土佐弁男子は気まぐれ猫さん
プロローグ
懐かしい夢をみた。昔飼ってた猫の夢。
​彼は家の特等席、南向きの窓辺で日向ぼっこをするのが何よりも好きだった。そっと抱き上げると、いつもふかふかの毛並みから、おひさまの香ばしくて優しい匂いがした。
​彼との出会いは、私がまだ小さかった頃。家族で高知県へ旅行した際、旅先で偶然出会った一匹の野良猫だった。
体中を泥だらけにしてミーミー鳴く彼を、私が「どうしても飼いたい!」と大泣きしながら引きずり回すようにして拾ってきたのだと、今でも両親はからかうように笑う。
付けた名前は、『坂本龍馬(りょうま)』。
そう、『日本の夜明けぜよ!』で有名なあの幕末の英雄である。
​土佐の地で拾ったから、というのももちろんあるかもしれない。けれど実はもうひとつ、ちょっとした秘密があった。
​『もしも、生まれてくる子が男の子だったら』
​そう言って、両親が用意していた名前がまさに『龍馬』だった。
女の子として生まれた私には使われなかったその名前は、巡り巡って、我が家の小さな大物である彼へと受け継がれた。
直前まで確かに温もりを感じていたはずなのに、朝起きたら隣にいない。
『猫は気まぐれで、放浪(ほうろう)癖があるから、きっとすぐに帰ってくるよ』
あの日、泣きじゃくる私をなだめるように、両親は何度もそう言いきかせた。幼かった私はその言葉を信じて、毎日、夕暮れになるまで玄関の扉を見つめていた。
けれど、彼がその扉をくぐって戻ってくることは、なかった。


我が家は家族で小さなカフェを経営しており、学校から帰るといつもお店の手伝いをするのが私の日常だった。
​彼がいなくなってから、カフェの窓辺はしばらく寂しい空間になってしまったけれど、今でも常連さんと『龍馬は本当に大物だったね』と思い出話に花が咲くことが、せめてもの救いだった。
「莉子ー、オレンジジュース三番テーブルに持っていってー」
厨房からお母さんの声が聞こえてくる。
出された冷たいオレンジジュースをお盆に乗せて、三番テーブルに置いた。
​彼の髪は、柔らかそうな茶髪だった。少し癖のある毛先が、陽の光に透けて黄金色に輝いている。その色合いといい、ふわふわとした質感といい、さっきまで夢の中で撫でていた、あのおひさまの匂いがする龍馬の毛並みにあまりにもそっくりだったのだ。
​懐かしさと愛おしさが一気にこみ上げてきて、私はジュースを置くのも忘れて、彼の頭をジーッと見つめてしまった。
​すると、視線に気づいた彼が、パッと顔を上げた。
吸い込まれそうなほど綺麗な瑠璃(るり)色の瞳がまっすぐに私を捉え、私は心臓が跳ね上がるのを感じながら、慌てて営業用の誤魔化しスマイルを作った。
「や、や〜、お客さん。良い飲みっぷりですね〜」
​​(いや、ここは居酒屋か!! )
頭の中で猛烈なセルフツッコミが吹き荒れ、一瞬で顔がカッと熱くなる。今すぐトレイで顔を隠して、回れ右で逃げ出したい衝動に駆られた、その時。
「アハハ!いやー、やっぱり可愛い従業員さんがいる店で飲むんはいつもより進んでしもうて、いかんぜよ!アハハ!」
からっとした笑顔で、彼は自分のふわふわした頭を掻いた。
その口から飛び出したのは、テレビの時代劇くらいでしか聞いたことがないような、独特な方言。
​呆気に取られる私をよそに、彼はニカッと人懐っこい笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「一人で飲んどるんも寂しいし……どうじゃ、店員さん。わしの相手ばしてくれんか。名前は何ちゅうが?好きなタイプは?」
(め、面倒くさいタイプの酔っ払いだ……!飲んでるのはオレンジジュースだけど!!)
​もしや、天然でこのテンションなのだろうか。
それとも、私の致命的な失言を、彼なりの優しさで笑い飛ばして調子を合わせてくれようとしているのだろうか。
​ナンパなのか、ただの絡みづらい人なのか、もはや判別がつかない。
「お客さん、面白いですね」
「おまんはまっこと可愛いぜよー!」
「あは…はは……」
​​満面の笑みで放たれたストレートすぎる言葉に、私は引きつった愛愛想笑いを返すことしかできない。
けれど、彼のその突き抜けたテンションと底抜けの人懐っこさは、まるで加減を知らない大型犬のようでもあるし――そして、どこか自由奔放だったあの猫のようでもあった。
​「ちょっと、莉子!お客さんと楽しそうに長話をしてるの!?」
​その時、厨房からお母さんの鋭い声が飛んできた。救いの神、いや、ちょっと違う!
​(楽しそうに見えるの!? 助けてお母さん、私は今、オレンジジュースで泥酔した新手の宇宙人に絡まれてるの!!)
​心の中で叫びつつも、私はこれ幸いとトレイを胸に抱え直した。
​「す、すみません!仕事に戻りますので、ごゆっくりどうぞ!」
​「おう、邪魔してすまんかったね。また声をかけさせてもらうき!」
​背後から聞こえる快活な声を打つ払いながら、私は逃げるように厨房へと引っ込む。
​トレイを置いて、壁に背中を預けて大きく深呼吸をする。冷たい水で手を洗い、赤く火照った両頬を両手で挟んで冷ました。
​「莉子、今の人、珍しいお客さんね」
​お母さんがクスクス笑いながら、新しい注文の伝票を留める。
「もう、笑いごとじゃないよ。私の変な失言のせいかもしれないけど、オレンジジュースであんなに陽気になれるなんて、本当に宇宙人かと思っちゃった」
​口ではそう文句を言いつつも、私の視線は自然と店内の三番テーブルへと向いていた。
​いつの間にか、彼はたまたま近くの席にいた常連の八百屋さんのおじさんとすっかり意気投合し、身振り手振りを交えて楽しそうに談笑していた。
「お前さん、近くに引っ越して来たのか?どれ、おじさんが出身を当てたろ。高知県だろ」
​八百屋さんのおじさんが得意げに鼻を鳴らすと、茶髪の彼は「おおおっ!」と大げさにのけぞって目を丸くした。
​「まっこと名探偵じゃねえ、おんしゃあ!まさか一言喋っただけで見抜かれるとは夢にも思わんかったぜよ!」
​「ガハハ!そりゃあそれだけコテコテの方言を使ってりゃ、誰だって分かるわい!」
​「へえ、高知からねぇ」とお母さんもお皿を拭く手を止め、興味深そうに三番テーブルを見つめている。
「あの子、何をしにこっちへ来たのかしら。春休みの旅行かしら?」
​「さぁ……。でも、本当に不思議な人」
​私がそう呟いた瞬間、八百屋のおじさんが「おい、莉子ちゃん!」とこちらに向かって大きく手を振った。
​おじさんがぶんぶんと大きく手を振っている。その隣では、茶髪の彼が「いやぁ、すまんねぇ」とでも言うように、申し訳なさそうに、だけどやっぱり嬉しそうに白い歯をのぞかせていた。
​「もう、おじさんったら……」
​私は小さくため息をつきながらも、お母さんと目を合わせて苦笑いし、再び三番テーブルへと歩み寄った。
​「なんですか?おじさん」
​「いやな、この高知の兄ちゃんがさ、こっちに友達も知り合いもおらんらしくて。この店の雰囲気がえらく気に入ったから、明日から毎日通うって息巻いとるんだわ!」
​「えっ!?」
​驚いて声を上げた私に、彼はふわふわの茶髪をくしゃっと揺らしながら、少し照れたように微笑んだ。
「年も莉子ちゃんと同い年だから、きっと転校生だな!良かったなー、お前さん。友達できたな〜」
バシバシと男の子の背中を叩くおじさん。
これまでどこか『風変わりなお客さん』として見ていたけれど、『同い年の転校生』と言われた瞬間に、彼との距離が急にぐっと縮まったような気がした。
「坂本莉子です。四月から、よろしくお願いします」
​戸惑いつつも頭を下げた私に、彼は目を丸くしたあと、これまでで一番大きな声をあげて笑った。
「アハハ!四月からぜよ!わしの名前は〜……坂本龍馬じゃ!」
「え……」
一瞬、耳を誤ったかと思った。あまりの衝撃に、言葉が喉に張り付いて出てこない。
​さかもと、りょうま。
漢字がどうであれ、その響きは間違いなく最愛の猫と同じ名前だった。
「お前さん、龍馬か!良い名前だなぁ!この店の看板猫も龍馬だったんだぞ。なぁ、莉子ちゃん」
​おじさんが何度も同意を求めるように私を振り返るけれど、今の私には小さく頷くのが精一杯だった。
​「……そりゃあ、まっこと凄い縁じゃねぇ」
​龍馬くんはそう呟くと、少しだけ声を和らげて、愛おしそうな目で店内の南向きの窓辺を見つめた。まるで、懐かしい物を見るように。
​「これからは、わしがおまんを訪ねて毎日ここに通うき。同い年やき、呼び捨てでえいぜよ!」
​そう言って、彼はひまわりが咲いたような眩しい笑顔を私に向けた。
方言なんてからっきしで、何言ってるのか詳しくは分からないけれど、『呼び捨てで良いよー』ってことなのかな、と頭の中で翻訳する。
​気まぐれに旅立ってしまった最愛の相棒が、新学期の始まりと共に、人間の姿を借りて戻ってきてくれたのではないか。
​「……うん。よろしくね、龍馬」
​私がようやくそう応えると、彼は嬉しそうに何度も首を縦に振った。
​彼の『毎日通う』という言葉は、決してその場のノリなんかじゃなかった。
次の日も、その次の日も、彼は春休みが終わるまで本当に毎日お店にやってきた。
今では、すっかり常連さんになっていた。
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