レッドパンダ・ブレイク ※本格・長編ファンタジー戦記、一括掲載

 キューレボルン侯国の某所。
 正午の日差しの差す、宮殿の離れのバルコニー。シシィ・キューレボルンとカレルが談笑している。宮殿の幾何学式庭園は大部分が市民に公園として解放されていたが、ここは主の家族のプライベート、中庭に面している。
「夜な夜な、嫌な音が聞こえてくるんです。黒板を引っかくような、キュウキュウ言う音が。音は、ヴァーツラフ(ブレイク)のいるロフトから聞こえてきました」
 シシィはカレルの昔話に聞き入っていた。
「それで、ヴァーツラフ君はいったい何を?」
「そこなんです……わたしはてっきり、嫌がらせだと思いました。そのころはまだ相部屋になって日が浅かったですし。わたしに顔を合わせるたびに、あいつ、ニヤッて笑うんです。黒い太陽じゃないですが、見た目腹黒いですし。しかも日増しにニヤニヤ笑いが増していくんです。あれは悪意があるとしか思えませんでした」
「へええ」
「それでですね、ある日、あいつが言ったんです。『いいものを見せてやるからついて来い』って。人気のないところに連れて行かれて、鉄パイプをとりだしやがったんです」
「まあ!」
 カレルの語りに、シシィは身を乗り出した。
「それで、まさか喧嘩でもなさったんですか?」
 カレルは何ともいえない顔をする。
「わたしもヴァーツラフが、その鉄パイプで殴りかかってくるものと思いました。ですが、いきなりパイプの先をこちらに向けたんです。あいつが銃器製造を勉強してることは知ってましたから、『これは銃に違いない』と思って、正直焦りました…………そしたら」
「そしたら?」
 促すシシィにカレルは一笑した。
「望遠鏡だったんです。それも手製で、胴に金属のパイプを使って。あの嫌な音は、レンズを磨いてた音だったんです」
「ええっ! 望遠鏡!」
 びっくりし、シシィ姫はお腹がよじれるほどに笑いこける……普通の女の子のように。
 笑いをこらえて、目に涙をにじませながら問いかけるシシィ。
「でも、どうして望遠鏡なんて?」
「あいつは、昔に文明が栄えた、地上に興味があるそうなんです。いつか、地上の辺獄を探検してみたいと言っていました。その望遠鏡を持って高い場所に上って、辺獄を見ようとしたんですが……やっぱり雲に遮られて、何も見えませんでした」

 この天空の浮島の世界は地上から厚い雲に隔てられている。……起源は忘却される。未来と同様、人は自分が何処から来たかを、知らない。この天空世界を満たすエーテルとは、古い過去の魂の残響であり、別の可能性を望んだ造物主たちの思念パルスであるという。

「共和国は救って頂いたことは感謝の言葉もない……何度でも礼を言いたいくらいです」
 すっかり従順になったカレルの神妙な態度にシシィ・キューレボルン姫は表情を和ませている。薄いワンピースドレスが若草の香りのそよ風に躍っている。
「ですが……これで我々の国と他の帝国構成国との関係は……」
 深刻なカレルと対称的に、水妖の娘はご機嫌である。
「うふふ。やっとこの国を『自分の国』と思ってくれるようになったわね。……いいの。浮世は転変がつきものですから。永久に現状を維持するなんて不可能だし、いつかは均衡が崩れるものだわ。だったら『どういうふうに崩すか』の方がよっぽど大切なの……それにあなたがいるから」
 シシィ姫は悪戯っぽく笑み、カレルの唇に素早くキスをした。



「本当に良かったのか、お前」
 ブレイク・ハートは覆面の男に問い掛けた。目と鼻だけを出して頭をすっぽり覆っている男に。大人ながらまだずいぶんと若いようである。
「他の奴らみたいに他の国へ逃げたって、良かったんだぜ」
 彼は先の会戦で拿捕され、捕虜になったアルス使い。元々好きで行政局に協力していたのではない。だから大半の人間は外国への逃亡を選んだ(それは新しい人生をつかむための戦いでもあるのだが)。しかし中には外人部隊に志願した者もいたのだ。
 名を捨てた男が首を左右する。
「家族がまだ、ルテティアにいます。自分だけ逃げるわけにはいかないです」
「そうか……モルソフ」
 モルソフ、それも偽名である。オイル・フレンチ方言で「死にぞこない」という意味らしい(母語はオック・フレンチ弁ゆえ、訛りや出身地をごまかすため)。彼らは公式には「行方不明」の「死人」であった。
 立ち去りかけたブレイク・ハートは振り返る。彼は思い出したように付け加えた。
「でもな、一つだけ忠告しとくぜ」
「忠告?」
「そんなこだわり、意味ねーぜ、たぶん」
「意味がない?」
 たじろぐモルソフに、ブレイクは淡々と、率直に指摘した。
「自己満足だって言ってるんだよ。わかんねーかなァ?」
「じこ、まんぞく?」
 モルソフの顔色が変わったことが、覆面の上からでも察せられた。
 ブレイクは耳を手で掻いて言葉を重ねる。
「気休めみたいなもんだっての。何の救いにもならないってことさ、モルソフ。……要はジレンマがあるときってのはさ。どーしたって決断の仕様がないから、どーにか折り合いつけようとか中途半端やって、かえって何もかも失敗する事だってあるんだからな」
 痛いところを突かれ、モルソフは憮然としている。外人部隊に志願したことは、ジレンマをごまかすためでもあり、楽観的な未来の観測にすがってのことでもあった。
 ブレイク・ハートは向こうに歩きかけながら、最後に低い声で告げた。
「もしオメーが、逃げた先に本当に希望があると思えるんだったら、迷わずに逃げろ。『無理にでも戦え』なんて、オレは言わねえ。他人に戦いを強制する権利なんて、本当は誰にもないんだ。オメーが一ヶ月で退役願い出したって、オレは別に笑わねえ。……逃げることの方が、よっぽど勇気がいることだってあるんだからよ」
 一人になったモルソフは、長い間ベンチで考え込んでいた。




 茜差すベネチャルム・プレート某所。
 そこには陸に囲まれた巨大な湖があった。
 浜辺に吹く風は潮っぽい。それはこの湖が、かつての海の断片だからだ。
「昔、まだ小さい頃に家族旅行で来たことがあるんですよ」
 セリムの言葉にアルジャノンは顔を上げた。
 総長閣下は南国風アロハシャツにズボンを膝までまくり、潮干狩りの真っ最中であった。これでも束の間の自由を満喫しているのである。ブランシュのことが解決してほっと一息吐いているせいもあった(保護司を休暇中のネルソンに依頼したのも彼だ)。
 セリムはいつものかちっとした服装でたたずんでいる。
「ほう」
「父さんが古い神話の話をしてくれて。三叉の矛を持った海の神様の。母なる海って言いますけど……海の神さまは心が冷たいって。どっちが本当なんでしょうね」
「えらくセンチメンタルだな」
「あんなもの目の前にしちゃ」
 セリムは紅葉の瞳を和ませる。
 その視線の先。浜辺には懐かしいシルエット。流れ着いた難破船のように、小学校の分校に改造されたアレキサンドリア号の美しい亡骸が横たわっていた。
 もう橙色の夕日が差してくる時刻だった。
 優しい黄昏の校舎には木目も淡い木精や水妖の子どもたちが何人か見受けられるのだ。
「それに思い出すんですよ。昔のことを……自分はこんなだったけど、あの子達はどうなるのかなって」
 アルジャノンは小さなバケツをぶら下げてすらりと立ち上がった。彼の影は巨人のように長く伸びている。
「なるようになるさ。その前に世界が滅びなけりゃあな」
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