同期のエリート警察官に、偽装彼女を頼まれました
「私は確かに原田係長に封筒を渡しました。もう一度確認してください」
係長の威圧に押し切られまいと、夏樹は背筋を伸ばした。
係長は部下の口答えに苛立ったのか、夏樹を睨みながら、さらに語気を荒げた。
「本人が渡されていないと言ってるのに、確認しろだと」
「そんなはずありません。名乗っていただいた名前とIDは合っていました」
夏樹は引かずに言い切った。
上司は顎をしゃくった。
「そこまで言うなら来い」
「はいっ」
フロア内にただならぬ空気が流れる中、琴音が小さな歩幅で近づいてきた。
「……先輩」
囁く声が細い。
琴音を安心させるために、夏樹は“大丈夫だから”と目だけで言った。
係長は歩幅を緩めることなく大股で歩いている。夏樹は距離を開けず付いていった。
――保管室へ行くと、“原田係長”が待っていた。
夏樹は息を呑んだ。
……私が封筒を渡したのは、この人じゃない……。
咄嗟にIDを確認した。名前は間違いなく『原田』だ。
……どういうこと?
「さきほども言いましたけど、私は受け取ってないですよ。今日はずっと地下倉庫へ行ってましたし」
原田係長は困惑していた。
「もうひとり職員はいますが、彼も外回りでしたし」
といって、奥の方へ向かって手招きした。呼ばれて目の前にやってきた職員も、夏樹が封筒を渡した人物ではなかった。
夏樹の呼吸が浅くなった。
「……他に、職員の方はいらっしゃらないのですか、臨時の方とかも?」
「ここに所属しているのは私と彼のふたりだけですよ。会計課長が巡回にくることはありますが、臨時を置くような部署じゃないですし」
しかし確かに、夏樹が会った『原田係長』は作業着を着てIDカードを下げていた。
「お時間取らせましてすみませんでした――行くぞ、結城」
係長が踵を返し歩き出した。
「でもっ、原田係長のふりをした人が何者かきちんと調べないと……」
夏樹は絡まりそうな足を必死に動かし、係長を追った。
自分がおかしなことを言っているのだろうか。
なぜここで終わりにしてしまうのか――。
「小泉係長! 待ってください。これは大問題です」
職員でないとすれば、職員を騙った第三者が関与していることになる。れっきとした犯罪だ。
――引き返してもっと事情を詳しく聞かなければ大変なことになる。
係長はさらに足を早める。
夏樹でさえついていくのがやっとの歩幅だった。
「職員データと照合させてくださいっ。目元の特徴は覚えていますからっ」
「結城、言い訳はいい」
「言い訳じゃ……っ」
「そうだ。おまえの言う通り“これは大問題”だ」
「!」
「書類には個人情報が含まれている。それを外部の人間に渡したのは誰だ――おまえだろう」
「……」
事実が、夏樹を黙らせた。
「明日から来なくていい。事がはっきりするまで自宅待機していろ」
「……」
言いたいことはたくさんあった。
だが小泉係長の性格は知っている。
処理能力は高いが、真相を解明するより収束させることを優先する。自分に火の粉がかかるなら、迷いなく夏樹を切り捨てるだろう。
「それから」
係長は夏樹に鋭い視線を投げた。
「この件は無暗に口外するなよ」
「……!」
「捜査のためだ。邪魔をするなという意味だ」
「……わかりました」
……“捜査のため”。
その言葉が唯一の救いだった。
夏樹はもどかしさを抱えたまま、引いた。
この日、夏樹はどうやってアパートまで帰り着いたか記憶がなかった。
ただ、自分がなにを見落としたのか――何度も考え続けていた。
間違いなくIDの名は『原田』だった。
だが原田係長は別の人だった。
誰が、何の目的で、原田係長を装ったのか。
いや、それよりも……。
……結果して、警察の書類が第三者に渡ってしまった。
夏樹は膝を抱えた。
――“またやったのか”
上司の言葉が、乗り越えたはずの古傷を抉った。
周囲の冷たい視線。
あの頃味わった失望感が簡単に戻ってきた。
……私はまた、信じてもらえないの?
―――ピンポーン、
三度目の呼び出し音に、夏樹はよろりと立ち上がった。
月明りの中で部屋の電気を点け、インターフォンに向かった。