レッドパンダ・ブレイク ※本格・長編ファンタジー戦記、一括掲載
8
まどろみかけて間もなく、奇妙な気配が神経を逆なでる。じわりじわり覚醒に引き戻されていく。水面に浮かび上がっていくときみたいだ。どこかしら基調音が変なのだ。頭の芯が切れかけた電球みたいに明滅する。断続する意識の中で、身体はまだ動かせない。掛け布団が肌に温かい。頬や額に触れる空気は少し冷たい。まだ暗い。夜明けではない。そんなに長く眠っていない。うっすらと開いた目に、時計の文字盤が映る。針の蛍光塗料。日付が変わって、さほどたっていない。
アネシュカは急にはっきり目を覚ました。
基調音の異変の源をにわかに悟る。部屋の反対側、ブランシュのベッドだ。
ちょうど顔はブランシュのほうを向いていた。枕に赤毛を委ねたまま、薄目を開けて眺める。部屋の中は暗い。それでも目が慣れてくると、ブランシュが掛布団の下でモゾモゾ動いているのがわかった。低いうなりのような音はブランシュの喉から出ているらしい。
そうだ。十日ほど前にもこんなことがあった。
悪い夢にでもうなされているのだろうか。
起こすべきだろうか。
そんなことを考えていると、ブランシュは布団から手を出して、ベッドの頭の戸棚を開けた。どうやら起きているらしい。アネシュカは本能的に息を潜めてしまう。盗み見しているようで悪い気もしたけれど、好奇心には勝てなかったし、心配でもあった。
暗がりの中で、ビンの蓋を開ける硬質な摩擦が聞こえた。ブランシュは薬を飲んでいるらしかった。かすかに錠剤を噛み砕くみたいな音がした。
アネシュカは心持ちほっとした。
薬を飲めば大丈夫。単純な「薬=治癒」という図式で、なんとなくそう感じる。何の薬かは知らなかったけれども、毒になるようなものを飲むはずがないからだ。
妙に気が引けたので見なかったことにしようと思った。
触れてはいけない気がしたのだ。
瞼を閉じてしばらくは静かだった。けれどもしばらくして、またブランシュがモゾモゾしはじめる。寝付かれないのだろうか? 薬が効かなかったのか。ひょっとするとあの薬は睡眠薬だったのかもしれない。脈絡の不完全な観念が、浮かんでは消えていく。
ブランシュの様子はだんだん尋常でなくなっている。
五分くらいして、ようやくそのことに気がついた。
走ったあとの犬みたいに息遣いが荒くなってきている。よほど気分が悪いらしい。
「ブランシュ」
小声で呼んでみてもどうやら聞こえていないらしかった。
アネシュカはベッドから起き上がってはたによる。
「ブランシュ」
掛布団の上から肩に手を触れ、抱き起こす。ブランシュは汗みずくになっていた。布団がめくれると臭いまでが鼻をつく。
「く、くすり」
ブランシュはさまようようなあやうさで、枕もとのビンに手を伸ばす。蓋を払いのけて、いっぺんに十錠くらい掌にあける。いっときに口に運ぼうとする。
「だめ!」
アネシュカはとっさに押しとどめる。そんな大量の薬を飲んだらまずいことくらいは素人目にも明らかだ。ブランシュは暴れる。アネシュカは肘の先で顔を叩かれてのけぞる。錠剤はバラバラと飛び散ってしまう。
ブランシュはしゃくりあげるみたいに鼻を鳴らし、ベッドから転がり落ちる。まるで悪霊にでもとりつかれたみたいだ。手探りで一心に床を探っていた。ときどき歯を食いしばって動きを止めながら、鵜のように頭を下げる。カーペットの上に口をつけるみたいにして床に落ちた錠剤をあさっていた。
「どうしたってのよ! ブランシュ!」
後ろから抱きしめて制止しようとしても無駄だった。
「いたい、いたい、痛み止め、効かない……」
ブランシュは急にものすごい力で立ち上がる。こんな華奢な体のどこにこんな力があったのだろう? アネシュカは弾き飛ばされてしまう。ブランシュは机に歩みよると、筆立てからハサミを引っ張り出し、たどたどしく刃を開いて、自分の喉を切るそぶりを見せる。アネシュカは大慌てではさみを取り上げ、力任せに押さえつける。
「殺して、殺して、いたい。死にたいよう」
どうやら苦痛から逃れるために衝動的に死のうとでもしたらしい。
「お医者さんに……」
アネシュカは急病だと勘違いする。ブランシュはようやくまともに答えた。
「ち、ちがうの、いれずみが、い、痛いの!」
「刺青?」
「ときどきすごく、いたい、お、お医者さんは『気のせい』だって……」
ブランシュは肩で息をしながら、喘ぎ喘ぎやっとのことで説明する。
「『気のせい』って。そんなことあるはず……」
絶句するアネシュカのパジャマの袖を大粒の涙で濡らし、ブランシュはぶるぶる震えてかすれ声をしぼりだす。幽霊のように青ざめている。
「ぜんぶ、こころの問題だって……」
まどろみかけて間もなく、奇妙な気配が神経を逆なでる。じわりじわり覚醒に引き戻されていく。水面に浮かび上がっていくときみたいだ。どこかしら基調音が変なのだ。頭の芯が切れかけた電球みたいに明滅する。断続する意識の中で、身体はまだ動かせない。掛け布団が肌に温かい。頬や額に触れる空気は少し冷たい。まだ暗い。夜明けではない。そんなに長く眠っていない。うっすらと開いた目に、時計の文字盤が映る。針の蛍光塗料。日付が変わって、さほどたっていない。
アネシュカは急にはっきり目を覚ました。
基調音の異変の源をにわかに悟る。部屋の反対側、ブランシュのベッドだ。
ちょうど顔はブランシュのほうを向いていた。枕に赤毛を委ねたまま、薄目を開けて眺める。部屋の中は暗い。それでも目が慣れてくると、ブランシュが掛布団の下でモゾモゾ動いているのがわかった。低いうなりのような音はブランシュの喉から出ているらしい。
そうだ。十日ほど前にもこんなことがあった。
悪い夢にでもうなされているのだろうか。
起こすべきだろうか。
そんなことを考えていると、ブランシュは布団から手を出して、ベッドの頭の戸棚を開けた。どうやら起きているらしい。アネシュカは本能的に息を潜めてしまう。盗み見しているようで悪い気もしたけれど、好奇心には勝てなかったし、心配でもあった。
暗がりの中で、ビンの蓋を開ける硬質な摩擦が聞こえた。ブランシュは薬を飲んでいるらしかった。かすかに錠剤を噛み砕くみたいな音がした。
アネシュカは心持ちほっとした。
薬を飲めば大丈夫。単純な「薬=治癒」という図式で、なんとなくそう感じる。何の薬かは知らなかったけれども、毒になるようなものを飲むはずがないからだ。
妙に気が引けたので見なかったことにしようと思った。
触れてはいけない気がしたのだ。
瞼を閉じてしばらくは静かだった。けれどもしばらくして、またブランシュがモゾモゾしはじめる。寝付かれないのだろうか? 薬が効かなかったのか。ひょっとするとあの薬は睡眠薬だったのかもしれない。脈絡の不完全な観念が、浮かんでは消えていく。
ブランシュの様子はだんだん尋常でなくなっている。
五分くらいして、ようやくそのことに気がついた。
走ったあとの犬みたいに息遣いが荒くなってきている。よほど気分が悪いらしい。
「ブランシュ」
小声で呼んでみてもどうやら聞こえていないらしかった。
アネシュカはベッドから起き上がってはたによる。
「ブランシュ」
掛布団の上から肩に手を触れ、抱き起こす。ブランシュは汗みずくになっていた。布団がめくれると臭いまでが鼻をつく。
「く、くすり」
ブランシュはさまようようなあやうさで、枕もとのビンに手を伸ばす。蓋を払いのけて、いっぺんに十錠くらい掌にあける。いっときに口に運ぼうとする。
「だめ!」
アネシュカはとっさに押しとどめる。そんな大量の薬を飲んだらまずいことくらいは素人目にも明らかだ。ブランシュは暴れる。アネシュカは肘の先で顔を叩かれてのけぞる。錠剤はバラバラと飛び散ってしまう。
ブランシュはしゃくりあげるみたいに鼻を鳴らし、ベッドから転がり落ちる。まるで悪霊にでもとりつかれたみたいだ。手探りで一心に床を探っていた。ときどき歯を食いしばって動きを止めながら、鵜のように頭を下げる。カーペットの上に口をつけるみたいにして床に落ちた錠剤をあさっていた。
「どうしたってのよ! ブランシュ!」
後ろから抱きしめて制止しようとしても無駄だった。
「いたい、いたい、痛み止め、効かない……」
ブランシュは急にものすごい力で立ち上がる。こんな華奢な体のどこにこんな力があったのだろう? アネシュカは弾き飛ばされてしまう。ブランシュは机に歩みよると、筆立てからハサミを引っ張り出し、たどたどしく刃を開いて、自分の喉を切るそぶりを見せる。アネシュカは大慌てではさみを取り上げ、力任せに押さえつける。
「殺して、殺して、いたい。死にたいよう」
どうやら苦痛から逃れるために衝動的に死のうとでもしたらしい。
「お医者さんに……」
アネシュカは急病だと勘違いする。ブランシュはようやくまともに答えた。
「ち、ちがうの、いれずみが、い、痛いの!」
「刺青?」
「ときどきすごく、いたい、お、お医者さんは『気のせい』だって……」
ブランシュは肩で息をしながら、喘ぎ喘ぎやっとのことで説明する。
「『気のせい』って。そんなことあるはず……」
絶句するアネシュカのパジャマの袖を大粒の涙で濡らし、ブランシュはぶるぶる震えてかすれ声をしぼりだす。幽霊のように青ざめている。
「ぜんぶ、こころの問題だって……」