きみと描く青い未来。

最終章 青の完成

 その日は、朝から少しだけ空気が違っていた。

 理由は分からない。

 でも、分からないまま胸の奥に残る違和感がある日というのは、大抵なにかが起きる前の日だ。

 病院に向かう電車の中、窓の外ばかり見ていた。

 流れていく景色がやけに速い。

 その速さだけが、時間の正体みたいに思えた。

 病室の前で足が止まる。

 ノックをする。

「どうぞ」

 結衣の声。

 昨日と同じ声のはずなのに、少しだけ薄い。

 中に入る。

 七瀬結衣はベッドの上にいた。

 窓の光が、白いシーツに落ちている。

 でも今日は、その光の中に“影”が混ざっていた。

「来るの、早い」

 結衣が少しだけ笑う。

「早くねえよ」

 俺はいつも通り返す。

 でも声が少しだけ乾いていた。

 机の上にスケッチブックを置く。

 あの絵。

 二人で描いてきた絵。

 結衣が目を向ける。

 少しだけ沈黙。

「……もう、完成しそうだね」

 その言葉が、やけに静かだった。

「あとちょっとだな」

 俺は答える。

 結衣はうなずく。

 でも、そのうなずきはどこか“終わりを知っている人間の動き”だった。

「悠人」

「ん」

「ちゃんと描けたね」

 その言葉に、少しだけ違和感があった。

「一緒に描いたんだろ」

「うん」

 結衣は小さく笑う。

 でもその笑顔は、どこか遠い。

「なあ」

 俺は言う。

「今日さ、顔色悪くねえ?」

 一瞬、結衣の目が揺れる。

「そんなことないよ」

 その否定は、優しすぎた。

 俺は分かってしまう。

 これは“隠している”んじゃない。

 “もう隠しきれなくなっている”方だ。

「結衣」

 呼ぶ。

「なに」

「ちゃんとさ」

 言葉を探す。

「終わるまで、ちゃんといろよ」

 一瞬の沈黙。

 結衣は少しだけ目を伏せる。

「うん」

 その“うん”は、約束じゃなかった。

 確認でもなかった。

 ただの返事だった。

 午後。

 医者が来て、何かを話していた。

 結衣はそれを静かに聞いていた。

 俺にはほとんど聞こえなかった。

 ただ一つだけ分かったのは、

 時間が、もうあまり残っていないということだった。

 夕方。

 医者が出て行ったあと、病室は急に静かになった。

 結衣がぽつりと言う。

「ねえ」

「なに」

「お願いがある」

 その声は、今までで一番小さかった。


「この絵」

 スケッチブックを見る。

「今日、完成させて」

 一瞬、理解が追いつかなかった。

「……今日?」

「うん」

 結衣は微笑む。

 でもその笑顔は、何かを決めた人の顔だった。

「なんでだよ」

 声が少し強くなる。

 結衣は少しだけ間を置く。

「今がいい気がするから」

 それ以上の理由はなかった。

 でも、それで十分だった。

 俺は鉛筆を握る。

 手が少しだけ震えていた。

 スケッチブックを開く。

 白いページ。

 でももう白くない。

 二人で積み重ねてきた線が、そこにある。

 結衣が横で見ている。

 呼吸が少しだけ浅い。

「ここ」

 結衣が言う。

「もう少し明るくして」

「ここは?」

「そのままでいい」

 まるで、いつも通りの時間だった。

 でも違う。

 明らかに、違っていた。

 鉛筆の音。

 ――サラ、サラ。

 その音が、やけに綺麗に聞こえる。

 少しずつ、絵が完成していく。

 空。

 光。

 そして、二人の時間。

 最後の線を引く。

 手を止める。

「……できた」

 結衣がそれを見る。

 長い沈黙。

 そして、小さく息を吐く。

「きれい」

 それだけだった。

 でも、それで全部だった。

 俺は結衣を見る。

「なあ」

「なに」

「これでいいのか?」

 結衣は少しだけ笑う。

「うん」

 その“うん”は、さっきより少しだけ軽かった。

 でも、その軽さが怖かった。

 夕方の光が、病室に差し込む。

 結衣の顔が、その光の中で少しずつ薄く見えていく。

「悠人」

「ん」

「ありがとう」

 その言葉が、やけに遠く感じた。

「俺は何もしてねえよ」

「してたよ」

 結衣はそう言って、少しだけ目を閉じる。

 その瞬間、全部が分かってしまう。

 この時間は、もう長く続かない。

 でも、終わることは悲しいだけじゃない。

 終わるために、ここまで来たんだと。

 結衣が最後に言う。

「この絵さ」

「ん」

「忘れないでね」

 俺は即答できなかった。

 喉の奥が詰まる。

「忘れるわけねえだろ」

 結衣は少しだけ笑う。

「そっか」

 その“そっか”は、最初に出会った時と同じ言葉だった。

 でも意味は、もう違っていた。

 その夜。

 病室を出ると、空がやけに広かった。

 手の中に、スケッチブックの重さが残っている。

 次の日。

 病室に行くと、結衣はいなかった。

 ベッドは整えられていた。

 まるで最初から何もなかったみたいに。

 ただ、机の上に一枚だけ紙があった。

 あの絵の、最後のコピー。

 そこには、

 青い空と、二人の時間が描かれていた。

 そして、その下に小さく書かれていた。

 ――「ちゃんと、描けてたよ」

 気づく。

 これは完成じゃない。

 これは、残されたものだ。

 俺はスケッチブックを抱えたまま、しばらく動けなかった。

 窓の外の空は、あの日と同じ青だった。

 でももう、あの青の隣に彼女はいない。

 それでも。

 この絵だけは、まだここにある。

『君と描く青い未来。』・完
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