レッドパンダ・ブレイク ※本格・長編ファンタジー戦記、一括掲載
2
「はい」
セリムは紙皿に盛ったレトルトシチューと、一切れのパンとハムを手渡す。代表で居残った四人の木精の兵士・警官たちは列になって昼食を受け取った。ハロルド号には、二人で十日やそこらはもつくらいの量の備蓄があった。軽い一食を振舞うくらいはできる。
ハロルド号の周囲に立てこもって、四時間を過ぎている。
もう正午も近い。喰わねば戦はできぬものだ。
「コーヒーもあるから」
セリムは気前よく言った。コーヒーなど、どうせ嗜好品だし、仮に切らしてしまったとしても構いはしない。
しかしシチュー皿を手渡す少年は目が死んでいる。
笑顔の合間合間にざらつくような無表情が垣間見える。どんなことでもやっていた方が、気が紛れるらしかった。難しいことをやるのは無理だったから、こういう他愛もない作業こそ相応しい。祖国でよく飲まれるやり方で濃いコーヒーを煎れにとりかかる。
ブレイクとカレルは、甲板の上で深刻な会話の最中だった。
「俺たちはどうしたらいいんだ?」
ブレイクの質問に、アルジャノンは率直に答えた。
『何もしなくていい。とにかく自分たちの身を守りながら、待機してくれ』
ブレイクたちが事件の裏側を察知した時点でシシィの暗殺命令は解除された。統領マフムートは言葉巧みに役人アルムルクを説得したらしい。
しかし油断はできない。
アルムルクたち中央行政局がこのまま素直に引き下がるわけがなかった。ブレイクを思うとおりに動かせないのなら、それにかわる手を打ってくるだろう。
木精の統領館から連絡が入ったのは十分後だった。
『カレル・ノスティッツをこちらで保護します。プレート2行きのフェリーの中に、部屋を用意しました。ハロルド号で現地まで移動して、横づけしてもらってかまいません』
ブレイクは言った。
「フェリーか。安全は安全そうだよな。でも罠かもしれないし。どうする?」
カレルは考え込んでいた。亡命者は立場上犯罪者に近い。
「わたしは共和国に疑念がある。だが、ひとまず指示に従おう」
「おーよ。ハロルド号を隣りに置いとけば、いざってとき打つ手もある」
3
統領マフムート・パシャは第一モスク・ルージュにアルジャノンを訪問した。
「シナゴークの『諜報部』から、急な情報が入ったのでな」
プレート統領に直属する魔法機関は一つではない。この老人は独自の情報網を持っているのだ。巨視的な観点からすればモスク・ルージュの「外人部隊」など、ごく表向きの、手ごろに動かしやすい駒でしかなかった。
アルジャノンは統領の説明に顔色を変えた。
「『サラマンデル』? 新しいテクネー兵器ですか。やつら、これからそいつでプレート4を制圧するつもりだと? その割には軍の配置に変化がないようですが。武力で占領するなら、大きな部隊を動かさないことは不自然です。それに戦力バランスを考えれば、こちらにだって、協力要請が来るんじゃあないでしょうか?」
マフムートは淡々と、アルジャノンの思い違いを訂正した。
「恒久的な占領というよりは、混乱を起こすといった方が正しい。プレートが帝国側に接近する間だけでも指揮権を奪って、より強力な統制下におくつもりなのじゃ」
アルジャノンは理解したようだった。
「介入の口実に、わざと騒ぎを引き起こすと」
統領は苦々しくうなずいた。言いづらそうに話を続ける。
「離反の防止には、頭を押さえるのが手っ取り早い。中央はプレート4の首府でテロルを行い、罪を帝国に押し付ける気なのだ。反帝国の感情を煽る意味もあろう」
老統領は遺憾げに頭をふって答える。
「詳細はまだわしもわからん。どうせろくでもないことだろう……座視するしかないのは残念だが、今はそうするしかあるまい」
中央行政局の原理主義者たちを制止しても聞くわけがない。かといって、現段階ではプレート1と全面戦争もできない。内紛が過熱すれば帝国につけいられる。現在の共和国はプレート1と2(ルテティアとこのアル・カーヒラ)の同盟が生命線なのだ。
アルジャノンは憮然として下を向く。マフムートは溜息をつき、気を取り直して告げた。
「わしはこれから、会談に立たねばならん」
「旧連邦のプレートですか? ……『新共和連邦構想』の話は、順調に進んでいるみたいですね」
このところ旧連邦を構成していたプレートのいくつかと、同盟や連帯の案がある。プレート2と4の同盟を軸に、旧共和連邦プレートを含め、共和国を再編成しようとする動きである。トップシークレットとしてプレート1には伏せられており、まだ表向きは通商会議と親善外交だったが。
「うむ、そうじゃ。それではじめて、帝国に対抗できる。ノーマル・ヒューマニズムの原理主義者をおさえることもできるじゃろ。必要なら、将来的にプレート1の切り捨てもやむをえんのう」
マフムート・パシャは不敵に、残り少ない歯をのぞかせる。
「プレート4の離反は困る。だが壊滅されても、不都合じゃ。……ブレイク・ハートに『国防のための任務を継続し、自己判断で帝国のテロリストを駆逐せよ』と伝えてくれんか? もとから、そのためにプレート4に行かせた(一応の建て前としては)。こうも捕捉目標がコロコロ変わるのでは、現地で判断させた方が合理的じゃ」
今度はブレイクにプレート1の隠密テロル部隊を攻撃・妨害させるつもりらしい。連中は表向きは「帝国の破壊工作員」である。居合わせた警官や兵士に撃たれても、文句をいえた義理ではない。陰謀の裏幕を知らない現場がやったことなら、それは「事故」であるにすぎぬ。
アルジャノンはやや驚いて、嬉しげに確認する。
「よろしいので?」
「共和国に悪い人間はおらん。テロリストは全部帝国から来ると相場がきまっとる」
そして老獪な統領は、部屋を出て行き際に決然として告げた。
「君も念のため、出撃の準備をしておいてくれ。足はこちらで手配しておく」
「わたしが、ですか?」
アルジャノンは意外な言葉に耳を疑った。彼には金呪の行動制限が課されている。
マフムートは自分に比べれば若い実力者をじっと見た。
「そうだ。責任は全てわたしが持つ」
4
プレート4の中心都市には、ごく近くまで港が食い込んでいる。
招き入れられたフェリーの部屋は高級船員用の個室だった。窓がついていないことはどことなく監獄の独房を連想させる。
カレルは油断なく壁の材質や船内での位置に思いを巡らせる。
「夕方四時には出航の予定で、今晩のうちにはプレート2(アル・カーヒラ)に到着する見込みです。あまり動き回らないでください。六時の夕食の他、三時と九時に軽食を部屋までお持ちします。なにかありましたら、内線で連絡してください」
案内してくれた木精の船員が説明する。水兵風襟の白いユニフォームでぴしっと身を固めており、快活ながらに隙がない。
「ありがとう」
カレルは礼をいい、船員が出て行ってしまうとベッドの縁に腰かける。クリーニング中らしく、マットレスがあるだけでシーツや布団はない。備えつけの家具は机とベッドとクローゼットくらいのものだ。清潔ながらも簡素、やや殺風景である。
「どうやら囚人よりは、マシな扱いらしいな」
隠し持っていた、木目のあるレシーバーをポケットから取り出す。フェリーの隣りに着陸しているハロルド号と連絡をとるためのものだ。外で異変があったときには、これで連絡してくることになっている。
(このままプレート2に行って、よいものか?)
カレルは思案した。
モスク・ルージュでの庇護下に入るのは自由の喪失を意味する。間接的とはいえ、あの悪辣なプレート1行政局の統制を受けることになるのだ。それは共和国に不信感をもっているカレルにとって、致命的なことと思われた。
途中の寄港地で降りてしまった方が賢明だろうか?
それならばブレイクたちに、連絡方法を伝えておいた方がよかろう。
カレルはレシーバーを取り上げる。思いとどまる。午後三時の軽食のときにでも、部屋に呼んだらいいかもしれない。いまひとつ考えがまとまりかねる。
ノック音がした。
「どうぞ」
顔をこわばらせた大柄な船員が、肩に一抱えもある布団を丸めて担いで入ってくる。
「備品の追加です。新しく作ったばっかりの部屋なんで、ちょっと殺風景でしょう? これでとりあえず仮眠はとれますよ」
カレルは曖昧に微笑んだ。とても眠れるような精神状態ではない。
船員は無愛想にどさりと、季節はずれな綿入りの布団を投げ出し、部屋を出て行ってしまう。厚さからして真冬用、しかも畳み方が変だった。
(とりあえずクッションのがわりにはなるか)
カレルは枕がわりに肩を投げる。直後に彼は飛びのいた。
布団の中に何かいる! これこそホラーであった。
ぬっと細いしなやかな腕が伸びだす。
「カレル、会いたかった」
持ち上がって膨らんだ夜具をヴェールのように押し上げて、シシィ・キューレボルン姫はカレルに片手を伸ばす。
「今度こそ、一緒に来てくださいますね」
シシィは裸足で床に下り、あられもない姿でカレルへと歩を進める。この第七皇女の頭の中では、政治的な理念と個人的な恋情が、一緒くたになっているのかもしれなかった。
「帝国の人間たちのためにもなることです。どうか、力をかしてください」
5
プレート2中央行政局出張事務所。
その部屋には一人しかいない。
通信機の前でアルムルクはぺこぺこと頭を下げた。目の前に相手がいるわけでもなしに、土下座でもしかねない平身低頭ぶりだった。
「はい、はい。我々が手を汚すことではありません」
アルムルクはテクネー通信にニコニコと応じている。
「死ぬのは非人間どもだけでございます」
プレート1の統領からの問い合わせである。通信が切れてしまうと、アルムルクは即座にプレート4の出張所へ連絡を入れる。
『はい、プレート4の交換所です』
「審問委員会のベルナール・ゴズを。急げ、守秘回線だ」
アルムルクはさっきまでとはうって変わって横柄に命じる。爬虫類的美貌にいらだちがにじみ出ていた。ややあって、目当てのベルナール・ゴズこと通称「牛頭大王」が音声通信に出た。
『わたしだ、ゴズだ』
「おれだ、おれだよ、アルムルクだよ」
『お前か。非人間の劣等民どもが反乱でも起こしたか?』
「プレート1の統領が、そっちの動きを訝っている。わざわざプレート2の出張所まで、問い合わせてきやがった。よっぽど疑ってるんだ。適当にごまかしておいたが。それにうちのマフムートのボケジジイも不信感を持っている」
親しい同僚の注進をゴズは鼻で笑った。
『あの傀儡の老人どもに、何ができる? 書類の一枚も書けやしないくせに。できることといったら、モラリストぶった、中身のない演説をやることくらいのものさ。自分で信じてもいない奇麗事をもっともらしく並べ立てるのが関の山だな』
意気投合している二人は声をあげて笑った。
「連中も、人間にたいした被害が出ない限りは目を瞑るだろうが。だがやるんだったら、さっさとやっちまった方がいい。『やり方』が問題にされると、面倒だ。先にやっちまえば、こっちのものだ。そうなったら事後承認するしかなくなる。迂闊に糾弾したら、統領や議員だって、自分らの責任になるからな。世の中は、やったもん勝ちさ」
アルムルクは謀略家の笑みを噛み殺す。
『ジジイどもだって、わきまえておるだろうさ。要は、どっちが得かってことだ。利権が一切に優先することを、あいつらほどよく知っているやつらはいない』
「アハハ、頑張れよ……」
アルムルクは通信を終わる。それが彼の「終わり」になった。
受話器を置いた手に、上からナイフが突き刺さった。血が流れ出す。
アルムルクの背後には、いつの間にか灰色の背広の男が立っていた。一片の気配もなく。何の特徴もないことが特徴で、風貌どころか年齢さえも定かでない。
もう一本のナイフが喉に押し当てられている。砂のような声が宣告した。
「自由時間は終わりだ。この場で洗いざらいしゃべってもらう」
「し、シナゴー……」
こいつはシナゴーク機関の諜報部員だった。
アルムルクの言葉は途中から悲鳴にかわる。傷ついた手がさらに痛めつけられたからだ。
男は無機質に通告した。
「急いでいる」
そのときになって、アルムルクは一切を理解した。自分がそれまで泳がされていたのだということを。気がつかないままに監視されていたのだと。そしてこれから自分がどうなるのかということも……。
アルムルクは行方不明になった。
似たような失踪事件がちょうど同じ日に、アル・カーヒラで四件ほどあった。
いずれも後に捜索願いが出されたが、死体すら見つからなかった。
何事もなかったはずのプレート1や3でも、同じ日に失踪や事故死が多発していた。お互いに殺しあったらしいならず者が、駆けつけた警官の目の前で不可解に自殺してしまったり(もう一人は出刃包丁で、正確に動脈を断ち切られて死亡していた)。身元不明の遺体が五六人まとめて川に浮かんでいたりもしたそうだ。
そんな統計など、犯罪マニアでもないかぎりは気にも留めなかっただろう。
「はい」
セリムは紙皿に盛ったレトルトシチューと、一切れのパンとハムを手渡す。代表で居残った四人の木精の兵士・警官たちは列になって昼食を受け取った。ハロルド号には、二人で十日やそこらはもつくらいの量の備蓄があった。軽い一食を振舞うくらいはできる。
ハロルド号の周囲に立てこもって、四時間を過ぎている。
もう正午も近い。喰わねば戦はできぬものだ。
「コーヒーもあるから」
セリムは気前よく言った。コーヒーなど、どうせ嗜好品だし、仮に切らしてしまったとしても構いはしない。
しかしシチュー皿を手渡す少年は目が死んでいる。
笑顔の合間合間にざらつくような無表情が垣間見える。どんなことでもやっていた方が、気が紛れるらしかった。難しいことをやるのは無理だったから、こういう他愛もない作業こそ相応しい。祖国でよく飲まれるやり方で濃いコーヒーを煎れにとりかかる。
ブレイクとカレルは、甲板の上で深刻な会話の最中だった。
「俺たちはどうしたらいいんだ?」
ブレイクの質問に、アルジャノンは率直に答えた。
『何もしなくていい。とにかく自分たちの身を守りながら、待機してくれ』
ブレイクたちが事件の裏側を察知した時点でシシィの暗殺命令は解除された。統領マフムートは言葉巧みに役人アルムルクを説得したらしい。
しかし油断はできない。
アルムルクたち中央行政局がこのまま素直に引き下がるわけがなかった。ブレイクを思うとおりに動かせないのなら、それにかわる手を打ってくるだろう。
木精の統領館から連絡が入ったのは十分後だった。
『カレル・ノスティッツをこちらで保護します。プレート2行きのフェリーの中に、部屋を用意しました。ハロルド号で現地まで移動して、横づけしてもらってかまいません』
ブレイクは言った。
「フェリーか。安全は安全そうだよな。でも罠かもしれないし。どうする?」
カレルは考え込んでいた。亡命者は立場上犯罪者に近い。
「わたしは共和国に疑念がある。だが、ひとまず指示に従おう」
「おーよ。ハロルド号を隣りに置いとけば、いざってとき打つ手もある」
3
統領マフムート・パシャは第一モスク・ルージュにアルジャノンを訪問した。
「シナゴークの『諜報部』から、急な情報が入ったのでな」
プレート統領に直属する魔法機関は一つではない。この老人は独自の情報網を持っているのだ。巨視的な観点からすればモスク・ルージュの「外人部隊」など、ごく表向きの、手ごろに動かしやすい駒でしかなかった。
アルジャノンは統領の説明に顔色を変えた。
「『サラマンデル』? 新しいテクネー兵器ですか。やつら、これからそいつでプレート4を制圧するつもりだと? その割には軍の配置に変化がないようですが。武力で占領するなら、大きな部隊を動かさないことは不自然です。それに戦力バランスを考えれば、こちらにだって、協力要請が来るんじゃあないでしょうか?」
マフムートは淡々と、アルジャノンの思い違いを訂正した。
「恒久的な占領というよりは、混乱を起こすといった方が正しい。プレートが帝国側に接近する間だけでも指揮権を奪って、より強力な統制下におくつもりなのじゃ」
アルジャノンは理解したようだった。
「介入の口実に、わざと騒ぎを引き起こすと」
統領は苦々しくうなずいた。言いづらそうに話を続ける。
「離反の防止には、頭を押さえるのが手っ取り早い。中央はプレート4の首府でテロルを行い、罪を帝国に押し付ける気なのだ。反帝国の感情を煽る意味もあろう」
老統領は遺憾げに頭をふって答える。
「詳細はまだわしもわからん。どうせろくでもないことだろう……座視するしかないのは残念だが、今はそうするしかあるまい」
中央行政局の原理主義者たちを制止しても聞くわけがない。かといって、現段階ではプレート1と全面戦争もできない。内紛が過熱すれば帝国につけいられる。現在の共和国はプレート1と2(ルテティアとこのアル・カーヒラ)の同盟が生命線なのだ。
アルジャノンは憮然として下を向く。マフムートは溜息をつき、気を取り直して告げた。
「わしはこれから、会談に立たねばならん」
「旧連邦のプレートですか? ……『新共和連邦構想』の話は、順調に進んでいるみたいですね」
このところ旧連邦を構成していたプレートのいくつかと、同盟や連帯の案がある。プレート2と4の同盟を軸に、旧共和連邦プレートを含め、共和国を再編成しようとする動きである。トップシークレットとしてプレート1には伏せられており、まだ表向きは通商会議と親善外交だったが。
「うむ、そうじゃ。それではじめて、帝国に対抗できる。ノーマル・ヒューマニズムの原理主義者をおさえることもできるじゃろ。必要なら、将来的にプレート1の切り捨てもやむをえんのう」
マフムート・パシャは不敵に、残り少ない歯をのぞかせる。
「プレート4の離反は困る。だが壊滅されても、不都合じゃ。……ブレイク・ハートに『国防のための任務を継続し、自己判断で帝国のテロリストを駆逐せよ』と伝えてくれんか? もとから、そのためにプレート4に行かせた(一応の建て前としては)。こうも捕捉目標がコロコロ変わるのでは、現地で判断させた方が合理的じゃ」
今度はブレイクにプレート1の隠密テロル部隊を攻撃・妨害させるつもりらしい。連中は表向きは「帝国の破壊工作員」である。居合わせた警官や兵士に撃たれても、文句をいえた義理ではない。陰謀の裏幕を知らない現場がやったことなら、それは「事故」であるにすぎぬ。
アルジャノンはやや驚いて、嬉しげに確認する。
「よろしいので?」
「共和国に悪い人間はおらん。テロリストは全部帝国から来ると相場がきまっとる」
そして老獪な統領は、部屋を出て行き際に決然として告げた。
「君も念のため、出撃の準備をしておいてくれ。足はこちらで手配しておく」
「わたしが、ですか?」
アルジャノンは意外な言葉に耳を疑った。彼には金呪の行動制限が課されている。
マフムートは自分に比べれば若い実力者をじっと見た。
「そうだ。責任は全てわたしが持つ」
4
プレート4の中心都市には、ごく近くまで港が食い込んでいる。
招き入れられたフェリーの部屋は高級船員用の個室だった。窓がついていないことはどことなく監獄の独房を連想させる。
カレルは油断なく壁の材質や船内での位置に思いを巡らせる。
「夕方四時には出航の予定で、今晩のうちにはプレート2(アル・カーヒラ)に到着する見込みです。あまり動き回らないでください。六時の夕食の他、三時と九時に軽食を部屋までお持ちします。なにかありましたら、内線で連絡してください」
案内してくれた木精の船員が説明する。水兵風襟の白いユニフォームでぴしっと身を固めており、快活ながらに隙がない。
「ありがとう」
カレルは礼をいい、船員が出て行ってしまうとベッドの縁に腰かける。クリーニング中らしく、マットレスがあるだけでシーツや布団はない。備えつけの家具は机とベッドとクローゼットくらいのものだ。清潔ながらも簡素、やや殺風景である。
「どうやら囚人よりは、マシな扱いらしいな」
隠し持っていた、木目のあるレシーバーをポケットから取り出す。フェリーの隣りに着陸しているハロルド号と連絡をとるためのものだ。外で異変があったときには、これで連絡してくることになっている。
(このままプレート2に行って、よいものか?)
カレルは思案した。
モスク・ルージュでの庇護下に入るのは自由の喪失を意味する。間接的とはいえ、あの悪辣なプレート1行政局の統制を受けることになるのだ。それは共和国に不信感をもっているカレルにとって、致命的なことと思われた。
途中の寄港地で降りてしまった方が賢明だろうか?
それならばブレイクたちに、連絡方法を伝えておいた方がよかろう。
カレルはレシーバーを取り上げる。思いとどまる。午後三時の軽食のときにでも、部屋に呼んだらいいかもしれない。いまひとつ考えがまとまりかねる。
ノック音がした。
「どうぞ」
顔をこわばらせた大柄な船員が、肩に一抱えもある布団を丸めて担いで入ってくる。
「備品の追加です。新しく作ったばっかりの部屋なんで、ちょっと殺風景でしょう? これでとりあえず仮眠はとれますよ」
カレルは曖昧に微笑んだ。とても眠れるような精神状態ではない。
船員は無愛想にどさりと、季節はずれな綿入りの布団を投げ出し、部屋を出て行ってしまう。厚さからして真冬用、しかも畳み方が変だった。
(とりあえずクッションのがわりにはなるか)
カレルは枕がわりに肩を投げる。直後に彼は飛びのいた。
布団の中に何かいる! これこそホラーであった。
ぬっと細いしなやかな腕が伸びだす。
「カレル、会いたかった」
持ち上がって膨らんだ夜具をヴェールのように押し上げて、シシィ・キューレボルン姫はカレルに片手を伸ばす。
「今度こそ、一緒に来てくださいますね」
シシィは裸足で床に下り、あられもない姿でカレルへと歩を進める。この第七皇女の頭の中では、政治的な理念と個人的な恋情が、一緒くたになっているのかもしれなかった。
「帝国の人間たちのためにもなることです。どうか、力をかしてください」
5
プレート2中央行政局出張事務所。
その部屋には一人しかいない。
通信機の前でアルムルクはぺこぺこと頭を下げた。目の前に相手がいるわけでもなしに、土下座でもしかねない平身低頭ぶりだった。
「はい、はい。我々が手を汚すことではありません」
アルムルクはテクネー通信にニコニコと応じている。
「死ぬのは非人間どもだけでございます」
プレート1の統領からの問い合わせである。通信が切れてしまうと、アルムルクは即座にプレート4の出張所へ連絡を入れる。
『はい、プレート4の交換所です』
「審問委員会のベルナール・ゴズを。急げ、守秘回線だ」
アルムルクはさっきまでとはうって変わって横柄に命じる。爬虫類的美貌にいらだちがにじみ出ていた。ややあって、目当てのベルナール・ゴズこと通称「牛頭大王」が音声通信に出た。
『わたしだ、ゴズだ』
「おれだ、おれだよ、アルムルクだよ」
『お前か。非人間の劣等民どもが反乱でも起こしたか?』
「プレート1の統領が、そっちの動きを訝っている。わざわざプレート2の出張所まで、問い合わせてきやがった。よっぽど疑ってるんだ。適当にごまかしておいたが。それにうちのマフムートのボケジジイも不信感を持っている」
親しい同僚の注進をゴズは鼻で笑った。
『あの傀儡の老人どもに、何ができる? 書類の一枚も書けやしないくせに。できることといったら、モラリストぶった、中身のない演説をやることくらいのものさ。自分で信じてもいない奇麗事をもっともらしく並べ立てるのが関の山だな』
意気投合している二人は声をあげて笑った。
「連中も、人間にたいした被害が出ない限りは目を瞑るだろうが。だがやるんだったら、さっさとやっちまった方がいい。『やり方』が問題にされると、面倒だ。先にやっちまえば、こっちのものだ。そうなったら事後承認するしかなくなる。迂闊に糾弾したら、統領や議員だって、自分らの責任になるからな。世の中は、やったもん勝ちさ」
アルムルクは謀略家の笑みを噛み殺す。
『ジジイどもだって、わきまえておるだろうさ。要は、どっちが得かってことだ。利権が一切に優先することを、あいつらほどよく知っているやつらはいない』
「アハハ、頑張れよ……」
アルムルクは通信を終わる。それが彼の「終わり」になった。
受話器を置いた手に、上からナイフが突き刺さった。血が流れ出す。
アルムルクの背後には、いつの間にか灰色の背広の男が立っていた。一片の気配もなく。何の特徴もないことが特徴で、風貌どころか年齢さえも定かでない。
もう一本のナイフが喉に押し当てられている。砂のような声が宣告した。
「自由時間は終わりだ。この場で洗いざらいしゃべってもらう」
「し、シナゴー……」
こいつはシナゴーク機関の諜報部員だった。
アルムルクの言葉は途中から悲鳴にかわる。傷ついた手がさらに痛めつけられたからだ。
男は無機質に通告した。
「急いでいる」
そのときになって、アルムルクは一切を理解した。自分がそれまで泳がされていたのだということを。気がつかないままに監視されていたのだと。そしてこれから自分がどうなるのかということも……。
アルムルクは行方不明になった。
似たような失踪事件がちょうど同じ日に、アル・カーヒラで四件ほどあった。
いずれも後に捜索願いが出されたが、死体すら見つからなかった。
何事もなかったはずのプレート1や3でも、同じ日に失踪や事故死が多発していた。お互いに殺しあったらしいならず者が、駆けつけた警官の目の前で不可解に自殺してしまったり(もう一人は出刃包丁で、正確に動脈を断ち切られて死亡していた)。身元不明の遺体が五六人まとめて川に浮かんでいたりもしたそうだ。
そんな統計など、犯罪マニアでもないかぎりは気にも留めなかっただろう。