レッドパンダ・ブレイク ※本格・長編ファンタジー戦記、一括掲載
2
幸か不幸か。プレート4の「事変」は黒幕たちの計画どおり、翌日中には終息していた。
全ては「敵国の策略らしき混乱」「事故」として処理された。
国家レベルでの犯罪闘争はまともな手段では誰も裁きようがない。
うやむやに玉虫色の決着に落ち着きがちである。
ブレイク・ハートはプレート2の病室で、リンゴをかじりながら愛読書の『白鯨』に読みふけっている。全身包帯ぐるぐる巻きでミイラ男のようなありざまである。全身打撲にあちこち細かい傷だらけである。ところどころ骨にヒビもいっていたようだ。
隣りのアルジャノンは手巻き煙草を吸いに行って、ベッドを空けている。見舞いに来たキアラはこれ幸いと、箒でベッド下から水着雑誌を引っ張り出し、鼻歌を歌いながら、片端からゴミ袋に投げ込んでいる。
見舞いのリンゴで買収されたブレイクは見てみぬふりを決め込んでいた。キアラがこの時期にとる行動に異論を差し挟んではならない。それは不文律である。だいたい逃げ回っているアルジャノン自身もたいがい悪い。毎年六月など、結婚の季節が近づくたびに彼女が乱心するのには、多分に同情の余地があった。
「ブレイクからも、あの人によーく言っておいてね」
にこやかなキアラのこめかみには青い血管が浮いている。
「おーよ」
キアラは車椅子のポケットから取り出した、罪のない結婚雑誌をアルジャノンのベッドの下に投げ込んだ。まさしく無言の圧力である。
(アルジャノンもたいがい往生際悪いぜ)
ブレイク・ハートはリンゴを齧る。
(だいたい、「籍入れると、自分が早死にしたときキアラが後家になる」からって、軟禁状態でどうやって戦死するんだよ。どーせもう半分夫婦みたいなもんだろーが……)
ラジオのニュースではプレート4(ストロモフカ)の近況、非常事態宣言で約半年間、プレート1(ルテティア)から直接統制が敷かれる旨が報知されていた。アル・カーヒラもそれに対抗して駐屯軍を送り込み、「ただし内政における自治権が確保される」ように監視している。
中央行政局の発表では、騒動の原因は帝国のテロとされ、実行犯らしき人物のリストにはカレルの名も挙がっている。ちなみにカレルは結局、フェリーの途中の寄港地で行方をくらませてしまってそれきりであった。裏取引があったらしく、ストロモフカとアル・カーヒラはだんまりを決め込んでいる。弁解できない、その場に居ない人間に罪や責任を負わせるのはよくある方便だ。
他にめぼしいニュースでは、どうやら帝国で議会開設の動きがあるらしい。
3
そのころアルジャノンは病院の庭で手巻き煙草をふかしながら、統領マフムート・パシャとしばし語らっていた。
「大敗北です。我々はいいように動かされて、結局はやつらのゴネ勝ちです。何もかも、やつらの思惑通りに……」
現時点ではプレート1と事を構えるわけにもいかない。共通の敵である帝国に対抗するには、共和国内部での紛争は避けて先送りするしかない。それを見越しての、プレート1側のたかをくくった策略で、完敗してしまった形である。唯一の勝利といえば、「非常措置」で占領された町に、わずかばかりプレート2の部隊を駐屯させることができただけだ。これだけではプレート1のこれ以上の横暴を阻止しうるかどうか、はなはだ疑問だった。
「プレート1(ルテティア)は3のように、いつか4(ストロモフカ)の全体を隷属させる気でいます。今回の事件でそのとっかかりを与えてしまいました。もしそうなれば……」
悔しげなアルジャノンの言葉を統領は強い調子で打ち消した。
「そんなことはさせんさ。それに君たちが戦ったことで、ストロモフカからの信頼を失わずにすんだ。プレート1の策略の犠牲者たちを見殺しにせずにすんだのだ」
「大勢死にました」
「助かった人間も少なくはない」
統領マフムート・パシャは日焼けした節くれだった手で、うなだれるアルジャノンの肩を励ますように、力強く叩いた。
プレート2(アル・カーヒラ)と4(ストロモフカ)の信頼関係は「新共和連邦構想」の生命線だ。……表面上の勝敗を別とすれば、政治的には負けではないかもしれない。しかしアルジャノンは釈然とはしない。
「ともかく、次にはつながったのだ。君たちの戦いは無駄ではなかった。どうか、そう気を落とさないで欲しい……次に備えるのだ」
一人になったアルジャノンはトランプのカードを玩ぶ。
占いの吉でさえ、あんなものだったのだ。
それとも「不幸中にも最悪だけは免れた」とでもいうのだろうか?
「総長」
呼びかけられて顔を上げると、そこには一群の人々がいる。
あのプレート4で救助した人々だった。現在はプレート2に避難してきているのだ。
「あのときは、申し訳ありませんでした」
代表と思しき、木精の老人が頭を下げた。樹氷のような白髪を頂いている。
アルジャノンは片手を左右させて「イエイエ」と打ち消す。彼とて情けなさは身にしみている。けれども老人と一同は深々とお辞儀する。
「わたしらも気が動転していまして。誤解とはいえ、いろいろと酷いことを言ってしまいましたから」
老人は背後に控えていた、木精や土精たちを振り返った。
よく観察すれば。アルジャノンはそのうちの何人かの顔を知っていた。
船舶や艦艇の建造や、装甲防護の研究で有名な技術者たちであった。普段ならば、めったと人前に出ないそうそうたる顔ぶれである。プレート1からの招聘を拒絶していた人間も混じっている。
「彼らも。できることがあれば、協力させて頂きたいと。こいつらは腕に覚えのある連中でしてな。それで提督のところで、新しい艦の建造など……。それと……」
目配せされ、浅黒い顔の土精(ケレース)の男女が進み出た(土精は絶滅した大地神族と混血しており、その後裔を自称している)。二人とも背は低かったが、見るからに健康そう。二十歳くらいの眼鏡をかけた若い女と十六、七の逞しい少年だ。髪は良く似通った濃いブラウンで姉弟らしい。少年の方はさっきからそわそわとして、落ちつかなげにしており、姉らしき女にたしなめられていた。
木精の古老は紹介する。
「こちらの姉弟は総長のところでお世話になれないかと。姉の方はまだ若手ですが、ゴーレムの伝統陶工技法の免許皆伝。弟の方はこう見えてもなかなかに豪傑です。……もしよろしければ、モスク・ルージュの外人部隊に参加したいと」
少年は精一杯真面目な顔、「気をつけ」の姿勢で直立不動に胸を張っている。土精はゴーレム技術の他、腕力でもなかなかに秀でている。
「ん? なーんだ、お前か! アッハハ……」
アルジャノンは笑い出した。
この少年、あのとき腹立ち紛れに彼をリンチした若者の一人であった。
3
シシィに指示されたのは旧連邦プレートの、治安の安定した田舎町のホテル。
約束の時間の小一時間前に到着し、ロビーの隣での喫茶店に入る。メニューは地方色が強く、独特だった。つくづく世界は広い。
「チャイを一つ」
黒っぽい顔をした、華奢な土精のウェイトレスが横を見る。驚いた顔で「オーナー」と声もなく呟き、居住まいを正す。
「わたしにも頂けますかね? それと。料金はわたし持ちでいいんで、つまみにグラブジャム団子でも二人分」
相席に、いきなりあらわれた紳士は、ごく丁重に客らしく注文する。手で「そんなに気にするな」と合図していた。
「かしこまりました」
ウェイトレスは可愛らしくお辞儀してトコトコ小走りにカウンターへ向かう。
着崩したスーツ姿の紳士は、カレルに相席の許可を求めた。
「ここのグラブジャム団子は美味しいですよ。ここの料理人は、得意でしてな。教えたわたしが言うんだから、間違いありません…………ああ、わたしもよろしいですかな?」
「ええ、もちろんです。あなたは……」
「あ、これはとんだ失礼を! 殿下から、お若い方にお目にかかれると聞いて、年甲斐もなく嬉しくなってしまったもので……」
紳士は気恥ずかしげに頭を掻く。
とうにカレルは挨拶するために立ち上がっていた。シチュエーションからして、どうやら自分に定められた客であるらしい。精悍な雰囲気からして森精種族(ファウニー)のようだった(彼らは牧畜と酪農、スポーツ競技を得意とする)。
見覚えのある顔に記憶を探す。昔写真で見たことがある。引き合わせられたのは、帝国から亡命中の元伯爵だったのだ。ずいぶんと昔に帝国で近代化を主張した、元「十一月党」の指導者の一人であった。
「あなたはたしか……」
初老の森精紳士は、くたびれた笑顔になる。
「いやあ。ちょっと若気の至りで……陛下に議会開設の提案を直訴したら、故郷にいられなくなりましてね。……もう十年も二十年もあちこち逃げ回って、今はこちらの喫茶店やらでボチボチやっております……」
「お会いできて光栄です、閣下」
カレルは政治亡命者としての大先輩に頭を下げた。
4
セリム・トレルビーは公園にあるの人気ない林、木立の根元に腰をおろして眠っている。
友人だったエンヴェル・クライストは、捕獲されたサラマンデルのサンプルとしてまだ生きていた。もちろん記憶も知能もなく、生ける屍として。
だから彼は言葉どおりに、ためらいなく引導を渡した。
衝動的に命を終わらせたのだ。研究員が制止する暇さえないほどの素早さで、死者の頭に酸をぶちまけた。
涙は出なかった。
今も。しばしの束の間は安らかに。
あったのかなかったのかも覚えていない、そんな幸福な子供時代の夢を見ている。
5
午睡から目を覚ましたブレイク・ハートは読みかけの『白鯨』のページを折ってしまっていた。
魔の白鯨の襲撃で片足をもがれた主人公、船長エイハブ。
それでも彼は不撓不屈の執念に燃えている。
まるで『運命の悪意』を象徴するかのような、あの忌まわしい白鯨との闘争を宣言するシーンだ。たかがちっぽけな人間の分際で、不遜なまでの蛮勇にも、巨大な怪獣に戦いを挑んでいく。
それが彼の意志なのだ。
ブレイクは消えない折り目をまっすぐにして、それから「鯨学」のページをパラパラやり、ひとまずは本を閉じた。
業腹であった。
まだダメージが残っている体では、明後日からの資源回収部隊の活動に参加できない。れっきとした職務活動でもあり、それはこの仕事の一番の楽しみなのだ。
この天空の世界には。エーテルの上昇気流に乗って地上の物質が舞い上がってくる場所(「光の柱」、アジールの一つ)があり、回遊するプレートはしばしば近隣を通りかかる。そういうときにはカリオンナイト(ゴーレムの装甲の製造などで注目される)やマグネス(YPに使用される鉱物)などの資源を手に入れるのに大童になる。それは実利的な資源採掘だけでなく、学術調査の観点でも貴重な機会である。チャンスをみすみす逃してしまうとは。
炎のように赤い毛皮がメラメラ燃え上がりそうになる。
「ちくしょうめ……ん?」
カーソンの『海』に手を伸ばそうとして気付く。
ベッドの枕もとには花が差してある。眠っているときに妹のアネシュカが置いていったらしい。彼は一対の金色の瞳で、小さな花を見つめた。
黄色く丸い花の香はこころなしか、オレンジとリンゴのミックスに似ている。三年くらい前に、エーテル気流に乗って巻き上げられてきた岩盤に自生していた新種で、ここ一年くらいに観葉として広く一般に普及したものだ。
ブレイクは植物は専門外であったが、二年も前に見たことはあった。行きつけの博物館の年上の友人が研究会の資料室に飾っていたからだ。その年配の植物学者は楽しげに講釈していた。「旧時代の地上世界にはなかった品種で、もちろんこの空の世界にもなかった」ものなのだと。予測される地表面のエーテル気流から推測するに、かつて沙漠であったはずの場所から飛んできているらしい。それから「辺獄になった地上も変化して、再生してきているのだ」とずいぶん感慨深げだった。
そして彼は告げた。
その花言葉は「未来は変わる」。
幸か不幸か。プレート4の「事変」は黒幕たちの計画どおり、翌日中には終息していた。
全ては「敵国の策略らしき混乱」「事故」として処理された。
国家レベルでの犯罪闘争はまともな手段では誰も裁きようがない。
うやむやに玉虫色の決着に落ち着きがちである。
ブレイク・ハートはプレート2の病室で、リンゴをかじりながら愛読書の『白鯨』に読みふけっている。全身包帯ぐるぐる巻きでミイラ男のようなありざまである。全身打撲にあちこち細かい傷だらけである。ところどころ骨にヒビもいっていたようだ。
隣りのアルジャノンは手巻き煙草を吸いに行って、ベッドを空けている。見舞いに来たキアラはこれ幸いと、箒でベッド下から水着雑誌を引っ張り出し、鼻歌を歌いながら、片端からゴミ袋に投げ込んでいる。
見舞いのリンゴで買収されたブレイクは見てみぬふりを決め込んでいた。キアラがこの時期にとる行動に異論を差し挟んではならない。それは不文律である。だいたい逃げ回っているアルジャノン自身もたいがい悪い。毎年六月など、結婚の季節が近づくたびに彼女が乱心するのには、多分に同情の余地があった。
「ブレイクからも、あの人によーく言っておいてね」
にこやかなキアラのこめかみには青い血管が浮いている。
「おーよ」
キアラは車椅子のポケットから取り出した、罪のない結婚雑誌をアルジャノンのベッドの下に投げ込んだ。まさしく無言の圧力である。
(アルジャノンもたいがい往生際悪いぜ)
ブレイク・ハートはリンゴを齧る。
(だいたい、「籍入れると、自分が早死にしたときキアラが後家になる」からって、軟禁状態でどうやって戦死するんだよ。どーせもう半分夫婦みたいなもんだろーが……)
ラジオのニュースではプレート4(ストロモフカ)の近況、非常事態宣言で約半年間、プレート1(ルテティア)から直接統制が敷かれる旨が報知されていた。アル・カーヒラもそれに対抗して駐屯軍を送り込み、「ただし内政における自治権が確保される」ように監視している。
中央行政局の発表では、騒動の原因は帝国のテロとされ、実行犯らしき人物のリストにはカレルの名も挙がっている。ちなみにカレルは結局、フェリーの途中の寄港地で行方をくらませてしまってそれきりであった。裏取引があったらしく、ストロモフカとアル・カーヒラはだんまりを決め込んでいる。弁解できない、その場に居ない人間に罪や責任を負わせるのはよくある方便だ。
他にめぼしいニュースでは、どうやら帝国で議会開設の動きがあるらしい。
3
そのころアルジャノンは病院の庭で手巻き煙草をふかしながら、統領マフムート・パシャとしばし語らっていた。
「大敗北です。我々はいいように動かされて、結局はやつらのゴネ勝ちです。何もかも、やつらの思惑通りに……」
現時点ではプレート1と事を構えるわけにもいかない。共通の敵である帝国に対抗するには、共和国内部での紛争は避けて先送りするしかない。それを見越しての、プレート1側のたかをくくった策略で、完敗してしまった形である。唯一の勝利といえば、「非常措置」で占領された町に、わずかばかりプレート2の部隊を駐屯させることができただけだ。これだけではプレート1のこれ以上の横暴を阻止しうるかどうか、はなはだ疑問だった。
「プレート1(ルテティア)は3のように、いつか4(ストロモフカ)の全体を隷属させる気でいます。今回の事件でそのとっかかりを与えてしまいました。もしそうなれば……」
悔しげなアルジャノンの言葉を統領は強い調子で打ち消した。
「そんなことはさせんさ。それに君たちが戦ったことで、ストロモフカからの信頼を失わずにすんだ。プレート1の策略の犠牲者たちを見殺しにせずにすんだのだ」
「大勢死にました」
「助かった人間も少なくはない」
統領マフムート・パシャは日焼けした節くれだった手で、うなだれるアルジャノンの肩を励ますように、力強く叩いた。
プレート2(アル・カーヒラ)と4(ストロモフカ)の信頼関係は「新共和連邦構想」の生命線だ。……表面上の勝敗を別とすれば、政治的には負けではないかもしれない。しかしアルジャノンは釈然とはしない。
「ともかく、次にはつながったのだ。君たちの戦いは無駄ではなかった。どうか、そう気を落とさないで欲しい……次に備えるのだ」
一人になったアルジャノンはトランプのカードを玩ぶ。
占いの吉でさえ、あんなものだったのだ。
それとも「不幸中にも最悪だけは免れた」とでもいうのだろうか?
「総長」
呼びかけられて顔を上げると、そこには一群の人々がいる。
あのプレート4で救助した人々だった。現在はプレート2に避難してきているのだ。
「あのときは、申し訳ありませんでした」
代表と思しき、木精の老人が頭を下げた。樹氷のような白髪を頂いている。
アルジャノンは片手を左右させて「イエイエ」と打ち消す。彼とて情けなさは身にしみている。けれども老人と一同は深々とお辞儀する。
「わたしらも気が動転していまして。誤解とはいえ、いろいろと酷いことを言ってしまいましたから」
老人は背後に控えていた、木精や土精たちを振り返った。
よく観察すれば。アルジャノンはそのうちの何人かの顔を知っていた。
船舶や艦艇の建造や、装甲防護の研究で有名な技術者たちであった。普段ならば、めったと人前に出ないそうそうたる顔ぶれである。プレート1からの招聘を拒絶していた人間も混じっている。
「彼らも。できることがあれば、協力させて頂きたいと。こいつらは腕に覚えのある連中でしてな。それで提督のところで、新しい艦の建造など……。それと……」
目配せされ、浅黒い顔の土精(ケレース)の男女が進み出た(土精は絶滅した大地神族と混血しており、その後裔を自称している)。二人とも背は低かったが、見るからに健康そう。二十歳くらいの眼鏡をかけた若い女と十六、七の逞しい少年だ。髪は良く似通った濃いブラウンで姉弟らしい。少年の方はさっきからそわそわとして、落ちつかなげにしており、姉らしき女にたしなめられていた。
木精の古老は紹介する。
「こちらの姉弟は総長のところでお世話になれないかと。姉の方はまだ若手ですが、ゴーレムの伝統陶工技法の免許皆伝。弟の方はこう見えてもなかなかに豪傑です。……もしよろしければ、モスク・ルージュの外人部隊に参加したいと」
少年は精一杯真面目な顔、「気をつけ」の姿勢で直立不動に胸を張っている。土精はゴーレム技術の他、腕力でもなかなかに秀でている。
「ん? なーんだ、お前か! アッハハ……」
アルジャノンは笑い出した。
この少年、あのとき腹立ち紛れに彼をリンチした若者の一人であった。
3
シシィに指示されたのは旧連邦プレートの、治安の安定した田舎町のホテル。
約束の時間の小一時間前に到着し、ロビーの隣での喫茶店に入る。メニューは地方色が強く、独特だった。つくづく世界は広い。
「チャイを一つ」
黒っぽい顔をした、華奢な土精のウェイトレスが横を見る。驚いた顔で「オーナー」と声もなく呟き、居住まいを正す。
「わたしにも頂けますかね? それと。料金はわたし持ちでいいんで、つまみにグラブジャム団子でも二人分」
相席に、いきなりあらわれた紳士は、ごく丁重に客らしく注文する。手で「そんなに気にするな」と合図していた。
「かしこまりました」
ウェイトレスは可愛らしくお辞儀してトコトコ小走りにカウンターへ向かう。
着崩したスーツ姿の紳士は、カレルに相席の許可を求めた。
「ここのグラブジャム団子は美味しいですよ。ここの料理人は、得意でしてな。教えたわたしが言うんだから、間違いありません…………ああ、わたしもよろしいですかな?」
「ええ、もちろんです。あなたは……」
「あ、これはとんだ失礼を! 殿下から、お若い方にお目にかかれると聞いて、年甲斐もなく嬉しくなってしまったもので……」
紳士は気恥ずかしげに頭を掻く。
とうにカレルは挨拶するために立ち上がっていた。シチュエーションからして、どうやら自分に定められた客であるらしい。精悍な雰囲気からして森精種族(ファウニー)のようだった(彼らは牧畜と酪農、スポーツ競技を得意とする)。
見覚えのある顔に記憶を探す。昔写真で見たことがある。引き合わせられたのは、帝国から亡命中の元伯爵だったのだ。ずいぶんと昔に帝国で近代化を主張した、元「十一月党」の指導者の一人であった。
「あなたはたしか……」
初老の森精紳士は、くたびれた笑顔になる。
「いやあ。ちょっと若気の至りで……陛下に議会開設の提案を直訴したら、故郷にいられなくなりましてね。……もう十年も二十年もあちこち逃げ回って、今はこちらの喫茶店やらでボチボチやっております……」
「お会いできて光栄です、閣下」
カレルは政治亡命者としての大先輩に頭を下げた。
4
セリム・トレルビーは公園にあるの人気ない林、木立の根元に腰をおろして眠っている。
友人だったエンヴェル・クライストは、捕獲されたサラマンデルのサンプルとしてまだ生きていた。もちろん記憶も知能もなく、生ける屍として。
だから彼は言葉どおりに、ためらいなく引導を渡した。
衝動的に命を終わらせたのだ。研究員が制止する暇さえないほどの素早さで、死者の頭に酸をぶちまけた。
涙は出なかった。
今も。しばしの束の間は安らかに。
あったのかなかったのかも覚えていない、そんな幸福な子供時代の夢を見ている。
5
午睡から目を覚ましたブレイク・ハートは読みかけの『白鯨』のページを折ってしまっていた。
魔の白鯨の襲撃で片足をもがれた主人公、船長エイハブ。
それでも彼は不撓不屈の執念に燃えている。
まるで『運命の悪意』を象徴するかのような、あの忌まわしい白鯨との闘争を宣言するシーンだ。たかがちっぽけな人間の分際で、不遜なまでの蛮勇にも、巨大な怪獣に戦いを挑んでいく。
それが彼の意志なのだ。
ブレイクは消えない折り目をまっすぐにして、それから「鯨学」のページをパラパラやり、ひとまずは本を閉じた。
業腹であった。
まだダメージが残っている体では、明後日からの資源回収部隊の活動に参加できない。れっきとした職務活動でもあり、それはこの仕事の一番の楽しみなのだ。
この天空の世界には。エーテルの上昇気流に乗って地上の物質が舞い上がってくる場所(「光の柱」、アジールの一つ)があり、回遊するプレートはしばしば近隣を通りかかる。そういうときにはカリオンナイト(ゴーレムの装甲の製造などで注目される)やマグネス(YPに使用される鉱物)などの資源を手に入れるのに大童になる。それは実利的な資源採掘だけでなく、学術調査の観点でも貴重な機会である。チャンスをみすみす逃してしまうとは。
炎のように赤い毛皮がメラメラ燃え上がりそうになる。
「ちくしょうめ……ん?」
カーソンの『海』に手を伸ばそうとして気付く。
ベッドの枕もとには花が差してある。眠っているときに妹のアネシュカが置いていったらしい。彼は一対の金色の瞳で、小さな花を見つめた。
黄色く丸い花の香はこころなしか、オレンジとリンゴのミックスに似ている。三年くらい前に、エーテル気流に乗って巻き上げられてきた岩盤に自生していた新種で、ここ一年くらいに観葉として広く一般に普及したものだ。
ブレイクは植物は専門外であったが、二年も前に見たことはあった。行きつけの博物館の年上の友人が研究会の資料室に飾っていたからだ。その年配の植物学者は楽しげに講釈していた。「旧時代の地上世界にはなかった品種で、もちろんこの空の世界にもなかった」ものなのだと。予測される地表面のエーテル気流から推測するに、かつて沙漠であったはずの場所から飛んできているらしい。それから「辺獄になった地上も変化して、再生してきているのだ」とずいぶん感慨深げだった。
そして彼は告げた。
その花言葉は「未来は変わる」。