レッドパンダ・ブレイク ※本格・長編ファンタジー戦記、一括掲載
4
(なぜ、いつもこうなる?)
森に潜伏したカレル・ノスティッツは自分の運の悪さを呪った。
太陽が昇り、周囲は明るい。山狩りが始まったようだったし、発見されるのは時間の問題だろう。
(強行突破しかないのか……)
カレルはどうにかして腹をくくろうとした。
共和国を脱出してほとんど三年、暴力沙汰にもずいぶん慣れてはいる。けれどもやはり無駄な死傷者を出すことには気が進まないのだ。
「どうして、いつもいつも……」
憂鬱な過去が記憶に蘇る。
プレート1に育った少年時代、公共心から出頭命令に応じた。なぜなら社会的な制約を受け入れるのは人として良識であり、金呪を受けることは不都合ながら名誉でもあると信じたからだ。
第一、同じプレートの「同胞が自分にそんな酷いことをするはずがない」と思っていた。
幼稚だったと反省する。現実の理不尽さは、彼の想像を遥かに越えていた。
金呪。ありえない事象がナチュラルに生起した。
あのときカレルの頭の中で「何かが壊れた」。それまで漠として信じていた、倫理や道徳や善なる観念が、もはや価値をもたなくなった。生まれ育った共和国の社会への信頼が、一挙に消滅してしまったのだろう。
士官学校で優秀な成績を修めてもわだかまりは消えず、疑念は募る一方。
だから逃げた。
それから難民のように世界のあちこちに行った。
よく小説や映画に出てくるような、「亡命者」などというカッコイイものでは断じてなかった。空腹のあまりゴミを漁ったことさえあるくらいだ。ならずものと殴り合い、ギャングと死闘を演じたこともある(アルスの使用を最小限に留めるために肉弾戦も厭わなかった)。わずかばかりのはした金を稼ぐために、犯罪者まがいの連中に雇われたこともある。
それでも共和国のプレート1に帰りたいとは一度も思わなかった。
かえって旧連邦の国々や帝国にまで、遠く足を伸ばした。暴力的で無法な、原始的な冒険者のように。自分の行動が明らかに常軌を外れている自覚はあったものの、理不尽で「異常な体験」をしたせいで、心理的な抵抗がなくなっていたのだ。様々な経験を重ねるほどにその傾向は強まった。方向性をもった加速のようなものがついて、止まらなかった。
自滅を免れて、新しい建設的な道を見出したのはのっけの幸いだったろう。
現在ではジャーナリストとして、共和国の暗部を国際世論に暴露してやろうと考えるようになった。今回、プレート4に潜入したのも、そのためだ。
もちろん念には念を入れた。多少のごまかしがあったとはいえ、身元証明書と旅券は本物を準備した。さらには外国の新聞社を通じて、プレート4の高官と交渉してもらった。だから事実上、正規のルートで入国したに等しい。
しかしストロモフカ警備軍のこの対応の速さ。それ以前に自分を捕獲しようとすることからしておかしいのだ。
さらに管轄外のヴァーツラフ・ペルンシュテイン(ブレイク・ハート)が、真っ先に出てきたのも理解不能だ。しかも出会い頭の行動が常軌を逸していた。インタビューに来ただけの自分にむけて、いきなり船で突っ込んで、さらにはエレメントガン(実際は旧式バルカン)を乱射してきたのだ。旧知の仲の人間に、話も聞かずに引き金を引くだろうか?
介在した何者かが、故意に情報を歪曲して伝えたとしか思えない。
「もうこれでは、インタビューどころじゃあないな……誰だ、誰がわたしを売った?」
あのヴァーツラフが中央行政局の命令に、素直に従うだろうか? 彼とて、中央に反感をもっている。その点、プレート4の行政局や警察とて、中央嫌いは同じことだ。
(やはりプレート4内部の協力者が裏切ったのか?)
しかしプレート4側とて、今回のインタビュー取材は歓迎していたのではなかったか? 彼らは「独立の可能性を対外的にアピールする」ことで、プレート1の独善を牽制しようとしていたのだ。いったいどうして、方針が百八十度急転換したのかがわからない。
理由はわからないが、露骨な裏切りを受けたのは確実だった。
祖国への怒りがこみ上げてくる。
「また俺を騙したなッ!」
カレルは天を仰いで絶叫した。人工の両腕に青白い放電がパチパチと鳴った。
5
「カレル君。金呪で腕を切りおとされたんですってね。両方とも」
司書キアラはかちゃりとティーカップを皿に置いた。平静な表情は根幹の部分での情緒の麻痺を予感させる。
「そうだ。最近のプレート1の金呪は過酷に過ぎる。昔は心身を決定的に破壊するようなことは、めったにやらなかったものだが」
「近頃は予知能力者の目を縫い潰すとか、やりたい放題ですからね」
アルジャノンは渋い顔をして、円蓋を支える柱に背をもたせて立っていた。
大図書館の屋上の小庭園。眠れぬ夜を明かしたアルジャノンとキアラは、あずま屋で目覚ましのお茶を飲んでいた。
「わたしも金呪で歩けなくされたけれど。でも、ノコギリでじわじわ切るとか、やたらめったら痛めつけるようなことはしませんでしたのに。ずっと丁重に扱われて、それに、入院している間に、アル・カーヒラの統領や議員の方が何度もお見舞いにきて、優しい言葉をかけてくれたくれたものでした。……カレル君は痛み止めももらえずに、ほっぽっておかれたんでしょう? 逃げないように鉄格子の地下室で。そんなやり方をされたら、誰だって怒りますもの。誇り高い人間なら、反抗心の一つも起こして当然です」
アルジャノンは無言だ。キアラはすがるみたいな眼差しで、アルジャノンの顔をじっと見上げた。悲しげに顔をしかめるアルジャノン。
「ヴァーツラフ君だって」
キアラは諦めに満ちた弱々しい声音をつなぐ。
「あの、動物の姿にされたんでしょう? プレート1にいたときに」
「そうだ。ヴァーツラフ、ブレイクのプレート1でかけられたあの変身の金呪の呪いは、プレート2のテクネーだけでは、なかなか解けない。ずっと解析はしてもらってるんだが、望み薄だな」
アルジャノンは憎々しげに眉間に皺をつくる。
「それでプレート1に『解いてやれ』『変身解除の鍵をよこせ』って何回頼んでも、はぐらかされちまうんだ。……奴ら、手放した人材にも影響力を残したいのさ。それとも、復讐を怖がってるのかな? 『もし歯向かったら、元の姿に戻れなくなるぞ』ってな。いざとなったら、あいつにそんな脅しが通用するわけがないんだがね」
アルジャノンは皮肉な笑みを浮かべた。
彼の直属の部下には、そういう厳しい立場の者たちも多数集っている。彼らは一歩道を誤れば、(主にプレート1や中央行政局に対して)自爆テロにでも走りかねない。やけを起こし暴れて逮捕され、司法取引で「服役囚」のまま奉職している「囚人戦士」までいる。
「中央の奴ら、怖いのさ。自分らのやってきた、山ほどの悪行の罰が」
嘲笑うアルジャノンにキアラは哀れむような顔をした。
中央行政局は、かつての被害者からの復讐を恐れている。彼らの罪悪への恐怖は、嫌悪と蔑視という形であらわれる。この第一モスクの部隊を「プレート2の『外人部隊』は共和国の火薬庫」と、陰で揶揄する所以であった。一度など役人の一人がアルジャノンに、面と向かって「犯罪者予備軍の山賊どもの管理はさぞかし大変でしょう」とまで抜かしやがった。そのくせその「力」だけは貪欲に利用したがるのだから、図々しいにも程がある。
キアラは目を伏せたままで、かすれる声で不安そうだ。
「昔は、結婚したり、歳が上がったりすると、元の人間の姿に戻してもらって。もっと簡単な行動制限とか、そんな当り障りのない金呪に振り返られたものでしたけれど」
彼女は何とかして、明るい、温かい思い出を呼び返そうとしている様子だった。
「ほ、ほら。記念に、それまで変身してた動物の紋章が入った旗やマントなんかプレゼントされたりして。わたしのお祖父さんも、お祝いの席なんかがあると、『クマさんの兜』を引っ張り出して喜んで身につけたものです。居間に旗を飾ったり。まだ子供だったころ、お祭りのとき、よく『俺は若い頃ライオンだった』だの『自分は昔は虎だった』だのって、いい歳の大人たちが仮装して、懐かしそうに……」
かつて、動物化の金呪には「逃亡防止策」という一面があった。エレメント・アルスの資質のある人材が、自分の都合のいい外国へ流出してしまうのを予防するためだ。しかし結婚して家庭をもったり、経歴を積んで地位を与えられたりすれば、共和国を見限る惧れは格段に減る。本人たちも苦労が最終的には報いられることを知っていたから、共和国に忠誠を誓うのにやぶさかでなかった。
キアラは少し泣きそうに、目じりに涙を溜めている。
「だ、だから……」
しかしアルジャノンはこみ上げる怒りに吐き捨てた。
「今は昔だ。もうプレート1や3では、動物から人に戻してもらえる保証はない。うちのアル・カーヒラ(プレート2)と違って、今のプレート1の中央行政局は、腹の底では、エレメント・アルスの血筋を同じ人間だと思っていないからな。道具として一生使い潰すつもりでいるんだ。女だって同じさ、よく知っているだろう?」
「そうですよね」
キアラは悲しげに相槌を打った。
彼女はかつてプレート1に遊学中、強引に金呪を施されたのだ。「歩けなくした」ことに、彼女をそのままプレート1に帰属させようとする意図が見え隠れしていた。エレメント・アルスの血統の女性の子なら、ほぼ確実に「人間種族の魔法使い」になるからだ。地元のアル・カーヒラの行政局は猛然と抗議し、舞台裏ではずいぶんと揉めた。アルジャノンがキアラと知り合い、プレート2に初めて縁ができたのはそのときである。
当時から、昨今のプレート1のあくどさの兆しはあらわれていたのだろう。
「制度が変わったわけじゃない。だんだん制度の使い方を間違ってきているんだ。共存のための方便だったのが、潜在的な怖れを迫害で晴らす口実になってしまっている」
「だったらどうして、逃げないんです? 帝国なら……。もし逃げるんだったら、わたしも一緒に……」
不平たらたらのキアラに、アルジャノンは答えた。
「帝国は奴隷の国だ。平民は貴族の奴隷で、貴族は王族の奴隷で、王族と貴族は皇帝の奴隷さ。そんな国で生きていきたいと思うか? 千人の奴隷よりは、百人の自由な友人のほうがありがたいね。だいたい奴隷に褒められても嬉しくもないだろ。そもそも奴隷に、良し悪しを判断する自由意志なんてないんだからな。褒めるもけなすも自由な、そんな対等な仲間から一流や第一人者と認められることほど、値打ちのあることはない」
キアラは反論する。
「自由な人間なんて、いるんでしょうか? それに『自由』とか『平等』とか、そんな抽象的なこと。どうでもいいし、うそっぽいです。そんな上辺の言葉や、現実離れした理想にこだわるから、人間は不幸になるんです。愛情のあるなしの方が大問題です。ちゃんと愛されれば、幸せな奴隷だっていると思うんです。……あなたはわたしと共和国と、どっちが大事なんです? わたし、もうじき二十八なんですよ?」
キアラは怨恨の眼差しで睨む。人間は機嫌が悪いとき、たまに感情的な公私混同が出る。
アルジャノンは苦虫を噛み潰すみたいに、立ったままクッキーを噛み砕いた。
からい。
「塩と砂糖、間違えたのか?」
キアラは自分が焼いたクッキーを手に取り、皿ごと乱暴にゴミ箱に投げた。
「……悪かった」
司書の機嫌の悪さにびっくりしたアルジャノンは詫びる。
キアラは聡明で温和だ。そのくせ根が天気屋の芸術家気質でもある。親切と不機嫌の移り変わりはよくあることだった。だが今は一等最悪らしい。あまりにも最悪、たぶん新記録更新だろう。
狼狽したアルジャノンは話題を変えて、間をもたせようとする。
「そういや、ブレイクはどうした? 連絡とか? 昨日の晩、プラネット2‐3の研究所の勉強会へ出かけただろ?」
ブレイク・ハートが物質循環学の研究会に籍を置いているのは事実だった(博物館の付属機関の公式講座だった)。文化としてプレート2では学習や訓練のための、自発的なサークルも盛んなのだ。多くの市民は本職に関係のあるような、自主研究のテーマをもっている。
アルジャノンはキアラから、ブレイクはハロルド号でプラネット2‐3へ行ったと聞かされていた。キアラは目をそらして無愛想に淡々と告げた。
「それ、嘘です」
「嘘?」
「ブレイク・ハートはプレート4へ、侵入したカレル・ノスティッツを抹殺しに行きました」
鳩に豆鉄砲なアルジャノンは呆気に定型的に問い返すしかない。まるで馬糞をハンバーグと間違えて食べた、そのまさに瞬間のような顔であった。
「なぜ?」
「統領のマフムート・パシャのご命令です。ちゃんと封をした統領の命令書をアルムルクから受け取って、わたしが手渡しました」
キアラは冷めた目で、絶句しているアルジャノンを見据える。
「わたしたちは駒なんです。がっちり首根っこ押さえられた、世の中の歯車なんです。……わたしも、あなたも、本当は共和国の奴隷です」
(なぜ、いつもこうなる?)
森に潜伏したカレル・ノスティッツは自分の運の悪さを呪った。
太陽が昇り、周囲は明るい。山狩りが始まったようだったし、発見されるのは時間の問題だろう。
(強行突破しかないのか……)
カレルはどうにかして腹をくくろうとした。
共和国を脱出してほとんど三年、暴力沙汰にもずいぶん慣れてはいる。けれどもやはり無駄な死傷者を出すことには気が進まないのだ。
「どうして、いつもいつも……」
憂鬱な過去が記憶に蘇る。
プレート1に育った少年時代、公共心から出頭命令に応じた。なぜなら社会的な制約を受け入れるのは人として良識であり、金呪を受けることは不都合ながら名誉でもあると信じたからだ。
第一、同じプレートの「同胞が自分にそんな酷いことをするはずがない」と思っていた。
幼稚だったと反省する。現実の理不尽さは、彼の想像を遥かに越えていた。
金呪。ありえない事象がナチュラルに生起した。
あのときカレルの頭の中で「何かが壊れた」。それまで漠として信じていた、倫理や道徳や善なる観念が、もはや価値をもたなくなった。生まれ育った共和国の社会への信頼が、一挙に消滅してしまったのだろう。
士官学校で優秀な成績を修めてもわだかまりは消えず、疑念は募る一方。
だから逃げた。
それから難民のように世界のあちこちに行った。
よく小説や映画に出てくるような、「亡命者」などというカッコイイものでは断じてなかった。空腹のあまりゴミを漁ったことさえあるくらいだ。ならずものと殴り合い、ギャングと死闘を演じたこともある(アルスの使用を最小限に留めるために肉弾戦も厭わなかった)。わずかばかりのはした金を稼ぐために、犯罪者まがいの連中に雇われたこともある。
それでも共和国のプレート1に帰りたいとは一度も思わなかった。
かえって旧連邦の国々や帝国にまで、遠く足を伸ばした。暴力的で無法な、原始的な冒険者のように。自分の行動が明らかに常軌を外れている自覚はあったものの、理不尽で「異常な体験」をしたせいで、心理的な抵抗がなくなっていたのだ。様々な経験を重ねるほどにその傾向は強まった。方向性をもった加速のようなものがついて、止まらなかった。
自滅を免れて、新しい建設的な道を見出したのはのっけの幸いだったろう。
現在ではジャーナリストとして、共和国の暗部を国際世論に暴露してやろうと考えるようになった。今回、プレート4に潜入したのも、そのためだ。
もちろん念には念を入れた。多少のごまかしがあったとはいえ、身元証明書と旅券は本物を準備した。さらには外国の新聞社を通じて、プレート4の高官と交渉してもらった。だから事実上、正規のルートで入国したに等しい。
しかしストロモフカ警備軍のこの対応の速さ。それ以前に自分を捕獲しようとすることからしておかしいのだ。
さらに管轄外のヴァーツラフ・ペルンシュテイン(ブレイク・ハート)が、真っ先に出てきたのも理解不能だ。しかも出会い頭の行動が常軌を逸していた。インタビューに来ただけの自分にむけて、いきなり船で突っ込んで、さらにはエレメントガン(実際は旧式バルカン)を乱射してきたのだ。旧知の仲の人間に、話も聞かずに引き金を引くだろうか?
介在した何者かが、故意に情報を歪曲して伝えたとしか思えない。
「もうこれでは、インタビューどころじゃあないな……誰だ、誰がわたしを売った?」
あのヴァーツラフが中央行政局の命令に、素直に従うだろうか? 彼とて、中央に反感をもっている。その点、プレート4の行政局や警察とて、中央嫌いは同じことだ。
(やはりプレート4内部の協力者が裏切ったのか?)
しかしプレート4側とて、今回のインタビュー取材は歓迎していたのではなかったか? 彼らは「独立の可能性を対外的にアピールする」ことで、プレート1の独善を牽制しようとしていたのだ。いったいどうして、方針が百八十度急転換したのかがわからない。
理由はわからないが、露骨な裏切りを受けたのは確実だった。
祖国への怒りがこみ上げてくる。
「また俺を騙したなッ!」
カレルは天を仰いで絶叫した。人工の両腕に青白い放電がパチパチと鳴った。
5
「カレル君。金呪で腕を切りおとされたんですってね。両方とも」
司書キアラはかちゃりとティーカップを皿に置いた。平静な表情は根幹の部分での情緒の麻痺を予感させる。
「そうだ。最近のプレート1の金呪は過酷に過ぎる。昔は心身を決定的に破壊するようなことは、めったにやらなかったものだが」
「近頃は予知能力者の目を縫い潰すとか、やりたい放題ですからね」
アルジャノンは渋い顔をして、円蓋を支える柱に背をもたせて立っていた。
大図書館の屋上の小庭園。眠れぬ夜を明かしたアルジャノンとキアラは、あずま屋で目覚ましのお茶を飲んでいた。
「わたしも金呪で歩けなくされたけれど。でも、ノコギリでじわじわ切るとか、やたらめったら痛めつけるようなことはしませんでしたのに。ずっと丁重に扱われて、それに、入院している間に、アル・カーヒラの統領や議員の方が何度もお見舞いにきて、優しい言葉をかけてくれたくれたものでした。……カレル君は痛み止めももらえずに、ほっぽっておかれたんでしょう? 逃げないように鉄格子の地下室で。そんなやり方をされたら、誰だって怒りますもの。誇り高い人間なら、反抗心の一つも起こして当然です」
アルジャノンは無言だ。キアラはすがるみたいな眼差しで、アルジャノンの顔をじっと見上げた。悲しげに顔をしかめるアルジャノン。
「ヴァーツラフ君だって」
キアラは諦めに満ちた弱々しい声音をつなぐ。
「あの、動物の姿にされたんでしょう? プレート1にいたときに」
「そうだ。ヴァーツラフ、ブレイクのプレート1でかけられたあの変身の金呪の呪いは、プレート2のテクネーだけでは、なかなか解けない。ずっと解析はしてもらってるんだが、望み薄だな」
アルジャノンは憎々しげに眉間に皺をつくる。
「それでプレート1に『解いてやれ』『変身解除の鍵をよこせ』って何回頼んでも、はぐらかされちまうんだ。……奴ら、手放した人材にも影響力を残したいのさ。それとも、復讐を怖がってるのかな? 『もし歯向かったら、元の姿に戻れなくなるぞ』ってな。いざとなったら、あいつにそんな脅しが通用するわけがないんだがね」
アルジャノンは皮肉な笑みを浮かべた。
彼の直属の部下には、そういう厳しい立場の者たちも多数集っている。彼らは一歩道を誤れば、(主にプレート1や中央行政局に対して)自爆テロにでも走りかねない。やけを起こし暴れて逮捕され、司法取引で「服役囚」のまま奉職している「囚人戦士」までいる。
「中央の奴ら、怖いのさ。自分らのやってきた、山ほどの悪行の罰が」
嘲笑うアルジャノンにキアラは哀れむような顔をした。
中央行政局は、かつての被害者からの復讐を恐れている。彼らの罪悪への恐怖は、嫌悪と蔑視という形であらわれる。この第一モスクの部隊を「プレート2の『外人部隊』は共和国の火薬庫」と、陰で揶揄する所以であった。一度など役人の一人がアルジャノンに、面と向かって「犯罪者予備軍の山賊どもの管理はさぞかし大変でしょう」とまで抜かしやがった。そのくせその「力」だけは貪欲に利用したがるのだから、図々しいにも程がある。
キアラは目を伏せたままで、かすれる声で不安そうだ。
「昔は、結婚したり、歳が上がったりすると、元の人間の姿に戻してもらって。もっと簡単な行動制限とか、そんな当り障りのない金呪に振り返られたものでしたけれど」
彼女は何とかして、明るい、温かい思い出を呼び返そうとしている様子だった。
「ほ、ほら。記念に、それまで変身してた動物の紋章が入った旗やマントなんかプレゼントされたりして。わたしのお祖父さんも、お祝いの席なんかがあると、『クマさんの兜』を引っ張り出して喜んで身につけたものです。居間に旗を飾ったり。まだ子供だったころ、お祭りのとき、よく『俺は若い頃ライオンだった』だの『自分は昔は虎だった』だのって、いい歳の大人たちが仮装して、懐かしそうに……」
かつて、動物化の金呪には「逃亡防止策」という一面があった。エレメント・アルスの資質のある人材が、自分の都合のいい外国へ流出してしまうのを予防するためだ。しかし結婚して家庭をもったり、経歴を積んで地位を与えられたりすれば、共和国を見限る惧れは格段に減る。本人たちも苦労が最終的には報いられることを知っていたから、共和国に忠誠を誓うのにやぶさかでなかった。
キアラは少し泣きそうに、目じりに涙を溜めている。
「だ、だから……」
しかしアルジャノンはこみ上げる怒りに吐き捨てた。
「今は昔だ。もうプレート1や3では、動物から人に戻してもらえる保証はない。うちのアル・カーヒラ(プレート2)と違って、今のプレート1の中央行政局は、腹の底では、エレメント・アルスの血筋を同じ人間だと思っていないからな。道具として一生使い潰すつもりでいるんだ。女だって同じさ、よく知っているだろう?」
「そうですよね」
キアラは悲しげに相槌を打った。
彼女はかつてプレート1に遊学中、強引に金呪を施されたのだ。「歩けなくした」ことに、彼女をそのままプレート1に帰属させようとする意図が見え隠れしていた。エレメント・アルスの血統の女性の子なら、ほぼ確実に「人間種族の魔法使い」になるからだ。地元のアル・カーヒラの行政局は猛然と抗議し、舞台裏ではずいぶんと揉めた。アルジャノンがキアラと知り合い、プレート2に初めて縁ができたのはそのときである。
当時から、昨今のプレート1のあくどさの兆しはあらわれていたのだろう。
「制度が変わったわけじゃない。だんだん制度の使い方を間違ってきているんだ。共存のための方便だったのが、潜在的な怖れを迫害で晴らす口実になってしまっている」
「だったらどうして、逃げないんです? 帝国なら……。もし逃げるんだったら、わたしも一緒に……」
不平たらたらのキアラに、アルジャノンは答えた。
「帝国は奴隷の国だ。平民は貴族の奴隷で、貴族は王族の奴隷で、王族と貴族は皇帝の奴隷さ。そんな国で生きていきたいと思うか? 千人の奴隷よりは、百人の自由な友人のほうがありがたいね。だいたい奴隷に褒められても嬉しくもないだろ。そもそも奴隷に、良し悪しを判断する自由意志なんてないんだからな。褒めるもけなすも自由な、そんな対等な仲間から一流や第一人者と認められることほど、値打ちのあることはない」
キアラは反論する。
「自由な人間なんて、いるんでしょうか? それに『自由』とか『平等』とか、そんな抽象的なこと。どうでもいいし、うそっぽいです。そんな上辺の言葉や、現実離れした理想にこだわるから、人間は不幸になるんです。愛情のあるなしの方が大問題です。ちゃんと愛されれば、幸せな奴隷だっていると思うんです。……あなたはわたしと共和国と、どっちが大事なんです? わたし、もうじき二十八なんですよ?」
キアラは怨恨の眼差しで睨む。人間は機嫌が悪いとき、たまに感情的な公私混同が出る。
アルジャノンは苦虫を噛み潰すみたいに、立ったままクッキーを噛み砕いた。
からい。
「塩と砂糖、間違えたのか?」
キアラは自分が焼いたクッキーを手に取り、皿ごと乱暴にゴミ箱に投げた。
「……悪かった」
司書の機嫌の悪さにびっくりしたアルジャノンは詫びる。
キアラは聡明で温和だ。そのくせ根が天気屋の芸術家気質でもある。親切と不機嫌の移り変わりはよくあることだった。だが今は一等最悪らしい。あまりにも最悪、たぶん新記録更新だろう。
狼狽したアルジャノンは話題を変えて、間をもたせようとする。
「そういや、ブレイクはどうした? 連絡とか? 昨日の晩、プラネット2‐3の研究所の勉強会へ出かけただろ?」
ブレイク・ハートが物質循環学の研究会に籍を置いているのは事実だった(博物館の付属機関の公式講座だった)。文化としてプレート2では学習や訓練のための、自発的なサークルも盛んなのだ。多くの市民は本職に関係のあるような、自主研究のテーマをもっている。
アルジャノンはキアラから、ブレイクはハロルド号でプラネット2‐3へ行ったと聞かされていた。キアラは目をそらして無愛想に淡々と告げた。
「それ、嘘です」
「嘘?」
「ブレイク・ハートはプレート4へ、侵入したカレル・ノスティッツを抹殺しに行きました」
鳩に豆鉄砲なアルジャノンは呆気に定型的に問い返すしかない。まるで馬糞をハンバーグと間違えて食べた、そのまさに瞬間のような顔であった。
「なぜ?」
「統領のマフムート・パシャのご命令です。ちゃんと封をした統領の命令書をアルムルクから受け取って、わたしが手渡しました」
キアラは冷めた目で、絶句しているアルジャノンを見据える。
「わたしたちは駒なんです。がっちり首根っこ押さえられた、世の中の歯車なんです。……わたしも、あなたも、本当は共和国の奴隷です」