レッドパンダ・ブレイク ※本格・長編ファンタジー戦記、一括掲載

第四話 辺獄の空の上で(前編)/パッション


 太陽の落ちた空は満天の星に輝き渡っている。
 しかし近辺にプレートはない。水平方向に走る孤影を目に留めるものはいないだろう。
 ハロルド号は冷え冷えとした夜気を切り裂いて疾走する。爆走である。船尾の水平板は大気に耳鳴りのような唸りを巻き上げている。落下する彗星のような速度だった。
「本土に侵入してくるとは、いい度胸だっ!」
 薄暗い操縦席のブレイク・ハートは闘志に金色の瞳を煌かせる。
「覚悟はできてんだろうなっ!」
 ハロルド号はYP(ワイヤード・パズル)ジオラマから主旋律を奏で、各所のパズルとの密やかなオーケストラを力に変えて加速した。



 プレート4、夜十時。セリムたちの乗った列車は、終点に向かって着実に距離を消化していく。
 セリムは本を読んで時間を潰している。
 レイチェル・カーソンの『われらをめぐる海』。同じ著者の『沈黙の春』とともに、これも先史時代末期の貴重な資料だった。辺獄として闇に沈んだ地表の、七割方は塩水で青く覆われていたという。それが海。カーソンは海流やプランクトンの働きについて、きれいな言葉で詳述している。
 はすかいの席に腰かけて新聞を読んでいたカレルが、ポツリと呟く。
「海って、ロマンですよ」
「ええ」
 セリムは紙面から顔を上げて応える。
 カレルはセリムが話題に興味を示したのを見て、やや口が軽くなったらしかった。
「わたしも一時期、似たようなのを繰り返し読んだ覚えがあります。もっとも、小説でしたが。話は大半が想像からの創作でしたが、海の生物学やら海流やら、詳しくのっていて。……どこまでが空想で、どこからが事実なのか知る由もありませんでしたが、面白かったものです」
 セリムは頭をひねった。
「ヴェルヌの『海底二万海里』ですか?」
「ええ。魚の分類学のところも面白かったけれど、何より考えかたに惹かれました。人間の知力の可能性のようなものに。昔の人はそういう信念を持っていたから、無理と思われた夢でも、実現できたのかと」
 現代のテクネー魔法の語源は古語のテクネー(技術)に由来する。文明が激変し、エーテル元素を利用するようになっても、遥か遠い記憶は残っているらしかった。
 セリムはふっと考え込むような顔をする。
「でもその考え方の傲慢さが、古代人たちの破滅の原因だとも言いますし……あ、だけど、ノーチラス号はぼくも好きでした。自分で船を造ろうなんて思ったのも、そのせいかもしれません」
 カレルはいっそう関心をそそられたか、ハーフサイズの新聞を膝に置く。
「ほう、船を?」
「そうなんです」
 すっかり気を許したらしいセリムは、口調が熱っぽくなる。
「ボート級の小さな船なんですけど。スピードはすごく出ますし」
「おお!」
 カレルは嬉しげに嘆声を漏らす。
「それは素晴らしいですね!」
 どうやら同好の士であるらしい。自然と話に弾みがつく。
「一昨日のプラネット3‐4のときも、レスキューで出てたんですよ」
「! ……では、あなたは」
 カレルの疑念にセリムは慌てて弁明する。
「所属はプレート2のモスク・ルージュです」
 中央行政局の手下と思われてはかなわない。
「ではお仕事でプレート4に?」
 車両のコンパートメントには二人しかいない。四つの相席のうち、三つは空だった。
 空間に緊張が高まっている。
「いえ。知人に会いに……同じ旧連邦の出で」
「旧連邦のご出身?」
 カレルは純粋に驚いた様子だった。
「それにしたってなんのご用で?」
 セリムは溜息する。
「独立運動に参加していると知って。どうしてなのか、確かめたかったんです」
 カレルは気軽に提案した。
「ではご一緒しましょうか。おそらくわたしが訪ねるのと、同じ人物です」
 意外な申し出だった。
 カレルは落ち着いた調子で、もの静かにその名を口にする。
「エンヴェル・クライスト。おそらくあなたも知っている人物のはず」
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