同期のエリート警察官に、偽装彼女を頼まれました
5.自覚してしまった恋心
夏樹は出入り口のドアが開く音に顔を向けた。
ぞろぞろと戻ってきた警察官の中に日向の姿はなかった。
「……」
フロアに視線を這わせた。
日向の姿はやはり、ない。
日向が『地域課』へ異動になって数日が経った。
四交替制になり、当番の日はパトカーで過ごし、昼時でも署に戻らない日が増えていた。
当然、夏樹のデスクまでやってくることもなくなった。
「日向さんを探してるんですか?」
夏樹の視線を追って琴音が聞いてきた。
「え? そういうわけじゃ……」
「心配ですよね。うちの地域課って一番、荒ぶってますもんね」
「……」
夏樹は無意識に爪を噛んだ。
気性の激しいベテラン警察官が何人もいて、研修にくる若手キャリアに厳しいのだ。
「それに日向さんが異動になった直後、『キャリアさんに現場の苦労を知らせてやろうか』とかなんとか意地悪く笑ってましたもん」
「そうなんだ……」
他の課でもキャリアは煙たがられる。
日向に、それを特に気にしている様子はなかったが今回は少しキツイのではないだろうか――と心配になった。
数日後、深夜のパトロールを終えて、引き継ぎのために署に戻ってきた日向と顔を合わせた。
――「日向君」
早めに出勤した夏樹は、ひとりになった日向を壁際から呼んだ。
「あ。結城さん、おはよう。今日は早いね」
日向は疲れと安心感が混ざったような顔をした。
「うん、おはよう……大丈夫?」
「俺、ひどい顔してる?」
「そういうわけじゃないけど。激務みたいだし」
精神的にも――とは言わなかったが、それも含めてのことだと日向にも伝わっているようだった。
「“みんな”通る道だから」
日向の静かな声は大人びていた。
「それより、何か用だった?」
「あ」
そう聞かれて、夏樹は改めて自分の行動を顧みた。
「用事は――そうだね、特になかったね」
ははは、となんとなく頭に手を当てて笑ってみた。
日向が唇の端を少し上げた。そして何も言わず優しげに笑った。
「!」
夏樹は急に、恥ずかしくなった。
「眠いでしょっ、早く帰って、寝た方がいい」
「え。――あ」
言うだけ言って、夏樹は身を返した。そのまま警察官たちの間をくぐってデスクへ戻った。
日向の顔は見れなかった。
……私、なにやってんだろう。
意味もなく日向に話しかけに行ったことも、会話の途中で勝手に切り上げたことも、すべてが理解できなかった。
「先輩、顔が赤いですけど、風邪じゃないですよね?」
ちょうど出勤してきた琴音が夏樹の顔を覗き込んできた。
「えっ」
夏樹が慌てて顔を触っていると、
「先輩に休まれると仕事大変なんで、お願いですから悪化しないでくださいね」
真顔で指を向けられた。
「それ、心配の仕方おかしくない?」
「えへへ」
「まったく……」
琴音が自分のパソコンを立ち上げて仕事に入った。
静かになった途端、ずっと鳴りやまない心臓の音に意識が戻った。
……待って。私、おかしい。
頭の中には、日向が向けてきた視線が残ったままだった。
「……」
夏樹は両手の指の腹でひたいを押さえた。
流すような余裕のある目元が、あんなに優しくなるなんて……あれは、とても危険ではないか?
ただの同期である自分ですら、こんなに心臓が騒ぐのだ。日向に好意を持つ別の誰かがあれを受けていたら、恋に落ちてしまうだろう。
……いや。
あの視線だけじゃない。
夏樹は険しい顔を作った。
日向の普段の表情、仕草、言動――、勝手にどんどん溢れてくる。
近寄りがたい雰囲気を纏っているのに話しだすと柔らかくなるところ。
冷たそうに見えて、誰の言葉でも丁寧に聞くところ。
育ちの良さを感じさせる綺麗な立ち居振る舞いも、笑ったら幼くなる瞬間があるところも問題だ。
……そうだ、
なんで日向君はあんなにいつも良い匂いがするんだろう。
――バンッ、
夏樹は勢いよく机に手を置いて立ち上がった。
琴音が、どうしました? という顔を向けてくる。
「ちょっと、“上”に行ってくるね」
溜めておいた書類を手に取った。
「なるほど。気合必要ですもんねっ」
夏樹が左遷されて会計課へ戻ったことを知っている琴音が、両手の拳を振って見送ってくれる。
「いってらっしゃい!」
夏樹も、鼻先で息を吐いて片手の拳を振った。
セキュリティゾーンとなるフロアはICカードがないと入れない。その都度、ドアの前のインターフォンで呼び出して開けてもらうのだ。
数か月前まで“そちら側”にいた夏樹にとって、そのやり取りをする間、心が少し騒ぐ。
思考が乱れている今、殺伐としたやりとりはちょうどいい仕事だった。
「――はい」
面倒そうな雑音混じりの声がスピーカーから聞こえる。
夏樹は「会計課です。書類をお持ちしました」と告げた。
カチャリと無機質な解錠音が響いた。
以前は確かに自分の席があった部屋だ。目の端で元上司の背中を逃がし、淡々と書類の束を差し出した。
「捜査費の精算書です。公印の押し忘れと計算ミスが三箇所あったので修正しておきました。サインだけお願いします」
受領印を押してもらって、一階へ戻った。
階段を下りながら、夏樹はふう、と息を吐いた。
頭の中からようやく日向を追い出せた気がした。
「おかえりなさい」
「ただいま」
夏樹は気合を入れて、パソコンの前に座り直した。
「――よしっ、仕事だ」
余計なことを考えている場合じゃないと、画面に向かってキーボードを叩いた。
*
二日後――
どこかから初々しい挨拶が聞こえてきた。
夏樹は仕事の手を休めずに、その声に半分だけ意識を傾けた。
衝立の向こうから大勢の足音がフロアへ向かってきていた。
「今日から実習生が来るみたいですね」
琴音は椅子に座ったまま、上半身をひねって背後を振り返る。
「あ、あの小柄な女の子、地域課みたいですよ。過酷な上に口の悪い人ばかりなところに……可哀想に」
……小柄な女の子?
地域課?