同期のエリート警察官に、偽装彼女を頼まれました
二つの単語が引っかかり、夏樹は指を止めた。
吸い寄せられるように、視線が背後に向かってしまう。
フロアを行き来して挨拶回りを始めた実習生の中に、ひとりだけ女子がいた。肩の上で切り揃えられた黒髪が、頭を下げるたびにサラサラと揺れている。
「よろしくお願いします! 星川純です!」
会計課にもやってきて、元気よく頭を下げた。
意志の強そうな目元は警察官らしいが、それとは裏腹にどこか守ってあげたくなるような、小動物っぽい雰囲気を纏っていた。誰かの話を聞くときに口をきゅっと窄め、顔を小さく振るのが癖のようだった。
「――あの子、可愛がられそうですね」
実習生たちが去ると琴音が耳打ちしてきた。
同じくらいの年だからか、いびられないかと心配になったようだ。
だがそんな心配を余所に、純は先輩警察官たちに臆せず話しかけていた。
「一応、法律や逮捕術は学んできてますから! 私、即戦力になれます!」
純が両手をぶんぶんと振ると、ベテラン警察官たちが豪快な笑い声を上げた。
「なあにを言ってんだあ、このお嬢ちゃんは」
「危険な現場に突入させたら俺らの首が飛ぶっての」
「おまえは現場の空気感を学ぶだけ」
「そんなのつまらないじゃないですか!」
「つまる、つまらないの話じゃないんだよ」
和気あいあいだった。
その近くでは、日向が黙々と書類に向かっている。
「あの子、あざといですね。“オジサン”たちの目尻が下がりっぱなしですよ」
琴音が純に対しての評価を少し下げた。
夏樹はちら、と純を眺めてから言った。
「……まあ、そのくらいのメンタルの方が警察官向きかもね」
男社会の中でうまく立ち回れるなら、その方が生きやすい。
――そう思いつつも、夏樹の心はどことなく沈んでいた。
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「――日向先輩! おつかれさまです!」
純のハキハキとした明るい声がフロアに響いた。
夏樹は思わず出入り口に顔を向けた。
パトカーの清掃を終えた日向が戻ってきたところだった。
先輩警察官たちはだいぶ前にフロアに戻っていた。
「あ、うん。おつかれさま」
その労いに答える日向の声が優しく聞こえる。
「さっき先輩たちが話してくれたんですけど、職質で空き巣犯を捕まえたって。すごいですよね」
純の驚きには純粋さが滲み出ている。
「そうだね。みなさん『職質のプロ』だから」
「日向先輩だってそうじゃないんですか?」
「俺はまだ研修中だし、経験も知識もないから」
「それって謙遜では?」
「いや……」
日向は困っているように見えた。
夏樹はハラハラした。
そんな会話を地域課の叩き上げベテラン警察官たちに聞かれたら、必ず日向に火の粉が飛んでしまうのに。
『階級だけバカ高いお坊ちゃんだもんな』
『おいキャリア様、現場知らんくせに出来るふりかあ』
そんな言葉を日向が投げつけられるたびに、夏樹の胸は痛んだ。
「あの、日向君、ちょっといいかな」
たまらずに割って入った。
純が夏樹に向かってぺこっとお辞儀をした。天真爛漫な笑顔が無防備に向かってくる。
……うわあ、可愛い、負けてる。
「……」
ん?
夏樹は自分の心が吐き出した嘆きに、気を取られた。
……なに、負けてるって。
「結城さん?」
日向に覗き込まれた。
「――あ、えっと、忙しそうだね」
慌てて取り繕った。
「そうだね。でも遣り甲斐はあるよ」
「そっか、じゃあ、よかった」
「ただ最近、昼夜逆転しちゃって……」
日向は困った顔で笑った。
「……」
「……」
会話が続かない。
日向は夏樹の次の言葉を待っている。
……ああ、どうしよう。
なんで用事あるふりしちゃったんだろう。
「日向、報告書はできたのか?」
「あ、今――」
背後からの声に日向の足が動く。「結城さん、ごめんね。よかったらメールで」
「!」
夏樹は目を瞬かせた。
……あ、メールか。
メール、してもいいんだ。
「うん。わかったわ。メールする」
自分のデスクへ戻るわずかな動線で、頬が緩むのを感じた。指の腹でそっと押さえた。
結局日向は、夏樹が退勤するまで戻ってこなかった。
帰宅ラッシュや下校時間に合わせた巡回に出ているのだ。
……会えなかったんだから、メールしてもいいのよね。
「……ん?」
何度も自分に理由を与えていることに、夏樹は不自然さを感じた。けれどその正体にはまだ行き着かなかった。