レッドパンダ・ブレイク ※本格・長編ファンタジー戦記、一括掲載

 アネシュカはスポンジでブランシュの背中を泡立てる。目が少し赤いのは泣いたせいだろうか。
 もう十時。もう人はほとんどいなかった。それでも身体を洗うときはアネシュカが後ろに膝立ちの壁になり、背中を流してあげていたのだ。
 ブランシュの背には意匠化された二枚の翼の絵柄。鋭い翼の先は骨細な肩にまで伸びていた。ちょうど肩甲骨を覆う位置で彫りこまれている。
「天使みたい」
 デザインは天使らしくなかったが、ブランシュがつけていると心からそう思えるのが不思議だった。ひょっとしたら美しいサキュバスなのかもしれないともアネシュカは思う。
「ほんとは……お尻までの背中全部で、竜の絵になるはずだったんだって」
「そうなの?」
「本気だったかどうかは知らないけど。手や足にも模様を入れるって言ってた」
 アネシュカは顔をしかめる。いくらなんでもそれは酷かった。
「でも、途中で叔父様が来て助けてくれたの」
 それでブランシュの背中には羽だけが残った。神様の采配としか思えない。アネシュカはおとぎ話がハッピーエンドで終わったときみたいな安心感を覚える。
「よかった」
「うん」
 ブランシュは嬉しげな顔を顔に映し、素直にうなずく。アネシュカは洗面器でざぶりとお湯をかける。洗い流された泡は汚れと一緒に排水溝に流れていく。
「よし、一丁あがり!」
「『一丁』って。……ありがとう」
「お湯に入ろ」
 二人は背中を壁にくっつけて湯船に浸かった。
「生き返る」
「おじーさんじゃあるまいし」
 少女たちの笑いさざめく声は深夜のがらんとした浴室によく響いた。
「そうそう、昼間」
「何?」
「どうして、あの腹黒の赤アライグマ放してやったの? こっちの居場所まで教えちゃうなんて。もしかしたら悪い奴かもしれないのに」
 ブランシュはお湯の中に両足を伸ばして答える。
「さわったら、わかるから。悪気があるかどうかくらい」
 ブランシュはちょっと得意そうな顔になる。
「お見合いとかでも、すごく役に立つの」
「へえ」
 ブランシュは話を赤いアライグマからそらしたいらしかった。単純なアネシュカはあっさりと誘導にひっかかった様子である。
「あか抜けて立派に見えても、すごく気色悪かったりしたことあるし。反対に、たどたどしくっても、ずっと手をつないでたいくらいの心の温かい人もいたりして。本気で真剣に接してくれてるのは嬉しいし……。年上でもたまにカワイイって思うこともあるし。そういう人たちには、ちゃんと言えるの。『ごめんなさい、でもありがとう』って」
 心根善い求婚者たち(複数)も、結局は撃墜らしい。
 まったく! 愛らしき猛者である。そうやって、何人の挑戦者をしりぞけたのだろう?
 アネシュカは興味津々に耳をそばだてていた。やがて彼女はひょこっと頭を下げる。
「……参りました。パーフェクト降参です。先生、弟子にしてください」
「……弟子って……」
 ブランシュはアネシュカのリアクションに、さすがに返答に窮したらしかった。

「ね、さっぱりしたでしょ」
「うん。ありがとう」
 ウインクするアネシュカにブランシュは笑顔を見せる。
 半月ぶりにしっかりお湯に浸かり、二回も身体を端から端まで洗ったのだ。おかげでブランシュの肌は輝くばかりだった。
 アネシュカは憧れと少しばかりの嫉妬を覚えるほどだ。
「アネシュカ、髪」
 ブランシュはアネシュカを椅子に座らせ、櫛で梳かす。
「みつあみしていい?」
「うん」
 ブランシュは赤い髪に二本の細いみつあみをこしらえる。手つきは宝石を扱うように繊細で、底知れないほどに嬉しげでさえある。どうやらお返しのつもりらしかった。
「じゃ、仕上げの儀式を」
 この幸福感、画竜点睛はスイーツ。
 ふたりはいそいそとプリンをあける。浴場からの帰りに、購買で買ってきたのだ。
「お兄ちゃんたちも、案外一緒にくつろいでるのかも」
 アネシュカのさりげない呟きにブランシュは何かを察したらしい。急に胸が詰まったみたいに苦しげな顔になる。
「ね」
「どしたの?」
 ブランシュはためらいがちに、オドオドと言葉を選ぶ。
「その、ね、えっと、その、わたしたちのお兄ちゃん……」
 一秒ほど間があった。
「大丈夫だよ。お兄ちゃん、強いもの」
 アネシュカが白い歯を見せてそう言うと、ブランシュは胸を撫でる。
「ブランシュのお兄ちゃんだったら、頭もいいんだろうし。きっと元気でやってるよ。だからさ、わたしたちはわたしたちで頑張ってたら、いつかまた会えるよ」
 そして目の前にはプリンの誘惑がある。
 彼女たちは天使のように幸福そうだった。ここは天空に浮かんだ地上の国なのだ。
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