朝日有希の本当の名前を、僕はまだ知らない
「有希。家に帰るのか?」
「うん。ここから近いの。だからここでお別れね。また明日って、もう今日だね」
有希は手を振って、そのまま後ろを振り返り歩き出した。
僕は、松葉杖をほおり投げた。
「有希!」
歩く。けれど、まともに歩けない。
足を引きずるようにして、小さな有希の身体を後ろから思い切り抱きしめた。
「有希、有希……」
大切なものは君が教えてくれた。
君のそばにいたい。
僕の命があと少ししか残っていないなら、託したい。
君にーー
なのに有希は振り返って乾いた声で言った。
氷のように冷たくて、雪のように音もなく。
「湊月、ごめん。私は君の恋人になれない」
「どうして」
あのロープウェイの山の上で、この世界の端から端まで見えるくらいに美しいキスだってした。
ミトコンドリアだって生き返った。
「私に受け取る価値がないからよ」
「そんなことない。僕は」
「お願いを聞いて欲しい。今は、友達でいて」
そんなことを言われたら返す言葉が見つからない。
「諦めないから」
「まだ愛を知らなくていい、湊月は。明日からもわがまま放題こき使って、早く諦めてもらうわ」
有希は静かに落ちた松葉杖を拾ってくれて、ほら、と僕に渡してきた。
「ああまた後で」
遥か遠く、空が薄明るくなり始めた。
やばい。巡回にも言い訳が聞かなくなる前に病室に戻らないと。
僕は割り切れない気持ちを抱えたまま、非常口のドアを開けて病室へ向かった。