同期のエリート警察官に、偽装彼女を頼まれました
7.終わった恋、始まらない恋
「先輩、今日午後から雷雨の予報ですって」
「ひどくならないといいね」
そんなことを出勤直後に琴音と話していた。
昼の休憩が終わったあたりから、予報通りに雨が降り出した。
だんだん激しくなる雨音がガラス窓を叩いている。
「……」
巡回へ出た日向のことを考えてしまう。
……この雨の中で苦労してないといいけど。
夕方になり雨の音も小さくなった頃、上司から車庫脇の事務室へ書類を届けるよう頼まれた。
「先輩先輩、近いからって傘なしで行かないように!」
「はは……、わかってるって」
小声で念を押してくる琴音に、小さく笑った。
――鋭いな、相変わらず。
だが、職員用出入口から外に出ようとしたら予想以上に降っていて、軒下を移動すれば濡れないのでは、という夏樹の狙いは外れた。
仕方なく置き傘を手に取った。
歩き出すと、屋根付きの駐輪場で数人の警察官が立ち往生していた。
自転車を置いていくべきか、傘をして自転車を引いて帰るべきか、相談しているようだ。
……今日は研修があったのか。
深く考えず、夏樹は傘をさして歩き出した。
腕の中の書類が濡れないよう、夏樹は傘を傾けた。
駐輪場の方から誰かが駆けてきた。
「なっちゃんっ……」
顔を上げる間もなく、名前を呼ばれた。
「……」
自分をそんな風に呼ぶ男は、この世でひとりしかいなかった。
傘を少し上げた。
やはり光琉だった。
光琉を見た途端、あの頃感じた別れの苦しさ、惨めさ、恋人を失う怖さ――あらゆる不快な感情が押し寄せてきた。
未練とは違う。
ただ、あの頃の痛みが残っているだけだ。
夏樹は静かに顔を上げ、光琉を見た。
光琉は不格好な笑みを浮かべていた。――いや、笑顔を浮かべようとしていた。
「……」
「……」
「す、すごい雨になっちゃったよね、どうやって帰ろうかってみんな……」
沈黙に耐えらないのは光琉の方だった。
光琉が駐輪場に視線を向けた。
若い警察官がちらちらと夏樹たちを見ている。
「――あ、俺、管内の交番に異動になって……、欠員出たらしくて、急に飛ばされて……」
「……」
そして、聞いてもいないのに言い訳を始めた。
まるで、ここにいるのは自分の意思じゃないから勘違いするな、と念を押しているように聞こえた。
夏樹は誰にでも向ける、儀礼的な笑顔で聞いた。
「そう。いつ異動になったの?」
「……うん、一週間前かな」
「じゃあまだ慣れないね。頑張ってね」
夏樹は足先を進行方向へ変えた。
「なっちゃんっ――その、……元気?」
「……」
夏樹はゆっくり振り返った。
「元気だよ」
その瞬間、光琉が傷ついたような拗ねたような顔をした。
……は、
夏樹は不快感に襲われた。
……なに?
私に、まだ苦しんでいてほしかったって?
二年半つきあった。
その言動や表情から、彼がどう感じているかなんて嫌でも伝わってくる。
――だけど、ここで感情的になったら負けだ。
夏樹はふっ、と笑った。
どんな感情でも光琉には渡したくなかった。
「ちゃんと失恋させてもらったから、引きずってないよ」
そう。
これだけはありがたかった。
光琉は苦し気に伝えてきた。
「なっちゃん……俺、本当になっちゃんが、大好きだった」
「うん。ありがとう」
きっとそれは本当なんだろう。
だが今さら聞くようなことでもない。
「だけどもっと甘えてほしかった。もっと、俺がいないと生きていけないってぐらい俺を繋ぎ止めておいてほしかった」
「……」
……なに?
私は今、責められているの?
今は恋人でもない男に……。
夏樹は口の端だけで笑ったまま、光琉を眺めた。
「そんな小さな不満が積み重なったときに現れた子が……」
なるほど?
夏樹は仕方なく光琉と“新しい女”の関係を想像した。
なんの感情も湧かなかった。――そして、そのことにほっとした。
「でも……っ」
光琉はまだ何か言いたそうにしていた。
夏樹は光琉と距離を保ったままで告げた。
「それ以上言わなくても大丈夫」
「え……」
夏樹は涼しい笑顔を向けた。
「この先は、それぞれ幸せになりましょう」
握手は求めない。
心も傾けない。
「……あ……なっ――」
引き止めようとする光琉をその場に残し、夏樹はそのまま足を前へと出した。
雨は降っていたが、足取りは軽かった。
気持ちがすっきりしていた。
――あの日突然、一方的に振られた。
追うことはできなかったが、心は置き去りにされた。
でも今日、夏樹は自分の口から、“別れ”を伝えることが出来た。
この恋を完全に終わらせることができたのだ。
顔を上げると、戻ってきたパトカーから日向が降りてきたところだった。
目が合った――と思ったが、日向はそのまま署内へ入っていった。
「!」
……光琉と話しているところを見られた?
胸の前に抱えた書類に力が入った。
――誤解されたくない。
反射的に強く思った。