七日後、この町から私が消える
第六章 壁の中の父
「本物の浩介は、僕が消したから」
その言葉が、しばらく意味を持たなかった。
奏太は目の前の少年を見つめた。
もう一人の自分。
九人目だと名乗った存在。
左目の下に、小さなほくろ。
自分よりも「桐谷奏太らしい」記憶を持つ少年。
「……どういう意味だよ」
声が震える。
「父さんを消したって」
少年は黙っている。
「答えろよ!」
「今は時間がない」
「ふざけんな!」
奏太は少年の胸ぐらをつかんだ。
「俺の父さんに何した!」
「離せ!」
「答えろ!」
「だから!」
少年も奏太の腕を振り払う。
「僕が消した浩介と、君のお父さんは同じじゃない!」
奏太の動きが止まった。
「……何?」
「説明しても、たぶん今は全部理解できない」
「だったら分かるように話せよ!」
白い扉の向こうから、
コン。
コン。
コン。
父親の声。
「奏太」
奏太は反射的に振り返った。
「父さん!」
扉へ近づこうとする。
「やめろ!」
少年が腕をつかむ。
「離せ!」
「開けたら終わる!」
「でも父さんが!」
「あれは声を使ってるだけだ!」
「どうして分かるんだよ!」
少年は唇を噛む。
「……あいつらは」
「何?」
「記憶を使う」
「記憶?」
「君が一番会いたい人を知ってる」
奏太は動けなくなる。
「君が一番信じる声も」
「……」
「一番弱いところも」
白い扉の向こうで、
父親がもう一度呼ぶ。
「奏太」
今度の声は、もっと弱かった。
「怖いんだ」
「……父さん」
「ここは暗い」
奏太の喉が鳴る。
「ずっと一人だった」
「やめろ!」
少年が叫ぶ。
扉の向こうの声が止まる。
数秒。
そして。
「お前は誰だ」
父親の声が低くなる。
少年の顔色が変わる。
「……」
「奏太から離れろ」
「黙れ」
「お前じゃない」
「黙れ!」
「九番目」
少年が凍りついた。
奏太もその言葉に反応する。
「今……」
扉の向こうの声が笑う。
「まだ、その名前を使ってるのか」
「知り合いなのか?」
奏太が少年を見る。
「違う」
「嘘つくな!」
「違う!」
少年は白い扉へ近づく。
「お前は誰だ!」
返事。
「浩介」
「違う」
「桐谷浩介」
「違う!」
少年は拳を握る。
「浩介はそんな喋り方しない!」
静寂。
「……へえ」
父親の声が少し変わった。
親しげだった声から、
感情の薄い声へ。
「覚えてるんだ」
少年の顔が強張る。
「何を?」
奏太が聞く。
少年は答えない。
扉の向こうが続ける。
「七番目が泣いてたこと」
少年の呼吸が止まる。
「六番目が逃げたこと」
「やめろ」
「五番目が自分の名前を忘れたこと」
「やめろ!」
少年が扉を殴る。
「それから」
一拍。
「浩介が最後まで、妹の名前を呼んでたこと」
少年はその場に膝をついた。
「……やめろ」
奏太は初めて、
少年が本気で怯えていることに気づいた。
◇
「話して」
奏太は言った。
「全部」
少年は床に座ったまま、しばらく何も言わなかった。
「今さら隠すなよ」
「……」
「俺は自分が誰なのか分からない」
「……」
「父さんが本物だったかも分からない」
「……」
「母さんも、美月も、莉子も」
奏太は白い扉を見る。
「もう何を信じればいいか分からないんだよ」
少年がゆっくり顔を上げた。
「……僕も同じだった」
「え?」
「最初は」
声が小さい。
「自分が奏太だと思ってた」
「いつ?」
「ずっと前」
「どのくらい?」
「分からない」
「年齢は?」
「八歳から変わらなかった」
奏太は眉をひそめる。
「今は俺と同じくらいに見えるけど」
「外に出ると合わせられる」
「何を?」
「年齢」
奏太は意味を理解できなかった。
「誰に合わせるんだよ」
「その名前を使ってる人」
少年は自分の手を見る。
「中では、ずっと八歳」
「中って?」
白い扉を見る。
「向こう」
奏太は息を呑む。
「壁の中?」
「正確には違う」
「じゃあ何?」
「場所じゃない」
「……」
「でも、場所みたいに見える」
「意味分かんない」
「僕にも分かんないよ」
少年は苦笑した。
「ただ、あそこには部屋がある」
「いくつ?」
「数えきれない」
「誰の部屋?」
「名前を持った人たち」
「俺みたいな?」
「そう」
「同じ顔の人間が何人もいる?」
「うん」
「なんで?」
少年は少し考えてから答えた。
「コピーじゃない」
「じゃあ?」
「候補」
「候補?」
「一つの名前に、何人もいる」
「何のために?」
「外へ出るため」
奏太の背中が冷たくなる。
「誰が?」
「中にいるもの」
「人間?」
「分からない」
「見たことないの?」
「ある」
奏太は少年を見る。
「どんな?」
少年は少し黙った。
「……顔がなかった」
「顔がない?」
「違う」
自分で訂正する。
「顔が多すぎた」
奏太は何も言えなくなった。
少年は続ける。
「見るたび違った」
「……」
「父親にも見えた」
「……」
「母親にも」
「……」
「子供にも」
白い扉の向こうから、
小さく笑い声。
「今みたいに」
少年が言う。
◇
教室の電気はまだ消えたままだった。
スマートフォンのライトだけが、
二人と白い扉を照らしている。
「父さんのこと」
奏太が言う。
「消したってどういう意味?」
少年はしばらく答えなかった。
「僕が浩介に会ったのは」
ようやく話し始める。
「二十二年前」
「父さんが八歳の時?」
「うん」
「お前も八歳?」
「僕はずっと八歳だった」
「……」
「浩介はあっちに来た」
「どうやって?」
「家の壁に扉が出た」
「父さんが開けた?」
「違う」
「じゃあ?」
「僕が開けた」
奏太の表情が固まる。
「なんで」
「外へ出たかったから」
「父さんを使って?」
少年は頷く。
「僕たちは一人では出られない」
「交換が必要?」
「そう」
スマートフォンへ届いた言葉。
交換は順調です。
「じゃあ」
奏太は唾を飲み込む。
「二十二年前、外に戻った父さんは……」
「僕」
奏太は動かなかった。
数秒。
言葉の意味が、
ゆっくり入ってくる。
「……は?」
「浩介として戻ったのは僕」
「嘘だ」
「本当」
「じゃあ」
「君が父親だと思ってた人は」
少年は目を伏せる。
「僕だった」
「嘘だ!」
奏太は少年を突き飛ばした。
少年が床へ倒れる。
「ふざけるな!」
「……」
「父さんはいた!」
「うん」
「俺を育てた!」
「うん」
「美月も!」
「うん」
「母さんと結婚した!」
「うん」
「だったら!」
奏太の目から涙がこぼれる。
「だったらお前が父さんじゃないか!」
少年は何も言わなかった。
「本物じゃなかったとか、そんなの関係ないだろ!」
「……」
「俺が覚えてる父さんは!」
「奏太」
「お前なんだろ!」
少年が顔を上げる。
その表情は、
奏太と同じ年頃の少年ではなく、
一瞬だけ、
もっと年上に見えた。
「……そうだよ」
声も少し低くなる。
「僕が浩介として生きた」
奏太は息を止める。
「真由美と出会って」
「……」
「結婚して」
「……」
「君たちが生まれた」
「じゃあ……」
「君の父親だった」
奏太は混乱する。
「だったらなんで今、その姿なんだよ」
「死んだから」
「……」
「桐谷浩介としての僕は死んだ」
「五年前に?」
「うん」
「じゃあお前は何なんだ」
「戻された」
「どこに?」
「ここ」
少年が白い扉を見る。
「死んだら終わりじゃない」
「……」
「借りた名前が終わるだけ」
奏太は何も言えない。
「それで」
少年が続ける。
「戻った僕は、また八歳だった」
「なんで?」
「分からない」
「じゃあ今は?」
「君の名前に触れたから」
「……」
「奏太に近づくほど、奏太になる」
奏太の胃がひっくり返るような感覚。
「待て」
「何?」
「だったら」
言いたくない。
でも聞かなければならない。
「俺も」
喉が震える。
「本物じゃないのか?」
少年は答えなかった。
それだけで十分だった。
「答えろよ」
「……」
「俺は何番目なんだ」
「八」
「じゃあ」
奏太は写真を握る。
「最初の奏太は?」
「知らない」
「お前、最初の奏太だって言っただろ!」
「嘘」
「なんで!」
「扉を開けてほしかった」
「……」
「僕も外に出たかったから」
奏太は少年を睨む。
「最低だな」
「そうだね」
「父さんの時と同じことを、俺にしようとした?」
「……うん」
奏太は拳を握る。
でも殴れなかった。
目の前にいるのは、
自分を騙した怪物なのか。
それとも、
父親なのか。
分からない。
◇
「高瀬直人は?」
奏太が聞いた。
「知らない」
「消えた」
「たぶん交換された」
「誰と?」
「分からない」
「莉子は?」
「今はまだ外にいる」
「本物?」
「分からない」
「母さんと美月は?」
「……」
「分からないって言うなよ」
「本当に分からない」
少年は立ち上がる。
「ただ」
「何?」
「一つ見分ける方法がある」
奏太の目が変わる。
「何」
「記憶」
「記憶?」
「交換されたものは、記憶をかなり正確に持ってる」
「それじゃ見分けられないだろ」
「全部じゃない」
「何が抜ける?」
「本人しか知らない記憶」
「例えば?」
「言葉にしてないもの」
奏太は考える。
「誰にも話したことのないこと?」
「そう」
「夢とか?」
「それも」
「感情は?」
「曖昧になる」
奏太は父親との記憶を思い出す。
病室。
言葉。
時間。
少年は正確に知っていた。
でも。
「父さん」
少年が少し驚いた顔をする。
「……何?」
「俺が小さい頃」
奏太は言う。
「雨の日に、二人で車の中に閉じ込められたこと覚えてる?」
少年は黙る。
「母さんが買い物してて」
「……」
「俺が後部座席で泣いて」
「……」
「父さんが変な歌歌った」
「……」
「何歌った?」
少年の表情が止まった。
「覚えてない?」
「……分からない」
奏太の胸が締めつけられる。
「俺は覚えてる」
「奏太」
「父さん、めちゃくちゃ下手だった」
少し笑う。
涙がこぼれる。
「俺、それ誰にも話したことない」
「……」
「じゃあ」
奏太は少年を見る。
「俺の父さんは、お前じゃないのか?」
少年は何も言わなかった。
長い沈黙。
そして。
「……僕にも分からない」
「何で」
「浩介として生きた記憶はある」
「……」
「でも」
少年は頭を押さえる。
「僕が浩介だったのか」
一拍。
「浩介の記憶を持ってるだけなのか」
奏太は凍りつく。
少年自身も、
自分が何者か分かっていない。
◇
その時。
奏太のスマートフォンが震えた。
着信。
水瀬莉子
奏太は画面を見る。
「莉子……」
「出るな」
少年が言う。
「なんで」
「さっき父親の声を使われただろ」
「でも」
「確認してから」
「どうやって」
「本人しか知らないこと」
奏太は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『奏太?』
奏太の心臓が跳ねる。
莉子だ。
しかも今度は、
自分を知っている。
「莉子?」
『よかった……!』
「俺のこと覚えてる?」
『何言ってるの!』
「今日の朝は忘れてた」
『朝?』
「学校で」
『奏太、今どこ?』
少年が小声で言う。
「確認しろ」
奏太は頷く。
「莉子」
『何?』
「小学校六年の時」
『え?』
「俺が卒業式の日に失くしたもの」
沈黙。
『……ボタン?』
「違う」
『じゃあ何?』
「……」
奏太の表情が変わる。
莉子なら知っている。
二人しか知らない。
卒業式の日、
奏太は父親からもらった古いキーホルダーを失くした。
莉子と二人で、
暗くなるまで校庭を探した。
結局見つからなかった。
「誰だ」
『奏太?』
「莉子じゃない」
『何言ってるの』
「お前誰だ」
電話の向こうが黙る。
数秒。
そして。
『……惜しい』
声が変わる。
莉子の声のまま。
でも喋り方が違う。
『もう少しだったのに』
「莉子に何した!」
『まだ何も』
「どこにいる!」
『君の家』
奏太と少年が同時に顔を上げる。
「何?」
『みんな待ってるよ』
「誰が」
電話の向こうで、
楽しそうな声。
『母さん』
『美月』
『浩介』
一拍。
『奏太』
「……」
『莉子』
「やめろ」
『直人』
「やめろ!」
『全員』
そして。
『だから早く帰ってきて』
通話が切れた。
◇
奏太は教室を飛び出した。
「待て!」
少年も追う。
「家に行く!」
「危険だ!」
「母さんと美月がいる!」
「もう違うかもしれない!」
奏太が立ち止まる。
「それでも行く」
「……」
「違ってても」
奏太は言った。
「確かめる」
少年はしばらく黙った。
そして。
「分かった」
「来るの?」
「僕も行く」
「なんで」
「真由美と美月を」
一瞬言葉に詰まる。
「……見たい」
その声だけは、
父親のものに聞こえた。
◇
午後九時十一分。
二人は桐谷家の前に立っていた。
家には明かりがついている。
リビング。
二階。
玄関。
普通の家。
いつもの家。
でも。
「人、多くないか」
奏太が呟く。
リビングのカーテン越し。
影が見える。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
少なくとも六人。
「……入るぞ」
奏太が玄関へ近づく。
鍵を開ける。
ガチャ。
扉を開く。
「ただいま……」
静寂。
廊下。
靴が並んでいる。
母親の。
美月の。
奏太の。
そして。
父親が生前履いていた、
茶色の革靴。
さらに。
莉子のスニーカー。
直人の靴。
「……いる」
奏太の手が震える。
リビングから、
笑い声が聞こえた。
母親。
「もう、本当に昔から変わらないんだから」
美月。
「お兄ちゃん、それずるい!」
直人。
「俺にも取っといてよ」
莉子。
「奏太、早く食べないとなくなるよ」
そして、
父親。
「こらこら、喧嘩するな」
奏太は動けなかった。
懐かしい。
あり得なかったはずの光景。
五年前に失った声まである。
少年が後ろで小さく言う。
「奏太」
「……」
「気をつけろ」
奏太はリビングの扉を開けた。
全員が、
一斉にこちらを見る。
「……」
母親。
美月。
莉子。
直人。
父親。
そして。
もう一人の奏太。
六人がテーブルを囲んでいた。
「おかえり」
母親が笑う。
奏太は何も答えない。
「遅かったね」
美月も笑う。
「座れよ」
直人。
莉子も優しく笑う。
「待ってたよ」
そして父親が立ち上がる。
「奏太」
記憶の中と同じ顔。
五年前のまま。
「……父さん」
「ああ」
父親は両手を広げる。
「おかえり」
奏太は一歩進みそうになる。
その時。
背後の少年が言った。
「聞け」
奏太は止まる。
「本人しか知らないこと」
父親の笑顔が、
一瞬だけ止まった。
奏太は父を見る。
「父さん」
「何だ?」
「雨の日」
「……」
「車に閉じ込められた時」
父親の表情が少し変わる。
「俺が泣いた」
「そうだったな」
「何歌った?」
父親は笑う。
「何だったかな」
「覚えてない?」
「昔のことだからな」
奏太の目に涙が浮かぶ。
「違う」
「奏太?」
「父さんじゃない」
リビングから、
笑顔が一つずつ消えていく。
美月。
母親。
莉子。
直人。
もう一人の奏太。
全員。
同じタイミングで。
奏太を見る。
父親がゆっくり首を傾げる。
「どうして?」
声が変わった。
「せっかく」
一拍。
六人が、
同時に口を開く。
「家族を返してあげたのに」
奏太は後ずさる。
少年が叫ぶ。
「逃げろ!」
その瞬間。
家中の扉が、
一斉に閉まった。
バタン!
バタン!
バタン!
照明が消える。
真っ暗。
「奏太!」
「いる!」
スマートフォンのライトを点ける。
リビング。
誰もいない。
「……消えた?」
テーブルだけ。
料理はまだ湯気を立てている。
さっきまで六人が座っていた椅子。
空。
その時。
壁から。
コン。
「……」
コン。
一つ。
別の壁。
コン、コン。
天井。
コン。
床。
コン、コン、コン。
家中から音がする。
何十人。
いや。
何百人もの誰かが、
壁の向こうから叩いているように。
「奏太」
少年が青ざめる。
「外へ!」
玄関へ走る。
だが。
廊下が、
長い。
「……何だこれ」
玄関まで数メートルだったはず。
走っても。
走っても。
玄関が近づかない。
左右の壁に、
扉が現れ始める。
一枚。
二枚。
三枚。
無数。
プレート。
『桐谷真由美 1』
『桐谷真由美 2』
『桐谷美月 1』
『桐谷美月 2』
『水瀬莉子 1』
『高瀬直人 1』
そして。
桐谷奏太。
1。
2。
3。
4。
5。
6。
7。
8。
9。
10。
もっと。
もっと続いている。
「こんなに……」
奏太の声が震える。
少年が言う。
「走れ!」
その時。
すべての扉の向こうから、
声がした。
「奏太」
母親。
「お兄ちゃん」
美月。
「奏太!」
莉子。
「おい!」
直人。
「奏太」
父。
そして。
自分自身。
「助けて」
「開けて」
「こっち」
「本物だよ」
「僕だよ」
「私だよ」
「忘れたの?」
奏太は耳を塞いで走る。
「聞くな!」
少年が叫ぶ。
廊下の先。
ようやく玄関。
奏太がノブへ手を伸ばす。
その瞬間。
背後から。
「奏太」
母親の声。
奏太は止まる。
「お願い」
振り返ってはいけない。
「美月だけでも」
奏太の目から涙がこぼれる。
「助けて」
少年が奏太の腕を掴む。
「振り返るな」
「でも」
「違う!」
「母さんかもしれない!」
「違う!」
その瞬間。
奏太のスマートフォンが震えた。
新しい写真。
奏太は画面を見る。
一枚の古い家族写真。
幼い奏太。
美月。
母親。
父親。
そして。
写真の端に、
今まで気づかなかった扉。
その扉の前に、
小さな女の子が立っている。
「……誰?」
奏太が拡大する。
少女。
八歳くらい。
顔。
どこかで見た。
「この子……」
少年も画面を見る。
そして。
顔色が変わった。
「嘘だ」
「知ってる?」
「なんで……」
「誰なんだよ」
少年は震える声で答えた。
「真由美」
奏太は意味が分からない。
「母さん?」
「交換される前の」
一拍。
「本物の真由美」
奏太は画面を見る。
「でも母さんは……」
「真由美も」
少年が言う。
「子供の頃に、一度消えてる」
奏太の頭が真っ白になる。
父だけではない。
母も。
では。
自分は。
妹は。
何から生まれた?
その時。
写真の裏面を撮った二枚目が届く。
文字。
『あと四日』
その下。
『家族の確認は完了しました。』
さらに。
『次は出生記録です。』
奏太の呼吸が止まる。
最後の一文。
『桐谷奏太は、出生していません。』
玄関の向こうから、
赤ん坊の泣き声が聞こえた。
奏太と少年が同時に扉を見る。
泣き声。
その合間に、
女性の声。
母親。
「奏太」
優しい声。
「あなたを産んだ覚えがないの」
そして。
玄関の扉が、
ゆっくりと内側へ開き始めた。
外にあるはずの夜の住宅街は、
そこにはなかった。
扉の向こうには、
真っ白な病室。
ベッドの上で、
若い頃の母親が泣いている。
その腕の中には、
赤ん坊。
しかし。
赤ん坊の顔には、
何もなかった。
目も。
鼻も。
口も。
ただ白いだけ。
そして病室の壁には、
大きな数字。
8
奏太は、
自分の出生の秘密が、
あの扉の向こうにあることを理解した。
――第七章「生まれていない子」へ続く。
その言葉が、しばらく意味を持たなかった。
奏太は目の前の少年を見つめた。
もう一人の自分。
九人目だと名乗った存在。
左目の下に、小さなほくろ。
自分よりも「桐谷奏太らしい」記憶を持つ少年。
「……どういう意味だよ」
声が震える。
「父さんを消したって」
少年は黙っている。
「答えろよ!」
「今は時間がない」
「ふざけんな!」
奏太は少年の胸ぐらをつかんだ。
「俺の父さんに何した!」
「離せ!」
「答えろ!」
「だから!」
少年も奏太の腕を振り払う。
「僕が消した浩介と、君のお父さんは同じじゃない!」
奏太の動きが止まった。
「……何?」
「説明しても、たぶん今は全部理解できない」
「だったら分かるように話せよ!」
白い扉の向こうから、
コン。
コン。
コン。
父親の声。
「奏太」
奏太は反射的に振り返った。
「父さん!」
扉へ近づこうとする。
「やめろ!」
少年が腕をつかむ。
「離せ!」
「開けたら終わる!」
「でも父さんが!」
「あれは声を使ってるだけだ!」
「どうして分かるんだよ!」
少年は唇を噛む。
「……あいつらは」
「何?」
「記憶を使う」
「記憶?」
「君が一番会いたい人を知ってる」
奏太は動けなくなる。
「君が一番信じる声も」
「……」
「一番弱いところも」
白い扉の向こうで、
父親がもう一度呼ぶ。
「奏太」
今度の声は、もっと弱かった。
「怖いんだ」
「……父さん」
「ここは暗い」
奏太の喉が鳴る。
「ずっと一人だった」
「やめろ!」
少年が叫ぶ。
扉の向こうの声が止まる。
数秒。
そして。
「お前は誰だ」
父親の声が低くなる。
少年の顔色が変わる。
「……」
「奏太から離れろ」
「黙れ」
「お前じゃない」
「黙れ!」
「九番目」
少年が凍りついた。
奏太もその言葉に反応する。
「今……」
扉の向こうの声が笑う。
「まだ、その名前を使ってるのか」
「知り合いなのか?」
奏太が少年を見る。
「違う」
「嘘つくな!」
「違う!」
少年は白い扉へ近づく。
「お前は誰だ!」
返事。
「浩介」
「違う」
「桐谷浩介」
「違う!」
少年は拳を握る。
「浩介はそんな喋り方しない!」
静寂。
「……へえ」
父親の声が少し変わった。
親しげだった声から、
感情の薄い声へ。
「覚えてるんだ」
少年の顔が強張る。
「何を?」
奏太が聞く。
少年は答えない。
扉の向こうが続ける。
「七番目が泣いてたこと」
少年の呼吸が止まる。
「六番目が逃げたこと」
「やめろ」
「五番目が自分の名前を忘れたこと」
「やめろ!」
少年が扉を殴る。
「それから」
一拍。
「浩介が最後まで、妹の名前を呼んでたこと」
少年はその場に膝をついた。
「……やめろ」
奏太は初めて、
少年が本気で怯えていることに気づいた。
◇
「話して」
奏太は言った。
「全部」
少年は床に座ったまま、しばらく何も言わなかった。
「今さら隠すなよ」
「……」
「俺は自分が誰なのか分からない」
「……」
「父さんが本物だったかも分からない」
「……」
「母さんも、美月も、莉子も」
奏太は白い扉を見る。
「もう何を信じればいいか分からないんだよ」
少年がゆっくり顔を上げた。
「……僕も同じだった」
「え?」
「最初は」
声が小さい。
「自分が奏太だと思ってた」
「いつ?」
「ずっと前」
「どのくらい?」
「分からない」
「年齢は?」
「八歳から変わらなかった」
奏太は眉をひそめる。
「今は俺と同じくらいに見えるけど」
「外に出ると合わせられる」
「何を?」
「年齢」
奏太は意味を理解できなかった。
「誰に合わせるんだよ」
「その名前を使ってる人」
少年は自分の手を見る。
「中では、ずっと八歳」
「中って?」
白い扉を見る。
「向こう」
奏太は息を呑む。
「壁の中?」
「正確には違う」
「じゃあ何?」
「場所じゃない」
「……」
「でも、場所みたいに見える」
「意味分かんない」
「僕にも分かんないよ」
少年は苦笑した。
「ただ、あそこには部屋がある」
「いくつ?」
「数えきれない」
「誰の部屋?」
「名前を持った人たち」
「俺みたいな?」
「そう」
「同じ顔の人間が何人もいる?」
「うん」
「なんで?」
少年は少し考えてから答えた。
「コピーじゃない」
「じゃあ?」
「候補」
「候補?」
「一つの名前に、何人もいる」
「何のために?」
「外へ出るため」
奏太の背中が冷たくなる。
「誰が?」
「中にいるもの」
「人間?」
「分からない」
「見たことないの?」
「ある」
奏太は少年を見る。
「どんな?」
少年は少し黙った。
「……顔がなかった」
「顔がない?」
「違う」
自分で訂正する。
「顔が多すぎた」
奏太は何も言えなくなった。
少年は続ける。
「見るたび違った」
「……」
「父親にも見えた」
「……」
「母親にも」
「……」
「子供にも」
白い扉の向こうから、
小さく笑い声。
「今みたいに」
少年が言う。
◇
教室の電気はまだ消えたままだった。
スマートフォンのライトだけが、
二人と白い扉を照らしている。
「父さんのこと」
奏太が言う。
「消したってどういう意味?」
少年はしばらく答えなかった。
「僕が浩介に会ったのは」
ようやく話し始める。
「二十二年前」
「父さんが八歳の時?」
「うん」
「お前も八歳?」
「僕はずっと八歳だった」
「……」
「浩介はあっちに来た」
「どうやって?」
「家の壁に扉が出た」
「父さんが開けた?」
「違う」
「じゃあ?」
「僕が開けた」
奏太の表情が固まる。
「なんで」
「外へ出たかったから」
「父さんを使って?」
少年は頷く。
「僕たちは一人では出られない」
「交換が必要?」
「そう」
スマートフォンへ届いた言葉。
交換は順調です。
「じゃあ」
奏太は唾を飲み込む。
「二十二年前、外に戻った父さんは……」
「僕」
奏太は動かなかった。
数秒。
言葉の意味が、
ゆっくり入ってくる。
「……は?」
「浩介として戻ったのは僕」
「嘘だ」
「本当」
「じゃあ」
「君が父親だと思ってた人は」
少年は目を伏せる。
「僕だった」
「嘘だ!」
奏太は少年を突き飛ばした。
少年が床へ倒れる。
「ふざけるな!」
「……」
「父さんはいた!」
「うん」
「俺を育てた!」
「うん」
「美月も!」
「うん」
「母さんと結婚した!」
「うん」
「だったら!」
奏太の目から涙がこぼれる。
「だったらお前が父さんじゃないか!」
少年は何も言わなかった。
「本物じゃなかったとか、そんなの関係ないだろ!」
「……」
「俺が覚えてる父さんは!」
「奏太」
「お前なんだろ!」
少年が顔を上げる。
その表情は、
奏太と同じ年頃の少年ではなく、
一瞬だけ、
もっと年上に見えた。
「……そうだよ」
声も少し低くなる。
「僕が浩介として生きた」
奏太は息を止める。
「真由美と出会って」
「……」
「結婚して」
「……」
「君たちが生まれた」
「じゃあ……」
「君の父親だった」
奏太は混乱する。
「だったらなんで今、その姿なんだよ」
「死んだから」
「……」
「桐谷浩介としての僕は死んだ」
「五年前に?」
「うん」
「じゃあお前は何なんだ」
「戻された」
「どこに?」
「ここ」
少年が白い扉を見る。
「死んだら終わりじゃない」
「……」
「借りた名前が終わるだけ」
奏太は何も言えない。
「それで」
少年が続ける。
「戻った僕は、また八歳だった」
「なんで?」
「分からない」
「じゃあ今は?」
「君の名前に触れたから」
「……」
「奏太に近づくほど、奏太になる」
奏太の胃がひっくり返るような感覚。
「待て」
「何?」
「だったら」
言いたくない。
でも聞かなければならない。
「俺も」
喉が震える。
「本物じゃないのか?」
少年は答えなかった。
それだけで十分だった。
「答えろよ」
「……」
「俺は何番目なんだ」
「八」
「じゃあ」
奏太は写真を握る。
「最初の奏太は?」
「知らない」
「お前、最初の奏太だって言っただろ!」
「嘘」
「なんで!」
「扉を開けてほしかった」
「……」
「僕も外に出たかったから」
奏太は少年を睨む。
「最低だな」
「そうだね」
「父さんの時と同じことを、俺にしようとした?」
「……うん」
奏太は拳を握る。
でも殴れなかった。
目の前にいるのは、
自分を騙した怪物なのか。
それとも、
父親なのか。
分からない。
◇
「高瀬直人は?」
奏太が聞いた。
「知らない」
「消えた」
「たぶん交換された」
「誰と?」
「分からない」
「莉子は?」
「今はまだ外にいる」
「本物?」
「分からない」
「母さんと美月は?」
「……」
「分からないって言うなよ」
「本当に分からない」
少年は立ち上がる。
「ただ」
「何?」
「一つ見分ける方法がある」
奏太の目が変わる。
「何」
「記憶」
「記憶?」
「交換されたものは、記憶をかなり正確に持ってる」
「それじゃ見分けられないだろ」
「全部じゃない」
「何が抜ける?」
「本人しか知らない記憶」
「例えば?」
「言葉にしてないもの」
奏太は考える。
「誰にも話したことのないこと?」
「そう」
「夢とか?」
「それも」
「感情は?」
「曖昧になる」
奏太は父親との記憶を思い出す。
病室。
言葉。
時間。
少年は正確に知っていた。
でも。
「父さん」
少年が少し驚いた顔をする。
「……何?」
「俺が小さい頃」
奏太は言う。
「雨の日に、二人で車の中に閉じ込められたこと覚えてる?」
少年は黙る。
「母さんが買い物してて」
「……」
「俺が後部座席で泣いて」
「……」
「父さんが変な歌歌った」
「……」
「何歌った?」
少年の表情が止まった。
「覚えてない?」
「……分からない」
奏太の胸が締めつけられる。
「俺は覚えてる」
「奏太」
「父さん、めちゃくちゃ下手だった」
少し笑う。
涙がこぼれる。
「俺、それ誰にも話したことない」
「……」
「じゃあ」
奏太は少年を見る。
「俺の父さんは、お前じゃないのか?」
少年は何も言わなかった。
長い沈黙。
そして。
「……僕にも分からない」
「何で」
「浩介として生きた記憶はある」
「……」
「でも」
少年は頭を押さえる。
「僕が浩介だったのか」
一拍。
「浩介の記憶を持ってるだけなのか」
奏太は凍りつく。
少年自身も、
自分が何者か分かっていない。
◇
その時。
奏太のスマートフォンが震えた。
着信。
水瀬莉子
奏太は画面を見る。
「莉子……」
「出るな」
少年が言う。
「なんで」
「さっき父親の声を使われただろ」
「でも」
「確認してから」
「どうやって」
「本人しか知らないこと」
奏太は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『奏太?』
奏太の心臓が跳ねる。
莉子だ。
しかも今度は、
自分を知っている。
「莉子?」
『よかった……!』
「俺のこと覚えてる?」
『何言ってるの!』
「今日の朝は忘れてた」
『朝?』
「学校で」
『奏太、今どこ?』
少年が小声で言う。
「確認しろ」
奏太は頷く。
「莉子」
『何?』
「小学校六年の時」
『え?』
「俺が卒業式の日に失くしたもの」
沈黙。
『……ボタン?』
「違う」
『じゃあ何?』
「……」
奏太の表情が変わる。
莉子なら知っている。
二人しか知らない。
卒業式の日、
奏太は父親からもらった古いキーホルダーを失くした。
莉子と二人で、
暗くなるまで校庭を探した。
結局見つからなかった。
「誰だ」
『奏太?』
「莉子じゃない」
『何言ってるの』
「お前誰だ」
電話の向こうが黙る。
数秒。
そして。
『……惜しい』
声が変わる。
莉子の声のまま。
でも喋り方が違う。
『もう少しだったのに』
「莉子に何した!」
『まだ何も』
「どこにいる!」
『君の家』
奏太と少年が同時に顔を上げる。
「何?」
『みんな待ってるよ』
「誰が」
電話の向こうで、
楽しそうな声。
『母さん』
『美月』
『浩介』
一拍。
『奏太』
「……」
『莉子』
「やめろ」
『直人』
「やめろ!」
『全員』
そして。
『だから早く帰ってきて』
通話が切れた。
◇
奏太は教室を飛び出した。
「待て!」
少年も追う。
「家に行く!」
「危険だ!」
「母さんと美月がいる!」
「もう違うかもしれない!」
奏太が立ち止まる。
「それでも行く」
「……」
「違ってても」
奏太は言った。
「確かめる」
少年はしばらく黙った。
そして。
「分かった」
「来るの?」
「僕も行く」
「なんで」
「真由美と美月を」
一瞬言葉に詰まる。
「……見たい」
その声だけは、
父親のものに聞こえた。
◇
午後九時十一分。
二人は桐谷家の前に立っていた。
家には明かりがついている。
リビング。
二階。
玄関。
普通の家。
いつもの家。
でも。
「人、多くないか」
奏太が呟く。
リビングのカーテン越し。
影が見える。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
少なくとも六人。
「……入るぞ」
奏太が玄関へ近づく。
鍵を開ける。
ガチャ。
扉を開く。
「ただいま……」
静寂。
廊下。
靴が並んでいる。
母親の。
美月の。
奏太の。
そして。
父親が生前履いていた、
茶色の革靴。
さらに。
莉子のスニーカー。
直人の靴。
「……いる」
奏太の手が震える。
リビングから、
笑い声が聞こえた。
母親。
「もう、本当に昔から変わらないんだから」
美月。
「お兄ちゃん、それずるい!」
直人。
「俺にも取っといてよ」
莉子。
「奏太、早く食べないとなくなるよ」
そして、
父親。
「こらこら、喧嘩するな」
奏太は動けなかった。
懐かしい。
あり得なかったはずの光景。
五年前に失った声まである。
少年が後ろで小さく言う。
「奏太」
「……」
「気をつけろ」
奏太はリビングの扉を開けた。
全員が、
一斉にこちらを見る。
「……」
母親。
美月。
莉子。
直人。
父親。
そして。
もう一人の奏太。
六人がテーブルを囲んでいた。
「おかえり」
母親が笑う。
奏太は何も答えない。
「遅かったね」
美月も笑う。
「座れよ」
直人。
莉子も優しく笑う。
「待ってたよ」
そして父親が立ち上がる。
「奏太」
記憶の中と同じ顔。
五年前のまま。
「……父さん」
「ああ」
父親は両手を広げる。
「おかえり」
奏太は一歩進みそうになる。
その時。
背後の少年が言った。
「聞け」
奏太は止まる。
「本人しか知らないこと」
父親の笑顔が、
一瞬だけ止まった。
奏太は父を見る。
「父さん」
「何だ?」
「雨の日」
「……」
「車に閉じ込められた時」
父親の表情が少し変わる。
「俺が泣いた」
「そうだったな」
「何歌った?」
父親は笑う。
「何だったかな」
「覚えてない?」
「昔のことだからな」
奏太の目に涙が浮かぶ。
「違う」
「奏太?」
「父さんじゃない」
リビングから、
笑顔が一つずつ消えていく。
美月。
母親。
莉子。
直人。
もう一人の奏太。
全員。
同じタイミングで。
奏太を見る。
父親がゆっくり首を傾げる。
「どうして?」
声が変わった。
「せっかく」
一拍。
六人が、
同時に口を開く。
「家族を返してあげたのに」
奏太は後ずさる。
少年が叫ぶ。
「逃げろ!」
その瞬間。
家中の扉が、
一斉に閉まった。
バタン!
バタン!
バタン!
照明が消える。
真っ暗。
「奏太!」
「いる!」
スマートフォンのライトを点ける。
リビング。
誰もいない。
「……消えた?」
テーブルだけ。
料理はまだ湯気を立てている。
さっきまで六人が座っていた椅子。
空。
その時。
壁から。
コン。
「……」
コン。
一つ。
別の壁。
コン、コン。
天井。
コン。
床。
コン、コン、コン。
家中から音がする。
何十人。
いや。
何百人もの誰かが、
壁の向こうから叩いているように。
「奏太」
少年が青ざめる。
「外へ!」
玄関へ走る。
だが。
廊下が、
長い。
「……何だこれ」
玄関まで数メートルだったはず。
走っても。
走っても。
玄関が近づかない。
左右の壁に、
扉が現れ始める。
一枚。
二枚。
三枚。
無数。
プレート。
『桐谷真由美 1』
『桐谷真由美 2』
『桐谷美月 1』
『桐谷美月 2』
『水瀬莉子 1』
『高瀬直人 1』
そして。
桐谷奏太。
1。
2。
3。
4。
5。
6。
7。
8。
9。
10。
もっと。
もっと続いている。
「こんなに……」
奏太の声が震える。
少年が言う。
「走れ!」
その時。
すべての扉の向こうから、
声がした。
「奏太」
母親。
「お兄ちゃん」
美月。
「奏太!」
莉子。
「おい!」
直人。
「奏太」
父。
そして。
自分自身。
「助けて」
「開けて」
「こっち」
「本物だよ」
「僕だよ」
「私だよ」
「忘れたの?」
奏太は耳を塞いで走る。
「聞くな!」
少年が叫ぶ。
廊下の先。
ようやく玄関。
奏太がノブへ手を伸ばす。
その瞬間。
背後から。
「奏太」
母親の声。
奏太は止まる。
「お願い」
振り返ってはいけない。
「美月だけでも」
奏太の目から涙がこぼれる。
「助けて」
少年が奏太の腕を掴む。
「振り返るな」
「でも」
「違う!」
「母さんかもしれない!」
「違う!」
その瞬間。
奏太のスマートフォンが震えた。
新しい写真。
奏太は画面を見る。
一枚の古い家族写真。
幼い奏太。
美月。
母親。
父親。
そして。
写真の端に、
今まで気づかなかった扉。
その扉の前に、
小さな女の子が立っている。
「……誰?」
奏太が拡大する。
少女。
八歳くらい。
顔。
どこかで見た。
「この子……」
少年も画面を見る。
そして。
顔色が変わった。
「嘘だ」
「知ってる?」
「なんで……」
「誰なんだよ」
少年は震える声で答えた。
「真由美」
奏太は意味が分からない。
「母さん?」
「交換される前の」
一拍。
「本物の真由美」
奏太は画面を見る。
「でも母さんは……」
「真由美も」
少年が言う。
「子供の頃に、一度消えてる」
奏太の頭が真っ白になる。
父だけではない。
母も。
では。
自分は。
妹は。
何から生まれた?
その時。
写真の裏面を撮った二枚目が届く。
文字。
『あと四日』
その下。
『家族の確認は完了しました。』
さらに。
『次は出生記録です。』
奏太の呼吸が止まる。
最後の一文。
『桐谷奏太は、出生していません。』
玄関の向こうから、
赤ん坊の泣き声が聞こえた。
奏太と少年が同時に扉を見る。
泣き声。
その合間に、
女性の声。
母親。
「奏太」
優しい声。
「あなたを産んだ覚えがないの」
そして。
玄関の扉が、
ゆっくりと内側へ開き始めた。
外にあるはずの夜の住宅街は、
そこにはなかった。
扉の向こうには、
真っ白な病室。
ベッドの上で、
若い頃の母親が泣いている。
その腕の中には、
赤ん坊。
しかし。
赤ん坊の顔には、
何もなかった。
目も。
鼻も。
口も。
ただ白いだけ。
そして病室の壁には、
大きな数字。
8
奏太は、
自分の出生の秘密が、
あの扉の向こうにあることを理解した。
――第七章「生まれていない子」へ続く。