レッドパンダ・ブレイク ※本格・長編ファンタジー戦記、一括掲載
第十二話 新しい共和国/極限
1
枯葉病テロルの実行犯の一人は、四歳になるパトリシアの息子だった。
『裏切り者のアルジャノンを刺したのは立派だった。それだけは誇らしい』
『でもゴキブリはゴキブリだもの』
『お母さんは害虫だ。ぼくも増殖した蛆虫なんだ』
『ぼくが生まれたのは、お母さんが雌豚で、ケダモノのお父さんと交尾したから』
『呪われた親から生まれたから、ぼくは悪魔の子なんだ』
『生まれてこなければ良かった。お母さんがぼくを産まなければ良かった』
『生きていることと、生まれてきたことを人類に償わなければいけないんだ』
二年ぶりに再会した我が子は原理主義者に徹底的に洗脳されていた。
その淡々としたお経を読むような言葉に、哀れな母親はついに気を失った。
ルテティアの中央行政局の直属施設。
「対『電磁波兵器』の対策は、一通り完了しております。例の新しい飛行機も同様です。誤動作や機能停止の惧れは、まずありません」
「うむ。これで、憂いはなくなった。ストロモフカの奇跡は、二度は起こさせまい」
報告を受けたベルナール・ゴズは満足げに頷く。
あの二ヶ月前の事変での、アル・カーヒラの秘密兵器。おそらく電磁波兵器の類だ。事前に対応しておけばどうということはない。切り札をいぶり出すことができたのだから、リスクを犯した甲斐があったというものだった。
(これで、もう恐れるものは何もない)
こみ上げる愉悦を堪えながら、眼下に集結した兵士たちを眺める。
サラマンデルの実験で得た成果をフィードバックした、薬剤と人体改造で強化された特殊部隊、「マムルーク(奴隷軍人)軍」であった。
(それにしても、こうも志願者が上手く集まるとは。……実に素晴らしい! 絶望は愚民の教育と調教には有意義なものだ……)
寄らば大樹、心理として大半の人間は依存することを求めている。
だから走狗や奴隷にしかなれない。
ゴズは感心を通り越して呆れ、失笑さえこぼしてしまうのだった。
「ふふっ、魂を売ってでも楽になりたいものらしい……それで良いのだ」
今時、被験者はいくらでもいた。病に冒された者。未来や人生に絶望した者。借金で首が廻らなくなった者…………『崇高な義務を果たせ』という演説の精神論に単純に感動する、愚か者の群れが。
けれども彼らこそ、来るべき新しい時代の選ばれし民なのだ。
被支配者としての資質を開花させ、未来のあるべき模範の先駆けとなった。それによって「生」の一切の苦悩から解放されている。それに歴史的にも、支配者の下僕になることは、貴族にのし上がるための出世街道でもある。
「君たちは卓越した指導者に選ばれた。わたしは最後の預言者だ。天命の代行者なのだ。わたしの手で、転変の歴史は終わる。『衝突しあうしかない人間の意志』など、もはや時代遅れなのだ。じきに完成された永遠の御国がやってくる。君らはエゴという呪縛から解放される、普遍の時代の戸口に立っている。もう考え悩む必要はない、ひたすらに『義務』を果たせ。素直に命も魂も差し出すのだ」
もちろん一口に『義務』とは言っても、命令する側とされる側では全く立場に雲泥の差があるのに、頭の悪い者はそのことにさえ思い至らない。
けれども多くの人間は自分で自分をごまかしていたのだろう。他に選択肢がない人間にとっては、鰯の頭ではないが、上から押し付けられた理想を信じるしかないのだ。……そこに苦悩が生まれ、醸成される余地がある。
人は一人では生きられない、社会的動物。
組織や集団でなければ力を発揮できず、文明を築き上げられない。
だから本来、人間は属する社会に「帰依」するべきなのだ。それなのに人間同士の争いや相克があり、個々人は内面に心理的な矛盾、葛藤を抱かえている。それが歴史。歴史とは終末という平穏に辿り着けない、不安と苦悩の継続に他ならない。
なぜか? 苦しみの原因は隠れ潜んだ自我にある。
ならば徹底的に自我を燻り出し、完膚なきまでに滅ぼせば良い。
そのためには、洗脳や薬漬けはひとつの最終的解決であった。
そういう最後の一線を超える、勇気ある指導者がこれまでいなかったのは嘆かわしいことだ。たとえ思いついたとしても、機は熟さず、無能ゆえに実行できなかったである。
この「真の人類指導者の不在」こそ、苦しみの歴史の根源的な理由なのだ。
だからベルナール・ゴズこそは混迷の闇に降り立った救世主である。
(だからこれまで、大義や英雄が必要だったのだ)
その点ではアル・カーヒラも本質的には変わりはないのだろうと、彼は思う。
あの死に損ないの統領や忌々しいアルジャノンは「支配者」で、艦隊や外人部隊どもは「走狗」。税金を払う市民は「奴隷」だろう。どんなに言い訳しようが、「支配者‐走狗‐奴隷」の三階層の図式は普遍的である。地上時代の中の最も古い年代の哲学創始者でさえ「賢人‐武人‐平民」のモデルを提示しているくらいだった(平民は節制して服従する以外に能がないとし、同じ著者は晩年には賢人の会議による独裁政治を説いている)。他に社会構造のありようなど存在しない。
(……そういえば、アルジャノンはもうくたばったのだったな)
簡素な仮埋葬の儀礼に統領マフムート・パシャの秘書が出席したという報告が入っている。たとえ公には伏せていても……。
2
モスク・ルージュの病室には橙色の夕日が差し込んでいる。
「キアラ?」
ベッドの隣の車椅子でうつらうつらしていたキアラは、病人の呼びかけに目を覚ます。
「良かった。やっと意識が……具合はどう?」
「腹が減ったが……それよりも……」
アルジャノンは静かに問いかけた。
「……わたしはどれだけ眠っていた?」
「もう丸三日も経っています」
回復しただけでも奇跡である。並みの人間ならば、数日間も生死の境を彷徨う前に死んでいたことだろう。
だが暢気に歓んでばかりもいられないのが現状だった。
「現在の状況は?」
キアラは一瞬口ごもったが、すぐに正直に答えた。
「最悪ですわ……ストロモフカとアル・カーヒラで木精種族を蝕む病原菌がばら撒かれて。ストロモフカは壊滅状態です」
「今度は……よくも……」
アルジャノンも流石に唇が青くなる。
「真偽はわかりませんが、ルテティアで、アルスの家系の大量粛清がなされたという話も……それに……」
「それに?」
改めて言いよどんだキアラの態度に、アルジャノンは救いがたく不吉なものを感じ取る。
「ルテティア(プレート1)を中心に、新しい共和国が成立しました」
「新しい、共和国?」
今度こそアルジャノンは絶句し、目を皿のようにする。
「はい。我々と同じ事を、彼らも考えていたのです。旧連邦の人間種族プレートを取り込んで。中には我々と同盟するはずだった国も……」
「む。裏をかかれたのか」
「はい……ノスチーノ(北華)が敵に廻りました。ベネチャルムとクーロン(九龍)はアル・カーヒラを支持すると言ってきておりますが、援軍を送るのは苦しそうです。帝国やノスチーノに対抗するだけで精一杯だそうで……」
ノスチーノ・プレートは旧連邦系の四天王である。
アルジャノンは無言で押し黙り、珍しく苦悩を表情にあらわす。
「新しい『人民合衆国』は、アル・カーヒラの領有を主張しています。近日中には攻め寄せてくるでしょう。ルテティアだけでなく、連合軍ですわ。外部の同盟国プレートで、新型のゴーレムをこっそり量産していたみたいなんです」
アルジャノンは眉間に皺を寄せて顎に手を当てる。こめかみに冷や汗が流れていた。
「ストロモフカは? こちらも『新共和連邦』を樹立して対抗できないのか?」
キアラは首を左右した。
「帝国に降伏する、と言ってきています。ネルソン提督が頑張って説得を試みてくれていますが、ストロモフカの方たちは『もう人間が信用できない』と……」
万事休す。八方塞であった。終わりである。
アルジャノンは大きく溜息をつき、自嘲気味に唇を曲げる。
「滑稽なものだな、敗者とは。……負けるというのはそういうことなのだ。たとえどんな事情があろうとも。わたしもたいがいマヌケもいいところだがな」
「そんなこと、言わないでください」
キアラはシーツの上のアルジャノンの手を握った。
「わたしはあなたを信じています。どんな結果になっても……」
「……すまない」
落日は血のように赤く、暗く薄れていく。
3
西日差すモスク・ルージュのドック。
アップルパイの包みを手にした少女が一人、陣中を見舞う。
「アネシュカは?」
ブランシュにブレイクは首を横に振る。
「まだ面会謝絶だ。医者から、ショックを与えるなと釘を刺された。……どうも会いたくないらしい」
「そんなことないと思います。きっとあんな戦いを見たから、びっくりしただけです。だから、あんまり気を落さないでください」
「おめーは、怖がらないんだな。オレを」
少しふてくされたようなブレイクに、ブランシュは優しく答えた。
「だって」
少女は少しだけ微笑したようだった。
「触れればわかるんです。その……」
「どんな言い訳したって、オレは人殺しだぜ? 異種族も、人間じゃなくたって、オレらと同じで『人』なんだ」
ブレイクは自白する犯罪者のように声を低くしている。
ブランシュは船の横腹に背を持たせかけた。
「誰にでも優しくするなんて、そんなの無理ですよ……だって、世の中ってみんな利害関係があるんだから、気持ちだけ分かり合ったとしても争い続けるしかないんです」
「ずいぶん醒めてるんだな」
「だって。もし飢えていて、パンが一個しかなかったら、取り合うしかないでしょ? 自分より大切な人にだったらあげてもいいけれど、誰にでもそうするなんて、できないです」
ブランシュは遠い目をして独り言のように話し続ける。
「それに愛情なんて、身勝手でエゴイスティックなものだし。……相手の気持ちがわかるからって、優しく出来るなんて幻想です。そんなに優しかったら生きていけないし、冷淡にならなかったら自分がボロボロになってしまうんです、きっと」
彼女は戦闘用快速艇に、刺青された黒い翼の背を預ける。
「だから人間なんて、みんな人殺しみたいなものです。もしも永遠に生きるんだったら、誰だっていつかは人を殺したりするんです。わたしだって、脱獄した死刑囚と同じような気持ちでいます。またあんな、痛い目に合わされるくらいなら、先に相手を痛い目にあわせたほうがいい、殺されるより殺した方がいいって、ずっと思ってるんです……どうせ幸せになりたいとか、生きていたいとか思うのも、自分勝手な望みですし」
新しい快速艇マンフレッド号、浮かび上がるシルエットはまさしく兵器だった。
相手を殺して、自分が生き残るための武器。
大事でない人間を殺して大事な人間を守るための、人殺しの道具だ。
ブレイク・ハートは切なげに微苦笑する。
「思うことと、実際にやることは違うぜ」
「わたしは自分がいつか、『やる』と、思ってます」
ブレイクは金色の目で少女の顔を見上げる。
「…………オレはおめーに、そんなふうにはならないでほしいけどなあ」
ブランシュは目許涼しくすまし顔で即答した。
「無理です、そんなの。それに自分の期待とか、願望とかを他人に押し付けるのって、エゴです……こっちだって同じ人間なのに、少女崇拝とかホントに知能障害ですよ。そういう頭の可哀想な人たちには、たまに優しい気持ちになります。『仕舞いに悪い女でもに騙されますよ』って、ちゃんと教えてあげたくなるんです……まさかヴァーツラフさんもそのクチですか?」
少女は今亡き父親のことに思いをはせる。そして幼いころの出来事を。感受性が強すぎ、他人に触れられるだけでパニックを起こす、自閉症のような子どもだった頃を。
屋敷の使用人たちが嫌いだった。
自我のない人形みたいに言いなりになる人間は気持ち悪い。
だからわざとワガママをやって、怒らせたりしたものだ。
そして叱られては泣いたものだった。そのくせ、ほっとしたりして。
でも本当は友達が欲しかったし、優しくされたかった。
他人に心から愛されたがるのは贅沢だからなんだろうか?
しばしの沈黙が落ちる。
ブランシュは冷たく目を細めて自分の手を見ていた。
「もしも。もしも自分に力があったら。わたしを苦しめるものや、大事な人たちを傷つけるものを、みんな壊してしまえるのにって。よく思うんです」
彼女はそうして、ほんの少しだけ笑う。目は笑っていない。
そしてそっと付け加える。
「でもそれだと、世界を全部壊さないと駄目かも。わたし、まるで夢みたいなこと言ってますよね?」
ブレイクは抜き身の刃物のような直球の言葉にとまどいつつも、V字の眉をぐっと片方持ち上げた。
「そんなことしたら、自分や身内の人間まで生きていけねーだろーが。……オレはこれでも、物質循環学者の端くれだがな。何でも巡り巡って循環してるんだ。こいつはきれーごとだの、理屈や願望じゃなくて、ちゃんとした事実なんだぜ? どんなもんだって、それ一つだけでそこに存在してるなんてのは、ものを知らない奴の言うことだ。……ま、世の中そういう馬鹿が多いからどうにもならんのだけどな」
「そーなんですよねー。だから、難しいんですよね」
ブランシュは屈託もなく、涼しげににっこりとした。その邪気のなさが逆に恐ろしい。
ブレイクは工作机の引出しを開け、結晶質の鉱石を二つ取り出した。ブランシュはじっとそれを見つめる。
「きれいですね」
「昔、エーテル上昇流の『光の柱』の空域調査をしたときに拾ってきたんだ。地表の辺獄から吹き上げられてきたんだ、これは」
「へえ……」
「片方でいいから、アネシュカに渡しといてくれないか? もう一つはオメーにやるから、ペーパーウェイトにでもしな」
ブランシュは変な顔をする。
「どうしたんです、急に?」
「オレもいつ出撃になるかわからないから、預かってもらえねーか? それで伝えて欲しいんだ。『どこにいても、世界はつながってるし、廻ってる』って」
少女は彼の意図を察したようだった。戦闘に出れば、船が撃墜されて辺獄に落ちてしまう惧れもありうる。「どこにいても見守っている」とでも言いたいのだろう。
「はい」
ブランシュは両手で二つの鉱石を受けとった。
そっとブレイクの耳元に鼻先を寄せる。
「ヴァーツラフさんって、ひょっとして犬用のシャンプー使いました?」
「ちょっと足りなかったんで、手近なのを……なんでわかる?」
「女の子って、そういうの敏感なんです……わたしは特に」
「……犬かよ」
ブランシュはクスクス笑って、ブレイクの耳をつまむ。
「オイ」
「この手触り、ちょっとクセになりそう……こう、新しい未知の何かが、胸の奥で……」
「…………お、オーヨー……」
ブレイク・ハートはどう反応すればいいのか困ってしまう。
この少女の心に芽生えた、新しい何か。
それは新たなるフェティシズムの兆候なのかもしれなかった。
枯葉病テロルの実行犯の一人は、四歳になるパトリシアの息子だった。
『裏切り者のアルジャノンを刺したのは立派だった。それだけは誇らしい』
『でもゴキブリはゴキブリだもの』
『お母さんは害虫だ。ぼくも増殖した蛆虫なんだ』
『ぼくが生まれたのは、お母さんが雌豚で、ケダモノのお父さんと交尾したから』
『呪われた親から生まれたから、ぼくは悪魔の子なんだ』
『生まれてこなければ良かった。お母さんがぼくを産まなければ良かった』
『生きていることと、生まれてきたことを人類に償わなければいけないんだ』
二年ぶりに再会した我が子は原理主義者に徹底的に洗脳されていた。
その淡々としたお経を読むような言葉に、哀れな母親はついに気を失った。
ルテティアの中央行政局の直属施設。
「対『電磁波兵器』の対策は、一通り完了しております。例の新しい飛行機も同様です。誤動作や機能停止の惧れは、まずありません」
「うむ。これで、憂いはなくなった。ストロモフカの奇跡は、二度は起こさせまい」
報告を受けたベルナール・ゴズは満足げに頷く。
あの二ヶ月前の事変での、アル・カーヒラの秘密兵器。おそらく電磁波兵器の類だ。事前に対応しておけばどうということはない。切り札をいぶり出すことができたのだから、リスクを犯した甲斐があったというものだった。
(これで、もう恐れるものは何もない)
こみ上げる愉悦を堪えながら、眼下に集結した兵士たちを眺める。
サラマンデルの実験で得た成果をフィードバックした、薬剤と人体改造で強化された特殊部隊、「マムルーク(奴隷軍人)軍」であった。
(それにしても、こうも志願者が上手く集まるとは。……実に素晴らしい! 絶望は愚民の教育と調教には有意義なものだ……)
寄らば大樹、心理として大半の人間は依存することを求めている。
だから走狗や奴隷にしかなれない。
ゴズは感心を通り越して呆れ、失笑さえこぼしてしまうのだった。
「ふふっ、魂を売ってでも楽になりたいものらしい……それで良いのだ」
今時、被験者はいくらでもいた。病に冒された者。未来や人生に絶望した者。借金で首が廻らなくなった者…………『崇高な義務を果たせ』という演説の精神論に単純に感動する、愚か者の群れが。
けれども彼らこそ、来るべき新しい時代の選ばれし民なのだ。
被支配者としての資質を開花させ、未来のあるべき模範の先駆けとなった。それによって「生」の一切の苦悩から解放されている。それに歴史的にも、支配者の下僕になることは、貴族にのし上がるための出世街道でもある。
「君たちは卓越した指導者に選ばれた。わたしは最後の預言者だ。天命の代行者なのだ。わたしの手で、転変の歴史は終わる。『衝突しあうしかない人間の意志』など、もはや時代遅れなのだ。じきに完成された永遠の御国がやってくる。君らはエゴという呪縛から解放される、普遍の時代の戸口に立っている。もう考え悩む必要はない、ひたすらに『義務』を果たせ。素直に命も魂も差し出すのだ」
もちろん一口に『義務』とは言っても、命令する側とされる側では全く立場に雲泥の差があるのに、頭の悪い者はそのことにさえ思い至らない。
けれども多くの人間は自分で自分をごまかしていたのだろう。他に選択肢がない人間にとっては、鰯の頭ではないが、上から押し付けられた理想を信じるしかないのだ。……そこに苦悩が生まれ、醸成される余地がある。
人は一人では生きられない、社会的動物。
組織や集団でなければ力を発揮できず、文明を築き上げられない。
だから本来、人間は属する社会に「帰依」するべきなのだ。それなのに人間同士の争いや相克があり、個々人は内面に心理的な矛盾、葛藤を抱かえている。それが歴史。歴史とは終末という平穏に辿り着けない、不安と苦悩の継続に他ならない。
なぜか? 苦しみの原因は隠れ潜んだ自我にある。
ならば徹底的に自我を燻り出し、完膚なきまでに滅ぼせば良い。
そのためには、洗脳や薬漬けはひとつの最終的解決であった。
そういう最後の一線を超える、勇気ある指導者がこれまでいなかったのは嘆かわしいことだ。たとえ思いついたとしても、機は熟さず、無能ゆえに実行できなかったである。
この「真の人類指導者の不在」こそ、苦しみの歴史の根源的な理由なのだ。
だからベルナール・ゴズこそは混迷の闇に降り立った救世主である。
(だからこれまで、大義や英雄が必要だったのだ)
その点ではアル・カーヒラも本質的には変わりはないのだろうと、彼は思う。
あの死に損ないの統領や忌々しいアルジャノンは「支配者」で、艦隊や外人部隊どもは「走狗」。税金を払う市民は「奴隷」だろう。どんなに言い訳しようが、「支配者‐走狗‐奴隷」の三階層の図式は普遍的である。地上時代の中の最も古い年代の哲学創始者でさえ「賢人‐武人‐平民」のモデルを提示しているくらいだった(平民は節制して服従する以外に能がないとし、同じ著者は晩年には賢人の会議による独裁政治を説いている)。他に社会構造のありようなど存在しない。
(……そういえば、アルジャノンはもうくたばったのだったな)
簡素な仮埋葬の儀礼に統領マフムート・パシャの秘書が出席したという報告が入っている。たとえ公には伏せていても……。
2
モスク・ルージュの病室には橙色の夕日が差し込んでいる。
「キアラ?」
ベッドの隣の車椅子でうつらうつらしていたキアラは、病人の呼びかけに目を覚ます。
「良かった。やっと意識が……具合はどう?」
「腹が減ったが……それよりも……」
アルジャノンは静かに問いかけた。
「……わたしはどれだけ眠っていた?」
「もう丸三日も経っています」
回復しただけでも奇跡である。並みの人間ならば、数日間も生死の境を彷徨う前に死んでいたことだろう。
だが暢気に歓んでばかりもいられないのが現状だった。
「現在の状況は?」
キアラは一瞬口ごもったが、すぐに正直に答えた。
「最悪ですわ……ストロモフカとアル・カーヒラで木精種族を蝕む病原菌がばら撒かれて。ストロモフカは壊滅状態です」
「今度は……よくも……」
アルジャノンも流石に唇が青くなる。
「真偽はわかりませんが、ルテティアで、アルスの家系の大量粛清がなされたという話も……それに……」
「それに?」
改めて言いよどんだキアラの態度に、アルジャノンは救いがたく不吉なものを感じ取る。
「ルテティア(プレート1)を中心に、新しい共和国が成立しました」
「新しい、共和国?」
今度こそアルジャノンは絶句し、目を皿のようにする。
「はい。我々と同じ事を、彼らも考えていたのです。旧連邦の人間種族プレートを取り込んで。中には我々と同盟するはずだった国も……」
「む。裏をかかれたのか」
「はい……ノスチーノ(北華)が敵に廻りました。ベネチャルムとクーロン(九龍)はアル・カーヒラを支持すると言ってきておりますが、援軍を送るのは苦しそうです。帝国やノスチーノに対抗するだけで精一杯だそうで……」
ノスチーノ・プレートは旧連邦系の四天王である。
アルジャノンは無言で押し黙り、珍しく苦悩を表情にあらわす。
「新しい『人民合衆国』は、アル・カーヒラの領有を主張しています。近日中には攻め寄せてくるでしょう。ルテティアだけでなく、連合軍ですわ。外部の同盟国プレートで、新型のゴーレムをこっそり量産していたみたいなんです」
アルジャノンは眉間に皺を寄せて顎に手を当てる。こめかみに冷や汗が流れていた。
「ストロモフカは? こちらも『新共和連邦』を樹立して対抗できないのか?」
キアラは首を左右した。
「帝国に降伏する、と言ってきています。ネルソン提督が頑張って説得を試みてくれていますが、ストロモフカの方たちは『もう人間が信用できない』と……」
万事休す。八方塞であった。終わりである。
アルジャノンは大きく溜息をつき、自嘲気味に唇を曲げる。
「滑稽なものだな、敗者とは。……負けるというのはそういうことなのだ。たとえどんな事情があろうとも。わたしもたいがいマヌケもいいところだがな」
「そんなこと、言わないでください」
キアラはシーツの上のアルジャノンの手を握った。
「わたしはあなたを信じています。どんな結果になっても……」
「……すまない」
落日は血のように赤く、暗く薄れていく。
3
西日差すモスク・ルージュのドック。
アップルパイの包みを手にした少女が一人、陣中を見舞う。
「アネシュカは?」
ブランシュにブレイクは首を横に振る。
「まだ面会謝絶だ。医者から、ショックを与えるなと釘を刺された。……どうも会いたくないらしい」
「そんなことないと思います。きっとあんな戦いを見たから、びっくりしただけです。だから、あんまり気を落さないでください」
「おめーは、怖がらないんだな。オレを」
少しふてくされたようなブレイクに、ブランシュは優しく答えた。
「だって」
少女は少しだけ微笑したようだった。
「触れればわかるんです。その……」
「どんな言い訳したって、オレは人殺しだぜ? 異種族も、人間じゃなくたって、オレらと同じで『人』なんだ」
ブレイクは自白する犯罪者のように声を低くしている。
ブランシュは船の横腹に背を持たせかけた。
「誰にでも優しくするなんて、そんなの無理ですよ……だって、世の中ってみんな利害関係があるんだから、気持ちだけ分かり合ったとしても争い続けるしかないんです」
「ずいぶん醒めてるんだな」
「だって。もし飢えていて、パンが一個しかなかったら、取り合うしかないでしょ? 自分より大切な人にだったらあげてもいいけれど、誰にでもそうするなんて、できないです」
ブランシュは遠い目をして独り言のように話し続ける。
「それに愛情なんて、身勝手でエゴイスティックなものだし。……相手の気持ちがわかるからって、優しく出来るなんて幻想です。そんなに優しかったら生きていけないし、冷淡にならなかったら自分がボロボロになってしまうんです、きっと」
彼女は戦闘用快速艇に、刺青された黒い翼の背を預ける。
「だから人間なんて、みんな人殺しみたいなものです。もしも永遠に生きるんだったら、誰だっていつかは人を殺したりするんです。わたしだって、脱獄した死刑囚と同じような気持ちでいます。またあんな、痛い目に合わされるくらいなら、先に相手を痛い目にあわせたほうがいい、殺されるより殺した方がいいって、ずっと思ってるんです……どうせ幸せになりたいとか、生きていたいとか思うのも、自分勝手な望みですし」
新しい快速艇マンフレッド号、浮かび上がるシルエットはまさしく兵器だった。
相手を殺して、自分が生き残るための武器。
大事でない人間を殺して大事な人間を守るための、人殺しの道具だ。
ブレイク・ハートは切なげに微苦笑する。
「思うことと、実際にやることは違うぜ」
「わたしは自分がいつか、『やる』と、思ってます」
ブレイクは金色の目で少女の顔を見上げる。
「…………オレはおめーに、そんなふうにはならないでほしいけどなあ」
ブランシュは目許涼しくすまし顔で即答した。
「無理です、そんなの。それに自分の期待とか、願望とかを他人に押し付けるのって、エゴです……こっちだって同じ人間なのに、少女崇拝とかホントに知能障害ですよ。そういう頭の可哀想な人たちには、たまに優しい気持ちになります。『仕舞いに悪い女でもに騙されますよ』って、ちゃんと教えてあげたくなるんです……まさかヴァーツラフさんもそのクチですか?」
少女は今亡き父親のことに思いをはせる。そして幼いころの出来事を。感受性が強すぎ、他人に触れられるだけでパニックを起こす、自閉症のような子どもだった頃を。
屋敷の使用人たちが嫌いだった。
自我のない人形みたいに言いなりになる人間は気持ち悪い。
だからわざとワガママをやって、怒らせたりしたものだ。
そして叱られては泣いたものだった。そのくせ、ほっとしたりして。
でも本当は友達が欲しかったし、優しくされたかった。
他人に心から愛されたがるのは贅沢だからなんだろうか?
しばしの沈黙が落ちる。
ブランシュは冷たく目を細めて自分の手を見ていた。
「もしも。もしも自分に力があったら。わたしを苦しめるものや、大事な人たちを傷つけるものを、みんな壊してしまえるのにって。よく思うんです」
彼女はそうして、ほんの少しだけ笑う。目は笑っていない。
そしてそっと付け加える。
「でもそれだと、世界を全部壊さないと駄目かも。わたし、まるで夢みたいなこと言ってますよね?」
ブレイクは抜き身の刃物のような直球の言葉にとまどいつつも、V字の眉をぐっと片方持ち上げた。
「そんなことしたら、自分や身内の人間まで生きていけねーだろーが。……オレはこれでも、物質循環学者の端くれだがな。何でも巡り巡って循環してるんだ。こいつはきれーごとだの、理屈や願望じゃなくて、ちゃんとした事実なんだぜ? どんなもんだって、それ一つだけでそこに存在してるなんてのは、ものを知らない奴の言うことだ。……ま、世の中そういう馬鹿が多いからどうにもならんのだけどな」
「そーなんですよねー。だから、難しいんですよね」
ブランシュは屈託もなく、涼しげににっこりとした。その邪気のなさが逆に恐ろしい。
ブレイクは工作机の引出しを開け、結晶質の鉱石を二つ取り出した。ブランシュはじっとそれを見つめる。
「きれいですね」
「昔、エーテル上昇流の『光の柱』の空域調査をしたときに拾ってきたんだ。地表の辺獄から吹き上げられてきたんだ、これは」
「へえ……」
「片方でいいから、アネシュカに渡しといてくれないか? もう一つはオメーにやるから、ペーパーウェイトにでもしな」
ブランシュは変な顔をする。
「どうしたんです、急に?」
「オレもいつ出撃になるかわからないから、預かってもらえねーか? それで伝えて欲しいんだ。『どこにいても、世界はつながってるし、廻ってる』って」
少女は彼の意図を察したようだった。戦闘に出れば、船が撃墜されて辺獄に落ちてしまう惧れもありうる。「どこにいても見守っている」とでも言いたいのだろう。
「はい」
ブランシュは両手で二つの鉱石を受けとった。
そっとブレイクの耳元に鼻先を寄せる。
「ヴァーツラフさんって、ひょっとして犬用のシャンプー使いました?」
「ちょっと足りなかったんで、手近なのを……なんでわかる?」
「女の子って、そういうの敏感なんです……わたしは特に」
「……犬かよ」
ブランシュはクスクス笑って、ブレイクの耳をつまむ。
「オイ」
「この手触り、ちょっとクセになりそう……こう、新しい未知の何かが、胸の奥で……」
「…………お、オーヨー……」
ブレイク・ハートはどう反応すればいいのか困ってしまう。
この少女の心に芽生えた、新しい何か。
それは新たなるフェティシズムの兆候なのかもしれなかった。