レッドパンダ・ブレイク ※本格・長編ファンタジー戦記、一括掲載
第十話 初夏の祭り/カウントダウン
1
昼下がりのアル・カーヒラ。
ブレイクはリビングルームのドアを開けるなり、紙袋をガサゴソやった。ちょうどソファで、あの少年、ヤコブがセリムに航海と船舶の講義を受けているところだった。
「おい、新入り!」
横柄に呼びかけられて、少年はやや間を置いて応じた。
「……はい」
「鯛焼き」
ブレイクは紙袋をテーブルに置く。自分も浅黒い肌の少年の隣に腰掛けて、もう一つの紙袋からハードカバーの本を取り出す。厚みのある緑色の書籍を、ブレイクは少年の膝に投げ出した。ヤコブ少年は目を点にしている。ブレイクはV字の片眉を吊り上げた。
「教科書だよ、お前の」
「教科書って……」
土精の少年は顔をしかめ、その厚さに驚いている(せいぜい四百ページにもなるまいが)。
「敵と戦争するのに、勉強なんて……それよりさ、もっと戦闘訓練とか……」
「アホ抜かせ」
ブレイク・ハート先輩は一蹴した。
「ケンカだけ強くても、世の中どーにもならねーよ」
頷くセリム。ヤコブ君はゲンナリしている。
「俺、勉強苦手だし。その、向いてないっていうか、姉ちゃんと違って馬鹿だし……」
抗弁する少年をブレイクはまたも一蹴する。ほぼ頭ごなしである。
「勉強ができないから、馬鹿なんじゃねえ。勉強しない奴が馬鹿なんだ。いーから、できる暇があるうちにやっとけ」
彼はレッサーパンダだてらに自分用に買ってきた本を取り出した。『湖沼生態学入門Ⅱ』と太字のタイトルがある新書だった。少年と反対側のアームを背もたれにくつろぎの姿勢をとった。思い出したように一度起き上がり、片手を紙袋をさぐって鯛焼きをつかむ。これでも物質循環学の準修士(セミ・マスター)である。学術調査員の端くれくらいで通る。
セリムとヤコブ君も鯛焼きを食べ始めた。
ブレイクはふとページをめくる手を止めた。
「おい」
「……はい」
金色の瞳はセリムと少年を一瞥する。
「晩飯食ったら、砲術の授業だ。それと、接近戦訓練もかーるく。だからさっさと、今日の分のノルマ終わらせろよ」
それを聞いて、少年は元気を取り戻したようだった。しかしセリムは浮かない顔だった。
セリムはあとで二人きりになったとき、ブレイクに小さく抗議した。
「ねえ、ブレイク。本当に、あの子に銃の扱いを?」
「そのつもりでいる」
「……あの子を戦わせるの? ぼくたちみたいに……」
セリムは唇を噛み、視線を彷徨わせている。恐怖や絶望に似た色を浮かべていた。
ブレイクは溜息して答えた。
「あくまで、いざって時の備えさ。訓練だけでもしとけば、本土の防衛の足しにもなるだろうし。こんな時勢に丸腰でいることのほうが、よっぽど命にかかわるぜ」
「そう……だね……」
セリムは考え深げに天井を見上げた。
2
『よく考えておいてくれ』
滞在中のビジネスホテルの一室で、カレルは長く頭を抱えていた。
『どちらが世界のためになるかを』
何度目かの面会で、森精の伯爵は別れ際、不意打ちで重大な用件を告げた。
帝国構成国中、軍事力で劣るシシィのキューレボルン侯国は、傭兵からなる騎士団を創設する予定であること。そして新規された軍団は近く、『ストロモフカ(共和国プレート4)解放作戦』に投入されるであろうこと。
そしてカレル・ノスティッツにも部隊長としての参加を呼びかけている(彼のアルスの血統は、遠く皇帝家の雷帝神族(ユピテル)にも連なるものだった)。
「いったいわたしはどうしたら……」
以前ならば、きっぱりと拒否しただろう。
けれどもあの惨事の後にプレート4は原理主義者の占領の危機に曝されている。放置しておく方がよほどまずいのではないか?
開明的なキューレボルン侯国とでも同盟したほうが、人間の支配より、木精たちにとってはマシなのではないのか? あの侯国は水妖だけでなく、木精や森精もいる(帝国内部ではか弱い種族の避難所になっている趣もあった)。
それにもし、キューレボルン水妖侯国が自前で作戦を実行できない場合、他の帝国側の国々、冷酷な海神族(ネプツーヌス)や荒々しい武神族(マーウォルス)、苛烈な霜精(アルゴル)たちが乗り込んできて、プレート4の町々が蹂躙されるのは目に見えている。歯止めをかける点でも、水妖侯国主体の作戦行動には意義がある。
もしカレルが共和国人でなかったなら、確実に二言返事で了承したことだろう。
「だが……」
祖国に弓引くことには抵抗がある。しかも一歩間違えれば共和国崩壊に手を貸すことになりかねない。もし共和国からプレート4が抜ければ……。
彼が共和国プレート1での、「帰還亡命者虐殺事件」を知ったのは、その二日後だった。
3
「酷いことばっかり」
クッションを抱きしめたブランシュの言葉にアネシュカは頷く。
プレート4の事変は、巷でも中央行政局の陰謀説が囁かれている。
さらには帰還亡命者大量虐殺事件。
プレート2や4は中央の裁判所に行政局の犯罪的行為を告訴した。高等法官たちを十人も送り込んで、どうにかして裁こうとしたのだ。
またそれはパトリシア・グランリュートの弁護のためでもあった。
けれども最高裁判所は行政局の一連の策略を、「合法」と判断したのである。
『国防上のやむなき非常措置である』
プレート2と4は「もはや裁判所さえ公正ではない」「ここに至って法治主義は崩壊した」とまで激しく非難した。ある過激な新聞の社説には「共和国分裂の危機」「もう互いの正義が相容れない」とまで煽られる始末である(皮肉にも真実であった)。
「『法治主義は崩壊した』って」
アネシュカはラジオの高等法官の演説の口ぶりを少し真似る。
「でもさ。法律までわたしたちを守ってくれないんだったら、誰が守ってくれるんだろ?」
「わかんない。最後の最後になったら、誰も、守ってなんかくれないよ。だけど……もしあと三年くらいあったら、わたしが強くなってアネシュカのこと守ってあげるけど」
ブランシュの意外な発言にアネシュカは目を丸くした。
二人の少女はしばし見つめ合っていた。
「なんで?」
「好きだから」
素朴な問いかけは率直に返事される。アネシュカは腕組みする。
「怒って八つ当たりしたのに?」
「うん」
親友はくったくもなくニコニコ。アネシュカは愛の過剰を感じていた。悪い気はしなかったものの、ちと困り顔で片眉を吊り上げる。ふっと思いついたことで話題を変える。
「そういえば、パトリシアって人、どうなったんだろ?」
刑事法廷で死刑宣告を受けたパトリシア・グランリュートの身柄は跡形もなく消え去っていたらしい(護送車を襲撃されて拉致されたのだ)。
ブランシュは人差し指を唇に当て、考える仕草をしたが、すぐに明るい顔になる。
「きっと大丈夫だよ」
「……どうしてわかるの?」
「……勘、みたいなのかなー」
はぐらかしつつ、ブランシュはどうやら薄々と真相を察知しているようだった。
4
「予定を繰り上げることになるかもしれん」
統領マフムート・パシャは意を決してそう告げた。
アルジャノン・ヒッピアス総長とサラーフ・ネルソン提督の他、三、四人の幹部が執務室に集合していた。昼食会にかこつけた非公式の会合である。
「ここ三週間の外遊で、各国首脳とは話がついている。来るプレート4の『対帝国防衛戦』を乗り切って、すぐの段階で『新共和連邦』を発足させる段取りだ」
一同はしんと静まり返っている。
ことの重大さは皆が皆熟知していた。
誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。もう一人が代表して肝心の質問をする。
「それでは、プレート4はいかがされます?」
「それはそれ……もしもプレート1があまりにゴネるようなら、『解放作戦』も考えておる」
その場にいた幹部たちが一斉にどよめく。
プレート4を強引に力ずくで解放することは、プレート1(ルテティア)との開戦を意味している。
マフムートは片手を上げて彼らを制した。
「静粛に………………。『防衛戦』と『その他』の総指揮はネルソン、チャペル・ブルー第二艦隊と『海兵隊』で頼む。第一艦隊からも応援を何隻か。加えてヒッピアスの『外人部隊』にも出撃してもらおう」
ネルソンは外征が専門で、観戦武官として出向く機会も多かった。今日は帰還していたが、現在もストロモフカでの駐在部隊を指揮している。
「はい。わたしも……」
やや気負いたったアルジャノンをマフムートは制した。
「いや。ヒッピアスは、ここに残ってもらう」
「それでは、『外人部隊』の指揮は? やはり……」
「うむ。戦術レベルなら、親衛大尉のブレイク・ハートで不足はなかろう……ネルソンもおるし。副官の人選などは任せる」
そもそも外人部隊は「最前列で敵に殴りこみ」が専門である。
ブレイク以上に適任な者はざらにはいない(ちなみに「親衛」は力量と信頼からの名誉称号)。それに背後の総指揮官にはネルソンもいる。このビーバーの提督は外人部隊の快速艇メンバーたちからも、一定の尊敬を勝ち得ていた。
アルジャノンは疑問点を口にする。
「『陸戦隊』は別々に? 一緒に出さないのですか?」
「うむ。ここの守りもおろそかにできんのだ。ヒッピアス総長は第二モスクの『陸戦隊』の方を直接に指揮して、アル・カーヒラを守ってくれ」
外人部隊、海兵隊、陸戦隊がアル・カーヒラの虎の子、アルス使いの三大特殊部隊。
アルジャノンは第一モスク・ルージュの総長で、外人部隊のボスなだけではない。第二モスク・ノワールに所属する、陸戦隊の元締めを兼ねていた。
「では、陸戦隊の方から、参謀を付けましょう」
「それがよい。お主が現場にいれば、そうそう参謀の出番もなかろうからな……それでは二人とも、よろしく頼むぞ」
「はい!」
双璧たるアルジャノンとネルソンは静かに声をそろえた。
統領は予定の公表を続けた。
「カテドラルの第一艦隊の主力もアル・カーヒラにとどめ置く」
年配の堂々たる黒人、カテドラル総長兼「海軍総司令」グリエルモ・シャー将軍が頷いた。鼻と左耳のピアスを金の鎖でつないでいるのは金呪である。もし凡人が真似れば単に奇矯なだけだったかもしれないが、彼の場合はかえって様になっており、威厳を増し加えている。重厚なエンブレムと金モールのついた、がっしりした白い上着。厚い肩には王者の風格さえある。
「それはうちの本土が奇襲攻撃を受けることがありうる、ということですね?」
彼は「どこから?」とは訊かなかった。プレート1からに決まっている。
「そうだ。モスク・ノワールとチャペル・グリーンの第一・第二防空軍を合わせて、アル・カーヒラ本土を防衛してもらう。考慮中だが、モスク・ノワールの『陸戦隊』にも出撃してもらう機会があるかもしれない」
防空軍はアルスのない標準人を主にした組織で、プレート本土の哨戒と防衛が主任務だ。
アルジャノンと司令は目線で頷きあう。無言のわずかなやりとりに相互の信頼感がにじみ出ている。海軍司令は厳かに応じた。
「かしこまりました」
マフムート・パシャはグレーの背広を着た、影のような小男に視線を当てる。
「それから室長。シナゴークの『諜報部』には、引き続き警戒を怠らないよう。期限までの二ヶ月間、負担が増えてしまうが、よろしく頼みたい。必要なら別部署からも人員を廻そう」
通称「室長」、白い髭がまばらに生えている初老の男であった。本人はアルス能力なしに多数のアルス能力者たちを配下に統べる、諜報活動のエキスパートなのだ。
室長は声もなく頷いた。それでいて、説得力のある意志が周囲にはっきり伝わるのが不思議である。内面の強靭な意志力は黙してなお伝わるものであるらしい。
アル・カーヒラの統領は言葉を結んだ。
「それでは……我らに天使たちの加護があらんことを!」
あと二ヶ月で、共和国プレート4(ストロモフカ)と水妖侯国プレートが接近する。
残された時間は少ない……嵐は近かった。
昼下がりのアル・カーヒラ。
ブレイクはリビングルームのドアを開けるなり、紙袋をガサゴソやった。ちょうどソファで、あの少年、ヤコブがセリムに航海と船舶の講義を受けているところだった。
「おい、新入り!」
横柄に呼びかけられて、少年はやや間を置いて応じた。
「……はい」
「鯛焼き」
ブレイクは紙袋をテーブルに置く。自分も浅黒い肌の少年の隣に腰掛けて、もう一つの紙袋からハードカバーの本を取り出す。厚みのある緑色の書籍を、ブレイクは少年の膝に投げ出した。ヤコブ少年は目を点にしている。ブレイクはV字の片眉を吊り上げた。
「教科書だよ、お前の」
「教科書って……」
土精の少年は顔をしかめ、その厚さに驚いている(せいぜい四百ページにもなるまいが)。
「敵と戦争するのに、勉強なんて……それよりさ、もっと戦闘訓練とか……」
「アホ抜かせ」
ブレイク・ハート先輩は一蹴した。
「ケンカだけ強くても、世の中どーにもならねーよ」
頷くセリム。ヤコブ君はゲンナリしている。
「俺、勉強苦手だし。その、向いてないっていうか、姉ちゃんと違って馬鹿だし……」
抗弁する少年をブレイクはまたも一蹴する。ほぼ頭ごなしである。
「勉強ができないから、馬鹿なんじゃねえ。勉強しない奴が馬鹿なんだ。いーから、できる暇があるうちにやっとけ」
彼はレッサーパンダだてらに自分用に買ってきた本を取り出した。『湖沼生態学入門Ⅱ』と太字のタイトルがある新書だった。少年と反対側のアームを背もたれにくつろぎの姿勢をとった。思い出したように一度起き上がり、片手を紙袋をさぐって鯛焼きをつかむ。これでも物質循環学の準修士(セミ・マスター)である。学術調査員の端くれくらいで通る。
セリムとヤコブ君も鯛焼きを食べ始めた。
ブレイクはふとページをめくる手を止めた。
「おい」
「……はい」
金色の瞳はセリムと少年を一瞥する。
「晩飯食ったら、砲術の授業だ。それと、接近戦訓練もかーるく。だからさっさと、今日の分のノルマ終わらせろよ」
それを聞いて、少年は元気を取り戻したようだった。しかしセリムは浮かない顔だった。
セリムはあとで二人きりになったとき、ブレイクに小さく抗議した。
「ねえ、ブレイク。本当に、あの子に銃の扱いを?」
「そのつもりでいる」
「……あの子を戦わせるの? ぼくたちみたいに……」
セリムは唇を噛み、視線を彷徨わせている。恐怖や絶望に似た色を浮かべていた。
ブレイクは溜息して答えた。
「あくまで、いざって時の備えさ。訓練だけでもしとけば、本土の防衛の足しにもなるだろうし。こんな時勢に丸腰でいることのほうが、よっぽど命にかかわるぜ」
「そう……だね……」
セリムは考え深げに天井を見上げた。
2
『よく考えておいてくれ』
滞在中のビジネスホテルの一室で、カレルは長く頭を抱えていた。
『どちらが世界のためになるかを』
何度目かの面会で、森精の伯爵は別れ際、不意打ちで重大な用件を告げた。
帝国構成国中、軍事力で劣るシシィのキューレボルン侯国は、傭兵からなる騎士団を創設する予定であること。そして新規された軍団は近く、『ストロモフカ(共和国プレート4)解放作戦』に投入されるであろうこと。
そしてカレル・ノスティッツにも部隊長としての参加を呼びかけている(彼のアルスの血統は、遠く皇帝家の雷帝神族(ユピテル)にも連なるものだった)。
「いったいわたしはどうしたら……」
以前ならば、きっぱりと拒否しただろう。
けれどもあの惨事の後にプレート4は原理主義者の占領の危機に曝されている。放置しておく方がよほどまずいのではないか?
開明的なキューレボルン侯国とでも同盟したほうが、人間の支配より、木精たちにとってはマシなのではないのか? あの侯国は水妖だけでなく、木精や森精もいる(帝国内部ではか弱い種族の避難所になっている趣もあった)。
それにもし、キューレボルン水妖侯国が自前で作戦を実行できない場合、他の帝国側の国々、冷酷な海神族(ネプツーヌス)や荒々しい武神族(マーウォルス)、苛烈な霜精(アルゴル)たちが乗り込んできて、プレート4の町々が蹂躙されるのは目に見えている。歯止めをかける点でも、水妖侯国主体の作戦行動には意義がある。
もしカレルが共和国人でなかったなら、確実に二言返事で了承したことだろう。
「だが……」
祖国に弓引くことには抵抗がある。しかも一歩間違えれば共和国崩壊に手を貸すことになりかねない。もし共和国からプレート4が抜ければ……。
彼が共和国プレート1での、「帰還亡命者虐殺事件」を知ったのは、その二日後だった。
3
「酷いことばっかり」
クッションを抱きしめたブランシュの言葉にアネシュカは頷く。
プレート4の事変は、巷でも中央行政局の陰謀説が囁かれている。
さらには帰還亡命者大量虐殺事件。
プレート2や4は中央の裁判所に行政局の犯罪的行為を告訴した。高等法官たちを十人も送り込んで、どうにかして裁こうとしたのだ。
またそれはパトリシア・グランリュートの弁護のためでもあった。
けれども最高裁判所は行政局の一連の策略を、「合法」と判断したのである。
『国防上のやむなき非常措置である』
プレート2と4は「もはや裁判所さえ公正ではない」「ここに至って法治主義は崩壊した」とまで激しく非難した。ある過激な新聞の社説には「共和国分裂の危機」「もう互いの正義が相容れない」とまで煽られる始末である(皮肉にも真実であった)。
「『法治主義は崩壊した』って」
アネシュカはラジオの高等法官の演説の口ぶりを少し真似る。
「でもさ。法律までわたしたちを守ってくれないんだったら、誰が守ってくれるんだろ?」
「わかんない。最後の最後になったら、誰も、守ってなんかくれないよ。だけど……もしあと三年くらいあったら、わたしが強くなってアネシュカのこと守ってあげるけど」
ブランシュの意外な発言にアネシュカは目を丸くした。
二人の少女はしばし見つめ合っていた。
「なんで?」
「好きだから」
素朴な問いかけは率直に返事される。アネシュカは腕組みする。
「怒って八つ当たりしたのに?」
「うん」
親友はくったくもなくニコニコ。アネシュカは愛の過剰を感じていた。悪い気はしなかったものの、ちと困り顔で片眉を吊り上げる。ふっと思いついたことで話題を変える。
「そういえば、パトリシアって人、どうなったんだろ?」
刑事法廷で死刑宣告を受けたパトリシア・グランリュートの身柄は跡形もなく消え去っていたらしい(護送車を襲撃されて拉致されたのだ)。
ブランシュは人差し指を唇に当て、考える仕草をしたが、すぐに明るい顔になる。
「きっと大丈夫だよ」
「……どうしてわかるの?」
「……勘、みたいなのかなー」
はぐらかしつつ、ブランシュはどうやら薄々と真相を察知しているようだった。
4
「予定を繰り上げることになるかもしれん」
統領マフムート・パシャは意を決してそう告げた。
アルジャノン・ヒッピアス総長とサラーフ・ネルソン提督の他、三、四人の幹部が執務室に集合していた。昼食会にかこつけた非公式の会合である。
「ここ三週間の外遊で、各国首脳とは話がついている。来るプレート4の『対帝国防衛戦』を乗り切って、すぐの段階で『新共和連邦』を発足させる段取りだ」
一同はしんと静まり返っている。
ことの重大さは皆が皆熟知していた。
誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。もう一人が代表して肝心の質問をする。
「それでは、プレート4はいかがされます?」
「それはそれ……もしもプレート1があまりにゴネるようなら、『解放作戦』も考えておる」
その場にいた幹部たちが一斉にどよめく。
プレート4を強引に力ずくで解放することは、プレート1(ルテティア)との開戦を意味している。
マフムートは片手を上げて彼らを制した。
「静粛に………………。『防衛戦』と『その他』の総指揮はネルソン、チャペル・ブルー第二艦隊と『海兵隊』で頼む。第一艦隊からも応援を何隻か。加えてヒッピアスの『外人部隊』にも出撃してもらおう」
ネルソンは外征が専門で、観戦武官として出向く機会も多かった。今日は帰還していたが、現在もストロモフカでの駐在部隊を指揮している。
「はい。わたしも……」
やや気負いたったアルジャノンをマフムートは制した。
「いや。ヒッピアスは、ここに残ってもらう」
「それでは、『外人部隊』の指揮は? やはり……」
「うむ。戦術レベルなら、親衛大尉のブレイク・ハートで不足はなかろう……ネルソンもおるし。副官の人選などは任せる」
そもそも外人部隊は「最前列で敵に殴りこみ」が専門である。
ブレイク以上に適任な者はざらにはいない(ちなみに「親衛」は力量と信頼からの名誉称号)。それに背後の総指揮官にはネルソンもいる。このビーバーの提督は外人部隊の快速艇メンバーたちからも、一定の尊敬を勝ち得ていた。
アルジャノンは疑問点を口にする。
「『陸戦隊』は別々に? 一緒に出さないのですか?」
「うむ。ここの守りもおろそかにできんのだ。ヒッピアス総長は第二モスクの『陸戦隊』の方を直接に指揮して、アル・カーヒラを守ってくれ」
外人部隊、海兵隊、陸戦隊がアル・カーヒラの虎の子、アルス使いの三大特殊部隊。
アルジャノンは第一モスク・ルージュの総長で、外人部隊のボスなだけではない。第二モスク・ノワールに所属する、陸戦隊の元締めを兼ねていた。
「では、陸戦隊の方から、参謀を付けましょう」
「それがよい。お主が現場にいれば、そうそう参謀の出番もなかろうからな……それでは二人とも、よろしく頼むぞ」
「はい!」
双璧たるアルジャノンとネルソンは静かに声をそろえた。
統領は予定の公表を続けた。
「カテドラルの第一艦隊の主力もアル・カーヒラにとどめ置く」
年配の堂々たる黒人、カテドラル総長兼「海軍総司令」グリエルモ・シャー将軍が頷いた。鼻と左耳のピアスを金の鎖でつないでいるのは金呪である。もし凡人が真似れば単に奇矯なだけだったかもしれないが、彼の場合はかえって様になっており、威厳を増し加えている。重厚なエンブレムと金モールのついた、がっしりした白い上着。厚い肩には王者の風格さえある。
「それはうちの本土が奇襲攻撃を受けることがありうる、ということですね?」
彼は「どこから?」とは訊かなかった。プレート1からに決まっている。
「そうだ。モスク・ノワールとチャペル・グリーンの第一・第二防空軍を合わせて、アル・カーヒラ本土を防衛してもらう。考慮中だが、モスク・ノワールの『陸戦隊』にも出撃してもらう機会があるかもしれない」
防空軍はアルスのない標準人を主にした組織で、プレート本土の哨戒と防衛が主任務だ。
アルジャノンと司令は目線で頷きあう。無言のわずかなやりとりに相互の信頼感がにじみ出ている。海軍司令は厳かに応じた。
「かしこまりました」
マフムート・パシャはグレーの背広を着た、影のような小男に視線を当てる。
「それから室長。シナゴークの『諜報部』には、引き続き警戒を怠らないよう。期限までの二ヶ月間、負担が増えてしまうが、よろしく頼みたい。必要なら別部署からも人員を廻そう」
通称「室長」、白い髭がまばらに生えている初老の男であった。本人はアルス能力なしに多数のアルス能力者たちを配下に統べる、諜報活動のエキスパートなのだ。
室長は声もなく頷いた。それでいて、説得力のある意志が周囲にはっきり伝わるのが不思議である。内面の強靭な意志力は黙してなお伝わるものであるらしい。
アル・カーヒラの統領は言葉を結んだ。
「それでは……我らに天使たちの加護があらんことを!」
あと二ヶ月で、共和国プレート4(ストロモフカ)と水妖侯国プレートが接近する。
残された時間は少ない……嵐は近かった。