七日後、この町から私が消える
第五章 最初の奏太
「僕が、最初の桐谷奏太だから」
扉の向こうから聞こえた声は、奏太のものではなかった。
幼い。
おそらく十歳にも満たない少年の声。
教室の時計が、午前九時十三分を指している。
文化祭の準備を続けるクラスメイトたちは、誰一人としてこちらを見ていなかった。
奏太は扉の前から動けなかった。
昨日まで存在しなかった白い扉。
プレートには、
『桐谷奏太 1』
その文字。
「……誰だ?」
返事はない。
「お前、誰なんだ?」
数秒後。
「言ったでしょう?」
少年の声。
「桐谷奏太」
「ふざけるな」
「ふざけてないよ」
「だったら出てこい」
「出られない」
「なんで?」
「君がそこにいるから」
奏太は眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「一つの場所には、一人しかいられない」
「何の話だよ」
「君も、もうすぐ分かる」
奏太はドアノブへ手を伸ばした。
「開けるぞ」
「いいよ」
奏太の指が止まる。
あまりにも簡単に返されたからだ。
「……いいのか?」
「うん」
少年は笑ったようだった。
「でも開けたら」
一拍。
「どっちかがいなくなるよ」
奏太は手を離した。
背後から笑い声。
振り返る。
もう一人の奏太が莉子たちと文化祭の飾りを作っている。
普通に笑っている。
普通に会話している。
まるで最初からそこにいたように。
「桐谷!」
担任が声を上げた。
奏太が反応する。
「はい」
しかし教師が見ていたのは、
もう一人だった。
「これ職員室まで持ってってくれ」
「分かりました」
少年が立ち上がる。
奏太の横を通る。
その瞬間。
小さな声。
「開ければいいじゃん」
奏太は少年を見る。
少年は立ち止まらない。
「怖いの?」
「……」
「自分が本物なら」
少年は笑う。
「何も怖くないでしょう?」
そして教室を出ていった。
奏太は拳を握った。
◇
「莉子」
昼休み。
奏太は莉子を廊下へ呼び出した。
「ちょっと話したい」
「……私?」
「お願いだから」
莉子は明らかに警戒している。
「昨日、俺たち一緒に資料室へ行った」
「知りません」
「高瀬直人って覚えてる?」
「高瀬……?」
一瞬。
莉子の表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
「誰ですか?」
「今、反応したよな」
「してません」
「絶対した」
「やめてください」
「莉子!」
彼女が後ずさる。
「私の名前、呼ばないでもらえますか」
奏太の胸が痛んだ。
幼稚園の頃から知っている。
小学校も。
中学校も。
高校も。
喧嘩したこともある。
一緒に笑ったこともある。
全部覚えている。
しかし莉子の中には、
もう自分がいない。
「……これ」
奏太はスマートフォンを取り出した。
写真。
昨日、資料室で撮ったもの。
奏太。
莉子。
そして――
高瀬直人。
三人が写っている。
「見て」
「……」
「これ莉子だろ?」
「はい」
「隣は俺」
「違います」
「じゃあ誰?」
莉子は画面を見る。
眉をひそめる。
「分かりません」
「その隣」
「……」
「高瀬直人」
莉子の表情が変わった。
「知らない」
「本当に?」
「知らない!」
声が大きくなる。
廊下の生徒たちが振り返る。
莉子は額を押さえた。
「……頭痛い」
「莉子?」
「その名前」
「高瀬?」
「言わないで」
「なんで?」
「分かんない」
莉子は壁にもたれる。
「でも……」
「何?」
「何か忘れてる」
奏太は息を呑む。
「思い出せそう?」
「分からない」
「直人は俺たちの親友だった」
「……」
「昨日までいた」
「昨日?」
「三人で資料室へ行った」
「違う」
「何が?」
「資料室へ行ったのは……」
莉子は言葉を止める。
「どうした?」
「私と……」
思い出そうとしている。
「桐谷くん」
「そう」
奏太は頷く。
だが。
莉子が指したのは、
廊下の向こうから戻ってきた、
もう一人の奏太だった。
「……あの人」
奏太は言葉を失った。
記憶まで置き換わっている。
単純に忘れているのではない。
空いた場所へ、別の記憶が入り込んでいる。
◇
放課後。
奏太は図書室へ向かった。
調べたいことがあった。
古い住宅地図。
新聞。
学校史。
そして卒業アルバム。
昨日までは何となく怪異だと思っていた。
しかし違う。
何か規則がある。
一日ごとに変わる写真。
消える記憶。
存在しなかった扉。
壁。
そして数字。
7、6、5。
「何かあるはずだ」
奏太は学校史を開く。
創立六十五年。
現在の校舎は二十八年前に建て替え。
特に変わった記録はない。
次に古い新聞記事。
事故。
大会。
文化祭。
卒業式。
ページをめくる。
そして。
「……桐谷?」
指が止まった。
二十二年前の記事。
学校とは直接関係ない。
地域欄の小さな記事。
見出し。
『住宅街で児童が一時行方不明』
奏太は読む。
八歳の男子児童が自宅から姿を消した。
家族が警察へ通報。
大規模な捜索。
しかし翌朝、
少年は自宅の自室で発見された。
外傷なし。
本人は、
「ずっと部屋にいた」
と話した。
「……」
記事の住所。
奏太の家から、
数百メートルしか離れていない。
さらに記事を読む。
少年の名前。
桐谷浩介。
「……桐谷?」
奏太は画面を見つめた。
父親の名前だった。
「父さん……?」
二十二年前。
父親が八歳だった頃。
父親も、
自宅から消えている。
◇
奏太は古い新聞を次々と調べた。
そして、
見つけた。
三十一年前。
『女児行方不明 一夜後に自宅で保護』
十九年前。
『男子中学生、一時行方不明』
十一年前。
『住宅街で少女不明、翌日帰宅』
場所はすべて同じ地域。
半径一キロ以内。
共通点。
全員、
家から消え、
翌日、
自分の部屋で発見されている。
「なんだよこれ……」
しかも。
発見後の家族の証言が奇妙だった。
十九年前の記事。
母親のコメント。
奏太は読んだ。
『帰ってきた時、息子が少し違って見えました。でも何が違うのか分かりませんでした』
背中が冷たくなる。
さらに十一年前。
少女の父親。
『娘は帰ってきました。それで十分です』
記事の最後。
記者が書いた一文。
『なお少女本人は、行方不明になったという認識を示していない』
「……交換」
スマートフォンへ届いた言葉。
『交換は順調です』
これは奏太だけに起きていることではない。
ずっと前から、
この町で起きている。
そして。
父親もその一人だった。
◇
図書室を出た時には、
外は薄暗くなっていた。
奏太は父親の墓へ向かった。
学校から自転車で十五分ほど。
小さな寺。
墓地には誰もいない。
「父さん……」
墓石の前に立つ。
桐谷浩介。
奏太の父親。
五年前に病気で亡くなった。
「父さんも……どっちだったんだよ」
八歳で消えた。
翌朝戻ってきた。
もし。
戻ってきた父親が、
本当の父親ではなかったら?
では自分は、
誰の子供なのか。
その時。
「奏太?」
後ろから声。
振り返る。
年配の女性。
「……?」
「やっぱり奏太ね」
「誰ですか?」
女性は驚いた顔をした。
「私よ」
奏太は分からない。
「ごめんなさい」
「浩介のお姉ちゃん」
父親の姉。
「……伯母さん?」
「そうよ」
奏太は幼い頃に何度か会った程度だった。
「大きくなったわね」
「伯母さん」
「何?」
「父さんが八歳の時にいなくなったこと、覚えてますか?」
女性の笑顔が消えた。
「誰から聞いたの?」
「新聞で見ました」
「……そう」
「何があったんですか?」
伯母はしばらく墓石を見ていた。
「今さら話すことじゃないわ」
「お願いします」
「知らない方がいい」
「俺にも同じことが起きてるんです」
女性の表情が変わった。
「……何?」
「家に、俺と同じ顔の奴がいる」
伯母の手から、
持っていた花が落ちた。
「伯母さん?」
「あなた……」
顔色が真っ青になっている。
「それ、いつから?」
「三日前くらい」
「壁から声は?」
奏太の心臓が跳ねる。
「聞こえました」
「写真は?」
「届いてます」
「数字は?」
「数字?」
「減ってるでしょう?」
奏太は何も言えなかった。
伯母は知っている。
「伯母さん」
「帰りなさい」
「教えてください!」
「帰って!」
女性は震えていた。
「どうして!」
「あなたのお父さんは!」
声が墓地に響いた。
そして。
伯母は泣き始めた。
「あの日から……浩介じゃなかった」
奏太は動けなかった。
「どういう意味ですか」
「顔も同じ」
「……」
「声も同じ」
「……」
「記憶もあった」
「じゃあ」
「でも違った」
「何が?」
伯母は首を横に振る。
「分からないの」
「……」
「家族だから分かるのよ」
涙を拭う。
「あれは弟じゃなかった」
「本物の父さんは?」
「知らない」
「探さなかったんですか?」
「探したわよ!」
伯母は声を荒らげる。
「何年も!」
「……」
「でも誰も信じなかった」
「警察は?」
「帰ってきたじゃないかって」
「家族は?」
「両親も少しずつ忘れた」
奏太の呼吸が止まる。
「最初は違和感があったの」
「……」
「でも数日経つと、みんな普通に浩介として扱ってた」
「伯母さんは?」
「私だけ忘れなかった」
「どうして?」
「分からない」
女性は奏太を見る。
「でも一つだけ覚えてる」
「何ですか?」
「本物の浩介が消える前の日」
風が吹く。
「壁の向こうから」
伯母の声が震える。
「子供の声が聞こえてた」
奏太の頭に、
今朝の扉が浮かんだ。
『僕が最初の桐谷奏太だから』
「その声……」
「何?」
「何て言ってました?」
伯母はしばらく考えた。
そして。
「『一番を返して』」
奏太の心臓が止まりそうになった。
◇
「一番……」
学校の扉。
『桐谷奏太 1』
「伯母さん」
「何?」
「父さんの時も扉が?」
伯母の表情が変わる。
「どうして知ってるの?」
「やっぱりあったんですか?」
「……あった」
「どこに?」
「家」
「どんな?」
「浩介が戻ってきた翌日」
伯母はゆっくり話す。
「廊下に、見たことのない扉があった」
「プレートは?」
「……」
「何て書いてあった?」
伯母は答えた。
『桐谷浩介 2』
「2……?」
奏太は混乱する。
「1じゃない?」
「2だった」
「開けました?」
「いいえ」
「その後?」
「三日くらいしたら消えた」
「……」
「誰も扉のことを覚えてなかった」
奏太は考える。
1。
2。
数字。
順番?
個体?
交換された回数?
そして、
自分の扉には、
『桐谷奏太 1』
と書かれている。
もし数字が、
その人間の「何番目か」を表しているなら。
自分は一番目。
では家にいる、
もう一人の奏太は?
◇
午後七時五十一分。
奏太は学校へ戻った。
門は閉まりかけていた。
だが裏門から入る。
二年三組へ向かう。
誰もいない校舎。
足音が響く。
教室。
扉を開ける。
白い扉は、
まだあった。
『桐谷奏太 1』
奏太は前に立つ。
「いるんだろ」
返事はない。
「出てこい」
沈黙。
「俺が開ける」
ドアノブを握る。
「開けるぞ」
その時。
「待って」
少年の声。
「教えてくれ」
「何?」
「俺は誰なんだ」
少し沈黙。
「奏太」
「何番目の?」
返事が止まる。
「答えろ」
「……」
「俺は一番目なのか?」
壁の向こうで、
少年が笑った。
「違うよ」
奏太の手が止まる。
「じゃあ、この1は何だ」
「部屋の番号」
「何の部屋?」
少年は答えない。
「お前が最初の奏太ってどういう意味だ」
「そのまま」
「俺より前にいた?」
「うん」
「いつ?」
「ずっと前」
「何歳?」
沈黙。
「お前は何歳なんだ?」
「八歳」
奏太の心臓が跳ねる。
「八歳……」
「うん」
「父さんが消えた時と同じ……」
少年が、
小さく笑った。
「やっと気づいた」
「お前……」
奏太は扉へ顔を近づける。
「桐谷浩介なのか?」
返事はない。
「父さんなのか?」
「違う」
「じゃあ誰だ!」
少年は答えた。
「浩介より前」
「……え?」
「奏太より前」
「何を言ってる」
「名前なんて最初からないんだよ」
「……」
「君たちが勝手につけてるだけ」
奏太の背中が冷たくなる。
「何に?」
少年は答えない。
「俺たちは何に名前をつけてるんだ?」
長い沈黙。
そして。
「開ければ分かるよ」
奏太はドアノブを見る。
「でも」
少年が続ける。
「今開けるなら気をつけて」
「何を?」
「君の後ろ」
奏太の体が固まった。
振り返る。
誰もいない。
「何も……」
その瞬間。
教室の扉が閉まった。
バタン!
照明が消える。
「くそ!」
奏太はスマートフォンのライトを点ける。
暗い教室。
机。
椅子。
黒板。
そして。
教室の一番後ろ。
誰かが座っている。
「……誰だ」
ライトを向ける。
もう一人の奏太。
家にいるはずの少年。
「どうしてここに……」
「待ってた」
少年が立ち上がる。
「何を?」
「君が扉を開けるの」
「お前は何番目だ」
少年が笑う。
「知りたい?」
「ああ」
「じゃあ見せてあげる」
少年は制服の胸ポケットから、
一枚の写真を取り出した。
机の上へ置く。
奏太は近づく。
写真には、
同じ部屋が写っている。
しかし今の教室ではない。
壁のない、
狭い白い部屋。
中央に、
子供が七人並んでいる。
全員。
同じ顔。
「……何だこれ」
写真の下に数字。
1。
2。
3。
4。
5。
6。
7。
そして。
七人の顔は、
すべて――
幼い頃の奏太だった。
「嘘だ……」
「七人いた」
「何が?」
「桐谷奏太」
「そんなわけない!」
「本当だよ」
「じゃあ俺は!」
少年が奏太を見る。
「君は」
笑顔が消える。
「八人目」
奏太は息を呑んだ。
「……八?」
「そう」
「じゃあお前は?」
「九人目」
「待て」
「だから」
少年が一歩近づく。
「僕も本物じゃない」
スマートフォンのメッセージ。
『でも、彼も本物ではありません』
その意味。
「じゃあ……」
奏太は写真を見る。
「本物は?」
少年は白い扉を指さした。
「向こう」
「八歳の子供?」
「違う」
「じゃあ誰だよ」
「見れば分かる」
奏太は扉を見る。
少年が言う。
「でも開ける前に」
「何?」
「一つ教えてあげる」
少年は写真を裏返した。
そこに、
日付が書かれていた。
2009年8月31日。
「……俺が生まれる前?」
「うん」
「なんで俺が写ってる?」
「だから違うんだよ」
少年は静かに言った。
「君が桐谷奏太に似てるんじゃない」
一歩。
「桐谷奏太が」
もう一歩。
「僕たちに似せて作られたんだ」
奏太の頭の中が真っ白になった。
その瞬間。
白い扉の向こうから、
ドン!
大きな音。
「……!」
ドン!
誰かが扉を叩いている。
少年の顔色が変わった。
「まずい」
「何が?」
「離れて」
「え?」
「扉から離れて!」
ドン!
プレートが落ちた。
床へ転がる。
奏太は初めて、
プレートの裏側に文字があることに気づいた。
拾う。
そこには、
赤い文字。
『開放予定 8月31日 00:00』
「八月三十一日……」
あと五日。
カウントダウンの最後。
「何が開放される?」
少年は答えない。
「おい!」
白い扉の向こうから、
子供の笑い声。
一人ではない。
二人。
三人。
もっと。
たくさんの子供。
そして。
全員が、
同時に言った。
「あと五日」
奏太は後ずさる。
少年が叫ぶ。
「逃げろ!」
次の瞬間。
白い扉が、
ほんの数センチだけ開いた。
隙間。
真っ暗な空間。
その中から、
小さな手が一本だけ伸びてくる。
奏太は動けなかった。
手は床を探る。
何かを探すように。
そして。
奏太の足首のすぐ前で止まった。
暗闇の向こうから、
子供の声。
「見つけた」
奏太は後ろへ飛び退く。
少年が扉へ体当たりする。
「閉めろ!」
二人で扉を押す。
隙間から伸びていた手が引っ込む。
バタン!
扉が閉じる。
静寂。
二人は息を切らしていた。
「今の……何だよ」
少年は答えない。
「教えろ!」
「僕も全部は知らない」
「じゃあ何を知ってる!」
少年は奏太を見る。
「一つだけ」
「何?」
「八月三十一日になる前に」
声が震えている。
「本物を見つけないと」
「どうなる?」
少年は白い扉を見る。
そして。
「この町の全員が」
一拍。
「誰かと入れ替わる」
その瞬間。
奏太のスマートフォンが震えた。
新しい写真。
上空から撮影された、
奏太たちの町。
住宅街。
学校。
駅。
商店街。
無数の家。
そして。
写真の裏側を撮影した画像。
そこには、
今までで最も長い文章が書かれていた。
『準備が整いました。』
『現在 12,418人』
『不足 1人』
『最後の一人を返してください。』
その下。
名前。
奏太は目を疑った。
そこに書かれていたのは、
自分ではなかった。
母親でもない。
美月でもない。
莉子でもない。
そして、
消えた高瀬直人でもなかった。
たった一人。
五年前に亡くなったはずの人物。
『桐谷浩介』
「……父さん?」
その瞬間。
奏太のスマートフォンに、
着信が入った。
表示された名前。
父
奏太の指が震える。
五年前。
解約したはずの番号。
もう二度と、
掛かってくるはずのない電話。
少年が青ざめる。
「出るな」
「でも……」
「絶対に出るな!」
スマートフォンは鳴り続ける。
奏太は画面を見る。
父
震える指が、
通話ボタンへ触れた。
「……もしもし」
しばらく、
何も聞こえなかった。
そして。
懐かしい声。
『奏太?』
忘れるはずがない。
父親の声。
「……父さん?」
『よかった』
声が震えている。
『まだ俺を覚えてるんだな』
「どこにいるの?」
少年が必死に首を横へ振っている。
「父さん!」
電話の向こうで、
父親が言った。
『奏太、よく聞け』
「うん」
『家に帰るな』
「……え?」
『母さんも』
一拍。
『美月も』
父親の声が低くなる。
『もう、お前の家族じゃない』
奏太の呼吸が止まった。
「何言って……」
『それから』
「……」
『水瀬莉子を信じるな』
「なんで?」
電話の向こうで、
何かを叩く音が聞こえた。
コン。
コン。
コン。
父親が早口になる。
『時間がない』
「父さん、どこにいるの!」
『お前の家だ』
奏太は固まった。
「……家?」
『ずっといる』
「どこに?」
数秒の沈黙。
そして。
『壁の中』
通話が切れた。
同時に。
奏太の背後。
白い扉の向こうから、
大人の男の声がした。
「奏太」
父親の声。
奏太はゆっくり振り返る。
「父さん……?」
扉の向こう。
「開けてくれ」
少年が奏太の腕を掴んだ。
「開けるな」
「でも父さんが!」
「違う!」
「何が!」
少年は扉を睨む。
「あれは浩介じゃない」
「なんで分かる!」
少年は答えた。
「だって」
震える声。
「本物の浩介は、僕が消したから」
奏太は少年を見る。
「……何?」
少年は泣いていた。
そして。
白い扉の向こうから、
父親の笑い声が聞こえた。
教室の時計。
午後八時十三分。
スマートフォンへ最後の通知。
写真が一枚。
今朝の桐谷家。
母親。
美月。
もう一人の奏太。
三人で朝食を食べている。
そして。
テーブルの空いていた四つ目の席。
そこに、
父親が座っていた。
五年前に亡くなった、
桐谷浩介。
カメラへ向かって笑っている。
写真の裏。
『これで四人。』
その下に、
小さな文字。
『あなたの席は、もうありません。』
――第六章「壁の中の父」へ続く。