七日後、この町から私が消える
第九章 水瀬奏太
「水瀬奏太……」
莉子は写真を握ったまま、しばらく動かなかった。
八歳の自分。
その隣に立つ少年。
手をつないで笑っている。
写真の裏には、
『兄妹 観測開始』
そして白衣の人物は言った。
「桐谷奏太の原型は、水瀬奏太です」
「違う……」
莉子が首を横に振る。
「私、弟なんて……」
言葉が止まる。
否定したい。
でも。
涙が止まらない。
「莉子」
奏太が声を掛ける。
「無理に思い出さなくていい」
「違うの」
「え?」
「思い出してる」
莉子は震えていた。
「少しずつ」
写真へ指を滑らせる。
「この服」
「うん」
「私が選んだ」
「……」
「青いTシャツ」
「……」
「お母さんは黄色がいいって言ったけど、奏太が青が好きだったから」
奏太は黙って聞く。
「それから」
莉子の声がさらに震える。
「この写真の日」
「……」
「私、奏太と喧嘩した」
「何で?」
「アイス」
涙を流しながら、
少し笑う。
「最後の一本を、どっちが食べるかで」
「……」
「私が取った」
笑顔が消える。
「その日の夜」
「……」
「奏太がいなくなった」
◇
管理室の壁に貼られた写真が、
一枚ずつ変わり始めた。
新しい写真ではない。
失われていた記憶が戻るように、古い写真の内容そのものが書き換わっていく。
水瀬家。
幼い莉子。
父親。
母親。
そして。
弟、奏太。
四人家族。
「いた……」
莉子が呟く。
「本当にいた」
別の写真。
公園。
莉子と奏太。
次。
水族館。
次。
運動会。
次。
病院。
「病院?」
現在の奏太が写真を取る。
八歳の莉子。
七歳くらいの弟。
病室。
弟はベッドに座っている。
「病気だったの?」
莉子は首を横に振る。
「違う」
「じゃあ何で?」
「検査」
「何の?」
「分からない」
その時、
白衣の人物が言った。
「水瀬奏太」
「……」
「先天的記憶異常」
莉子が顔を上げる。
「何それ」
「通常保持されない情報を保持していました」
「意味分かんない」
「具体的には」
白衣の人物は淡々と続ける。
「出生以前の記憶」
奏太たち全員が固まった。
「出生以前?」
浩介が聞く。
「はい」
「そんなのあり得ない」
「通常は」
白衣の人物。
「しかし水瀬奏太は」
一拍。
「自分が生まれる前の出来事を記憶していました」
莉子の呼吸が止まる。
「待って」
「何ですか」
「弟が」
莉子は頭を押さえる。
「小さい頃、変なこと言ってた」
「どんな」
「『ここ前にも来たことある』って」
「……」
「初めて行った場所なのに」
奏太が莉子を見る。
「他には?」
「知らない人の名前を知ってたり」
「……」
「昔の家の間取りを言い当てたり」
「……」
「お母さんが怖がってた」
白衣の人物が続ける。
「水瀬奏太は」
「複数の記憶層を保持していました」
「複数?」
「他者の記憶」
「……」
「消失した人間の記憶」
少年が顔色を変える。
「じゃあ」
「何ですか」
「こいつ」
写真の水瀬奏太を見る。
「向こう側と最初からつながってた?」
「正確には」
白衣の人物が、
わずかに笑う。
「境界でした」
◇
「境界?」
奏太が聞く。
「何と何の」
「記憶と存在」
「もっと分かるように言えよ」
白衣の人物は、
初めて少し間を置いた。
「人間は」
「記憶されることで、社会的に存在します」
「……」
「名前」
「……」
「家族」
「……」
「記録」
「……」
「他人の認識」
「……」
「それらが一致することで」
一拍。
「一人の人間として固定されます」
奏太はこれまでの出来事を思い出す。
写真。
出席簿。
家族。
友人。
すべて。
「じゃあ」
奏太が言う。
「全部から忘れられたら?」
「存在固定が解除されます」
「死ぬ?」
「違います」
「じゃあ?」
「空席になります」
誰も言葉を発しない。
「空席……」
「はい」
「そこに」
奏太が言う。
「向こう側の奴が入る?」
「はい」
浩介が拳を握る。
「この町でずっと起きてた交換は」
「空席を利用した固定処理です」
「誰がこんな仕組みを作った」
白衣の人物は答えない。
「お前か?」
「私は」
一拍。
「管理機構です」
「作った奴じゃない?」
「はい」
「じゃあ誰だよ」
白衣の人物は、
莉子を見る。
「水瀬奏太です」
◇
「……は?」
莉子の声がかすれる。
「弟が?」
「はい」
「子供でしょ!」
「当時七歳」
「そんなことできるわけない!」
「意図的ではありません」
「じゃあどういう意味!」
白衣の人物。
「水瀬奏太は」
「記憶したものを固定する性質を持っていました」
「……」
「そして」
写真が切り替わる。
病院地下。
白い廊下。
無数の扉。
「消失した人間を」
「……」
「忘れることができませんでした」
奏太が息を呑む。
「だから」
「はい」
白衣の人物。
「本来なら消えるはずだった人間が」
「水瀬奏太の記憶内に残留」
「……」
「残留した存在が」
「……」
「独立した空間を形成しました」
「それが」
浩介。
「ここ?」
「はい」
白い廊下。
部屋。
学校。
家。
すべて。
一人の少年が忘れられなかった人間たちの記憶から生まれた場所。
奏太の背中が冷たくなる。
「じゃあここって」
「墓場じゃない」
浩介が呟く。
「記憶の保管庫」
「より近い表現です」
◇
莉子が写真を見つめる。
「弟はどうなったの」
白衣の人物は答えない。
「答えて!」
「水瀬奏太は」
一拍。
「2009年8月31日」
「……」
「自己消失しました」
莉子の顔色が変わる。
「自己……」
「何で?」
「保持限界」
「……」
「他者の記憶を保持しすぎました」
写真。
七歳の少年。
病院のベッド。
泣いている。
「頭の中に」
莉子が呟く。
「いろんな人がいた?」
「はい」
「苦しかった?」
「はい」
莉子の目から涙。
「助けられなかった……」
「水瀬奏太は最後に」
「……」
「一つの選択をしました」
「何?」
白衣の人物。
「自分自身を忘れること」
莉子が固まる。
「そんな……」
「自らの記憶を分割」
「……」
「名前を切り離し」
「……」
「存在を複数の候補へ分散しました」
奏太の顔色が変わる。
「候補……」
「はい」
「じゃあ」
自分の胸へ手を当てる。
「俺たちは」
「水瀬奏太の」
一拍。
「分割された存在です」
◇
誰も言葉を出せなかった。
桐谷奏太。
九番目。
白い扉の向こうの子供。
七人の候補。
それらは、
コピーではなかった。
人間ですらない偽物でもなかった。
一人の少年が、自分を壊して残した断片。
「だから全員」
奏太が言う。
「同じ名前に集まった?」
「はい」
「でもなんで桐谷?」
白衣の人物は浩介を見る。
「最初に空席となった家系」
浩介の表情が変わる。
「俺?」
「正確には」
写真。
二十二年前。
八歳の浩介。
「桐谷浩介の消失」
「……」
「そこへ一つの断片が固定」
少年が下を向く。
「僕だ」
「はい」
「じゃあ」
奏太。
「父さんとして生きたお前も」
「水瀬奏太の一部?」
少年は何も言えない。
白衣の人物。
「はい」
少年の目から涙が落ちる。
「……そっか」
浩介が彼を見る。
「何?」
「じゃあ僕」
苦笑する。
「最初から誰かを奪うための怪物じゃなかったんだ」
浩介は黙る。
「外に出たかっただけ」
「……」
「普通に生きたかっただけだった」
奏太の胸が痛む。
◇
「じゃあ俺は」
奏太が聞く。
「どの断片?」
「不明」
「なんで」
「候補情報が混線しています」
「役に立たないな」
「ただし」
「何?」
「あなたには」
白衣の人物が奏太を見る。
「他候補に存在しない特性があります」
「何」
「自己疑念」
「……は?」
「他候補は」
「自己を桐谷奏太と信じています」
「……」
「あなたのみ」
「……」
「自分が本物ではない可能性を受け入れている」
奏太は苦笑した。
「褒められてんの?」
「重要です」
「何が」
「原型である水瀬奏太も」
一拍。
「最後まで自分が誰なのか疑っていました」
莉子が奏太を見る。
その目が、
少しだけ変わった。
「奏太……」
「やめて」
「え?」
「そういう顔しないで」
「でも」
「俺が原型かもしれないとか」
奏太は首を横に振る。
「まだ決めたくない」
◇
「水瀬奏太を復元したら」
莉子が聞く。
「どうなるの」
「分割個体を統合します」
「統合?」
「候補の記憶」
「……」
「感情」
「……」
「経験」
「……」
「すべてを一個体へ統合」
奏太の顔色が変わる。
「じゃあ俺たちが消えるって」
「完全な消失ではありません」
「……」
「水瀬奏太の一部になります」
「それ消えるのと同じだろ」
「定義によります」
「ふざけんな」
莉子が聞く。
「統合された奏太は」
「私の弟?」
「はい」
莉子の呼吸が止まる。
「本当に?」
「原型として復元されます」
莉子の表情に、
一瞬だけ希望が浮かぶ。
弟。
失った弟。
取り戻せる。
しかし、
隣には現在の奏太がいる。
今まで一緒に過ごしてきた。
奏太。
莉子は何も言えない。
「いいよ」
奏太が言った。
「え?」
「弟、戻したいんでしょ」
「奏太」
「俺がその一部なら」
少し笑う。
「完全に消えるわけじゃないんだろ」
「そんな言い方しないで!」
「でも」
「嫌!」
莉子が奏太の服を掴む。
「今の奏太は今の奏太でしょ!」
「分かんないよ」
「分かる!」
「どうやって!」
「私が覚えてる!」
奏太は言葉を失う。
莉子は泣いている。
「誰が何と言っても」
「……」
「写真が変わっても」
「……」
「記録がなくなっても」
「……」
「私は」
一拍。
「今ここにいる奏太を覚えてる」
管理室が静まり返った。
白衣の人物が莉子を見る。
「観測を確認」
莉子の表情が変わる。
「……何?」
「対象」
白衣の人物が奏太を見る。
「桐谷奏太」
「観測者」
「水瀬莉子」
「固定率」
数秒。
「98%」
「え?」
奏太が息を呑む。
白衣の人物。
「現在個体の固定が進行しています」
「じゃあ」
浩介が気づく。
「莉子が奏太を覚え続ければ」
「はい」
「こいつは消えない?」
「可能です」
莉子の顔が明るくなる。
「じゃあ!」
「ただし」
希望が止まる。
「原型復元と競合します」
「……」
「一つの名称に」
「……」
「二つの完全固定個体は存在できません」
◇
「つまり」
奏太が言う。
「俺が残るなら」
「水瀬奏太は戻れない」
「はい」
莉子の顔が歪む。
「逆なら」
「あなたは統合されます」
沈黙。
残酷な二択だった。
今の奏太。
失った弟。
一人しか選べない。
「期限は?」
浩介が聞く。
「八月31日午前0時」
「あと?」
約二日。
白衣の人物。
「期限到達時」
「観測者の最終認識を使用します」
「最終認識?」
「水瀬莉子が」
一拍。
「誰を奏太だと思っているか」
莉子は凍りついた。
「そんなの……」
「それにより」
「桐谷奏太固定」
「または」
「水瀬奏太復元」
「を実行します」
奏太が莉子を見る。
「俺を選ぶな」
「何言ってるの」
「弟だよ」
「でも!」
「ずっと探してたんだろ」
「覚えてなかった!」
「今は覚えてる」
「それでも!」
「莉子」
奏太は笑った。
「俺は」
一拍。
「今まで十分楽しかったから」
「やめて!」
その言葉が、
別れのように聞こえた。
◇
その時。
管理室の照明が赤く変わった。
警告音。
ピ――――。
「何?」
白衣の人物が初めて、
明確に動揺した。
「異常」
「何が」
「外部固定個体」
「……」
「増加」
壁の写真が一斉に切り替わる。
町。
住宅街。
学校。
駅。
人々。
「交換が!」
浩介が叫ぶ。
写真の人物が、
一人ずつ別の顔へ変わっていく。
白衣の人物。
「開放率」
42%。
「急に増えた!」
「原因不明」
「止めろよ!」
「管理権限外」
奏太が怒鳴る。
「じゃあ誰がやってる!」
白衣の人物が管理画面を見る。
そして。
完全に停止した。
「……」
「何?」
「答えろ!」
表示。
ADMINISTRATOR
その下。
名前。
奏太たちは画面を見る。
水瀬奏太
「原型?」
莉子が呟く。
「でも復元されてないんじゃ」
白衣の人物。
「そのはずです」
「じゃあ誰が」
画面に文字。
誰かが入力している。
『観測者を信用するな。』
莉子が後ずさる。
次。
『管理機構を信用するな。』
白衣の人物が画面を見る。
次。
『候補を信用するな。』
奏太が苦笑する。
「全員じゃん」
そして最後。
『桐谷奏太へ』
奏太が画面を見る。
『君だけが、まだ正しい記憶を持っている。』
「俺?」
次。
『最初の写真を思い出せ。』
奏太の表情が変わる。
最初の写真。
深夜の自宅。
午前二時十三分。
二階の自室。
明かり。
窓辺にいる人影。
「……」
何か。
ずっと見落としている。
「写真」
奏太がスマートフォンを取り出す。
保存してある最初の写真。
拡大。
家。
二階の窓。
少年。
「これが何……」
その時。
莉子が言う。
「奏太」
「何?」
「これ」
写真の一階。
リビングの窓。
カーテンの隙間。
小さく、
誰かが写っている。
今まで、
誰も気づいていなかった。
奏太が拡大する。
女の子。
中学生くらい。
「……美月?」
「違う」
奏太の手が止まる。
莉子も青ざめる。
少女は、
莉子だった。
「なんで……」
写真が撮影されたのは、
物語が始まった最初の夜。
莉子が奏太の家にいるはずはない。
さらに拡大。
莉子らしき少女は、
カメラを見ていない。
二階。
奏太の部屋を見上げている。
手には、
一枚の写真。
「待って」
現在の莉子が言う。
「私、持ってない」
「何を?」
「この服」
写真の莉子。
制服でも私服でもない。
白いワンピース。
「じゃあ誰?」
画面に、
新しいメッセージ。
『彼女は水瀬莉子ではありません。』
現在の莉子が息を止める。
次。
『水瀬莉子は2009年8月31日に死亡しています。』
世界が止まった。
「……え?」
莉子が笑った。
「何言って……」
浩介も画面を見る。
「死亡?」
次。
『現在存在する水瀬莉子は』
一文字ずつ。
『観測者候補2』
莉子の顔から、
血の気が引いていく。
「嘘……」
奏太は莉子を見る。
「そんな」
白衣の人物が管理画面を確認する。
「記録照合」
数秒。
「……」
「何?」
莉子が叫ぶ。
「言って!」
白衣の人物。
「2009年8月31日」
「水瀬家住宅火災」
「……」
「死亡者二名」
「……」
「水瀬莉子」
「……」
「水瀬奏太」
莉子はその場に崩れ落ちた。
「嘘……」
「じゃあ私は」
奏太も動けない。
莉子も。
最初から、
本物ではなかった?
画面に最後の文章。
『桐谷奏太』
『水瀬莉子』
『二人とも同じです。』
そして。
『本物は、とっくに死んでいます。』
沈黙。
すべての前提が、
もう一度崩れた。
その時。
管理室の奥。
今まで開かなかった黒い扉が、
ゆっくり開く。
向こう側。
焼け焦げた子供部屋。
壁。
煤。
床には、
二人の子供が並んで座っている。
七歳くらいの男の子。
八歳くらいの女の子。
水瀬奏太。
水瀬莉子。
写真で見た、
本物の二人。
少女がこちらを見る。
少年も見る。
そして、
二人同時に言った。
「やっと来た」
現在の莉子が震える。
「……私?」
少女は首を横に振る。
「違うよ」
そして。
現在の奏太を見る。
男の子も首を横へ振る。
「君も違う」
奏太は何も言えない。
本物の水瀬莉子。
本物の水瀬奏太。
二人は手をつないだまま、
静かに笑った。
「ずっと待ってた」
「何を?」
奏太が聞く。
少年は答える。
「僕たちを殺した人が戻ってくるのを」
現在の莉子が息を呑む。
「殺した……?」
少女が言う。
「火事じゃない」
少年が続ける。
「事故でもない」
そして二人は、
奏太たちの後ろを指した。
振り返る。
そこに立っていたのは、
白衣の人物。
しかし、
もう顔は揺れていなかった。
一つの顔。
はっきりした人間の顔。
奏太はその顔を知っていた。
「……校長?」
学校の校長だった。
白衣の男は、
静かに笑う。
そして。
「ようやく」
一拍。
「記憶がここまで戻りましたか」
管理室の時計。
8月28日 午前2時13分。
カウントダウン。
あと二日。
そして奏太は、
この七日間で初めて、
怪異ではなく、
人間によって始められた事件の存在を知ることになる。
――最終章「七日後」へ続く。
莉子は写真を握ったまま、しばらく動かなかった。
八歳の自分。
その隣に立つ少年。
手をつないで笑っている。
写真の裏には、
『兄妹 観測開始』
そして白衣の人物は言った。
「桐谷奏太の原型は、水瀬奏太です」
「違う……」
莉子が首を横に振る。
「私、弟なんて……」
言葉が止まる。
否定したい。
でも。
涙が止まらない。
「莉子」
奏太が声を掛ける。
「無理に思い出さなくていい」
「違うの」
「え?」
「思い出してる」
莉子は震えていた。
「少しずつ」
写真へ指を滑らせる。
「この服」
「うん」
「私が選んだ」
「……」
「青いTシャツ」
「……」
「お母さんは黄色がいいって言ったけど、奏太が青が好きだったから」
奏太は黙って聞く。
「それから」
莉子の声がさらに震える。
「この写真の日」
「……」
「私、奏太と喧嘩した」
「何で?」
「アイス」
涙を流しながら、
少し笑う。
「最後の一本を、どっちが食べるかで」
「……」
「私が取った」
笑顔が消える。
「その日の夜」
「……」
「奏太がいなくなった」
◇
管理室の壁に貼られた写真が、
一枚ずつ変わり始めた。
新しい写真ではない。
失われていた記憶が戻るように、古い写真の内容そのものが書き換わっていく。
水瀬家。
幼い莉子。
父親。
母親。
そして。
弟、奏太。
四人家族。
「いた……」
莉子が呟く。
「本当にいた」
別の写真。
公園。
莉子と奏太。
次。
水族館。
次。
運動会。
次。
病院。
「病院?」
現在の奏太が写真を取る。
八歳の莉子。
七歳くらいの弟。
病室。
弟はベッドに座っている。
「病気だったの?」
莉子は首を横に振る。
「違う」
「じゃあ何で?」
「検査」
「何の?」
「分からない」
その時、
白衣の人物が言った。
「水瀬奏太」
「……」
「先天的記憶異常」
莉子が顔を上げる。
「何それ」
「通常保持されない情報を保持していました」
「意味分かんない」
「具体的には」
白衣の人物は淡々と続ける。
「出生以前の記憶」
奏太たち全員が固まった。
「出生以前?」
浩介が聞く。
「はい」
「そんなのあり得ない」
「通常は」
白衣の人物。
「しかし水瀬奏太は」
一拍。
「自分が生まれる前の出来事を記憶していました」
莉子の呼吸が止まる。
「待って」
「何ですか」
「弟が」
莉子は頭を押さえる。
「小さい頃、変なこと言ってた」
「どんな」
「『ここ前にも来たことある』って」
「……」
「初めて行った場所なのに」
奏太が莉子を見る。
「他には?」
「知らない人の名前を知ってたり」
「……」
「昔の家の間取りを言い当てたり」
「……」
「お母さんが怖がってた」
白衣の人物が続ける。
「水瀬奏太は」
「複数の記憶層を保持していました」
「複数?」
「他者の記憶」
「……」
「消失した人間の記憶」
少年が顔色を変える。
「じゃあ」
「何ですか」
「こいつ」
写真の水瀬奏太を見る。
「向こう側と最初からつながってた?」
「正確には」
白衣の人物が、
わずかに笑う。
「境界でした」
◇
「境界?」
奏太が聞く。
「何と何の」
「記憶と存在」
「もっと分かるように言えよ」
白衣の人物は、
初めて少し間を置いた。
「人間は」
「記憶されることで、社会的に存在します」
「……」
「名前」
「……」
「家族」
「……」
「記録」
「……」
「他人の認識」
「……」
「それらが一致することで」
一拍。
「一人の人間として固定されます」
奏太はこれまでの出来事を思い出す。
写真。
出席簿。
家族。
友人。
すべて。
「じゃあ」
奏太が言う。
「全部から忘れられたら?」
「存在固定が解除されます」
「死ぬ?」
「違います」
「じゃあ?」
「空席になります」
誰も言葉を発しない。
「空席……」
「はい」
「そこに」
奏太が言う。
「向こう側の奴が入る?」
「はい」
浩介が拳を握る。
「この町でずっと起きてた交換は」
「空席を利用した固定処理です」
「誰がこんな仕組みを作った」
白衣の人物は答えない。
「お前か?」
「私は」
一拍。
「管理機構です」
「作った奴じゃない?」
「はい」
「じゃあ誰だよ」
白衣の人物は、
莉子を見る。
「水瀬奏太です」
◇
「……は?」
莉子の声がかすれる。
「弟が?」
「はい」
「子供でしょ!」
「当時七歳」
「そんなことできるわけない!」
「意図的ではありません」
「じゃあどういう意味!」
白衣の人物。
「水瀬奏太は」
「記憶したものを固定する性質を持っていました」
「……」
「そして」
写真が切り替わる。
病院地下。
白い廊下。
無数の扉。
「消失した人間を」
「……」
「忘れることができませんでした」
奏太が息を呑む。
「だから」
「はい」
白衣の人物。
「本来なら消えるはずだった人間が」
「水瀬奏太の記憶内に残留」
「……」
「残留した存在が」
「……」
「独立した空間を形成しました」
「それが」
浩介。
「ここ?」
「はい」
白い廊下。
部屋。
学校。
家。
すべて。
一人の少年が忘れられなかった人間たちの記憶から生まれた場所。
奏太の背中が冷たくなる。
「じゃあここって」
「墓場じゃない」
浩介が呟く。
「記憶の保管庫」
「より近い表現です」
◇
莉子が写真を見つめる。
「弟はどうなったの」
白衣の人物は答えない。
「答えて!」
「水瀬奏太は」
一拍。
「2009年8月31日」
「……」
「自己消失しました」
莉子の顔色が変わる。
「自己……」
「何で?」
「保持限界」
「……」
「他者の記憶を保持しすぎました」
写真。
七歳の少年。
病院のベッド。
泣いている。
「頭の中に」
莉子が呟く。
「いろんな人がいた?」
「はい」
「苦しかった?」
「はい」
莉子の目から涙。
「助けられなかった……」
「水瀬奏太は最後に」
「……」
「一つの選択をしました」
「何?」
白衣の人物。
「自分自身を忘れること」
莉子が固まる。
「そんな……」
「自らの記憶を分割」
「……」
「名前を切り離し」
「……」
「存在を複数の候補へ分散しました」
奏太の顔色が変わる。
「候補……」
「はい」
「じゃあ」
自分の胸へ手を当てる。
「俺たちは」
「水瀬奏太の」
一拍。
「分割された存在です」
◇
誰も言葉を出せなかった。
桐谷奏太。
九番目。
白い扉の向こうの子供。
七人の候補。
それらは、
コピーではなかった。
人間ですらない偽物でもなかった。
一人の少年が、自分を壊して残した断片。
「だから全員」
奏太が言う。
「同じ名前に集まった?」
「はい」
「でもなんで桐谷?」
白衣の人物は浩介を見る。
「最初に空席となった家系」
浩介の表情が変わる。
「俺?」
「正確には」
写真。
二十二年前。
八歳の浩介。
「桐谷浩介の消失」
「……」
「そこへ一つの断片が固定」
少年が下を向く。
「僕だ」
「はい」
「じゃあ」
奏太。
「父さんとして生きたお前も」
「水瀬奏太の一部?」
少年は何も言えない。
白衣の人物。
「はい」
少年の目から涙が落ちる。
「……そっか」
浩介が彼を見る。
「何?」
「じゃあ僕」
苦笑する。
「最初から誰かを奪うための怪物じゃなかったんだ」
浩介は黙る。
「外に出たかっただけ」
「……」
「普通に生きたかっただけだった」
奏太の胸が痛む。
◇
「じゃあ俺は」
奏太が聞く。
「どの断片?」
「不明」
「なんで」
「候補情報が混線しています」
「役に立たないな」
「ただし」
「何?」
「あなたには」
白衣の人物が奏太を見る。
「他候補に存在しない特性があります」
「何」
「自己疑念」
「……は?」
「他候補は」
「自己を桐谷奏太と信じています」
「……」
「あなたのみ」
「……」
「自分が本物ではない可能性を受け入れている」
奏太は苦笑した。
「褒められてんの?」
「重要です」
「何が」
「原型である水瀬奏太も」
一拍。
「最後まで自分が誰なのか疑っていました」
莉子が奏太を見る。
その目が、
少しだけ変わった。
「奏太……」
「やめて」
「え?」
「そういう顔しないで」
「でも」
「俺が原型かもしれないとか」
奏太は首を横に振る。
「まだ決めたくない」
◇
「水瀬奏太を復元したら」
莉子が聞く。
「どうなるの」
「分割個体を統合します」
「統合?」
「候補の記憶」
「……」
「感情」
「……」
「経験」
「……」
「すべてを一個体へ統合」
奏太の顔色が変わる。
「じゃあ俺たちが消えるって」
「完全な消失ではありません」
「……」
「水瀬奏太の一部になります」
「それ消えるのと同じだろ」
「定義によります」
「ふざけんな」
莉子が聞く。
「統合された奏太は」
「私の弟?」
「はい」
莉子の呼吸が止まる。
「本当に?」
「原型として復元されます」
莉子の表情に、
一瞬だけ希望が浮かぶ。
弟。
失った弟。
取り戻せる。
しかし、
隣には現在の奏太がいる。
今まで一緒に過ごしてきた。
奏太。
莉子は何も言えない。
「いいよ」
奏太が言った。
「え?」
「弟、戻したいんでしょ」
「奏太」
「俺がその一部なら」
少し笑う。
「完全に消えるわけじゃないんだろ」
「そんな言い方しないで!」
「でも」
「嫌!」
莉子が奏太の服を掴む。
「今の奏太は今の奏太でしょ!」
「分かんないよ」
「分かる!」
「どうやって!」
「私が覚えてる!」
奏太は言葉を失う。
莉子は泣いている。
「誰が何と言っても」
「……」
「写真が変わっても」
「……」
「記録がなくなっても」
「……」
「私は」
一拍。
「今ここにいる奏太を覚えてる」
管理室が静まり返った。
白衣の人物が莉子を見る。
「観測を確認」
莉子の表情が変わる。
「……何?」
「対象」
白衣の人物が奏太を見る。
「桐谷奏太」
「観測者」
「水瀬莉子」
「固定率」
数秒。
「98%」
「え?」
奏太が息を呑む。
白衣の人物。
「現在個体の固定が進行しています」
「じゃあ」
浩介が気づく。
「莉子が奏太を覚え続ければ」
「はい」
「こいつは消えない?」
「可能です」
莉子の顔が明るくなる。
「じゃあ!」
「ただし」
希望が止まる。
「原型復元と競合します」
「……」
「一つの名称に」
「……」
「二つの完全固定個体は存在できません」
◇
「つまり」
奏太が言う。
「俺が残るなら」
「水瀬奏太は戻れない」
「はい」
莉子の顔が歪む。
「逆なら」
「あなたは統合されます」
沈黙。
残酷な二択だった。
今の奏太。
失った弟。
一人しか選べない。
「期限は?」
浩介が聞く。
「八月31日午前0時」
「あと?」
約二日。
白衣の人物。
「期限到達時」
「観測者の最終認識を使用します」
「最終認識?」
「水瀬莉子が」
一拍。
「誰を奏太だと思っているか」
莉子は凍りついた。
「そんなの……」
「それにより」
「桐谷奏太固定」
「または」
「水瀬奏太復元」
「を実行します」
奏太が莉子を見る。
「俺を選ぶな」
「何言ってるの」
「弟だよ」
「でも!」
「ずっと探してたんだろ」
「覚えてなかった!」
「今は覚えてる」
「それでも!」
「莉子」
奏太は笑った。
「俺は」
一拍。
「今まで十分楽しかったから」
「やめて!」
その言葉が、
別れのように聞こえた。
◇
その時。
管理室の照明が赤く変わった。
警告音。
ピ――――。
「何?」
白衣の人物が初めて、
明確に動揺した。
「異常」
「何が」
「外部固定個体」
「……」
「増加」
壁の写真が一斉に切り替わる。
町。
住宅街。
学校。
駅。
人々。
「交換が!」
浩介が叫ぶ。
写真の人物が、
一人ずつ別の顔へ変わっていく。
白衣の人物。
「開放率」
42%。
「急に増えた!」
「原因不明」
「止めろよ!」
「管理権限外」
奏太が怒鳴る。
「じゃあ誰がやってる!」
白衣の人物が管理画面を見る。
そして。
完全に停止した。
「……」
「何?」
「答えろ!」
表示。
ADMINISTRATOR
その下。
名前。
奏太たちは画面を見る。
水瀬奏太
「原型?」
莉子が呟く。
「でも復元されてないんじゃ」
白衣の人物。
「そのはずです」
「じゃあ誰が」
画面に文字。
誰かが入力している。
『観測者を信用するな。』
莉子が後ずさる。
次。
『管理機構を信用するな。』
白衣の人物が画面を見る。
次。
『候補を信用するな。』
奏太が苦笑する。
「全員じゃん」
そして最後。
『桐谷奏太へ』
奏太が画面を見る。
『君だけが、まだ正しい記憶を持っている。』
「俺?」
次。
『最初の写真を思い出せ。』
奏太の表情が変わる。
最初の写真。
深夜の自宅。
午前二時十三分。
二階の自室。
明かり。
窓辺にいる人影。
「……」
何か。
ずっと見落としている。
「写真」
奏太がスマートフォンを取り出す。
保存してある最初の写真。
拡大。
家。
二階の窓。
少年。
「これが何……」
その時。
莉子が言う。
「奏太」
「何?」
「これ」
写真の一階。
リビングの窓。
カーテンの隙間。
小さく、
誰かが写っている。
今まで、
誰も気づいていなかった。
奏太が拡大する。
女の子。
中学生くらい。
「……美月?」
「違う」
奏太の手が止まる。
莉子も青ざめる。
少女は、
莉子だった。
「なんで……」
写真が撮影されたのは、
物語が始まった最初の夜。
莉子が奏太の家にいるはずはない。
さらに拡大。
莉子らしき少女は、
カメラを見ていない。
二階。
奏太の部屋を見上げている。
手には、
一枚の写真。
「待って」
現在の莉子が言う。
「私、持ってない」
「何を?」
「この服」
写真の莉子。
制服でも私服でもない。
白いワンピース。
「じゃあ誰?」
画面に、
新しいメッセージ。
『彼女は水瀬莉子ではありません。』
現在の莉子が息を止める。
次。
『水瀬莉子は2009年8月31日に死亡しています。』
世界が止まった。
「……え?」
莉子が笑った。
「何言って……」
浩介も画面を見る。
「死亡?」
次。
『現在存在する水瀬莉子は』
一文字ずつ。
『観測者候補2』
莉子の顔から、
血の気が引いていく。
「嘘……」
奏太は莉子を見る。
「そんな」
白衣の人物が管理画面を確認する。
「記録照合」
数秒。
「……」
「何?」
莉子が叫ぶ。
「言って!」
白衣の人物。
「2009年8月31日」
「水瀬家住宅火災」
「……」
「死亡者二名」
「……」
「水瀬莉子」
「……」
「水瀬奏太」
莉子はその場に崩れ落ちた。
「嘘……」
「じゃあ私は」
奏太も動けない。
莉子も。
最初から、
本物ではなかった?
画面に最後の文章。
『桐谷奏太』
『水瀬莉子』
『二人とも同じです。』
そして。
『本物は、とっくに死んでいます。』
沈黙。
すべての前提が、
もう一度崩れた。
その時。
管理室の奥。
今まで開かなかった黒い扉が、
ゆっくり開く。
向こう側。
焼け焦げた子供部屋。
壁。
煤。
床には、
二人の子供が並んで座っている。
七歳くらいの男の子。
八歳くらいの女の子。
水瀬奏太。
水瀬莉子。
写真で見た、
本物の二人。
少女がこちらを見る。
少年も見る。
そして、
二人同時に言った。
「やっと来た」
現在の莉子が震える。
「……私?」
少女は首を横に振る。
「違うよ」
そして。
現在の奏太を見る。
男の子も首を横へ振る。
「君も違う」
奏太は何も言えない。
本物の水瀬莉子。
本物の水瀬奏太。
二人は手をつないだまま、
静かに笑った。
「ずっと待ってた」
「何を?」
奏太が聞く。
少年は答える。
「僕たちを殺した人が戻ってくるのを」
現在の莉子が息を呑む。
「殺した……?」
少女が言う。
「火事じゃない」
少年が続ける。
「事故でもない」
そして二人は、
奏太たちの後ろを指した。
振り返る。
そこに立っていたのは、
白衣の人物。
しかし、
もう顔は揺れていなかった。
一つの顔。
はっきりした人間の顔。
奏太はその顔を知っていた。
「……校長?」
学校の校長だった。
白衣の男は、
静かに笑う。
そして。
「ようやく」
一拍。
「記憶がここまで戻りましたか」
管理室の時計。
8月28日 午前2時13分。
カウントダウン。
あと二日。
そして奏太は、
この七日間で初めて、
怪異ではなく、
人間によって始められた事件の存在を知ることになる。
――最終章「七日後」へ続く。