恋も料理もじっくり弱火で
「一緒にやろう。左手は後ろに引いて」
包丁の時と同じだ。
背後からふわりと包まれるような距離感に、柚葉の心臓がドクンと小さく跳ねる。けれど秋月の大きな手が、そっと柚葉の菜箸を持つ手に重なると、不思議と恐怖心は消えていった。
「勢いよく上から落とさない。それだと逆に油が跳ねるから」
「はい……」
「油の表面の近くまで持っていって、静かに滑らせるように離す」
二人の手がゆっくりとシンクロして動く。
アジの端が油へ入ると――
――ジュワァァッ!
最高に心地よい、これ以上ないほど美味しそうな音が調理室いっぱいに響き渡った。
「わぁ……!」
柚葉の瞳がキラキラと輝く。
「すごいです! すっごくいい音!」
「俺、この音が一番好きなんだ」
秋月は鍋の中を見つめたまま、少年のように小さく笑った。
「本当に『料理してる』って感じがするから」
その横顔は、呆れるほど真っ直ぐで、本当に幸せそうだった。
やがて、見事なきつね色に揚がったアジフライが、キャベツの千切りの横へ美しく盛り付けられる。
「柚葉ちゃん」
「はい!」
「味見、してみて」
もう、それはこの調理部では当たり前の決まり事になりつつあった。
「いただきます!」
箸で小さく割って口に運ぶと――サクッ、と衣の軽やかな音が周囲に響く。
その瞬間、柚葉の顔が劇的に変わった。
「……美味しいっっ!」
あまりの感動に、思わず両手で頬を強く添えた。
「衣が本当にサクサクです! 全然油っぽくなくて軽いのに、中は信じられないくらいフワフワで……! アジって、こんなに美味しくなるお魚だったんですね!」
夢中で、全力の感想を口にする柚葉を見つめながら、秋月は肩の力を抜いてどこかホッとしたように微笑む。
「お前の『美味しい』が、一番嬉しか」
その一言はとても小さかった。
けれど、その声に込められた安堵と深い想いは、誰よりも近くで二人を見ていた部員達にはしっかりと伝わっていた。
「……ねぇ」
女子部員の一人が、洗い物をしながら小声で呟く。
「部長ってさ……」
「うん」
「緒方ちゃんが一口食べて『美味しい』って言うまで、絶対に自分の料理を食べようとしないよね」
その言葉に、周りの部員たちも思わず納得したように視線を秋月へ向ける。
しかし、本人はそんな周囲の目線にはまるで気付いていない。
ただ、自分の作った料理を世界一幸せそうに頬張る柚葉の姿を、まるで宝物を見つめるかのように、静かに優しく見守っているだけだった。