七日後、この町から私が消える
第七章 生まれていない子
玄関の向こうに、夜の住宅街はなかった。
白い病室。
青白い蛍光灯。
古いカーテン。
壁に掛けられた丸時計。
そして、ベッドの上で泣いている若い女。
奏太の母――真由美だった。
今よりずっと若い。
まだ二十代前半くらいだろう。
その腕の中には赤ん坊。
けれど、その顔は奇妙なほど白く、遠目には表情が読み取れなかった。
病室の壁には大きく、
8
という数字。
「母さん……」
奏太が一歩踏み出す。
「待て」
少年が腕をつかんだ。
「入るな」
「でも」
「それが本当に過去だと思う?」
奏太は病室を見る。
「違うの?」
「分からない」
「またそれかよ」
「僕だって初めて見るんだ!」
少年の声には、本物の焦りがあった。
病室の真由美は二人に気づいていない。
ただ赤ん坊を抱きながら、何度も同じ言葉を呟いている。
「ごめんね」
「……」
「ごめんね」
「……」
「私が間違えたから」
奏太の表情が変わる。
「間違えた?」
その時。
病室の扉が開いた。
若い頃の父――浩介が入ってくる。
奏太が記憶している父親とは違う。
まだ若い。
しかし間違いなく浩介だった。
「真由美」
浩介がベッドへ近づく。
「どうだった?」
真由美は答えない。
「先生は?」
「……いないって」
「何が?」
真由美がゆっくり顔を上げる。
「記録が」
「……」
「奏太の出生記録がないって」
奏太の心臓が大きく鳴った。
病室の外にいる少年も、息を呑む。
「でも」
浩介が赤ん坊を見る。
「ここにいるだろ」
「そうなの」
真由美は泣いている。
「ここにいるの」
「だったら」
「でも私」
声が震える。
「この子を産んだ記憶がない」
奏太は動けなくなった。
浩介も言葉を失う。
「昨日までは覚えてた」
「……」
「陣痛が始まったことも」
「……」
「病院に来たことも」
「……」
「あなたが隣にいたことも」
真由美は赤ん坊を見る。
「全部覚えてたのに」
「真由美」
「今朝起きたら」
一拍。
「出産した記憶だけがない」
病室の時計。
午前二時十三分。
奏太はその時刻を見た瞬間、
背中が冷たくなった。
最初の写真。
午前二時十三分。
部屋の明かり。
窓辺に立つ人影。
「また……二時十三分」
少年が呟く。
◇
病室の場面は続いていた。
浩介が真由美の隣へ座る。
「疲れてるんだよ」
「違う」
「出産したばかりなんだから」
「違うの!」
真由美が声を上げる。
赤ん坊が泣き始める。
「分かるの」
「何が?」
「この子」
真由美は赤ん坊を見る。
「私の子じゃない」
奏太の胸が締めつけられた。
「やめてくれ……」
聞きたくなかった。
しかし目を逸らせない。
「顔も」
「……」
「手も」
「……」
「声も」
真由美は首を横へ振る。
「全部奏太なの」
「じゃあ」
「でも違う」
浩介が黙る。
「私しか分からない」
真由美は赤ん坊を抱き締める。
「昨日まで、この子のお腹に小さな痣があった」
奏太は自分の腹を見る。
ない。
「生まれた時からあった」
「……」
「でも今日ない」
「薄くなっただけじゃ」
「違う!」
真由美は浩介を見る。
「昨日までの奏太と」
一拍。
「今ここにいる奏太は違う」
奏太は病室の外で、
無意識に後ずさった。
「俺……」
声が出ない。
「生まれた直後に?」
少年は答えない。
「交換された?」
「可能性はある」
「じゃあ」
奏太は少年を見る。
「俺が八番目っていうのは」
「……」
「赤ん坊の時から八番目だったってこと?」
少年はゆっくり首を横に振る。
「違う」
「何が?」
「たぶん」
少年は病室の数字を見る。
8
「八番目は君じゃない」
「じゃあ誰?」
「この部屋」
「……?」
「8号室じゃない」
病室の扉には部屋番号がない。
壁だけに大きな数字。
「じゃあ何の8?」
少年が呟く。
「交換回数」
奏太の顔色が変わる。
「つまり」
少年が続ける。
「君が生まれる前に」
「……」
「この家系で少なくとも七回」
「交換が?」
「起きてる」
奏太は父親のことを思い出す。
浩介。
真由美。
子供の頃に消えた二人。
「父さんも母さんも……」
「たぶん、この連鎖の途中」
「じゃあ俺は」
「八回目」
奏太は壁の数字を見る。
「でも俺自身が八番目じゃなくて」
「交換そのものが八回目」
初めて、
一つの意味がつながった。
◇
病室の景色が揺れた。
「……何?」
蛍光灯が点滅する。
真由美と浩介の姿がノイズのようにぶれる。
病室の壁に黒い線が走る。
「まずい」
少年が言う。
「何が?」
「見られてる」
「誰に?」
少年は答えない。
病室の奥。
カーテンの隙間。
誰かが立っている。
白衣。
背が高い。
顔は影になって見えない。
その人物がゆっくりこちらを向く。
奏太は息を止めた。
「こっち見てる」
「走れ!」
少年が奏太を引っ張る。
二人は玄関から離れる。
その瞬間、
病室の中の人物が一歩近づいた。
あり得ない。
向こう側にいるはずなのに。
足音だけが、
桐谷家の廊下へ響いてくる。
コツ。
コツ。
コツ。
そして、
白衣の人物が玄関の境界を越えた。
「……!」
奏太は思わず後退する。
姿は男性医師のように見える。
年齢は五十代ほど。
だが顔がはっきりしない。
見ようとすると、
別の顔に見える。
教師。
父親。
知らない老人。
警察官。
そして一瞬だけ――
奏太自身。
「何なんだよ……」
白衣の人物が口を開く。
「確認します」
声も一定ではない。
低い男の声。
女の声。
子供。
老人。
「桐谷奏太さんですね?」
奏太は答えない。
「答えるな」
少年が言う。
「名前を確認されたら絶対に答えるな」
「なんで?」
「名前を渡すことになる」
白衣の人物が一歩近づく。
「桐谷奏太さん」
奏太は黙る。
「あなたは」
手元のカルテらしきものを見る。
「二〇一〇年八月二十八日、午前二時十三分に出生」
奏太の表情が変わる。
「……俺の誕生日」
少年が奏太を見る。
「本当?」
「うん」
白衣の人物が続ける。
「出生時体重」
一瞬、
声が途切れる。
まるで何かが欠落しているように。
「……記録なし」
「母親」
また停止。
「桐谷真由美」
「父親」
「桐谷浩介」
「出生証明」
一拍。
「不存在」
奏太の手が震える。
白衣の人物が顔を上げる。
「したがって」
笑った。
「桐谷奏太は存在しません」
◇
「ふざけんな!」
奏太が叫ぶ。
「俺はここにいる!」
「答えるな!」
少年が止める。
しかし遅かった。
白衣の人物の顔が、
一瞬だけ完全な奏太の顔になる。
「確認しました」
「え?」
「自己申告」
奏太の背中が冷える。
「桐谷奏太」
白衣の人物がカルテへ何かを書く。
「登録」
「何した!」
「走れ!」
少年が奏太の腕を引っ張る。
二人は階段へ向かう。
背後から白衣の人物の声。
「逃走は記録されます」
「知るか!」
「存在確認」
「やめろ!」
「家族照合」
家の中に、
何人もの声が響き始める。
母。
「奏太?」
美月。
「お兄ちゃん?」
莉子。
「奏太!」
直人。
「おい!」
父。
「奏太」
奏太は耳を塞ぐ。
「聞くな!」
少年と二階へ駆け上がる。
奏太の部屋。
扉を閉める。
鍵。
机を押しつける。
二人は息を切らす。
「何だったんだ」
「管理するもの」
「何を?」
「名前」
「……」
「たぶん」
少年は壁を見る。
「外にいる人間を」
「それ、人間なのか?」
「分からない」
「怪物?」
「そういう言い方が正しいかも分からない」
奏太は苛立つ。
「何なら分かるんだよ!」
「ルール」
「ルール?」
「こいつらにはルールがある」
少年が指を折る。
「名前」
「記憶」
「場所」
「写真」
「時間」
「それが?」
「全部が一致すると」
一拍。
「外に出られる」
「誰が?」
「向こう側のもの」
奏太は最初の写真を思い出す。
自分の家。
自分の部屋。
自分の顔。
カウントダウン。
「写真って」
「外側の記録」
「記録?」
「人間は記憶を忘れる」
「……」
「でも写真は残る」
「だから写真を書き換えてる?」
「そう」
「でも写真そのものも変わってた」
「だから怖いんだ」
少年が言う。
「記憶だけじゃない」
「……」
「記録まで変えられる」
「じゃあどうやって本物を証明する?」
「できない」
奏太は黙る。
「写真も」
「……」
「戸籍も」
「……」
「家族の記憶も」
「……」
「全部変えられたら」
少年は奏太を見る。
「本物と偽物の違いはなくなる」
奏太は床を見る。
「だったら……」
「何?」
「本物って何だよ」
少年は答えられなかった。
◇
午前零時。
八月二十七日。
スマートフォンの時計が日付を変える。
その瞬間。
通知。
一枚の写真。
奏太は嫌な予感を抱えながら開く。
学校。
二年三組。
クラス全員の集合写真。
一人。
二人。
三人。
知らない顔が増えている。
「……これ」
昨日までいなかった生徒が何人もいる。
それなのに。
名前を見る。
全員、
クラス名簿に載っている。
「増えてる」
少年が呟く。
「何が?」
「交換された人間」
奏太は写真を見る。
直人。
いる。
莉子。
いる。
もう一人の奏太。
いる。
その中に、
自分はいない。
「俺だけ……」
写真の裏。
『あと四日』
その下。
『学校照合率 83%』
「照合率?」
「交換の進行度かも」
さらに通知。
『家族照合率 100%』
奏太の顔色が変わる。
「家族は……」
少年が何も言わない。
100%。
つまり。
家族の記憶から、
本物の奏太は完全に消えた。
いや。
そもそも自分が本物なのかすら分からない。
「母さん……」
その時。
廊下から声。
「奏太?」
母親。
奏太が顔を上げる。
「出るな」
少年が言う。
扉の向こう。
「奏太、いる?」
奏太は答えない。
「入っていい?」
ノブが動く。
机が扉を押さえている。
「開かない」
母親の声。
「奏太?」
少し困ったような声。
「どうしたの?」
奏太は涙を堪える。
「母さん」
「!」
少年が止める。
しかし奏太は続ける。
「一つ聞いていい?」
「何?」
「俺が五歳の時」
奏太は思い出す。
「美月の誕生日ケーキ」
「……」
「俺が落とした」
扉の向こうが静かになる。
「母さん、怒らなかった」
「……」
「その代わり」
奏太は微笑む。
「三人でコンビニ行った」
「覚えてる?」
沈黙。
「母さん」
扉の向こうから返事。
「もちろん」
奏太の目が変わる。
「何買った?」
沈黙。
「覚えてるなら言えるよね」
「……」
母親の声が、
少しだけ低くなる。
「ショートケーキ」
奏太は目を閉じた。
「違う」
少年が奏太を見る。
「何だった?」
「ケーキ買ってない」
奏太は答える。
「美月が『アイスがいい』って言ったから」
思わず笑う。
「三人でカップアイス買った」
扉の向こうが黙る。
「母さんじゃない」
奏太の声が震える。
「お前は母さんじゃない」
数秒。
すると。
扉の向こうから、
笑い声。
「どうして?」
母親の声。
「顔も同じ」
「……」
「声も同じ」
「……」
「記憶もほとんど同じ」
奏太は拳を握る。
「それでも違う」
「何が?」
「分かるんだよ」
伯母が言った言葉。
家族だから分かる。
「俺の母さんじゃない」
その瞬間。
ドアノブが止まる。
扉の向こうから、
別の声。
男。
「なるほど」
白衣の人物。
「感情記憶」
少年の顔色が変わる。
「逃げろ!」
バン!
扉が大きく揺れる。
机が動く。
「何だ!」
「見分け方を知られた!」
もう一度。
バン!
「どういうこと!」
「こいつらは学習する!」
バン!
机がずれる。
「今の質問を覚えられた!」
「じゃあ次から!」
「正しく答えてくる!」
奏太の顔色が変わる。
つまり。
今使った見分け方は、
もう二度と通用しない。
「窓!」
少年が叫ぶ。
「二階だぞ!」
「いいから開けろ!」
奏太が窓を開ける。
外。
しかし。
「……何だよこれ」
庭がない。
窓の外に、
長い廊下。
無数の白い扉。
「もう家じゃない」
少年が言う。
「向こう側とつながった」
扉が破られる。
バン!
机が倒れる。
白衣の人物が部屋へ入る。
「桐谷奏太」
少年が窓を越える。
「来い!」
奏太も続く。
二人は、
窓の外にあるはずのない廊下へ飛び込んだ。
◇
そこは静かだった。
白い床。
白い壁。
天井は見えない。
左右に無数の扉。
それぞれ名前が書かれている。
奏太は走りながら読む。
水瀬莉子 3
高瀬直人 2
桐谷美月 4
桐谷真由美 7
「数字が違う」
「交換回数かもしれない」
「母さん七回?」
「今の時点ではね」
奏太は足を止めそうになる。
「そんな……」
「走れ!」
後ろ。
白衣の人物が追ってくる。
歩いているだけなのに、
距離が縮まる。
「どこ行くんだ!」
「出口!」
「分かるの?」
「昔使った!」
少年が右へ曲がる。
廊下。
また扉。
その時。
奏太が立ち止まった。
「待って」
「何!」
一枚の扉。
『桐谷浩介 1』
「父さん……」
「開けるな!」
「でも」
「罠かもしれない!」
扉の向こう。
コン。
コン。
奏太の呼吸が止まる。
「奏太」
父親の声。
「待ってた」
少年も固まる。
「この声……」
「何?」
「違う」
少年が呟く。
「さっきの偽物と」
父親の声。
「奏太」
弱い。
疲れている。
「そっちにいるのか?」
少年が扉へ近づく。
「浩介……?」
扉の向こうが静かになる。
「その声」
一拍。
「お前か」
少年が泣きそうな顔になる。
「覚えてるの?」
「忘れるわけない」
奏太は二人を見る。
「知り合い?」
父親の声が言う。
「奏太」
「何?」
「そいつを信用するな」
少年が表情を変える。
「お前!」
「二十二年前」
扉の向こう。
「俺をここへ閉じ込めたのは」
一拍。
「そいつだ」
奏太は少年を見る。
少年は何も言わない。
「本当?」
「……」
「答えて」
「本当だよ」
「じゃあ」
「でも聞いて!」
「何を!」
「僕は知らなかった!」
少年の声が震える。
「交換したら浩介が消えるなんて知らなかった!」
「嘘だ!」
「本当だ!」
扉の向こうの父親が言う。
「奏太」
「……」
「開けてくれ」
奏太はドアノブを見る。
少年が腕をつかむ。
「待って」
「なんで」
「確認しろ」
「何を?」
「本物か」
奏太は考える。
そして。
「父さん」
「何だ」
「俺が小さい頃、雨の日に車で」
「歌った」
奏太の呼吸が止まる。
扉の向こうから、
父親が続ける。
「あまりにもお前が泣くから」
「……」
「俺、適当に作った歌を歌った」
奏太の目から涙が落ちる。
「何て歌?」
短い沈黙。
そして父親が、
その時だけのふざけた言葉を、
正確に言った。
奏太しか知らない。
誰にも話していない。
少年が青ざめる。
「……本物」
奏太はドアノブを握る。
その瞬間。
後ろから声。
「確認完了」
白衣の人物。
「開けるな!」
少年が叫ぶ。
しかし。
遅かった。
奏太は扉を開けた。
◇
中は、
狭い子供部屋だった。
机。
ベッド。
古い玩具。
壁には二十二年前のカレンダー。
その中央。
一人の男が座っている。
「……父さん?」
五年前に亡くなった姿ではない。
八歳の少年でもない。
四十代。
奏太が知っている父親。
少し痩せている。
でも。
笑顔。
「奏太」
男が立ち上がる。
「大きくなったな」
奏太は動けなかった。
「本当に……」
「ああ」
「父さん?」
「そうだ」
奏太は父親へ近づく。
少年が叫ぶ。
「待て!」
その瞬間。
白衣の人物が部屋の入口に立った。
「再会を確認」
父親の表情が変わる。
「逃げろ!」
「え?」
「奏太、こっち!」
父が部屋の奥の壁を叩く。
壁が開く。
隠し通路。
「早く!」
三人で飛び込む。
白衣の人物が追う。
「桐谷浩介」
父親は振り返らない。
「桐谷奏太」
奏太も答えない。
「九番目」
少年が震える。
「走れ!」
◇
通路は暗かった。
どこまでも続く。
しばらく走ったところで、
父親が立ち止まった。
「ここなら少し時間がある」
奏太は息を切らす。
「父さん」
「ああ」
「本当に……」
「疑うのは当然だ」
父親は奏太を見る。
「俺も、お前が本物か分からない」
その言葉が、
意外にも奏太を安心させた。
「……そうだよね」
「でも」
父親は笑う。
「今はそれでいい」
「え?」
「本物か偽物かなんて」
「……」
「外で一緒に生きてたら、だんだん分からなくなる」
少年が下を向く。
父親は彼を見る。
「お前も」
「……」
「久しぶりだな」
「ごめん」
少年が言う。
「浩介」
「二十二年遅いよ」
「本当に……ごめん」
父親はしばらく少年を見る。
そして。
「もういい」
少年が顔を上げる。
「え?」
「お前が俺として生きてたんだろ」
「……」
「真由美と結婚した?」
「うん」
「奏太と美月を育てた?」
「……うん」
「だったら」
父親は苦笑する。
「俺より父親してるじゃないか」
奏太は胸が締めつけられた。
二人いる父親。
どちらが本物なのか。
もう、
簡単には決められなかった。
◇
「父さん」
「何?」
「教えて」
奏太は聞く。
「ここは何?」
父親の表情が変わる。
「俺も全部は知らない」
「でも二十二年いたんでしょ?」
「ああ」
「分かったことは?」
父親は暗い通路の奥を見る。
「ここは」
一拍。
「人間の記憶から作られてる」
「記憶?」
「部屋」
「……」
「廊下」
「……」
「家」
「……」
「学校」
「全部?」
「誰かが覚えている場所が」
父親は壁へ触れる。
「ここに再現される」
奏太は思い出す。
自宅。
病室。
学校。
「じゃあ」
「だから出口も変わる」
「どうやって出る?」
「外の誰かに」
「……」
「自分を思い出してもらう」
奏太は息を呑む。
「それが出口?」
「そう」
「でも家族は俺を忘れた」
「だから今のお前は出にくい」
「莉子も」
「完全に?」
奏太は迷う。
「一度忘れた」
「でも」
父親が奏太を見る。
「一度でも、自力で思い出した人間はいる?」
「……」
奏太は考える。
莉子。
最初にクラス写真から奏太が消えた時。
彼女だけは、
自分が写っていたことを覚えていた。
「莉子」
「その子」
父親が言う。
「鍵になるかもしれない」
「でも今は」
「探せ」
「どこで?」
「この中にいる可能性がある」
少年が顔を上げる。
「扉」
「何?」
「水瀬莉子の扉、あった」
奏太も思い出す。
水瀬莉子 3
「行こう」
父親が言う。
「でも白衣の奴が」
「避ける」
「できる?」
「二十二年逃げてきた」
父親は少し笑う。
「得意だよ」
◇
三人は再び通路を進んだ。
何度も曲がる。
途中、
壁の向こうから声が聞こえる。
知らない家族。
泣く子供。
笑う人。
助けを求める声。
でも立ち止まらない。
やがて、
一本の廊下へ出る。
扉。
水瀬莉子 1
水瀬莉子 2
水瀬莉子 3
「三つ……」
「どれ?」
奏太が聞く。
父親は首を横に振る。
「分からない」
「開けるしかない?」
「一つずつ」
奏太はまず、
1
の扉へ近づく。
「莉子?」
返事はない。
ノック。
コン、コン。
「莉子!」
しばらくして。
小さな声。
「……奏太?」
奏太の表情が変わる。
「莉子!」
「本当に?」
「俺だ!」
「証明して」
奏太は息を呑む。
莉子も警戒している。
「卒業式」
奏太が言う。
「キーホルダー」
扉の向こうで、
すすり泣く声。
「……校庭」
「うん」
「暗くなるまで探した」
「うん」
「見つからなかった」
「そう」
奏太の目に涙。
「莉子」
扉を開ける。
◇
教室だった。
小学校六年生の教室。
莉子が一人、
窓際に座っている。
「奏太……!」
莉子が駆け寄る。
奏太も彼女を抱き止めそうになり、寸前で立ち止まる。
「本当に莉子?」
「今それ言う!?」
莉子が泣きながら笑う。
「ごめん」
「こっちの台詞!」
「覚えてる?」
「全部じゃない」
莉子は頭を押さえる。
「何度も忘れた」
「何があった?」
「学校で」
「うん」
「もう一人の奏太と話してた」
「……」
「その時」
莉子は目を閉じる。
「急に、昔からその人が奏太だったような気がしてきた」
「やっぱり記憶が」
「でも」
奏太を見る。
「何か違った」
「何が?」
「分かんない」
一度笑う。
「でも奏太って」
「うん」
「もっと面倒くさいから」
「悪口?」
「褒めてる」
奏太も少し笑った。
このやり取りだけで、
莉子本人だと思えた。
その時。
莉子が父親と少年を見る。
「……誰?」
奏太は答えに困る。
「説明すると長い」
「簡単に」
「父さんが二人」
「全然簡単じゃない」
◇
莉子はこの場所へ来た経緯を話した。
「教室にいたら」
「うん」
「壁に扉が出た」
「開けた?」
「開けてない」
「じゃあどうしてここに?」
「後ろから」
「後ろ?」
「誰かに名前呼ばれた」
「返事した?」
莉子の表情が曇る。
「……うん」
少年が息を呑む。
「登録された」
「何それ」
「俺もやった」
「最悪じゃん」
「うん」
莉子は続ける。
「返事した瞬間、学校が消えた」
「それでこの教室?」
「気づいたらここ」
奏太は扉の番号を見る。
1。
「でも莉子は1なんだ」
「何の数字?」
「まだ分かってない」
その時。
父親が言う。
「違う」
「何?」
「分かったかもしれない」
三人が父親を見る。
「この数字」
父親は莉子の扉を見る。
「交換回数じゃない」
「じゃあ?」
「記憶の層」
「層?」
「一番古い記憶が1」
奏太の表情が変わる。
「だからこの教室」
「莉子が奏太を強く覚えている、古い記憶」
莉子が教室を見る。
「小六」
「そう」
少年が言う。
「じゃあ桐谷奏太1の扉は」
「奏太に関する最初の記憶」
奏太は息を呑む。
「俺の最初の記憶?」
「違う」
父が首を横へ振る。
「誰かが最初に『桐谷奏太』を覚えた場所」
全員が黙った。
「それって」
奏太が言う。
「母さん?」
「普通ならな」
「でも出生記録がない」
「ああ」
「じゃあ誰?」
父親は答えない。
その時。
莉子が黒板を見る。
「ねえ」
「何?」
「これ、さっきからあった?」
黒板。
白いチョーク。
四人とも、
誰も書いていない。
そこに文字。
『最初に桐谷奏太を覚えた人物』
その下。
名前。
奏太の呼吸が止まる。
『水瀬莉子』
「……私?」
莉子が呟く。
「あり得ない」
奏太が言う。
「俺たち幼なじみだけど」
「うん」
「赤ん坊の時の俺を莉子は知らない」
「私たち同い年だよ」
「じゃあ何で」
さらに文字が増える。
チョークが、
誰も触れていないのに動いている。
『桐谷奏太は、2010年に生まれていない。』
次。
『最初に確認されたのは、2009年8月31日。』
奏太は第五章で見た写真を思い出す。
同じ顔の子供が七人並んだ写真。
日付。
2009年8月31日。
「俺が生まれる一年前……」
黒板。
『観測者 水瀬莉子』
「待って」
莉子が震える。
「私、その時まだ」
「生まれてない」
「そう」
奏太は莉子を見る。
莉子も、
出生する前に、
ここにいた?
黒板の文字。
『観測開始まで 72時間』
その下に、
『あと三日』
奏太のスマートフォンが震える。
新しい写真。
古い病院の新生児室。
赤ん坊が何人も並んでいる。
一番端。
札。
『水瀬莉子』
その隣。
空のベッド。
札だけ。
『桐谷奏太』
写真の日付。
2009年8月31日。
「一年早い……」
莉子が呟く。
そして写真の裏。
たった一文。
『二人は、同じ日にここへ来た。』
「私たち……」
莉子が奏太を見る。
「何なの?」
その時。
廊下から、
ゆっくり足音。
白衣の人物。
父親が振り返る。
「来るぞ」
「逃げよう!」
しかし黒板に、
最後の文字。
『逃げる必要はありません。』
『観測者を返してください。』
莉子の表情が凍る。
「観測者って」
奏太は彼女を見る。
白衣の人物の声が、
扉の向こうから聞こえた。
「水瀬莉子」
一拍。
「あなたが桐谷奏太を作りました」
奏太も莉子も、
何も言えなかった。
そして。
教室中の窓ガラスに、
一斉に同じ写真が浮かび上がる。
赤ん坊の莉子。
空のベッド。
『桐谷奏太』という名前。
さらに、そのガラスに映った莉子の背後。
誰もいないはずの場所に、
八歳くらいの少女が立っている。
奏太はその少女を見て、
息を止めた。
顔が、
今の莉子とまったく同じだった。
少女はガラス越しに奏太を見つめ、
ゆっくり口を動かした。
「やっと思い出した?」
莉子の顔から、
完全に血の気が引いた。
「……私」
奏太が振り返る。
「どうした?」
莉子は頭を抱える。
「知ってる」
「何を?」
「この場所」
「莉子?」
「私……」
涙を流しながら、
彼女は言った。
「一度ここに来たことがある」
教室の時計。
午前二時十三分。
そして、
カウントダウンは、
あと三日。
――第八章「観測者」へ続く。
白い病室。
青白い蛍光灯。
古いカーテン。
壁に掛けられた丸時計。
そして、ベッドの上で泣いている若い女。
奏太の母――真由美だった。
今よりずっと若い。
まだ二十代前半くらいだろう。
その腕の中には赤ん坊。
けれど、その顔は奇妙なほど白く、遠目には表情が読み取れなかった。
病室の壁には大きく、
8
という数字。
「母さん……」
奏太が一歩踏み出す。
「待て」
少年が腕をつかんだ。
「入るな」
「でも」
「それが本当に過去だと思う?」
奏太は病室を見る。
「違うの?」
「分からない」
「またそれかよ」
「僕だって初めて見るんだ!」
少年の声には、本物の焦りがあった。
病室の真由美は二人に気づいていない。
ただ赤ん坊を抱きながら、何度も同じ言葉を呟いている。
「ごめんね」
「……」
「ごめんね」
「……」
「私が間違えたから」
奏太の表情が変わる。
「間違えた?」
その時。
病室の扉が開いた。
若い頃の父――浩介が入ってくる。
奏太が記憶している父親とは違う。
まだ若い。
しかし間違いなく浩介だった。
「真由美」
浩介がベッドへ近づく。
「どうだった?」
真由美は答えない。
「先生は?」
「……いないって」
「何が?」
真由美がゆっくり顔を上げる。
「記録が」
「……」
「奏太の出生記録がないって」
奏太の心臓が大きく鳴った。
病室の外にいる少年も、息を呑む。
「でも」
浩介が赤ん坊を見る。
「ここにいるだろ」
「そうなの」
真由美は泣いている。
「ここにいるの」
「だったら」
「でも私」
声が震える。
「この子を産んだ記憶がない」
奏太は動けなくなった。
浩介も言葉を失う。
「昨日までは覚えてた」
「……」
「陣痛が始まったことも」
「……」
「病院に来たことも」
「……」
「あなたが隣にいたことも」
真由美は赤ん坊を見る。
「全部覚えてたのに」
「真由美」
「今朝起きたら」
一拍。
「出産した記憶だけがない」
病室の時計。
午前二時十三分。
奏太はその時刻を見た瞬間、
背中が冷たくなった。
最初の写真。
午前二時十三分。
部屋の明かり。
窓辺に立つ人影。
「また……二時十三分」
少年が呟く。
◇
病室の場面は続いていた。
浩介が真由美の隣へ座る。
「疲れてるんだよ」
「違う」
「出産したばかりなんだから」
「違うの!」
真由美が声を上げる。
赤ん坊が泣き始める。
「分かるの」
「何が?」
「この子」
真由美は赤ん坊を見る。
「私の子じゃない」
奏太の胸が締めつけられた。
「やめてくれ……」
聞きたくなかった。
しかし目を逸らせない。
「顔も」
「……」
「手も」
「……」
「声も」
真由美は首を横へ振る。
「全部奏太なの」
「じゃあ」
「でも違う」
浩介が黙る。
「私しか分からない」
真由美は赤ん坊を抱き締める。
「昨日まで、この子のお腹に小さな痣があった」
奏太は自分の腹を見る。
ない。
「生まれた時からあった」
「……」
「でも今日ない」
「薄くなっただけじゃ」
「違う!」
真由美は浩介を見る。
「昨日までの奏太と」
一拍。
「今ここにいる奏太は違う」
奏太は病室の外で、
無意識に後ずさった。
「俺……」
声が出ない。
「生まれた直後に?」
少年は答えない。
「交換された?」
「可能性はある」
「じゃあ」
奏太は少年を見る。
「俺が八番目っていうのは」
「……」
「赤ん坊の時から八番目だったってこと?」
少年はゆっくり首を横に振る。
「違う」
「何が?」
「たぶん」
少年は病室の数字を見る。
8
「八番目は君じゃない」
「じゃあ誰?」
「この部屋」
「……?」
「8号室じゃない」
病室の扉には部屋番号がない。
壁だけに大きな数字。
「じゃあ何の8?」
少年が呟く。
「交換回数」
奏太の顔色が変わる。
「つまり」
少年が続ける。
「君が生まれる前に」
「……」
「この家系で少なくとも七回」
「交換が?」
「起きてる」
奏太は父親のことを思い出す。
浩介。
真由美。
子供の頃に消えた二人。
「父さんも母さんも……」
「たぶん、この連鎖の途中」
「じゃあ俺は」
「八回目」
奏太は壁の数字を見る。
「でも俺自身が八番目じゃなくて」
「交換そのものが八回目」
初めて、
一つの意味がつながった。
◇
病室の景色が揺れた。
「……何?」
蛍光灯が点滅する。
真由美と浩介の姿がノイズのようにぶれる。
病室の壁に黒い線が走る。
「まずい」
少年が言う。
「何が?」
「見られてる」
「誰に?」
少年は答えない。
病室の奥。
カーテンの隙間。
誰かが立っている。
白衣。
背が高い。
顔は影になって見えない。
その人物がゆっくりこちらを向く。
奏太は息を止めた。
「こっち見てる」
「走れ!」
少年が奏太を引っ張る。
二人は玄関から離れる。
その瞬間、
病室の中の人物が一歩近づいた。
あり得ない。
向こう側にいるはずなのに。
足音だけが、
桐谷家の廊下へ響いてくる。
コツ。
コツ。
コツ。
そして、
白衣の人物が玄関の境界を越えた。
「……!」
奏太は思わず後退する。
姿は男性医師のように見える。
年齢は五十代ほど。
だが顔がはっきりしない。
見ようとすると、
別の顔に見える。
教師。
父親。
知らない老人。
警察官。
そして一瞬だけ――
奏太自身。
「何なんだよ……」
白衣の人物が口を開く。
「確認します」
声も一定ではない。
低い男の声。
女の声。
子供。
老人。
「桐谷奏太さんですね?」
奏太は答えない。
「答えるな」
少年が言う。
「名前を確認されたら絶対に答えるな」
「なんで?」
「名前を渡すことになる」
白衣の人物が一歩近づく。
「桐谷奏太さん」
奏太は黙る。
「あなたは」
手元のカルテらしきものを見る。
「二〇一〇年八月二十八日、午前二時十三分に出生」
奏太の表情が変わる。
「……俺の誕生日」
少年が奏太を見る。
「本当?」
「うん」
白衣の人物が続ける。
「出生時体重」
一瞬、
声が途切れる。
まるで何かが欠落しているように。
「……記録なし」
「母親」
また停止。
「桐谷真由美」
「父親」
「桐谷浩介」
「出生証明」
一拍。
「不存在」
奏太の手が震える。
白衣の人物が顔を上げる。
「したがって」
笑った。
「桐谷奏太は存在しません」
◇
「ふざけんな!」
奏太が叫ぶ。
「俺はここにいる!」
「答えるな!」
少年が止める。
しかし遅かった。
白衣の人物の顔が、
一瞬だけ完全な奏太の顔になる。
「確認しました」
「え?」
「自己申告」
奏太の背中が冷える。
「桐谷奏太」
白衣の人物がカルテへ何かを書く。
「登録」
「何した!」
「走れ!」
少年が奏太の腕を引っ張る。
二人は階段へ向かう。
背後から白衣の人物の声。
「逃走は記録されます」
「知るか!」
「存在確認」
「やめろ!」
「家族照合」
家の中に、
何人もの声が響き始める。
母。
「奏太?」
美月。
「お兄ちゃん?」
莉子。
「奏太!」
直人。
「おい!」
父。
「奏太」
奏太は耳を塞ぐ。
「聞くな!」
少年と二階へ駆け上がる。
奏太の部屋。
扉を閉める。
鍵。
机を押しつける。
二人は息を切らす。
「何だったんだ」
「管理するもの」
「何を?」
「名前」
「……」
「たぶん」
少年は壁を見る。
「外にいる人間を」
「それ、人間なのか?」
「分からない」
「怪物?」
「そういう言い方が正しいかも分からない」
奏太は苛立つ。
「何なら分かるんだよ!」
「ルール」
「ルール?」
「こいつらにはルールがある」
少年が指を折る。
「名前」
「記憶」
「場所」
「写真」
「時間」
「それが?」
「全部が一致すると」
一拍。
「外に出られる」
「誰が?」
「向こう側のもの」
奏太は最初の写真を思い出す。
自分の家。
自分の部屋。
自分の顔。
カウントダウン。
「写真って」
「外側の記録」
「記録?」
「人間は記憶を忘れる」
「……」
「でも写真は残る」
「だから写真を書き換えてる?」
「そう」
「でも写真そのものも変わってた」
「だから怖いんだ」
少年が言う。
「記憶だけじゃない」
「……」
「記録まで変えられる」
「じゃあどうやって本物を証明する?」
「できない」
奏太は黙る。
「写真も」
「……」
「戸籍も」
「……」
「家族の記憶も」
「……」
「全部変えられたら」
少年は奏太を見る。
「本物と偽物の違いはなくなる」
奏太は床を見る。
「だったら……」
「何?」
「本物って何だよ」
少年は答えられなかった。
◇
午前零時。
八月二十七日。
スマートフォンの時計が日付を変える。
その瞬間。
通知。
一枚の写真。
奏太は嫌な予感を抱えながら開く。
学校。
二年三組。
クラス全員の集合写真。
一人。
二人。
三人。
知らない顔が増えている。
「……これ」
昨日までいなかった生徒が何人もいる。
それなのに。
名前を見る。
全員、
クラス名簿に載っている。
「増えてる」
少年が呟く。
「何が?」
「交換された人間」
奏太は写真を見る。
直人。
いる。
莉子。
いる。
もう一人の奏太。
いる。
その中に、
自分はいない。
「俺だけ……」
写真の裏。
『あと四日』
その下。
『学校照合率 83%』
「照合率?」
「交換の進行度かも」
さらに通知。
『家族照合率 100%』
奏太の顔色が変わる。
「家族は……」
少年が何も言わない。
100%。
つまり。
家族の記憶から、
本物の奏太は完全に消えた。
いや。
そもそも自分が本物なのかすら分からない。
「母さん……」
その時。
廊下から声。
「奏太?」
母親。
奏太が顔を上げる。
「出るな」
少年が言う。
扉の向こう。
「奏太、いる?」
奏太は答えない。
「入っていい?」
ノブが動く。
机が扉を押さえている。
「開かない」
母親の声。
「奏太?」
少し困ったような声。
「どうしたの?」
奏太は涙を堪える。
「母さん」
「!」
少年が止める。
しかし奏太は続ける。
「一つ聞いていい?」
「何?」
「俺が五歳の時」
奏太は思い出す。
「美月の誕生日ケーキ」
「……」
「俺が落とした」
扉の向こうが静かになる。
「母さん、怒らなかった」
「……」
「その代わり」
奏太は微笑む。
「三人でコンビニ行った」
「覚えてる?」
沈黙。
「母さん」
扉の向こうから返事。
「もちろん」
奏太の目が変わる。
「何買った?」
沈黙。
「覚えてるなら言えるよね」
「……」
母親の声が、
少しだけ低くなる。
「ショートケーキ」
奏太は目を閉じた。
「違う」
少年が奏太を見る。
「何だった?」
「ケーキ買ってない」
奏太は答える。
「美月が『アイスがいい』って言ったから」
思わず笑う。
「三人でカップアイス買った」
扉の向こうが黙る。
「母さんじゃない」
奏太の声が震える。
「お前は母さんじゃない」
数秒。
すると。
扉の向こうから、
笑い声。
「どうして?」
母親の声。
「顔も同じ」
「……」
「声も同じ」
「……」
「記憶もほとんど同じ」
奏太は拳を握る。
「それでも違う」
「何が?」
「分かるんだよ」
伯母が言った言葉。
家族だから分かる。
「俺の母さんじゃない」
その瞬間。
ドアノブが止まる。
扉の向こうから、
別の声。
男。
「なるほど」
白衣の人物。
「感情記憶」
少年の顔色が変わる。
「逃げろ!」
バン!
扉が大きく揺れる。
机が動く。
「何だ!」
「見分け方を知られた!」
もう一度。
バン!
「どういうこと!」
「こいつらは学習する!」
バン!
机がずれる。
「今の質問を覚えられた!」
「じゃあ次から!」
「正しく答えてくる!」
奏太の顔色が変わる。
つまり。
今使った見分け方は、
もう二度と通用しない。
「窓!」
少年が叫ぶ。
「二階だぞ!」
「いいから開けろ!」
奏太が窓を開ける。
外。
しかし。
「……何だよこれ」
庭がない。
窓の外に、
長い廊下。
無数の白い扉。
「もう家じゃない」
少年が言う。
「向こう側とつながった」
扉が破られる。
バン!
机が倒れる。
白衣の人物が部屋へ入る。
「桐谷奏太」
少年が窓を越える。
「来い!」
奏太も続く。
二人は、
窓の外にあるはずのない廊下へ飛び込んだ。
◇
そこは静かだった。
白い床。
白い壁。
天井は見えない。
左右に無数の扉。
それぞれ名前が書かれている。
奏太は走りながら読む。
水瀬莉子 3
高瀬直人 2
桐谷美月 4
桐谷真由美 7
「数字が違う」
「交換回数かもしれない」
「母さん七回?」
「今の時点ではね」
奏太は足を止めそうになる。
「そんな……」
「走れ!」
後ろ。
白衣の人物が追ってくる。
歩いているだけなのに、
距離が縮まる。
「どこ行くんだ!」
「出口!」
「分かるの?」
「昔使った!」
少年が右へ曲がる。
廊下。
また扉。
その時。
奏太が立ち止まった。
「待って」
「何!」
一枚の扉。
『桐谷浩介 1』
「父さん……」
「開けるな!」
「でも」
「罠かもしれない!」
扉の向こう。
コン。
コン。
奏太の呼吸が止まる。
「奏太」
父親の声。
「待ってた」
少年も固まる。
「この声……」
「何?」
「違う」
少年が呟く。
「さっきの偽物と」
父親の声。
「奏太」
弱い。
疲れている。
「そっちにいるのか?」
少年が扉へ近づく。
「浩介……?」
扉の向こうが静かになる。
「その声」
一拍。
「お前か」
少年が泣きそうな顔になる。
「覚えてるの?」
「忘れるわけない」
奏太は二人を見る。
「知り合い?」
父親の声が言う。
「奏太」
「何?」
「そいつを信用するな」
少年が表情を変える。
「お前!」
「二十二年前」
扉の向こう。
「俺をここへ閉じ込めたのは」
一拍。
「そいつだ」
奏太は少年を見る。
少年は何も言わない。
「本当?」
「……」
「答えて」
「本当だよ」
「じゃあ」
「でも聞いて!」
「何を!」
「僕は知らなかった!」
少年の声が震える。
「交換したら浩介が消えるなんて知らなかった!」
「嘘だ!」
「本当だ!」
扉の向こうの父親が言う。
「奏太」
「……」
「開けてくれ」
奏太はドアノブを見る。
少年が腕をつかむ。
「待って」
「なんで」
「確認しろ」
「何を?」
「本物か」
奏太は考える。
そして。
「父さん」
「何だ」
「俺が小さい頃、雨の日に車で」
「歌った」
奏太の呼吸が止まる。
扉の向こうから、
父親が続ける。
「あまりにもお前が泣くから」
「……」
「俺、適当に作った歌を歌った」
奏太の目から涙が落ちる。
「何て歌?」
短い沈黙。
そして父親が、
その時だけのふざけた言葉を、
正確に言った。
奏太しか知らない。
誰にも話していない。
少年が青ざめる。
「……本物」
奏太はドアノブを握る。
その瞬間。
後ろから声。
「確認完了」
白衣の人物。
「開けるな!」
少年が叫ぶ。
しかし。
遅かった。
奏太は扉を開けた。
◇
中は、
狭い子供部屋だった。
机。
ベッド。
古い玩具。
壁には二十二年前のカレンダー。
その中央。
一人の男が座っている。
「……父さん?」
五年前に亡くなった姿ではない。
八歳の少年でもない。
四十代。
奏太が知っている父親。
少し痩せている。
でも。
笑顔。
「奏太」
男が立ち上がる。
「大きくなったな」
奏太は動けなかった。
「本当に……」
「ああ」
「父さん?」
「そうだ」
奏太は父親へ近づく。
少年が叫ぶ。
「待て!」
その瞬間。
白衣の人物が部屋の入口に立った。
「再会を確認」
父親の表情が変わる。
「逃げろ!」
「え?」
「奏太、こっち!」
父が部屋の奥の壁を叩く。
壁が開く。
隠し通路。
「早く!」
三人で飛び込む。
白衣の人物が追う。
「桐谷浩介」
父親は振り返らない。
「桐谷奏太」
奏太も答えない。
「九番目」
少年が震える。
「走れ!」
◇
通路は暗かった。
どこまでも続く。
しばらく走ったところで、
父親が立ち止まった。
「ここなら少し時間がある」
奏太は息を切らす。
「父さん」
「ああ」
「本当に……」
「疑うのは当然だ」
父親は奏太を見る。
「俺も、お前が本物か分からない」
その言葉が、
意外にも奏太を安心させた。
「……そうだよね」
「でも」
父親は笑う。
「今はそれでいい」
「え?」
「本物か偽物かなんて」
「……」
「外で一緒に生きてたら、だんだん分からなくなる」
少年が下を向く。
父親は彼を見る。
「お前も」
「……」
「久しぶりだな」
「ごめん」
少年が言う。
「浩介」
「二十二年遅いよ」
「本当に……ごめん」
父親はしばらく少年を見る。
そして。
「もういい」
少年が顔を上げる。
「え?」
「お前が俺として生きてたんだろ」
「……」
「真由美と結婚した?」
「うん」
「奏太と美月を育てた?」
「……うん」
「だったら」
父親は苦笑する。
「俺より父親してるじゃないか」
奏太は胸が締めつけられた。
二人いる父親。
どちらが本物なのか。
もう、
簡単には決められなかった。
◇
「父さん」
「何?」
「教えて」
奏太は聞く。
「ここは何?」
父親の表情が変わる。
「俺も全部は知らない」
「でも二十二年いたんでしょ?」
「ああ」
「分かったことは?」
父親は暗い通路の奥を見る。
「ここは」
一拍。
「人間の記憶から作られてる」
「記憶?」
「部屋」
「……」
「廊下」
「……」
「家」
「……」
「学校」
「全部?」
「誰かが覚えている場所が」
父親は壁へ触れる。
「ここに再現される」
奏太は思い出す。
自宅。
病室。
学校。
「じゃあ」
「だから出口も変わる」
「どうやって出る?」
「外の誰かに」
「……」
「自分を思い出してもらう」
奏太は息を呑む。
「それが出口?」
「そう」
「でも家族は俺を忘れた」
「だから今のお前は出にくい」
「莉子も」
「完全に?」
奏太は迷う。
「一度忘れた」
「でも」
父親が奏太を見る。
「一度でも、自力で思い出した人間はいる?」
「……」
奏太は考える。
莉子。
最初にクラス写真から奏太が消えた時。
彼女だけは、
自分が写っていたことを覚えていた。
「莉子」
「その子」
父親が言う。
「鍵になるかもしれない」
「でも今は」
「探せ」
「どこで?」
「この中にいる可能性がある」
少年が顔を上げる。
「扉」
「何?」
「水瀬莉子の扉、あった」
奏太も思い出す。
水瀬莉子 3
「行こう」
父親が言う。
「でも白衣の奴が」
「避ける」
「できる?」
「二十二年逃げてきた」
父親は少し笑う。
「得意だよ」
◇
三人は再び通路を進んだ。
何度も曲がる。
途中、
壁の向こうから声が聞こえる。
知らない家族。
泣く子供。
笑う人。
助けを求める声。
でも立ち止まらない。
やがて、
一本の廊下へ出る。
扉。
水瀬莉子 1
水瀬莉子 2
水瀬莉子 3
「三つ……」
「どれ?」
奏太が聞く。
父親は首を横に振る。
「分からない」
「開けるしかない?」
「一つずつ」
奏太はまず、
1
の扉へ近づく。
「莉子?」
返事はない。
ノック。
コン、コン。
「莉子!」
しばらくして。
小さな声。
「……奏太?」
奏太の表情が変わる。
「莉子!」
「本当に?」
「俺だ!」
「証明して」
奏太は息を呑む。
莉子も警戒している。
「卒業式」
奏太が言う。
「キーホルダー」
扉の向こうで、
すすり泣く声。
「……校庭」
「うん」
「暗くなるまで探した」
「うん」
「見つからなかった」
「そう」
奏太の目に涙。
「莉子」
扉を開ける。
◇
教室だった。
小学校六年生の教室。
莉子が一人、
窓際に座っている。
「奏太……!」
莉子が駆け寄る。
奏太も彼女を抱き止めそうになり、寸前で立ち止まる。
「本当に莉子?」
「今それ言う!?」
莉子が泣きながら笑う。
「ごめん」
「こっちの台詞!」
「覚えてる?」
「全部じゃない」
莉子は頭を押さえる。
「何度も忘れた」
「何があった?」
「学校で」
「うん」
「もう一人の奏太と話してた」
「……」
「その時」
莉子は目を閉じる。
「急に、昔からその人が奏太だったような気がしてきた」
「やっぱり記憶が」
「でも」
奏太を見る。
「何か違った」
「何が?」
「分かんない」
一度笑う。
「でも奏太って」
「うん」
「もっと面倒くさいから」
「悪口?」
「褒めてる」
奏太も少し笑った。
このやり取りだけで、
莉子本人だと思えた。
その時。
莉子が父親と少年を見る。
「……誰?」
奏太は答えに困る。
「説明すると長い」
「簡単に」
「父さんが二人」
「全然簡単じゃない」
◇
莉子はこの場所へ来た経緯を話した。
「教室にいたら」
「うん」
「壁に扉が出た」
「開けた?」
「開けてない」
「じゃあどうしてここに?」
「後ろから」
「後ろ?」
「誰かに名前呼ばれた」
「返事した?」
莉子の表情が曇る。
「……うん」
少年が息を呑む。
「登録された」
「何それ」
「俺もやった」
「最悪じゃん」
「うん」
莉子は続ける。
「返事した瞬間、学校が消えた」
「それでこの教室?」
「気づいたらここ」
奏太は扉の番号を見る。
1。
「でも莉子は1なんだ」
「何の数字?」
「まだ分かってない」
その時。
父親が言う。
「違う」
「何?」
「分かったかもしれない」
三人が父親を見る。
「この数字」
父親は莉子の扉を見る。
「交換回数じゃない」
「じゃあ?」
「記憶の層」
「層?」
「一番古い記憶が1」
奏太の表情が変わる。
「だからこの教室」
「莉子が奏太を強く覚えている、古い記憶」
莉子が教室を見る。
「小六」
「そう」
少年が言う。
「じゃあ桐谷奏太1の扉は」
「奏太に関する最初の記憶」
奏太は息を呑む。
「俺の最初の記憶?」
「違う」
父が首を横へ振る。
「誰かが最初に『桐谷奏太』を覚えた場所」
全員が黙った。
「それって」
奏太が言う。
「母さん?」
「普通ならな」
「でも出生記録がない」
「ああ」
「じゃあ誰?」
父親は答えない。
その時。
莉子が黒板を見る。
「ねえ」
「何?」
「これ、さっきからあった?」
黒板。
白いチョーク。
四人とも、
誰も書いていない。
そこに文字。
『最初に桐谷奏太を覚えた人物』
その下。
名前。
奏太の呼吸が止まる。
『水瀬莉子』
「……私?」
莉子が呟く。
「あり得ない」
奏太が言う。
「俺たち幼なじみだけど」
「うん」
「赤ん坊の時の俺を莉子は知らない」
「私たち同い年だよ」
「じゃあ何で」
さらに文字が増える。
チョークが、
誰も触れていないのに動いている。
『桐谷奏太は、2010年に生まれていない。』
次。
『最初に確認されたのは、2009年8月31日。』
奏太は第五章で見た写真を思い出す。
同じ顔の子供が七人並んだ写真。
日付。
2009年8月31日。
「俺が生まれる一年前……」
黒板。
『観測者 水瀬莉子』
「待って」
莉子が震える。
「私、その時まだ」
「生まれてない」
「そう」
奏太は莉子を見る。
莉子も、
出生する前に、
ここにいた?
黒板の文字。
『観測開始まで 72時間』
その下に、
『あと三日』
奏太のスマートフォンが震える。
新しい写真。
古い病院の新生児室。
赤ん坊が何人も並んでいる。
一番端。
札。
『水瀬莉子』
その隣。
空のベッド。
札だけ。
『桐谷奏太』
写真の日付。
2009年8月31日。
「一年早い……」
莉子が呟く。
そして写真の裏。
たった一文。
『二人は、同じ日にここへ来た。』
「私たち……」
莉子が奏太を見る。
「何なの?」
その時。
廊下から、
ゆっくり足音。
白衣の人物。
父親が振り返る。
「来るぞ」
「逃げよう!」
しかし黒板に、
最後の文字。
『逃げる必要はありません。』
『観測者を返してください。』
莉子の表情が凍る。
「観測者って」
奏太は彼女を見る。
白衣の人物の声が、
扉の向こうから聞こえた。
「水瀬莉子」
一拍。
「あなたが桐谷奏太を作りました」
奏太も莉子も、
何も言えなかった。
そして。
教室中の窓ガラスに、
一斉に同じ写真が浮かび上がる。
赤ん坊の莉子。
空のベッド。
『桐谷奏太』という名前。
さらに、そのガラスに映った莉子の背後。
誰もいないはずの場所に、
八歳くらいの少女が立っている。
奏太はその少女を見て、
息を止めた。
顔が、
今の莉子とまったく同じだった。
少女はガラス越しに奏太を見つめ、
ゆっくり口を動かした。
「やっと思い出した?」
莉子の顔から、
完全に血の気が引いた。
「……私」
奏太が振り返る。
「どうした?」
莉子は頭を抱える。
「知ってる」
「何を?」
「この場所」
「莉子?」
「私……」
涙を流しながら、
彼女は言った。
「一度ここに来たことがある」
教室の時計。
午前二時十三分。
そして、
カウントダウンは、
あと三日。
――第八章「観測者」へ続く。