七日後、この町から私が消える
第八章 観測者
「私……一度ここに来たことがある」
莉子の言葉に、奏太は何も返せなかった。
窓ガラスには、八歳くらいの莉子と同じ顔をした少女が映っている。
その少女は笑っていた。
懐かしい誰かを見るように。
「どういうこと?」
奏太が聞く。
「覚えてるの?」
「少しだけ」
莉子は頭を押さえる。
「夢だと思ってた」
「どんな夢?」
「白い廊下」
奏太と少年、そして浩介が顔を見合わせる。
「扉がいっぱいあった」
「今いる場所と同じ?」
「……うん」
莉子は教室を見回す。
「でも私はもっと小さかった」
「八歳?」
「たぶん」
ガラスに映る少女と同じくらい。
「誰かと一緒だった?」
莉子は目を閉じる。
「男の子」
奏太の心臓が跳ねる。
「どんな?」
「顔が……」
思い出そうとしている。
「分からない」
「俺?」
「違う」
莉子は首を横に振る。
「でも」
「何?」
「奏太って呼んでた」
奏太は息を呑む。
◇
廊下の足音が近づく。
コツ。
コツ。
白衣の人物。
父親が扉を押さえる。
「話は後だ!」
「でも!」
「逃げるぞ!」
少年が教室の奥へ走る。
「窓!」
莉子が叫ぶ。
窓の外は校庭ではない。
また白い廊下。
四人は窓を越える。
その直後。
教室の扉が開いた。
「水瀬莉子」
白衣の人物。
「観測を終了してください」
「嫌!」
莉子が振り返る。
「私は何もしてない!」
「観測は継続中です」
「意味分かんない!」
「対象」
一拍。
「桐谷奏太」
奏太の背中が冷える。
「観測者」
「水瀬莉子」
「観測開始」
白衣の人物が言う。
「2009年8月31日 午前2時13分」
莉子が足を止めた。
「……」
「莉子!」
奏太が手を引く。
「走って!」
だが莉子は動かない。
「その日……」
「何?」
「私の夢」
「今はいい!」
「違う」
莉子の声が震える。
「夢じゃない」
白衣の人物が歩いてくる。
「思い出しましたね」
莉子がゆっくり振り返る。
「私……」
涙がこぼれる。
「奏太を見た」
「どこで?」
「病院」
奏太は息を止める。
「2009年?」
「うん」
「でも俺たち生まれてない」
「分かってる!」
莉子が頭を押さえる。
「でも見た!」
◇
その瞬間。
廊下の景色が変わった。
白い壁が揺れる。
蛍光灯。
病室。
ナースステーション。
古い病院の廊下。
2009年8月31日。
莉子が息を呑む。
「ここ……」
「知ってる?」
「うん」
小さな足音。
廊下の向こうから、
八歳くらいの少女が歩いてくる。
莉子と同じ顔。
現在の莉子が後ずさる。
「私……?」
少女は四人を通り過ぎる。
こちらが見えていない。
「記憶の再生」
浩介が言う。
「たぶん過去そのものじゃない」
「でも」
「見ることはできる」
四人は少女を追う。
少女莉子は病院の地下へ向かう。
階段。
一階。
地下。
立入禁止の扉。
少女は迷わず開ける。
「なんで知ってるんだ」
奏太が呟く。
地下には、
白い廊下。
今いる場所と同じ。
無数の扉。
少女は一枚の扉の前で止まった。
プレート。
『対象未登録』
少女がノックする。
コン、コン。
返事。
「……誰?」
子供の声。
莉子の表情が変わる。
「この声……」
「覚えてる?」
「うん」
扉の向こう。
「名前は?」
少女莉子が聞く。
「ない」
「じゃあ」
少し考える。
「奏太」
現在の奏太が凍りつく。
少女が続ける。
「今日から奏太ね」
扉のプレート。
文字が変わる。
『桐谷奏太』
奏太は言葉を失った。
「……莉子が」
浩介も呟く。
「名前をつけた」
少女は笑っている。
「奏太」
扉の向こうの子供が答える。
「うん」
「私、莉子」
「莉子」
「友達になろう」
「友達?」
「うん」
「友達って何?」
少女莉子が笑う。
「一緒にいる人」
扉の向こうの子供も、
小さく笑った。
「じゃあ莉子は友達」
「そう」
現在の莉子が涙を流す。
「思い出した……」
「全部?」
「まだ」
奏太は過去の場面を見る。
少女莉子は毎日、
扉の前へ来ていた。
話す。
笑う。
歌う。
学校の話。
家族の話。
外の世界。
扉の向こうの「奏太」は、
外のことを知らなかった。
「どうして八歳の莉子がここに?」
奏太が聞く。
莉子は首を横に振る。
「分からない」
浩介が呟く。
「君も交換された後だったのかもしれない」
「え?」
「八歳の姿」
「じゃあ」
莉子の顔色が変わる。
「この子は本物の私じゃない?」
「分からない」
「でも」
少年が言う。
「向こう側では年齢が固定されることがある」
莉子は少女の自分を見る。
「私も……ここにいた」
◇
記憶は進む。
ある日。
少女莉子は扉の前で泣いていた。
「奏太」
「どうしたの?」
「明日、もう来られない」
「なんで?」
「お母さんが引っ越すって」
「引っ越し?」
「遠くに行くの」
扉の向こうが静かになる。
「じゃあ友達じゃなくなる?」
「ならないよ」
「でも会えない」
「また来る」
「いつ?」
「分かんない」
少女莉子が扉へ手を当てる。
「でも忘れない」
現在の莉子が、
同じように手を伸ばす。
「私……」
「この子と約束した」
奏太を見る。
「奏太を忘れないって」
◇
翌日。
記憶の中の莉子は来なかった。
扉の向こうの子供。
待っている。
一日。
二日。
三日。
「莉子?」
返事はない。
「莉子」
さらに日が過ぎる。
「忘れないって言ったのに」
奏太の胸が痛む。
そして。
白衣の人物が現れる。
今と同じ。
「対象」
扉を見る。
「名称取得済み」
カルテ。
桐谷奏太
「観測者が不在です」
子供が聞く。
「観測者?」
「水瀬莉子」
「莉子は友達」
「観測終了時」
「何?」
白衣の人物が言う。
「対象は消去されます」
子供の声が震える。
「消える?」
「はい」
「嫌」
「規則です」
「莉子は忘れないって言った」
「観測者の記憶から対象が消失した場合」
「……」
「存在条件を満たしません」
現在の奏太が理解する。
「観測……」
「誰かが覚えてる限り存在できる?」
浩介が頷く。
「たぶんな」
莉子は泣いている。
「私は忘れた」
「子供だったんだから」
「でも約束した」
奏太が言う。
「莉子のせいじゃない」
「でも」
「違う」
奏太は記憶の中の子供を見る。
「俺があいつなら」
「……」
「待ってたんだろうな」
◇
記憶の中。
子供の奏太が叫ぶ。
「消えたくない!」
白衣の人物。
「観測者が必要です」
「莉子を戻して」
「不可能」
「じゃあ」
子供は扉を叩く。
「僕が外に行く!」
「交換が必要です」
「交換?」
「外部個体と名称、記憶、場所を一致させる必要があります」
「どうやって?」
白衣の人物は、
初めて笑った。
「候補を作成します」
奏太の顔色が変わる。
次の瞬間。
白い部屋。
七人の子供。
全員同じ顔。
第五章の写真。
「これが……」
少年が呟く。
「七人」
1。
2。
3。
4。
5。
6。
7。
扉の向こうの最初の子供。
そして候補。
「桐谷奏太」という名前を外に残すために作られた存在。
「俺たち」
少年が言う。
「莉子が忘れたから作られた?」
白衣の人物が記憶の中で説明する。
「観測者の記憶を再構成します」
「莉子を?」
「いいえ」
「では?」
「別の人間に『桐谷奏太』を観測させます」
画面。
町。
人間。
家族。
学校。
記憶。
「適切な家族を設定」
桐谷真由美。
桐谷浩介。
「出生記録を生成」
しかし。
エラー。
生成失敗。
「なんで?」
白衣の人物。
「観測者が水瀬莉子に固定されています」
「莉子じゃないと駄目?」
「はい」
「じゃあ」
子供が言う。
「莉子が生まれるまで待つ」
現在の莉子が息を呑む。
「2009年の八歳の莉子」は、
現在の莉子とは別の時間に存在している。
そして。
「観測者の再生成を開始します」
白衣の人物。
新しいベッド。
赤ん坊。
札。
水瀬莉子
その隣。
空のベッド。
桐谷奏太
奏太と莉子は、
言葉を失った。
◇
「待って」
莉子が言う。
「じゃあ私……」
「再生成?」
「私は」
声が震える。
「このために生まれたの?」
浩介が答える。
「まだ決めつけるな」
「でも!」
「記憶は加工される」
「……」
「この場面自体が罠かもしれない」
その瞬間。
白衣の人物の声。
「正解です」
四人が振り返る。
記憶の中にいるはずの白衣の人物が、
こちらを見ている。
「……見えてる?」
奏太が後ずさる。
「記憶ではありません」
白衣の人物。
「これは説明です」
「何?」
「理解を促進しています」
莉子が怒鳴る。
「何のために!」
「観測者の同意」
「同意?」
「最終観測には」
白衣の人物が莉子を見る。
「本人の同意が必要です」
「何をさせる気?」
「桐谷奏太を確定してください」
奏太の表情が変わる。
「確定?」
「現在、候補が複数存在します」
画面。
奏太。
もう一人の奏太。
少年。
扉の向こうにいる子供。
さらに、
無数の奏太。
「一人を選択してください」
「選んだら?」
「選択された個体のみ外部に固定」
「他は?」
莉子が聞く。
白衣の人物。
「不要になります」
少年が青ざめる。
「消される」
◇
「嫌」
莉子は即答した。
「選ばない」
「期限があります」
「知らない」
「8月31日午前0時」
「選ばない!」
「期限時」
一拍。
「全候補を外部へ開放します」
奏太が息を呑む。
「町全員が入れ替わるって」
「正確には」
白衣の人物。
「候補が空席を使用します」
「空席?」
「忘れられた人間」
「……」
「死亡者」
「……」
「記録の薄い人間」
「……」
「孤立した人間」
奏太の顔色が変わる。
この町の人々が、
次々と別の誰かに置き換わる。
「止める方法は?」
白衣の人物が莉子を見る。
「桐谷奏太を一人選択してください」
「嫌」
「または」
「何?」
「最初の対象を消去」
奏太が聞く。
「最初の対象って」
白衣の人物の顔が、
ゆっくり奏太へ変わる。
「あなたが」
一拍。
「最初に桐谷奏太と呼んだもの」
莉子の顔色が変わる。
「扉の中の子」
「はい」
「そいつを消したら?」
「候補生成の理由が消失します」
「全部元に戻る?」
「可能性があります」
「可能性?」
「完全な復元は保証されません」
莉子は拳を握る。
「そんなの」
「選択してください」
「嫌!」
◇
その瞬間。
世界が崩れた。
病院。
白い廊下。
教室。
全部が混ざる。
奏太たちは床へ投げ出される。
莉子が叫ぶ。
「奏太!」
「いる!」
目を開ける。
白い部屋。
中央に一枚の扉。
プレート。
『桐谷奏太 0』
奏太の呼吸が止まる。
「0……」
少年が震える。
「これ」
「最初の」
浩介が言う。
「誰にもコピーされる前」
莉子が扉へ近づく。
「私が名前をつけた子」
コン。
扉の向こう。
「莉子?」
声。
八歳くらいの少年。
莉子の目から涙。
「……奏太」
「来てくれた」
「ごめん」
「何が?」
「忘れてた」
「知ってる」
「ずっと待ってた?」
「うん」
「ごめんね」
奏太は二人を見ていた。
奇妙な感覚。
自分の名前。
自分の存在。
でも、
扉の向こうにいる子供こそが、
「桐谷奏太」という名前の始まり。
「莉子」
子供が言う。
「開けて」
莉子の手がノブへ伸びる。
「待って」
奏太が止める。
「どうして?」
「開けたら何が起きるか分からない」
「でも」
「白衣の奴が誘導してる」
莉子の手が止まる。
子供の声。
「奏太」
今度は現在の奏太へ。
「君も奏太?」
「……そうだと思う」
「変なの」
子供が笑う。
「僕も奏太」
「うん」
「じゃあ友達?」
奏太は苦笑する。
「たぶん」
「外って楽しい?」
「……まあ」
「学校ある?」
「ある」
「友達いる?」
奏太は莉子を見る。
「いる」
「家族は?」
答えに詰まる。
「……いるよ」
「いいな」
子供の声。
「僕も行きたい」
奏太の胸が痛む。
「でも」
子供が続ける。
「僕が外に行ったら」
一拍。
「君、いなくなるんでしょう?」
奏太は驚く。
「知ってるの?」
「ずっと聞いてたから」
「白衣の奴?」
「うん」
「だったら」
「だから開けなくていいよ」
莉子が息を呑む。
「え?」
「僕はここにいる」
「でも!」
「莉子」
声が優しい。
「今度は忘れない?」
莉子が泣く。
「忘れない」
「本当に?」
「絶対」
「じゃあ」
子供は笑った。
「それでいい」
奏太は、
扉の向こうの子供が、
本当に怪物なのか分からなくなった。
◇
その時。
少年――九番目が突然言った。
「違う」
「何?」
「おかしい」
全員が見る。
「最初の奏太が」
扉を見る。
「こんなこと言うはずない」
「どういう意味?」
「僕が知ってる最初の奴は」
少年の表情が強張る。
「外へ出ることに執着してた」
「でも長い間待って」
「違う!」
少年が叫ぶ。
「こいつ」
扉へ近づく。
「莉子との記憶を知らない」
「知ってるじゃん」
「表面だけ」
「何が違う?」
少年が扉へ向かって言う。
「莉子」
「?」
「最初に奏太へ教えた歌」
扉の向こうが黙る。
「何?」
莉子も考える。
「歌?」
「八歳の時」
「……」
「毎日歌ってた」
莉子の顔色が変わる。
「覚えてない」
「僕は覚えてる」
少年が言う。
「浩介として生きてた時に」
「……」
「夢で何度も聞いた」
扉へ。
「答えろ」
沈黙。
「お前は0じゃない」
その瞬間。
扉の向こうの声が変わった。
八歳の少年。
大人。
女性。
老人。
無数。
「確認失敗」
莉子が後ずさる。
「白衣の奴……?」
扉のプレートが落ちる。
『桐谷奏太 0』
その裏。
別の文字。
『管理室』
「罠!」
浩介が叫ぶ。
四人が離れる。
扉が開く。
向こうには、
巨大な部屋。
壁一面に写真。
何千枚。
何万枚。
町の住人。
家族。
学校。
病院。
そして中央。
白衣の人物。
「観測者」
莉子を見る。
「選択を拒否しました」
「当たり前でしょ!」
「では」
白衣の人物が手を上げる。
無数の写真が変わる。
町。
人々の顔。
一つずつ。
別の顔へ。
「開放準備を開始します」
奏太のスマートフォン。
通知。
『あと三日』
次。
『候補開放率 10%』
「もう始まってる……」
浩介が呟く。
「止める!」
奏太が一歩前へ。
「どうやって?」
莉子。
「管理室」
奏太は写真を見る。
「ここに仕組みがある」
少年も頷く。
「壊せるかもしれない」
白衣の人物が笑う。
「可能です」
全員が固まる。
「何?」
「管理機構を停止すれば」
「……」
「交換は停止します」
奏太が聞く。
「代償は?」
白衣の人物。
「向こう側に存在するすべての個体が」
一拍。
「同時に消失します」
少年が固まる。
浩介も。
奏太は二人を見る。
「それって」
白衣の人物。
「桐谷浩介」
「……」
「九番目」
「……」
「その他候補」
「……」
「そして」
奏太を見る。
「あなたを含む可能性があります」
「俺も?」
「あなたが外部個体か候補個体か」
「……」
「確定できていません」
奏太は笑った。
「最後までそれかよ」
莉子が腕をつかむ。
「奏太」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
奏太は管理室を見る。
「でも止めないと」
「他の方法を探す!」
「あと三日しかない」
「三日ある!」
莉子が叫ぶ。
「まだ三日ある!」
奏太は彼女を見る。
その時。
管理室の奥。
一枚の写真が目に入った。
「……待って」
「何?」
奏太が近づく。
写真。
古い。
日付。
2009年8月31日。
八歳の莉子。
白い扉。
そして、
扉の向こうから出てきた少年。
顔が写っている。
奏太ではない。
知らない少年。
「誰……?」
写真の裏。
名前。
『水瀬奏太』
莉子が息を止める。
「水瀬……?」
奏太ではなく。
桐谷でもなく。
水瀬奏太。
さらに写真。
同じ少年と八歳の莉子。
手をつないでいる。
裏面。
『兄妹 観測開始』
「兄妹……?」
奏太が莉子を見る。
莉子は震えている。
「私……」
「弟いた?」
「いない」
「本当に?」
「いない!」
でも。
莉子の目から、
涙が流れていた。
「なのに……」
「何?」
「名前」
莉子が写真へ手を伸ばす。
「知ってる」
「水瀬奏太?」
「うん」
頭を押さえる。
「私……」
記憶が戻る。
「弟がいた」
奏太の呼吸が止まる。
「八歳の時」
莉子が泣く。
「弟が消えた」
「……」
「みんな忘れた」
「……」
「私も」
写真。
水瀬奏太。
莉子の弟。
奏太より先に存在した、
もう一人の奏太。
そして。
白衣の人物が静かに言った。
「訂正します」
一拍。
「桐谷奏太の原型は、水瀬奏太です」
莉子が崩れ落ちた。
奏太は写真を握る。
自分の顔。
名前。
記憶。
家族。
すべての始まりが、
莉子の失った弟だった。
スマートフォンへ新しい通知。
『原型を確認しました。』
『復元まで 72時間』
そして最後。
『復元時、現在の桐谷奏太は削除されます。』
奏太は、
画面を見つめたまま動かなかった。
あと三日。
失われた本物の「奏太」が戻れば、
今の自分は消える。
そして莉子は、
ついに思い出してしまった。
自分が本当に取り戻したかった、
最初の奏太のことを。
――第九章「水瀬奏太」へ続く。
莉子の言葉に、奏太は何も返せなかった。
窓ガラスには、八歳くらいの莉子と同じ顔をした少女が映っている。
その少女は笑っていた。
懐かしい誰かを見るように。
「どういうこと?」
奏太が聞く。
「覚えてるの?」
「少しだけ」
莉子は頭を押さえる。
「夢だと思ってた」
「どんな夢?」
「白い廊下」
奏太と少年、そして浩介が顔を見合わせる。
「扉がいっぱいあった」
「今いる場所と同じ?」
「……うん」
莉子は教室を見回す。
「でも私はもっと小さかった」
「八歳?」
「たぶん」
ガラスに映る少女と同じくらい。
「誰かと一緒だった?」
莉子は目を閉じる。
「男の子」
奏太の心臓が跳ねる。
「どんな?」
「顔が……」
思い出そうとしている。
「分からない」
「俺?」
「違う」
莉子は首を横に振る。
「でも」
「何?」
「奏太って呼んでた」
奏太は息を呑む。
◇
廊下の足音が近づく。
コツ。
コツ。
白衣の人物。
父親が扉を押さえる。
「話は後だ!」
「でも!」
「逃げるぞ!」
少年が教室の奥へ走る。
「窓!」
莉子が叫ぶ。
窓の外は校庭ではない。
また白い廊下。
四人は窓を越える。
その直後。
教室の扉が開いた。
「水瀬莉子」
白衣の人物。
「観測を終了してください」
「嫌!」
莉子が振り返る。
「私は何もしてない!」
「観測は継続中です」
「意味分かんない!」
「対象」
一拍。
「桐谷奏太」
奏太の背中が冷える。
「観測者」
「水瀬莉子」
「観測開始」
白衣の人物が言う。
「2009年8月31日 午前2時13分」
莉子が足を止めた。
「……」
「莉子!」
奏太が手を引く。
「走って!」
だが莉子は動かない。
「その日……」
「何?」
「私の夢」
「今はいい!」
「違う」
莉子の声が震える。
「夢じゃない」
白衣の人物が歩いてくる。
「思い出しましたね」
莉子がゆっくり振り返る。
「私……」
涙がこぼれる。
「奏太を見た」
「どこで?」
「病院」
奏太は息を止める。
「2009年?」
「うん」
「でも俺たち生まれてない」
「分かってる!」
莉子が頭を押さえる。
「でも見た!」
◇
その瞬間。
廊下の景色が変わった。
白い壁が揺れる。
蛍光灯。
病室。
ナースステーション。
古い病院の廊下。
2009年8月31日。
莉子が息を呑む。
「ここ……」
「知ってる?」
「うん」
小さな足音。
廊下の向こうから、
八歳くらいの少女が歩いてくる。
莉子と同じ顔。
現在の莉子が後ずさる。
「私……?」
少女は四人を通り過ぎる。
こちらが見えていない。
「記憶の再生」
浩介が言う。
「たぶん過去そのものじゃない」
「でも」
「見ることはできる」
四人は少女を追う。
少女莉子は病院の地下へ向かう。
階段。
一階。
地下。
立入禁止の扉。
少女は迷わず開ける。
「なんで知ってるんだ」
奏太が呟く。
地下には、
白い廊下。
今いる場所と同じ。
無数の扉。
少女は一枚の扉の前で止まった。
プレート。
『対象未登録』
少女がノックする。
コン、コン。
返事。
「……誰?」
子供の声。
莉子の表情が変わる。
「この声……」
「覚えてる?」
「うん」
扉の向こう。
「名前は?」
少女莉子が聞く。
「ない」
「じゃあ」
少し考える。
「奏太」
現在の奏太が凍りつく。
少女が続ける。
「今日から奏太ね」
扉のプレート。
文字が変わる。
『桐谷奏太』
奏太は言葉を失った。
「……莉子が」
浩介も呟く。
「名前をつけた」
少女は笑っている。
「奏太」
扉の向こうの子供が答える。
「うん」
「私、莉子」
「莉子」
「友達になろう」
「友達?」
「うん」
「友達って何?」
少女莉子が笑う。
「一緒にいる人」
扉の向こうの子供も、
小さく笑った。
「じゃあ莉子は友達」
「そう」
現在の莉子が涙を流す。
「思い出した……」
「全部?」
「まだ」
奏太は過去の場面を見る。
少女莉子は毎日、
扉の前へ来ていた。
話す。
笑う。
歌う。
学校の話。
家族の話。
外の世界。
扉の向こうの「奏太」は、
外のことを知らなかった。
「どうして八歳の莉子がここに?」
奏太が聞く。
莉子は首を横に振る。
「分からない」
浩介が呟く。
「君も交換された後だったのかもしれない」
「え?」
「八歳の姿」
「じゃあ」
莉子の顔色が変わる。
「この子は本物の私じゃない?」
「分からない」
「でも」
少年が言う。
「向こう側では年齢が固定されることがある」
莉子は少女の自分を見る。
「私も……ここにいた」
◇
記憶は進む。
ある日。
少女莉子は扉の前で泣いていた。
「奏太」
「どうしたの?」
「明日、もう来られない」
「なんで?」
「お母さんが引っ越すって」
「引っ越し?」
「遠くに行くの」
扉の向こうが静かになる。
「じゃあ友達じゃなくなる?」
「ならないよ」
「でも会えない」
「また来る」
「いつ?」
「分かんない」
少女莉子が扉へ手を当てる。
「でも忘れない」
現在の莉子が、
同じように手を伸ばす。
「私……」
「この子と約束した」
奏太を見る。
「奏太を忘れないって」
◇
翌日。
記憶の中の莉子は来なかった。
扉の向こうの子供。
待っている。
一日。
二日。
三日。
「莉子?」
返事はない。
「莉子」
さらに日が過ぎる。
「忘れないって言ったのに」
奏太の胸が痛む。
そして。
白衣の人物が現れる。
今と同じ。
「対象」
扉を見る。
「名称取得済み」
カルテ。
桐谷奏太
「観測者が不在です」
子供が聞く。
「観測者?」
「水瀬莉子」
「莉子は友達」
「観測終了時」
「何?」
白衣の人物が言う。
「対象は消去されます」
子供の声が震える。
「消える?」
「はい」
「嫌」
「規則です」
「莉子は忘れないって言った」
「観測者の記憶から対象が消失した場合」
「……」
「存在条件を満たしません」
現在の奏太が理解する。
「観測……」
「誰かが覚えてる限り存在できる?」
浩介が頷く。
「たぶんな」
莉子は泣いている。
「私は忘れた」
「子供だったんだから」
「でも約束した」
奏太が言う。
「莉子のせいじゃない」
「でも」
「違う」
奏太は記憶の中の子供を見る。
「俺があいつなら」
「……」
「待ってたんだろうな」
◇
記憶の中。
子供の奏太が叫ぶ。
「消えたくない!」
白衣の人物。
「観測者が必要です」
「莉子を戻して」
「不可能」
「じゃあ」
子供は扉を叩く。
「僕が外に行く!」
「交換が必要です」
「交換?」
「外部個体と名称、記憶、場所を一致させる必要があります」
「どうやって?」
白衣の人物は、
初めて笑った。
「候補を作成します」
奏太の顔色が変わる。
次の瞬間。
白い部屋。
七人の子供。
全員同じ顔。
第五章の写真。
「これが……」
少年が呟く。
「七人」
1。
2。
3。
4。
5。
6。
7。
扉の向こうの最初の子供。
そして候補。
「桐谷奏太」という名前を外に残すために作られた存在。
「俺たち」
少年が言う。
「莉子が忘れたから作られた?」
白衣の人物が記憶の中で説明する。
「観測者の記憶を再構成します」
「莉子を?」
「いいえ」
「では?」
「別の人間に『桐谷奏太』を観測させます」
画面。
町。
人間。
家族。
学校。
記憶。
「適切な家族を設定」
桐谷真由美。
桐谷浩介。
「出生記録を生成」
しかし。
エラー。
生成失敗。
「なんで?」
白衣の人物。
「観測者が水瀬莉子に固定されています」
「莉子じゃないと駄目?」
「はい」
「じゃあ」
子供が言う。
「莉子が生まれるまで待つ」
現在の莉子が息を呑む。
「2009年の八歳の莉子」は、
現在の莉子とは別の時間に存在している。
そして。
「観測者の再生成を開始します」
白衣の人物。
新しいベッド。
赤ん坊。
札。
水瀬莉子
その隣。
空のベッド。
桐谷奏太
奏太と莉子は、
言葉を失った。
◇
「待って」
莉子が言う。
「じゃあ私……」
「再生成?」
「私は」
声が震える。
「このために生まれたの?」
浩介が答える。
「まだ決めつけるな」
「でも!」
「記憶は加工される」
「……」
「この場面自体が罠かもしれない」
その瞬間。
白衣の人物の声。
「正解です」
四人が振り返る。
記憶の中にいるはずの白衣の人物が、
こちらを見ている。
「……見えてる?」
奏太が後ずさる。
「記憶ではありません」
白衣の人物。
「これは説明です」
「何?」
「理解を促進しています」
莉子が怒鳴る。
「何のために!」
「観測者の同意」
「同意?」
「最終観測には」
白衣の人物が莉子を見る。
「本人の同意が必要です」
「何をさせる気?」
「桐谷奏太を確定してください」
奏太の表情が変わる。
「確定?」
「現在、候補が複数存在します」
画面。
奏太。
もう一人の奏太。
少年。
扉の向こうにいる子供。
さらに、
無数の奏太。
「一人を選択してください」
「選んだら?」
「選択された個体のみ外部に固定」
「他は?」
莉子が聞く。
白衣の人物。
「不要になります」
少年が青ざめる。
「消される」
◇
「嫌」
莉子は即答した。
「選ばない」
「期限があります」
「知らない」
「8月31日午前0時」
「選ばない!」
「期限時」
一拍。
「全候補を外部へ開放します」
奏太が息を呑む。
「町全員が入れ替わるって」
「正確には」
白衣の人物。
「候補が空席を使用します」
「空席?」
「忘れられた人間」
「……」
「死亡者」
「……」
「記録の薄い人間」
「……」
「孤立した人間」
奏太の顔色が変わる。
この町の人々が、
次々と別の誰かに置き換わる。
「止める方法は?」
白衣の人物が莉子を見る。
「桐谷奏太を一人選択してください」
「嫌」
「または」
「何?」
「最初の対象を消去」
奏太が聞く。
「最初の対象って」
白衣の人物の顔が、
ゆっくり奏太へ変わる。
「あなたが」
一拍。
「最初に桐谷奏太と呼んだもの」
莉子の顔色が変わる。
「扉の中の子」
「はい」
「そいつを消したら?」
「候補生成の理由が消失します」
「全部元に戻る?」
「可能性があります」
「可能性?」
「完全な復元は保証されません」
莉子は拳を握る。
「そんなの」
「選択してください」
「嫌!」
◇
その瞬間。
世界が崩れた。
病院。
白い廊下。
教室。
全部が混ざる。
奏太たちは床へ投げ出される。
莉子が叫ぶ。
「奏太!」
「いる!」
目を開ける。
白い部屋。
中央に一枚の扉。
プレート。
『桐谷奏太 0』
奏太の呼吸が止まる。
「0……」
少年が震える。
「これ」
「最初の」
浩介が言う。
「誰にもコピーされる前」
莉子が扉へ近づく。
「私が名前をつけた子」
コン。
扉の向こう。
「莉子?」
声。
八歳くらいの少年。
莉子の目から涙。
「……奏太」
「来てくれた」
「ごめん」
「何が?」
「忘れてた」
「知ってる」
「ずっと待ってた?」
「うん」
「ごめんね」
奏太は二人を見ていた。
奇妙な感覚。
自分の名前。
自分の存在。
でも、
扉の向こうにいる子供こそが、
「桐谷奏太」という名前の始まり。
「莉子」
子供が言う。
「開けて」
莉子の手がノブへ伸びる。
「待って」
奏太が止める。
「どうして?」
「開けたら何が起きるか分からない」
「でも」
「白衣の奴が誘導してる」
莉子の手が止まる。
子供の声。
「奏太」
今度は現在の奏太へ。
「君も奏太?」
「……そうだと思う」
「変なの」
子供が笑う。
「僕も奏太」
「うん」
「じゃあ友達?」
奏太は苦笑する。
「たぶん」
「外って楽しい?」
「……まあ」
「学校ある?」
「ある」
「友達いる?」
奏太は莉子を見る。
「いる」
「家族は?」
答えに詰まる。
「……いるよ」
「いいな」
子供の声。
「僕も行きたい」
奏太の胸が痛む。
「でも」
子供が続ける。
「僕が外に行ったら」
一拍。
「君、いなくなるんでしょう?」
奏太は驚く。
「知ってるの?」
「ずっと聞いてたから」
「白衣の奴?」
「うん」
「だったら」
「だから開けなくていいよ」
莉子が息を呑む。
「え?」
「僕はここにいる」
「でも!」
「莉子」
声が優しい。
「今度は忘れない?」
莉子が泣く。
「忘れない」
「本当に?」
「絶対」
「じゃあ」
子供は笑った。
「それでいい」
奏太は、
扉の向こうの子供が、
本当に怪物なのか分からなくなった。
◇
その時。
少年――九番目が突然言った。
「違う」
「何?」
「おかしい」
全員が見る。
「最初の奏太が」
扉を見る。
「こんなこと言うはずない」
「どういう意味?」
「僕が知ってる最初の奴は」
少年の表情が強張る。
「外へ出ることに執着してた」
「でも長い間待って」
「違う!」
少年が叫ぶ。
「こいつ」
扉へ近づく。
「莉子との記憶を知らない」
「知ってるじゃん」
「表面だけ」
「何が違う?」
少年が扉へ向かって言う。
「莉子」
「?」
「最初に奏太へ教えた歌」
扉の向こうが黙る。
「何?」
莉子も考える。
「歌?」
「八歳の時」
「……」
「毎日歌ってた」
莉子の顔色が変わる。
「覚えてない」
「僕は覚えてる」
少年が言う。
「浩介として生きてた時に」
「……」
「夢で何度も聞いた」
扉へ。
「答えろ」
沈黙。
「お前は0じゃない」
その瞬間。
扉の向こうの声が変わった。
八歳の少年。
大人。
女性。
老人。
無数。
「確認失敗」
莉子が後ずさる。
「白衣の奴……?」
扉のプレートが落ちる。
『桐谷奏太 0』
その裏。
別の文字。
『管理室』
「罠!」
浩介が叫ぶ。
四人が離れる。
扉が開く。
向こうには、
巨大な部屋。
壁一面に写真。
何千枚。
何万枚。
町の住人。
家族。
学校。
病院。
そして中央。
白衣の人物。
「観測者」
莉子を見る。
「選択を拒否しました」
「当たり前でしょ!」
「では」
白衣の人物が手を上げる。
無数の写真が変わる。
町。
人々の顔。
一つずつ。
別の顔へ。
「開放準備を開始します」
奏太のスマートフォン。
通知。
『あと三日』
次。
『候補開放率 10%』
「もう始まってる……」
浩介が呟く。
「止める!」
奏太が一歩前へ。
「どうやって?」
莉子。
「管理室」
奏太は写真を見る。
「ここに仕組みがある」
少年も頷く。
「壊せるかもしれない」
白衣の人物が笑う。
「可能です」
全員が固まる。
「何?」
「管理機構を停止すれば」
「……」
「交換は停止します」
奏太が聞く。
「代償は?」
白衣の人物。
「向こう側に存在するすべての個体が」
一拍。
「同時に消失します」
少年が固まる。
浩介も。
奏太は二人を見る。
「それって」
白衣の人物。
「桐谷浩介」
「……」
「九番目」
「……」
「その他候補」
「……」
「そして」
奏太を見る。
「あなたを含む可能性があります」
「俺も?」
「あなたが外部個体か候補個体か」
「……」
「確定できていません」
奏太は笑った。
「最後までそれかよ」
莉子が腕をつかむ。
「奏太」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
奏太は管理室を見る。
「でも止めないと」
「他の方法を探す!」
「あと三日しかない」
「三日ある!」
莉子が叫ぶ。
「まだ三日ある!」
奏太は彼女を見る。
その時。
管理室の奥。
一枚の写真が目に入った。
「……待って」
「何?」
奏太が近づく。
写真。
古い。
日付。
2009年8月31日。
八歳の莉子。
白い扉。
そして、
扉の向こうから出てきた少年。
顔が写っている。
奏太ではない。
知らない少年。
「誰……?」
写真の裏。
名前。
『水瀬奏太』
莉子が息を止める。
「水瀬……?」
奏太ではなく。
桐谷でもなく。
水瀬奏太。
さらに写真。
同じ少年と八歳の莉子。
手をつないでいる。
裏面。
『兄妹 観測開始』
「兄妹……?」
奏太が莉子を見る。
莉子は震えている。
「私……」
「弟いた?」
「いない」
「本当に?」
「いない!」
でも。
莉子の目から、
涙が流れていた。
「なのに……」
「何?」
「名前」
莉子が写真へ手を伸ばす。
「知ってる」
「水瀬奏太?」
「うん」
頭を押さえる。
「私……」
記憶が戻る。
「弟がいた」
奏太の呼吸が止まる。
「八歳の時」
莉子が泣く。
「弟が消えた」
「……」
「みんな忘れた」
「……」
「私も」
写真。
水瀬奏太。
莉子の弟。
奏太より先に存在した、
もう一人の奏太。
そして。
白衣の人物が静かに言った。
「訂正します」
一拍。
「桐谷奏太の原型は、水瀬奏太です」
莉子が崩れ落ちた。
奏太は写真を握る。
自分の顔。
名前。
記憶。
家族。
すべての始まりが、
莉子の失った弟だった。
スマートフォンへ新しい通知。
『原型を確認しました。』
『復元まで 72時間』
そして最後。
『復元時、現在の桐谷奏太は削除されます。』
奏太は、
画面を見つめたまま動かなかった。
あと三日。
失われた本物の「奏太」が戻れば、
今の自分は消える。
そして莉子は、
ついに思い出してしまった。
自分が本当に取り戻したかった、
最初の奏太のことを。
――第九章「水瀬奏太」へ続く。