探せないままに指摘する。
 先史時代の古典。もっと真面目だと思っていた。アネシュカにだって、意味は明確に理解できずとも、悪ふざけやひわいなジョークが氾濫しているのがわかった。ブランシュが耳年増である理由も。
「大衆劇を書いた人だもの。でも楽しいから悪い作品っていうわけじゃないわ。中身のない人たちほど、上っ面の真面目さでごまかすものだから」
 ブランシュはにっこりと、底意のある笑みを浮かべる。その白い指は、次のキワドイ箇所を手探りしている。
 長い睫毛の間から視線が含みのある光を放つ。
「……『お嬢さん、膝の間に乗ってよろしいでしょうか』……『この鋭い一突きを鈍らせたくば……』(『ハムレット』劇中劇の部分、新潮版福田訳など参照)」
 アネシュカは裏の意味を理解しようとつとめたらしい。やがてアネシュカは赤くなる。
「ブランシュ、そ、それって……スゴイいやらしく聞こえるんですけど」
「どうして? わたしは劇の台本を読んでいるだけだわ。ハムレットがオフィーリアに膝枕をねだって、シャープに軽口を叩いているシーンなの。そういうふうに聞こえるんだとしたら、あなたの心の問題なの」
 ブランシュは白さが増した顔で仮面の笑み。
 対峙した赤毛と金髪の二人は、転じてまさしく赤と白。
 ブランシュは次の箇所をめくる。彼女は内面の感情を劇詩に注ぎこんだ。
「『ロミオよ、ロミオ。どうしてあなたはロミオなの?』」
「今度は『ロミオとジュリエット』?」
 小さなときに子供向けの劇で見たことがある。
「うん。一番好きな話なの」
「やっぱり、原文はキワドイ?」
 アネシュカの疑惑の視線に、ブランシュは慎ましげに目をそらす。薄いピンクの唇の端に意味深長な微笑が宿る。まるでなまめかしい大人の女のようだった。
「…………」
「…………」
 妖艶なる悪女の卵を予感させる親友に、アネシュカは気おされる。
「ブランシュって結婚、嫌なんじゃなかったの?」
「恋するのは別」
 ブランシュはあっけらかんとして答えるのだった。アネシュカはくったくのない友人の気持ちを量りかねる。ブランシュは一息ついて天井を仰いだ。
「恋すると、どこかしら都合の悪いことがあるのよ。ジュリエットだって、敵の一族のロミオに恋したから、苦労したわけだし。もしロミオがロミオじゃなかったら、そんな障害もなかったはずだったのに」
 アネシュカは、変わったものでも観察するみたいにブランシュの顔をのぞきこむ。
 最初は大人びていると思った。次に子供っぽいと思った。
 でも今ではどちらとも判断がつきかねる。わかるのはブランシュの内面が、想像しかねるほどに複雑で精巧であることだけだ。
「あんたってさ。いつからこーゆー本読んでるわけ?」
 疑惑の眼差しを向けるアネシュカに、ブランシュはかわいらしく小首をかしげる。
「うーん、十歳くらいのころかなあ。お兄ちゃんの本棚にあって」
 初耳だった。
「ブランシュって、お兄ちゃんいたんだ?」
 そんな何気ないアネシュカの言葉にブランシュは胸を突かれたようだった。眉間に憂いと悲しみが広がり、泣きそうな目になる。
「どうし……わっ!」
 ブランシュはいきなりアネシュカにのしかかり、カーペットに押し倒していた。そのまま唇を唇に押しつける。皮膚の一等薄くなった場所から、熱がじんじん流れ伝わってくる。ブランシュの白い指が猛禽の爪のように肩に食い込み、痛いほどだった。
 三秒半の強いキスのあと、ブランシュはアネシュカの上でぐったりしてしまう。アネシュカの首筋をなでるブランシュの息は、まるで自棄酒でもあおったみたいだった。まるで湿った炎が煤をあげているように感じられる。
「アネシュカ……あなたが男の子だったらよかったのに」

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