恋も料理もじっくり弱火で
放課後の調理室は、いつもより少しだけ賑やかだった。
エプロン姿の部員達がそれぞれの調理台に分かれ、野菜を洗ったり、鍋に火をかけたりと慌ただしく動き回っている。
「今日は家庭料理の定番、肉じゃがを作ります」
部長である秋月の声に、「はーい!」と元気な返事が重なった。
柚葉も新品のエプロンの紐をきゅっと結び直し、やる気満々でまな板の前に立つ。
(肉じゃがかぁ。ホクホクのじゃがいもに、味が染み染みの玉ねぎ……!)
大好きなメニューを自分で作れるようになれば、お母さんを驚かせられるかもしれない。けれど、何より一番の楽しみは――。
(早く作って、早く食べたい!)
そんな下心を胸に、丸々としたじゃがいもを手に取った。
「緒方さん、まずはピーラーで皮をむいてみようか」
「はい!」
先輩にコツを教えてもらいながら皮を剥き、次はいよいよ包丁を握る。
ぎこちない手つきでじゃがいもを切ろうと、ぐっと刃を押し当てた、その時だった。
「柚葉ちゃん」
「はい?」
低く聞き慣れた声に顔を上げると、いつの間にか秋月先輩がこちらへ歩み寄ってきていた。
「ちょっと手元を見せて。……うん、包丁の持ち方が少し危ないかも」
「えっ?」
「これだと力が入りすぎて、滑った時に指を切っちゃうから」
言われて初めて、自分の指先が危なっかしい位置にあることに気づく。「あ……」と声を漏らした柚葉の驚きを置き去りにして、秋月は「大丈夫」と穏やかに笑うと、自然な動作で柚葉の後ろへと回り込んだ。
「少しだけ失礼」
次の瞬間、背後からふわりと上質なバターのような優しい香りに包まれ、柚葉の右手がそっと温かい掌で包み込まれた。
「ひゃっ……!」
思わず変な声が出て肩を震わせる柚葉に、秋月は気づいていないのか、そのまま優しく包丁の手元を握り直させていく。
「そんなに力を入れなくていいよ。左手は、こう。猫の手」
今度は左手にもそっと長い指先が触れ、軽く内側へ折り曲げられた。
すぐ耳元で響く低く落ち着いた声に、お昼休みに友達が言っていた『高嶺の王子様』という言葉が不意に脳裏を過る。
けれど、秋月は至って真剣な目でまな板を見つめていた。
「そう。このまま、包丁を前に滑らせるように切るんだ」
すっ、と吸い込まれるように包丁がじゃがいもへ入っていく。
「わぁ……!」
さっきまでの力任せな苦戦が嘘みたいに、綺麗な半月切りが出来上がった。
「切れました! すごいです!」
「うん、その調子。基本が一番大事だからね」
「はい! もっと練習します!」
パッと顔を輝かせる柚葉を見て、秋月はふっと堪えきれないように笑みを零した。
「……本当に楽しそうだね、柚葉ちゃんは」
「はい! だって、上手に作れた方が、絶対に何倍も美味しく食べられますから!」
一ミリの邪念もない柚葉らしい答えに、先輩はついに声を上げて吹き出した。
「ははっ、やっぱりそこなんだ。ブレないね」
「もちろんです!」
ふんす、と胸を張る柚葉に、周りの先輩達からもドッと笑い声が上がる。
「緒方ちゃん、本当に食べるのが大好きなんだね」
「早く完成しないかなぁ。お腹空いてきちゃいました」
コトコトと音を立て始めた鍋をわくわくした目で見つめる柚葉を中心に、調理室はまた一つ温かな笑い声に包まれていく。
一方、そんな彼女の後ろ姿を見つめる秋月の口元には、自分でも気づかないほど優しい愛おしそうな笑みが浮かんでいた。
まだ、その胸の奥にある気持ちに名前はない。
けれど、柚葉が「おいしい」と満面の笑みを咲かせる姿を想像するだけで、もう少しだけ、自分も美味しい料理を作りたいと思えてしまうのだった。