恋も料理もじっくり弱火で
 それから、調理室には、アジを揚げる香ばしい匂いが広がり始める。
 今日のメニューはアジフライ。
 先ほどの大騒動で下処理を終えたアジがずらりと並び、各班が衣付けに取りかかっている。

「まずは小麦粉、卵、パン粉の順番で」

 秋月の声に、一年生達が「はい!」と元気な返事をする。
 つい数分前に大誤解が解けてすっかり上機嫌な柚葉も、新品のエプロン姿でアジを手に取り、見よう見まねで衣を付け始めた。

「えっと……こうかな?」

 卵液を潜らせ、そのままパン粉の入ったバットへ。
 両手でぎゅっ、ぎゅっと力強く押さえつける。

「……柚葉ちゃん」
「はい?」

 いつの間にか隣へ来ていた秋月が、その手元を見つめていた。先ほどの博多弁の恥ずかしさがまだ少し残っているのか、耳たぶがほんのり赤い。

「押しすぎ」
「え?」

 柚葉はきょとんとする。

「しっかりぎゅうぎゅうに付けた方が、ザクザクして美味しいと思ってました」
「もちろん付けるのは大事だけどね」

 秋月はそう言いながら、柚葉の手からアジをそっと受け取る。

「でも、押し固めるんじゃなくて……」

 ふわり、とパン粉を上から優しく被せるようにして、軽く掌で包むように整える。

「こうやって、空気の隙間を残す感じ」
「空気……ですか?」
「そう。そうすると、揚げた時に衣が油の中で綺麗に立ってくれるんだ」

 柚葉は丸い目をさらに丸くして、秋月の慣れた手つきに見入った。
 それから頭の中で言葉の意味を理解し、勢いよく秋月の顔を見上げる。

「衣って立つんですか!?」
「うん」
「知らなかった……!」
「パン粉一つでも、手の力加減で仕上がりは結構変わるよ」

 そう言って微笑む横顔は、料理の話をしている時だけ少し幼く、そして本当に楽しそうに見える。

(やっぱり先輩、料理が大好きなんだなぁ)

 柚葉はなんだか嬉しくなって、教わった通りにもう一度パン粉をふわりと纏わせた。

「こんな感じですか?」
「うん、そう。上手」
「やった!」

 褒められた柚葉は、子供のようにくしゃっと笑った。
 その笑顔を見た秋月も、引っ張られるように口元を緩める。

「……部長」

 二年生の男子部員が、ニヤニヤしながらひそひそと隣へ寄ってきた。

「また緒方ちゃんだけ手取り足取りの個人レッスンですか」
「……一年生だから指導してるだけだろ」
「いや、あっちのテーブルにも一年生いますけど」
「……」

 秋月は何も答えず、ツンとすました顔で次の班へ向かおうとする。

「あ、図星だ」
「……聞こえてる」

 ぼそりと返した一言に、調理室はまた一つ温かな笑いに包まれた。
 衣付けが終わると、次はいよいよ揚げる工程だ。
 大きな鍋の中では油が静かに熱せられ、ゆらゆらと表面が陽炎のように揺れている。

「先輩!」

 柚葉が長い菜箸をぎゅっと握り締めたまま顔を上げる。

「もうアジを入れていいですか?」
「まだ。焦らないで」

 秋月は一本の菜箸の先を油の中へ入れた。
 先端から、小さな泡がふわり、ふわりと浮かんでくる。

「このくらいになったらサイン」
「泡ですか?」
「温度が低いままだと衣が油を吸ってベタベタになるし、高すぎると中まで火が通る前に焦げる。だから、この泡の出方を覚えて」

 柚葉は真剣な表情で鍋を覗き込む。

「……本当だ。さっきより泡がシュワシュワって増えてる」
「うん。適温だね」

 秋月は満足そうに頷くと、ソワソワと落ち着きのない柚葉に穏やかな笑みを向けた。

「じゃあ、入れてみようか」
「はい!」

 恐る恐るアジを持ち上げる。
 けれど、パチパチと音を立てる熱い油を前にした途端、柚葉の手がぴたりと止まった。

「……怖い?」

 頭上から、包み込むような優しい声が降ってくる。

「ちょっとだけ……油が跳ねそうで……」

 柚葉が情けない顔で苦笑すると、秋月はごく自然な動作でその後ろへ回った。
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