七日後、この町から私が消える
最終章 七日後
白衣の男の顔は、もう揺れていなかった。
老人にも、父親にも、教師にも、奏太自身にも見えない。
ただ一人。
学校の校長――榊原宗一郎の顔だった。
「……校長」
奏太の声が、かすれる。
榊原は静かに笑った。
「ようやく、そこまで辿り着きましたか」
その声には、これまで白衣の人物から感じていた奇妙な重なりがなかった。
明確な、人間の声。
莉子は床に座り込んだまま、黒い扉の向こうを見つめている。
焼け焦げた子供部屋。
そこに並んで座る二人の子供。
水瀬莉子。
水瀬奏太。
現在の二人ではない。
二〇〇九年八月三十一日に亡くなった、本物の姉弟。
「火事じゃないって……」
現在の莉子が呟く。
「どういうこと?」
少女の莉子が榊原を見る。
「この人がやったの」
「……」
「家に火をつけた」
榊原の笑顔は崩れない。
「正確ではありません」
「何が違う!」
現在の奏太が怒鳴る。
「子供二人が死んでる!」
「死亡は、実験の目的ではなかった」
「実験?」
浩介が一歩前へ出る。
「何の話だ」
榊原は管理室の壁へ向き直った。
無数の写真。
町の住人。
学校。
住宅。
病院。
そして、名前。
「二〇〇九年当時、私はこの町の大学病院で認知研究を行っていました」
「認知……?」
「人間は、どこまで他者の記憶によって存在できるのか」
奏太の表情が変わる。
「そんなことを調べてた?」
「それだけではありません」
榊原は続ける。
「記憶と人格」
「……」
「記憶と家族」
「……」
「記憶と社会的存在」
「……」
「そして」
一拍。
「一人の人間が、この世界から完全に忘れられた時」
榊原は笑った。
「その人間は、本当に存在したと言えるのか」
◇
「水瀬奏太は、特異な子供でした」
壁に一枚の写真が映る。
七歳の水瀬奏太。
「極端に優れた記憶保持能力」
「……」
「見た場所を忘れない」
「……」
「聞いた名前を忘れない」
「……」
「そして」
榊原の声が少し低くなる。
「自分が直接会ったことのない人間についてまで、記憶を語る」
莉子が弟を見る。
「それって……」
「病気?」
「当時は、そう判断されました」
榊原。
「しかし違った」
「じゃあ何」
「彼は」
一拍。
「人間の記憶そのものに、異常な形で干渉していた」
浩介が眉をひそめる。
「超能力みたいな話か」
「そう呼びたければ」
「でも」
奏太は管理室を見る。
「これは全部、人間が作ったんじゃないのか」
榊原は奏太を見る。
「最初は」
◇
榊原の研究は、記憶刺激によって人格や認識を変化させるものだった。
写真。
音声。
名前。
繰り返し。
周囲の人間へ同じ情報を与え続ける。
すると。
本来存在しなかった出来事を、
「昔から知っていた」
と認識する人間が現れ始めた。
「……偽の記憶」
奏太が呟く。
「そうです」
「じゃあ家族が俺を忘れたのも」
「一部は誘導」
「一部?」
「はい」
奏太の表情が変わる。
「全部じゃないのか」
榊原は答えない。
「水瀬奏太を研究した結果」
壁に映像。
地下施設。
古い機械。
病院。
「我々は、記憶刺激の効果を大幅に増幅することに成功しました」
「我々?」
莉子が聞く。
「あなた一人じゃない?」
「研究チームがありました」
「今は?」
「いません」
「どうして?」
「二〇〇九年八月三十一日」
榊原の笑顔が消える。
「事故が起きた」
◇
その夜。
実験対象だった水瀬奏太は、自宅へ戻されていた。
しかし彼の記憶は不安定になっていた。
知らない人。
知らない家。
知らない声。
何百人もの記憶。
それらが、一度に流れ込んでいた。
水瀬奏太は泣きながら姉へ言った。
「頭の中に、いっぱい人がいる」
莉子は弟を抱きしめた。
「大丈夫」
「消して」
「何を?」
「みんな」
少年は泣いた。
「忘れたい」
しかし。
彼には忘れることができなかった。
そして深夜二時十三分。
実験装置が遠隔で起動された。
「誰が?」
現在の莉子が聞く。
榊原は少し黙った。
「私です」
少女の莉子が榊原を睨む。
「やっぱり」
「目的は彼の記憶を消去することでした」
「でも火事になった」
「装置が暴走した」
「嘘」
少年の奏太が言った。
全員が見る。
「嘘だよ」
榊原の表情がわずかに変わる。
「僕、覚えてる」
「何を?」
「この人」
少年は榊原を指す。
「電話で言ってた」
記憶が再生される。
電話。
榊原の声。
『予定通りです』
『二人とも家にいます』
『観測者も一緒です』
現在の奏太が息を呑む。
「観測者?」
榊原の顔から、ついに笑顔が消えた。
◇
「莉子も対象だったんだ」
奏太が言う。
「違います」
「じゃあなんで観測者って呼んでた」
榊原は黙る。
「答えろ!」
「……水瀬莉子は」
ゆっくり口を開く。
「弟の存在を最も強く保持していた」
「だから?」
「彼女が弟を忘れれば」
一拍。
「水瀬奏太の人格を消去できると考えた」
莉子の顔が強張る。
「私を使って」
「はい」
「弟を消そうとした?」
「はい」
奏太が榊原へ掴みかかろうとする。
浩介が止める。
「待て!」
「こんな奴!」
「今やることじゃない!」
奏太は歯を食いしばる。
榊原は続ける。
「しかし、結果は逆でした」
「……」
「莉子は弟を忘れなかった」
「……」
「最後まで」
「……」
「炎の中でも」
少女の莉子が弟の手を握る。
少年も握り返す。
「その結果」
榊原は管理室を見る。
「水瀬奏太の記憶は消えず」
「……」
「分裂した」
◇
記憶の中。
火事。
煙。
泣く二人。
しかし二人は互いの名前を呼び続ける。
「奏太!」
「莉子!」
「奏太!」
「莉子!」
その声が、
何度も。
何度も。
繰り返される。
そして。
白い廊下。
無数の扉。
最初の部屋。
『水瀬奏太』
次。
『桐谷奏太』
次。
別の名前。
別の人間。
記憶の保管庫。
空席。
候補。
「ここは」
榊原が言う。
「装置が作った仮想的な記憶空間」
「じゃあ全部機械?」
「最初は」
奏太はまた、その言葉に引っかかる。
「最初はって何だよ」
榊原は管理室の奥を見る。
「事故のあと」
「……」
「装置の電源は切れました」
「じゃあ」
浩介が言う。
「なんで今も動いてる」
榊原は答えない。
「誰が動かしてる」
「分かりません」
「お前にも?」
「はい」
初めて。
榊原の声に、
恐怖が混じった。
◇
「二〇〇九年以降」
榊原は言う。
「この町では、記憶改変に似た事例が発生し続けた」
奏太の父。
母。
他の行方不明者。
「私は最初、装置が停止しきっていないのだと思っていた」
「違った?」
「はい」
「じゃあ何」
榊原は壁を見る。
無数の写真。
「誰かが使っている」
「誰が?」
「分からない」
少女の莉子が言う。
「奏太」
現在の奏太が振り向く。
「え?」
「私の弟」
少女は隣の少年を見る。
「たぶん」
「何?」
「最初に作ったのは、この人たち」
榊原。
装置。
研究。
「でも今ここを動かしてるのは」
少年の奏太が続ける。
「僕じゃない」
「じゃあ誰?」
その瞬間。
管理室の照明が消えた。
暗闇。
そして。
スピーカーから声。
『ようやく気づいた』
奏太は息を止める。
自分の声だった。
「また……」
『榊原は管理者ではない』
榊原が青ざめる。
「黙れ」
『水瀬奏太も管理者ではない』
「誰だ!」
奏太が叫ぶ。
スピーカー。
『最初の写真』
「何?」
『まだ一人』
一拍。
『数えていない』
◇
照明が戻る。
管理室の中央。
一枚の写真が浮かび上がる。
最初の写真。
午前二時十三分。
桐谷家。
二階に奏太。
一階に莉子らしき少女。
「二人」
奏太が言う。
『違う』
「何が?」
『写真を撮った人間』
全員が黙る。
確かに。
写真には、
撮影者がいる。
「誰なんだ」
奏太が聞く。
画像が反転する。
ガラス。
ごく薄い反射。
奏太は目を凝らす。
カメラを持つ人物。
顔。
「……え?」
莉子も見る。
「嘘」
撮影者。
それは。
奏太だった。
ただし。
現在の奏太より、
少し年上。
二十歳前後。
「俺……?」
『違う』
スピーカー。
『君は彼から作られた』
管理画面。
名前。
桐谷奏太 ORIGINAL
奏太は動けない。
「オリジナル……?」
榊原も画面を見る。
「そんな記録は……」
『あなたは知らない』
「誰だ!」
スピーカーの声。
『僕だよ』
「誰なんだよ!」
一拍。
『七日後の君』
◇
世界が静まり返った。
「……未来の俺?」
『近い』
「どういう意味」
『僕は八月三十一日を越えた桐谷奏太』
「じゃあ」
『でも』
声が笑う。
『君とは違う』
「またそれかよ」
『僕も同じことを言った』
管理室の壁に、
映像。
八月三十一日。
町。
全員の記憶が入れ替わる。
家族。
学校。
人々。
そして一人の奏太だけが、
記憶を保持している。
『前回』
奏太の顔色が変わる。
「前回?」
『この七日間は初めてじゃない』
莉子が息を呑む。
「繰り返してる?」
『そう』
「何回?」
沈黙。
『十三回』
奏太は言葉を失う。
◇
八月二十四日。
一枚目の写真。
あと七日。
毎回そこから始まる。
奏太は真相へ近づく。
そして八月三十一日。
失敗する。
町が交換される。
すると。
唯一残った奏太が、
過去へ情報を送り返す。
「写真……」
『そう』
「お前が送った?」
『一枚目は』
「じゃあ二枚目からは?」
『途中から別のものが混ざった』
「誰?」
『管理機構』
「だから内容が違った?」
『そう』
奏太は頭を抱える。
「待て」
「だったら最初から全部教えればよかっただろ!」
『できなかった』
「なんで!」
『情報を送りすぎると』
一拍。
『君が僕になる』
奏太は凍りつく。
「……何?」
『記憶が同じになるから』
「じゃあ」
『同じ記憶』
『同じ名前』
『同じ場所』
奏太はルールを思い出す。
名前。
記憶。
場所。
写真。
時間。
『条件がそろえば』
声。
『僕が君と交換される』
◇
「つまり」
奏太がゆっくり言う。
「お前も外へ戻りたい?」
長い沈黙。
『……そうだ』
莉子が奏太を見る。
「信用しないで」
「分かってる」
『でも』
未来の奏太が続ける。
『僕が戻らなければ』
「……」
『今回も失敗する可能性が高い』
「何をすれば止められる」
『管理室を消す』
「さっき聞いた」
『違う』
「何が?」
『装置じゃない』
「じゃあ何」
『観測者』
全員が莉子を見る。
「私?」
『違う』
声。
『本当の観測者』
「誰だよ」
一枚の写真。
水瀬家。
火事の夜。
八歳の莉子。
七歳の奏太。
そして。
二人の後ろに、
もう一人子供がいる。
「……誰?」
莉子も知らない。
少女。
六歳くらい。
顔は暗くて見えない。
写真の裏。
名前。
水瀬美月
奏太が凍りつく。
「……美月?」
莉子も首を横に振る。
「私に妹なんて」
その瞬間。
現在の奏太は、
自分の妹を思い出す。
桐谷美月。
「待って」
声が震える。
「妹の名前……」
未来の奏太。
『やっと気づいた』
「桐谷美月は」
一拍。
『最初から桐谷家の人間じゃない』
◇
記憶。
水瀬家。
三人きょうだい。
莉子。
奏太。
美月。
しかし火事の記録。
死亡者は二名。
水瀬莉子。
水瀬奏太。
「美月だけ」
現在の莉子が言う。
「生き残った?」
『そう』
「じゃあ今の美月は」
『水瀬美月』
「でも年齢が」
『記憶改変』
奏太は息を呑む。
『彼女は火事のあと』
『榊原たちに保護された』
榊原の表情が崩れる。
「……やめろ」
奏太が榊原を見る。
「知ってた?」
「やめろ!」
『彼女こそ』
未来の奏太。
『最初の観測者』
◇
「美月が……」
『水瀬美月は』
『姉と兄を忘れなかった』
「……」
『だから保管庫が消えなかった』
「……」
『でも彼女は』
『あまりに幼かった』
「……」
『榊原は彼女の記憶を改変し』
一拍。
『桐谷家の娘にした』
奏太は榊原へ向かう。
「本当か」
榊原は黙る。
「答えろ!」
「……はい」
奏太の拳が震える。
「美月を利用したのか」
「彼女を守るためでもあった」
「ふざけるな!」
「記憶を消さなければ!」
榊原が初めて叫ぶ。
「彼女は壊れていた!」
「だから家族ごと作った?」
「浩介」
「……」
「真由美」
「……」
「そして」
「奏太」
「全部」
榊原は俯く。
「美月が失った家族を」
一拍。
「別の形で与えた」
奏太の胸が締めつけられる。
桐谷家。
母。
父。
兄。
妹。
それは、
一人の少女の失った家族を再現したものだった。
だから。
母も父も交換されていた。
奏太の出生記録がなかった。
莉子と奏太に不自然なつながりがあった。
すべて、
水瀬家から始まっていた。
◇
「じゃあ止める方法」
現在の奏太が聞く。
『美月に思い出させる』
「何を?」
『全部』
「そんなことしたら」
榊原が叫ぶ。
「彼女が耐えられない!」
『でも』
未来の奏太。
『観測者が真実を認識しない限り』
「……」
『この七日間は終わらない』
「どこにいる」
『外』
「本物?」
『分からない』
「……」
『だから確かめろ』
奏太は深呼吸する。
「帰る」
莉子を見る。
「行こう」
莉子は頷く。
浩介。
少年。
「俺たちも」
「いや」
奏太が止める。
「ここにいて」
「なんで」
「もし失敗したら」
奏太は少し笑う。
「少なくとも誰かは覚えてて」
◇
八月三十日。
午後十一時二十一分。
残り三十九分。
奏太と莉子は桐谷家へ戻った。
夜。
家には明かりがついている。
「美月!」
玄関を開ける。
リビング。
美月が一人で座っていた。
「お兄ちゃん」
奏太は息を呑む。
「俺、分かる?」
「うん」
「本当に?」
「変なの」
美月が笑う。
「お兄ちゃんでしょ」
奏太は莉子を見る。
「美月」
「何?」
「水瀬奏太って知ってる?」
美月の笑顔が止まった。
「知らない」
「水瀬莉子」
「……知らない」
現在の莉子が前へ出る。
「美月」
「誰?」
「私」
「……」
「お姉ちゃん」
美月の手から、
コップが落ちた。
「……え?」
「思い出して」
「何を」
「昔」
莉子の目から涙。
「三人だった」
「やめて」
「私と」
「やめて」
「奏太と」
「やめて!」
「美月!」
美月が耳を塞ぐ。
「知らない!」
「思い出して!」
「知らない!」
「青い屋根の家!」
美月が固まる。
「庭にブランコ」
「……」
「奏太がいつも順番守らなかった」
「……」
「あなたが泣いて」
「……」
「私が怒って」
「……」
美月の目から涙が落ちた。
「やめて……」
「美月」
「知らないのに」
「……」
「なんで」
美月が泣く。
「覚えてるの……?」
◇
午後十一時三十一分。
残り二十九分。
美月の記憶が戻り始める。
「お姉ちゃん……」
「うん」
「奏太……」
現在の奏太を見る。
しかし。
美月は首を横に振った。
「違う」
奏太の胸が痛む。
「うん」
「お兄ちゃんじゃない」
「……分かってる」
「でも」
美月は奏太を見る。
「お兄ちゃん」
奏太は顔を上げる。
「どっち?」
美月は泣きながら笑う。
「分かんない」
奏太も少し笑った。
「俺も」
その瞬間。
家が揺れた。
壁。
コン。
コン。
コン。
無数。
「始まった」
奏太が時計を見る。
午後十一時三十四分。
まだ早い。
壁に扉が現れる。
一枚。
二枚。
十枚。
百枚。
町中の声。
人々の名前。
忘れられた人間。
「美月!」
奏太が妹の手を掴む。
「全部思い出して!」
「怖い!」
「分かってる!」
莉子も手を握る。
「私たちがいる!」
◇
午後十一時四十六分。
美月が泣き叫ぶ。
「火!」
記憶。
水瀬家。
炎。
「お姉ちゃん!」
「ここにいる!」
「奏太!」
現在の奏太が返事をする。
「いる!」
「違う!」
美月が叫ぶ。
「あなたじゃない!」
奏太は一瞬傷つく。
でも。
「そうだ!」
「え?」
「俺じゃない!」
奏太が笑う。
「思い出せ!」
「本当の奏太!」
美月の表情が変わる。
「お兄ちゃん……」
七歳の少年。
青いTシャツ。
アイス。
ブランコ。
手をつなぐ。
炎。
最後。
「美月!」
「逃げろ!」
本物の水瀬奏太は、
妹を窓から外へ押し出した。
そのあと。
家へ戻った。
「なんで戻ったの……」
現在の莉子が泣く。
美月が答える。
「お姉ちゃんを」
一拍。
「助けるため」
◇
午後十一時五十二分。
管理室。
遠くで警告音。
奏太のスマートフォンに通知。
観測者認識率 87%
「あと少し」
莉子。
「美月!」
「思い出して!」
「最後に見たもの!」
美月が頭を抱える。
「最後……」
炎。
煙。
兄。
姉。
そして。
「写真……」
「何?」
「誰か」
美月の呼吸が速くなる。
「家の外にいた」
「誰!」
記憶。
火事の家。
道路。
カメラ。
写真を撮っている人物。
「榊原?」
「違う」
美月が首を横に振る。
「もっと若い」
「誰?」
美月が奏太を見る。
顔色が変わる。
「お兄ちゃん」
「俺?」
「違う」
美月が震える。
「今のお兄ちゃんより大人」
最初の写真。
撮影者。
未来の奏太。
奏太の心臓が止まりそうになる。
「まさか」
スマートフォン。
着信。
表示。
桐谷奏太 ORIGINAL
奏太が出る。
「お前……」
『思い出したな』
「火事の日にいた?」
『ああ』
「なんで」
『止めるため』
「でも止められなかった」
『そう』
「じゃあ十三回前から?」
未来の奏太が沈黙。
「いつからいるんだよ」
『……』
「答えろ!」
未来の声。
『最初から』
奏太が凍りつく。
「どういう意味」
『火事を起こしたのは榊原じゃない』
「何?」
美月も莉子も聞いている。
『装置を暴走させたのは』
一拍。
『僕だ』
◇
「なんで……」
『水瀬奏太を救おうとした』
「お前誰なんだよ!」
『言っただろ』
「未来の俺じゃない!」
『……』
「俺はそんなことしてない!」
『だから』
声が笑う。
『君はまだ僕じゃない』
奏太の顔色が変わる。
『僕は』
一拍。
『水瀬奏太が最初に作った、最初の候補』
「0……?」
『そう』
「じゃあ」
『桐谷奏太という名前を』
『最初に使った存在』
「お前が全部」
『始めた』
奏太の足から力が抜ける。
『外に出たかった』
「……」
『家族が欲しかった』
「……」
『普通に生きたかった』
「だから?」
『何度やっても』
声が震える。
『うまくいかなかった』
「だから町全部を巻き込んだ?」
『そう』
未来でも。
管理者でもない。
最初の候補。
ずっとこの七日間を繰り返し、
完全な「桐谷奏太」になろうとしていた存在。
「最初の写真」
『僕が送った』
「カウントダウン」
『僕』
「交換」
『管理機構』
「じゃあ」
奏太は聞く。
「最後に俺をどうするつもり?」
沈黙。
『交換する』
「やっぱり」
『君はほぼ完成した』
「俺になれば?」
『僕はようやく』
一拍。
『人間になれる』
◇
午後十一時五十六分。
残り四分。
奏太は目を閉じる。
「嫌だ」
『……』
「俺はお前にならない」
『町が壊れる』
「知らない」
『全員が交換される』
「それも嫌だ」
『なら僕を受け入れろ』
「第三の方法」
『ない』
「作る」
『無理だ』
「お前だって」
奏太は笑った。
「最初は名前すらなかったんだろ」
『……』
「だったら」
「ルールなんて」
一拍。
「誰かが作ったものだ」
莉子が奏太を見る。
「何するの?」
「観測」
「え?」
「誰かが覚えてれば存在できる」
「うん」
「名前も重要」
「うん」
「だったら」
奏太は美月と莉子を見る。
「桐谷奏太を」
一拍。
「俺だけの名前にしなければいい」
◇
奏太はスマートフォンを操作する。
写真。
メッセージ。
学校のクラウド。
SNS。
クラスグループ。
自分に関する記録。
「何するの!」
「残す」
「何を?」
「全部」
奏太は書く。
桐谷奏太。
水瀬奏太。
候補。
父。
母。
莉子。
美月。
この七日間。
そして。
「桐谷奏太は一人ではない」
送信。
拡散。
学校。
友達。
町。
「何してる!」
榊原の声がスピーカーから響く。
「存在条件を壊す!」
「そんなことをすれば!」
「一つの名前に一人しかいられないなら」
奏太は叫ぶ。
「みんなが最初から『一人じゃない』って知ればいい!」
管理画面。
エラー。
IDENTITY CONFLICT
IDENTITY CONFLICT
IDENTITY CONFLICT
未来の奏太が叫ぶ。
『やめろ!』
「嫌だ!」
『僕が消える!』
「消えない!」
『何?』
「俺が覚えてる!」
奏太は叫ぶ。
「莉子も!」
「覚える!」
莉子。
「美月も!」
「忘れない!」
美月。
「お前も桐谷奏太だ!」
電話の向こうが黙る。
「俺も!」
「他の候補も!」
「水瀬奏太も!」
「全部違う!」
一拍。
「でも全部いた!」
◇
午後十一時五十九分。
管理室。
警報。
写真。
すべてが高速で変化する。
榊原が叫ぶ。
「そんな定義は存在しない!」
奏太は笑う。
「じゃあ今日作る!」
莉子も笑った。
「ほんと無茶苦茶」
「今さら?」
美月が泣きながら笑う。
最後の十秒。
10。
壁の扉が開く。
無数の奏太。
子供。
高校生。
大人。
父親。
知らない顔。
全員。
奏太を見る。
9。
8。
7。
未来の奏太の声。
『怖くないのか』
「怖いよ」
6。
『消えるかもしれない』
「うん」
5。
『本物になれない』
「……」
4。
奏太は笑う。
「最初から」
3。
「本物かどうかなんて」
2。
「誰にも決められないんだよ」
1。
莉子が奏太の手を握る。
美月も。
午前零時。
0。
世界が、
白くなった。
◇
八月三十一日。
午前七時四十三分。
「奏太ー! いつまで寝てるの!」
声。
奏太は目を開けた。
自分の部屋。
天井。
カーテン。
蝉の声。
「……」
スマートフォン。
八月三十一日。
「戻った……?」
ベッドから起きる。
鏡を見る。
自分。
左目の下。
小さなほくろ。
「……あれ」
あった。
階段を下りる。
リビング。
母親。
「おはよう」
「……母さん?」
「何?」
美月。
「お兄ちゃん、顔やば」
「美月」
「何?」
奏太は二人を見る。
「俺のこと分かる?」
母親が笑う。
「朝から何言ってるの」
奏太の目に涙。
「……そっか」
テーブル。
皿。
四枚。
奏太は固まる。
「母さん」
「何?」
「皿」
「四枚だけど」
「誰の?」
真由美が不思議そうな顔。
「あなた」
「美月」
「私」
そして。
「お父さん」
奏太の心臓が跳ねる。
振り返る。
父親。
浩介がキッチンから出てくる。
「おはよう」
「……父さん」
「どうした?」
奏太は泣きながら笑う。
「何でもない」
どの浩介なのか。
本物なのか。
候補なのか。
もう分からない。
でも。
目の前にいる。
奏太はそれでいいと思った。
◇
学校。
莉子が校門で待っていた。
「遅い!」
「ごめん」
「本当に覚えてる?」
「何を?」
莉子が少し不安そうになる。
奏太は笑う。
「卒業式のキーホルダー」
莉子の顔が明るくなる。
「よかった……」
二人で校舎へ向かう。
「直人は?」
「教室」
「覚えてる?」
「もちろん」
「じゃあ」
「何?」
「水瀬奏太」
莉子は立ち止まる。
そして。
笑った。
「弟」
「うん」
「忘れてない」
奏太も頷く。
「俺も」
◇
校長。
榊原は姿を消していた。
地下施設も。
白い廊下も。
扉も。
学校の記録上、
最初から存在しなかった。
ただ。
水瀬家の火災記録だけは残っていた。
死亡者。
水瀬奏太。
そして。
誰も知らないもう一つの名前。
水瀬莉子。
現在の莉子は、
その名前を見ても逃げなかった。
「私も莉子」
そう言った。
「この子も莉子」
奏太は頷いた。
「うん」
◇
一週間後。
桐谷家。
夕食。
父。
母。
美月。
奏太。
四人。
「普通だな」
奏太が呟く。
「何が?」
美月。
「何でもない」
「変なお兄ちゃん」
笑い声。
奏太は、
これで終わったと思っていた。
少なくとも。
その夜までは。
◇
午前二時十三分。
奏太のスマートフォンが鳴った。
通知。
知らない番号。
「……」
嫌な予感。
開く。
一枚の写真。
桐谷家。
今。
道路の向こうから撮影されている。
二階。
奏太の部屋。
明かり。
窓辺。
自分が立っている。
奏太は窓を見る。
カーテンは閉まっている。
自分はベッドの上にいる。
「……嘘だろ」
写真の裏。
文字。
奏太の手が震える。
『あと七日』
「……」
しかし。
その下に、
今までなかった一文。
『今度は、あなたではありません。』
奏太は息を止める。
続き。
『次に消えるのは――』
名前。
『桐谷美月』
「……美月?」
その瞬間。
隣の部屋から、
コン。
壁を叩く音。
奏太はベッドから飛び起きた。
「美月!」
廊下へ出る。
妹の部屋。
扉。
ノブへ手を掛ける。
その時。
中から、
美月の声。
「お兄ちゃん?」
「美月!」
「どうしたの?」
「開けて!」
「ちょっと待って」
安心しかけた。
しかし。
美月が言った。
「今ね」
「……何?」
「変な夢見てた」
奏太の手が止まる。
「どんな?」
扉の向こう。
美月。
「知らない家」
「……」
「知らないお姉ちゃん」
「……」
「知らないお兄ちゃん」
奏太の呼吸が止まる。
「それで」
「……」
「みんな私のこと」
一拍。
「水瀬美月って呼ぶの」
壁の向こうから、
もう一度。
コン。
奏太はスマートフォンを見る。
写真。
『あと七日』
そして。
自分の背後。
廊下の鏡。
そこに、
奏太ではない少年が立っていた。
青いTシャツ。
七歳くらい。
水瀬奏太。
少年は鏡の中から、
静かに笑った。
「次は」
一拍。
「美月を忘れないでね」
鏡から姿が消える。
奏太は妹の部屋の前で、
しばらく動けなかった。
七日間は終わった。
それでも。
記憶されることで存在する世界では、
誰かを忘れるたび、
どこかにまた、
新しい扉が生まれる。
そして奏太は知っている。
次に写真が届いた時、
自分がするべきことを。
忘れない。
名前を呼ぶ。
存在していたと伝える。
たとえ写真から消えても。
記録から消えても。
世界中の誰もが忘れても。
自分だけは。
奏太は扉の向こうへ呼びかけた。
「美月」
「何?」
いつもの妹の声。
奏太は笑った。
「なんでもない」
そして小さく、
誰にも聞こえない声で続けた。
「絶対、忘れないから」
窓の外。
夜の町。
どこか遠くで、
一つの壁を叩く音がした。
コン。
続いて、
もう一つ。
コン、コン。
まるで、
存在を忘れられた誰かが、
こちら側へ知らせようとしているように。
――私は、ここにいる。
と。
――完――
老人にも、父親にも、教師にも、奏太自身にも見えない。
ただ一人。
学校の校長――榊原宗一郎の顔だった。
「……校長」
奏太の声が、かすれる。
榊原は静かに笑った。
「ようやく、そこまで辿り着きましたか」
その声には、これまで白衣の人物から感じていた奇妙な重なりがなかった。
明確な、人間の声。
莉子は床に座り込んだまま、黒い扉の向こうを見つめている。
焼け焦げた子供部屋。
そこに並んで座る二人の子供。
水瀬莉子。
水瀬奏太。
現在の二人ではない。
二〇〇九年八月三十一日に亡くなった、本物の姉弟。
「火事じゃないって……」
現在の莉子が呟く。
「どういうこと?」
少女の莉子が榊原を見る。
「この人がやったの」
「……」
「家に火をつけた」
榊原の笑顔は崩れない。
「正確ではありません」
「何が違う!」
現在の奏太が怒鳴る。
「子供二人が死んでる!」
「死亡は、実験の目的ではなかった」
「実験?」
浩介が一歩前へ出る。
「何の話だ」
榊原は管理室の壁へ向き直った。
無数の写真。
町の住人。
学校。
住宅。
病院。
そして、名前。
「二〇〇九年当時、私はこの町の大学病院で認知研究を行っていました」
「認知……?」
「人間は、どこまで他者の記憶によって存在できるのか」
奏太の表情が変わる。
「そんなことを調べてた?」
「それだけではありません」
榊原は続ける。
「記憶と人格」
「……」
「記憶と家族」
「……」
「記憶と社会的存在」
「……」
「そして」
一拍。
「一人の人間が、この世界から完全に忘れられた時」
榊原は笑った。
「その人間は、本当に存在したと言えるのか」
◇
「水瀬奏太は、特異な子供でした」
壁に一枚の写真が映る。
七歳の水瀬奏太。
「極端に優れた記憶保持能力」
「……」
「見た場所を忘れない」
「……」
「聞いた名前を忘れない」
「……」
「そして」
榊原の声が少し低くなる。
「自分が直接会ったことのない人間についてまで、記憶を語る」
莉子が弟を見る。
「それって……」
「病気?」
「当時は、そう判断されました」
榊原。
「しかし違った」
「じゃあ何」
「彼は」
一拍。
「人間の記憶そのものに、異常な形で干渉していた」
浩介が眉をひそめる。
「超能力みたいな話か」
「そう呼びたければ」
「でも」
奏太は管理室を見る。
「これは全部、人間が作ったんじゃないのか」
榊原は奏太を見る。
「最初は」
◇
榊原の研究は、記憶刺激によって人格や認識を変化させるものだった。
写真。
音声。
名前。
繰り返し。
周囲の人間へ同じ情報を与え続ける。
すると。
本来存在しなかった出来事を、
「昔から知っていた」
と認識する人間が現れ始めた。
「……偽の記憶」
奏太が呟く。
「そうです」
「じゃあ家族が俺を忘れたのも」
「一部は誘導」
「一部?」
「はい」
奏太の表情が変わる。
「全部じゃないのか」
榊原は答えない。
「水瀬奏太を研究した結果」
壁に映像。
地下施設。
古い機械。
病院。
「我々は、記憶刺激の効果を大幅に増幅することに成功しました」
「我々?」
莉子が聞く。
「あなた一人じゃない?」
「研究チームがありました」
「今は?」
「いません」
「どうして?」
「二〇〇九年八月三十一日」
榊原の笑顔が消える。
「事故が起きた」
◇
その夜。
実験対象だった水瀬奏太は、自宅へ戻されていた。
しかし彼の記憶は不安定になっていた。
知らない人。
知らない家。
知らない声。
何百人もの記憶。
それらが、一度に流れ込んでいた。
水瀬奏太は泣きながら姉へ言った。
「頭の中に、いっぱい人がいる」
莉子は弟を抱きしめた。
「大丈夫」
「消して」
「何を?」
「みんな」
少年は泣いた。
「忘れたい」
しかし。
彼には忘れることができなかった。
そして深夜二時十三分。
実験装置が遠隔で起動された。
「誰が?」
現在の莉子が聞く。
榊原は少し黙った。
「私です」
少女の莉子が榊原を睨む。
「やっぱり」
「目的は彼の記憶を消去することでした」
「でも火事になった」
「装置が暴走した」
「嘘」
少年の奏太が言った。
全員が見る。
「嘘だよ」
榊原の表情がわずかに変わる。
「僕、覚えてる」
「何を?」
「この人」
少年は榊原を指す。
「電話で言ってた」
記憶が再生される。
電話。
榊原の声。
『予定通りです』
『二人とも家にいます』
『観測者も一緒です』
現在の奏太が息を呑む。
「観測者?」
榊原の顔から、ついに笑顔が消えた。
◇
「莉子も対象だったんだ」
奏太が言う。
「違います」
「じゃあなんで観測者って呼んでた」
榊原は黙る。
「答えろ!」
「……水瀬莉子は」
ゆっくり口を開く。
「弟の存在を最も強く保持していた」
「だから?」
「彼女が弟を忘れれば」
一拍。
「水瀬奏太の人格を消去できると考えた」
莉子の顔が強張る。
「私を使って」
「はい」
「弟を消そうとした?」
「はい」
奏太が榊原へ掴みかかろうとする。
浩介が止める。
「待て!」
「こんな奴!」
「今やることじゃない!」
奏太は歯を食いしばる。
榊原は続ける。
「しかし、結果は逆でした」
「……」
「莉子は弟を忘れなかった」
「……」
「最後まで」
「……」
「炎の中でも」
少女の莉子が弟の手を握る。
少年も握り返す。
「その結果」
榊原は管理室を見る。
「水瀬奏太の記憶は消えず」
「……」
「分裂した」
◇
記憶の中。
火事。
煙。
泣く二人。
しかし二人は互いの名前を呼び続ける。
「奏太!」
「莉子!」
「奏太!」
「莉子!」
その声が、
何度も。
何度も。
繰り返される。
そして。
白い廊下。
無数の扉。
最初の部屋。
『水瀬奏太』
次。
『桐谷奏太』
次。
別の名前。
別の人間。
記憶の保管庫。
空席。
候補。
「ここは」
榊原が言う。
「装置が作った仮想的な記憶空間」
「じゃあ全部機械?」
「最初は」
奏太はまた、その言葉に引っかかる。
「最初はって何だよ」
榊原は管理室の奥を見る。
「事故のあと」
「……」
「装置の電源は切れました」
「じゃあ」
浩介が言う。
「なんで今も動いてる」
榊原は答えない。
「誰が動かしてる」
「分かりません」
「お前にも?」
「はい」
初めて。
榊原の声に、
恐怖が混じった。
◇
「二〇〇九年以降」
榊原は言う。
「この町では、記憶改変に似た事例が発生し続けた」
奏太の父。
母。
他の行方不明者。
「私は最初、装置が停止しきっていないのだと思っていた」
「違った?」
「はい」
「じゃあ何」
榊原は壁を見る。
無数の写真。
「誰かが使っている」
「誰が?」
「分からない」
少女の莉子が言う。
「奏太」
現在の奏太が振り向く。
「え?」
「私の弟」
少女は隣の少年を見る。
「たぶん」
「何?」
「最初に作ったのは、この人たち」
榊原。
装置。
研究。
「でも今ここを動かしてるのは」
少年の奏太が続ける。
「僕じゃない」
「じゃあ誰?」
その瞬間。
管理室の照明が消えた。
暗闇。
そして。
スピーカーから声。
『ようやく気づいた』
奏太は息を止める。
自分の声だった。
「また……」
『榊原は管理者ではない』
榊原が青ざめる。
「黙れ」
『水瀬奏太も管理者ではない』
「誰だ!」
奏太が叫ぶ。
スピーカー。
『最初の写真』
「何?」
『まだ一人』
一拍。
『数えていない』
◇
照明が戻る。
管理室の中央。
一枚の写真が浮かび上がる。
最初の写真。
午前二時十三分。
桐谷家。
二階に奏太。
一階に莉子らしき少女。
「二人」
奏太が言う。
『違う』
「何が?」
『写真を撮った人間』
全員が黙る。
確かに。
写真には、
撮影者がいる。
「誰なんだ」
奏太が聞く。
画像が反転する。
ガラス。
ごく薄い反射。
奏太は目を凝らす。
カメラを持つ人物。
顔。
「……え?」
莉子も見る。
「嘘」
撮影者。
それは。
奏太だった。
ただし。
現在の奏太より、
少し年上。
二十歳前後。
「俺……?」
『違う』
スピーカー。
『君は彼から作られた』
管理画面。
名前。
桐谷奏太 ORIGINAL
奏太は動けない。
「オリジナル……?」
榊原も画面を見る。
「そんな記録は……」
『あなたは知らない』
「誰だ!」
スピーカーの声。
『僕だよ』
「誰なんだよ!」
一拍。
『七日後の君』
◇
世界が静まり返った。
「……未来の俺?」
『近い』
「どういう意味」
『僕は八月三十一日を越えた桐谷奏太』
「じゃあ」
『でも』
声が笑う。
『君とは違う』
「またそれかよ」
『僕も同じことを言った』
管理室の壁に、
映像。
八月三十一日。
町。
全員の記憶が入れ替わる。
家族。
学校。
人々。
そして一人の奏太だけが、
記憶を保持している。
『前回』
奏太の顔色が変わる。
「前回?」
『この七日間は初めてじゃない』
莉子が息を呑む。
「繰り返してる?」
『そう』
「何回?」
沈黙。
『十三回』
奏太は言葉を失う。
◇
八月二十四日。
一枚目の写真。
あと七日。
毎回そこから始まる。
奏太は真相へ近づく。
そして八月三十一日。
失敗する。
町が交換される。
すると。
唯一残った奏太が、
過去へ情報を送り返す。
「写真……」
『そう』
「お前が送った?」
『一枚目は』
「じゃあ二枚目からは?」
『途中から別のものが混ざった』
「誰?」
『管理機構』
「だから内容が違った?」
『そう』
奏太は頭を抱える。
「待て」
「だったら最初から全部教えればよかっただろ!」
『できなかった』
「なんで!」
『情報を送りすぎると』
一拍。
『君が僕になる』
奏太は凍りつく。
「……何?」
『記憶が同じになるから』
「じゃあ」
『同じ記憶』
『同じ名前』
『同じ場所』
奏太はルールを思い出す。
名前。
記憶。
場所。
写真。
時間。
『条件がそろえば』
声。
『僕が君と交換される』
◇
「つまり」
奏太がゆっくり言う。
「お前も外へ戻りたい?」
長い沈黙。
『……そうだ』
莉子が奏太を見る。
「信用しないで」
「分かってる」
『でも』
未来の奏太が続ける。
『僕が戻らなければ』
「……」
『今回も失敗する可能性が高い』
「何をすれば止められる」
『管理室を消す』
「さっき聞いた」
『違う』
「何が?」
『装置じゃない』
「じゃあ何」
『観測者』
全員が莉子を見る。
「私?」
『違う』
声。
『本当の観測者』
「誰だよ」
一枚の写真。
水瀬家。
火事の夜。
八歳の莉子。
七歳の奏太。
そして。
二人の後ろに、
もう一人子供がいる。
「……誰?」
莉子も知らない。
少女。
六歳くらい。
顔は暗くて見えない。
写真の裏。
名前。
水瀬美月
奏太が凍りつく。
「……美月?」
莉子も首を横に振る。
「私に妹なんて」
その瞬間。
現在の奏太は、
自分の妹を思い出す。
桐谷美月。
「待って」
声が震える。
「妹の名前……」
未来の奏太。
『やっと気づいた』
「桐谷美月は」
一拍。
『最初から桐谷家の人間じゃない』
◇
記憶。
水瀬家。
三人きょうだい。
莉子。
奏太。
美月。
しかし火事の記録。
死亡者は二名。
水瀬莉子。
水瀬奏太。
「美月だけ」
現在の莉子が言う。
「生き残った?」
『そう』
「じゃあ今の美月は」
『水瀬美月』
「でも年齢が」
『記憶改変』
奏太は息を呑む。
『彼女は火事のあと』
『榊原たちに保護された』
榊原の表情が崩れる。
「……やめろ」
奏太が榊原を見る。
「知ってた?」
「やめろ!」
『彼女こそ』
未来の奏太。
『最初の観測者』
◇
「美月が……」
『水瀬美月は』
『姉と兄を忘れなかった』
「……」
『だから保管庫が消えなかった』
「……」
『でも彼女は』
『あまりに幼かった』
「……」
『榊原は彼女の記憶を改変し』
一拍。
『桐谷家の娘にした』
奏太は榊原へ向かう。
「本当か」
榊原は黙る。
「答えろ!」
「……はい」
奏太の拳が震える。
「美月を利用したのか」
「彼女を守るためでもあった」
「ふざけるな!」
「記憶を消さなければ!」
榊原が初めて叫ぶ。
「彼女は壊れていた!」
「だから家族ごと作った?」
「浩介」
「……」
「真由美」
「……」
「そして」
「奏太」
「全部」
榊原は俯く。
「美月が失った家族を」
一拍。
「別の形で与えた」
奏太の胸が締めつけられる。
桐谷家。
母。
父。
兄。
妹。
それは、
一人の少女の失った家族を再現したものだった。
だから。
母も父も交換されていた。
奏太の出生記録がなかった。
莉子と奏太に不自然なつながりがあった。
すべて、
水瀬家から始まっていた。
◇
「じゃあ止める方法」
現在の奏太が聞く。
『美月に思い出させる』
「何を?」
『全部』
「そんなことしたら」
榊原が叫ぶ。
「彼女が耐えられない!」
『でも』
未来の奏太。
『観測者が真実を認識しない限り』
「……」
『この七日間は終わらない』
「どこにいる」
『外』
「本物?」
『分からない』
「……」
『だから確かめろ』
奏太は深呼吸する。
「帰る」
莉子を見る。
「行こう」
莉子は頷く。
浩介。
少年。
「俺たちも」
「いや」
奏太が止める。
「ここにいて」
「なんで」
「もし失敗したら」
奏太は少し笑う。
「少なくとも誰かは覚えてて」
◇
八月三十日。
午後十一時二十一分。
残り三十九分。
奏太と莉子は桐谷家へ戻った。
夜。
家には明かりがついている。
「美月!」
玄関を開ける。
リビング。
美月が一人で座っていた。
「お兄ちゃん」
奏太は息を呑む。
「俺、分かる?」
「うん」
「本当に?」
「変なの」
美月が笑う。
「お兄ちゃんでしょ」
奏太は莉子を見る。
「美月」
「何?」
「水瀬奏太って知ってる?」
美月の笑顔が止まった。
「知らない」
「水瀬莉子」
「……知らない」
現在の莉子が前へ出る。
「美月」
「誰?」
「私」
「……」
「お姉ちゃん」
美月の手から、
コップが落ちた。
「……え?」
「思い出して」
「何を」
「昔」
莉子の目から涙。
「三人だった」
「やめて」
「私と」
「やめて」
「奏太と」
「やめて!」
「美月!」
美月が耳を塞ぐ。
「知らない!」
「思い出して!」
「知らない!」
「青い屋根の家!」
美月が固まる。
「庭にブランコ」
「……」
「奏太がいつも順番守らなかった」
「……」
「あなたが泣いて」
「……」
「私が怒って」
「……」
美月の目から涙が落ちた。
「やめて……」
「美月」
「知らないのに」
「……」
「なんで」
美月が泣く。
「覚えてるの……?」
◇
午後十一時三十一分。
残り二十九分。
美月の記憶が戻り始める。
「お姉ちゃん……」
「うん」
「奏太……」
現在の奏太を見る。
しかし。
美月は首を横に振った。
「違う」
奏太の胸が痛む。
「うん」
「お兄ちゃんじゃない」
「……分かってる」
「でも」
美月は奏太を見る。
「お兄ちゃん」
奏太は顔を上げる。
「どっち?」
美月は泣きながら笑う。
「分かんない」
奏太も少し笑った。
「俺も」
その瞬間。
家が揺れた。
壁。
コン。
コン。
コン。
無数。
「始まった」
奏太が時計を見る。
午後十一時三十四分。
まだ早い。
壁に扉が現れる。
一枚。
二枚。
十枚。
百枚。
町中の声。
人々の名前。
忘れられた人間。
「美月!」
奏太が妹の手を掴む。
「全部思い出して!」
「怖い!」
「分かってる!」
莉子も手を握る。
「私たちがいる!」
◇
午後十一時四十六分。
美月が泣き叫ぶ。
「火!」
記憶。
水瀬家。
炎。
「お姉ちゃん!」
「ここにいる!」
「奏太!」
現在の奏太が返事をする。
「いる!」
「違う!」
美月が叫ぶ。
「あなたじゃない!」
奏太は一瞬傷つく。
でも。
「そうだ!」
「え?」
「俺じゃない!」
奏太が笑う。
「思い出せ!」
「本当の奏太!」
美月の表情が変わる。
「お兄ちゃん……」
七歳の少年。
青いTシャツ。
アイス。
ブランコ。
手をつなぐ。
炎。
最後。
「美月!」
「逃げろ!」
本物の水瀬奏太は、
妹を窓から外へ押し出した。
そのあと。
家へ戻った。
「なんで戻ったの……」
現在の莉子が泣く。
美月が答える。
「お姉ちゃんを」
一拍。
「助けるため」
◇
午後十一時五十二分。
管理室。
遠くで警告音。
奏太のスマートフォンに通知。
観測者認識率 87%
「あと少し」
莉子。
「美月!」
「思い出して!」
「最後に見たもの!」
美月が頭を抱える。
「最後……」
炎。
煙。
兄。
姉。
そして。
「写真……」
「何?」
「誰か」
美月の呼吸が速くなる。
「家の外にいた」
「誰!」
記憶。
火事の家。
道路。
カメラ。
写真を撮っている人物。
「榊原?」
「違う」
美月が首を横に振る。
「もっと若い」
「誰?」
美月が奏太を見る。
顔色が変わる。
「お兄ちゃん」
「俺?」
「違う」
美月が震える。
「今のお兄ちゃんより大人」
最初の写真。
撮影者。
未来の奏太。
奏太の心臓が止まりそうになる。
「まさか」
スマートフォン。
着信。
表示。
桐谷奏太 ORIGINAL
奏太が出る。
「お前……」
『思い出したな』
「火事の日にいた?」
『ああ』
「なんで」
『止めるため』
「でも止められなかった」
『そう』
「じゃあ十三回前から?」
未来の奏太が沈黙。
「いつからいるんだよ」
『……』
「答えろ!」
未来の声。
『最初から』
奏太が凍りつく。
「どういう意味」
『火事を起こしたのは榊原じゃない』
「何?」
美月も莉子も聞いている。
『装置を暴走させたのは』
一拍。
『僕だ』
◇
「なんで……」
『水瀬奏太を救おうとした』
「お前誰なんだよ!」
『言っただろ』
「未来の俺じゃない!」
『……』
「俺はそんなことしてない!」
『だから』
声が笑う。
『君はまだ僕じゃない』
奏太の顔色が変わる。
『僕は』
一拍。
『水瀬奏太が最初に作った、最初の候補』
「0……?」
『そう』
「じゃあ」
『桐谷奏太という名前を』
『最初に使った存在』
「お前が全部」
『始めた』
奏太の足から力が抜ける。
『外に出たかった』
「……」
『家族が欲しかった』
「……」
『普通に生きたかった』
「だから?」
『何度やっても』
声が震える。
『うまくいかなかった』
「だから町全部を巻き込んだ?」
『そう』
未来でも。
管理者でもない。
最初の候補。
ずっとこの七日間を繰り返し、
完全な「桐谷奏太」になろうとしていた存在。
「最初の写真」
『僕が送った』
「カウントダウン」
『僕』
「交換」
『管理機構』
「じゃあ」
奏太は聞く。
「最後に俺をどうするつもり?」
沈黙。
『交換する』
「やっぱり」
『君はほぼ完成した』
「俺になれば?」
『僕はようやく』
一拍。
『人間になれる』
◇
午後十一時五十六分。
残り四分。
奏太は目を閉じる。
「嫌だ」
『……』
「俺はお前にならない」
『町が壊れる』
「知らない」
『全員が交換される』
「それも嫌だ」
『なら僕を受け入れろ』
「第三の方法」
『ない』
「作る」
『無理だ』
「お前だって」
奏太は笑った。
「最初は名前すらなかったんだろ」
『……』
「だったら」
「ルールなんて」
一拍。
「誰かが作ったものだ」
莉子が奏太を見る。
「何するの?」
「観測」
「え?」
「誰かが覚えてれば存在できる」
「うん」
「名前も重要」
「うん」
「だったら」
奏太は美月と莉子を見る。
「桐谷奏太を」
一拍。
「俺だけの名前にしなければいい」
◇
奏太はスマートフォンを操作する。
写真。
メッセージ。
学校のクラウド。
SNS。
クラスグループ。
自分に関する記録。
「何するの!」
「残す」
「何を?」
「全部」
奏太は書く。
桐谷奏太。
水瀬奏太。
候補。
父。
母。
莉子。
美月。
この七日間。
そして。
「桐谷奏太は一人ではない」
送信。
拡散。
学校。
友達。
町。
「何してる!」
榊原の声がスピーカーから響く。
「存在条件を壊す!」
「そんなことをすれば!」
「一つの名前に一人しかいられないなら」
奏太は叫ぶ。
「みんなが最初から『一人じゃない』って知ればいい!」
管理画面。
エラー。
IDENTITY CONFLICT
IDENTITY CONFLICT
IDENTITY CONFLICT
未来の奏太が叫ぶ。
『やめろ!』
「嫌だ!」
『僕が消える!』
「消えない!」
『何?』
「俺が覚えてる!」
奏太は叫ぶ。
「莉子も!」
「覚える!」
莉子。
「美月も!」
「忘れない!」
美月。
「お前も桐谷奏太だ!」
電話の向こうが黙る。
「俺も!」
「他の候補も!」
「水瀬奏太も!」
「全部違う!」
一拍。
「でも全部いた!」
◇
午後十一時五十九分。
管理室。
警報。
写真。
すべてが高速で変化する。
榊原が叫ぶ。
「そんな定義は存在しない!」
奏太は笑う。
「じゃあ今日作る!」
莉子も笑った。
「ほんと無茶苦茶」
「今さら?」
美月が泣きながら笑う。
最後の十秒。
10。
壁の扉が開く。
無数の奏太。
子供。
高校生。
大人。
父親。
知らない顔。
全員。
奏太を見る。
9。
8。
7。
未来の奏太の声。
『怖くないのか』
「怖いよ」
6。
『消えるかもしれない』
「うん」
5。
『本物になれない』
「……」
4。
奏太は笑う。
「最初から」
3。
「本物かどうかなんて」
2。
「誰にも決められないんだよ」
1。
莉子が奏太の手を握る。
美月も。
午前零時。
0。
世界が、
白くなった。
◇
八月三十一日。
午前七時四十三分。
「奏太ー! いつまで寝てるの!」
声。
奏太は目を開けた。
自分の部屋。
天井。
カーテン。
蝉の声。
「……」
スマートフォン。
八月三十一日。
「戻った……?」
ベッドから起きる。
鏡を見る。
自分。
左目の下。
小さなほくろ。
「……あれ」
あった。
階段を下りる。
リビング。
母親。
「おはよう」
「……母さん?」
「何?」
美月。
「お兄ちゃん、顔やば」
「美月」
「何?」
奏太は二人を見る。
「俺のこと分かる?」
母親が笑う。
「朝から何言ってるの」
奏太の目に涙。
「……そっか」
テーブル。
皿。
四枚。
奏太は固まる。
「母さん」
「何?」
「皿」
「四枚だけど」
「誰の?」
真由美が不思議そうな顔。
「あなた」
「美月」
「私」
そして。
「お父さん」
奏太の心臓が跳ねる。
振り返る。
父親。
浩介がキッチンから出てくる。
「おはよう」
「……父さん」
「どうした?」
奏太は泣きながら笑う。
「何でもない」
どの浩介なのか。
本物なのか。
候補なのか。
もう分からない。
でも。
目の前にいる。
奏太はそれでいいと思った。
◇
学校。
莉子が校門で待っていた。
「遅い!」
「ごめん」
「本当に覚えてる?」
「何を?」
莉子が少し不安そうになる。
奏太は笑う。
「卒業式のキーホルダー」
莉子の顔が明るくなる。
「よかった……」
二人で校舎へ向かう。
「直人は?」
「教室」
「覚えてる?」
「もちろん」
「じゃあ」
「何?」
「水瀬奏太」
莉子は立ち止まる。
そして。
笑った。
「弟」
「うん」
「忘れてない」
奏太も頷く。
「俺も」
◇
校長。
榊原は姿を消していた。
地下施設も。
白い廊下も。
扉も。
学校の記録上、
最初から存在しなかった。
ただ。
水瀬家の火災記録だけは残っていた。
死亡者。
水瀬奏太。
そして。
誰も知らないもう一つの名前。
水瀬莉子。
現在の莉子は、
その名前を見ても逃げなかった。
「私も莉子」
そう言った。
「この子も莉子」
奏太は頷いた。
「うん」
◇
一週間後。
桐谷家。
夕食。
父。
母。
美月。
奏太。
四人。
「普通だな」
奏太が呟く。
「何が?」
美月。
「何でもない」
「変なお兄ちゃん」
笑い声。
奏太は、
これで終わったと思っていた。
少なくとも。
その夜までは。
◇
午前二時十三分。
奏太のスマートフォンが鳴った。
通知。
知らない番号。
「……」
嫌な予感。
開く。
一枚の写真。
桐谷家。
今。
道路の向こうから撮影されている。
二階。
奏太の部屋。
明かり。
窓辺。
自分が立っている。
奏太は窓を見る。
カーテンは閉まっている。
自分はベッドの上にいる。
「……嘘だろ」
写真の裏。
文字。
奏太の手が震える。
『あと七日』
「……」
しかし。
その下に、
今までなかった一文。
『今度は、あなたではありません。』
奏太は息を止める。
続き。
『次に消えるのは――』
名前。
『桐谷美月』
「……美月?」
その瞬間。
隣の部屋から、
コン。
壁を叩く音。
奏太はベッドから飛び起きた。
「美月!」
廊下へ出る。
妹の部屋。
扉。
ノブへ手を掛ける。
その時。
中から、
美月の声。
「お兄ちゃん?」
「美月!」
「どうしたの?」
「開けて!」
「ちょっと待って」
安心しかけた。
しかし。
美月が言った。
「今ね」
「……何?」
「変な夢見てた」
奏太の手が止まる。
「どんな?」
扉の向こう。
美月。
「知らない家」
「……」
「知らないお姉ちゃん」
「……」
「知らないお兄ちゃん」
奏太の呼吸が止まる。
「それで」
「……」
「みんな私のこと」
一拍。
「水瀬美月って呼ぶの」
壁の向こうから、
もう一度。
コン。
奏太はスマートフォンを見る。
写真。
『あと七日』
そして。
自分の背後。
廊下の鏡。
そこに、
奏太ではない少年が立っていた。
青いTシャツ。
七歳くらい。
水瀬奏太。
少年は鏡の中から、
静かに笑った。
「次は」
一拍。
「美月を忘れないでね」
鏡から姿が消える。
奏太は妹の部屋の前で、
しばらく動けなかった。
七日間は終わった。
それでも。
記憶されることで存在する世界では、
誰かを忘れるたび、
どこかにまた、
新しい扉が生まれる。
そして奏太は知っている。
次に写真が届いた時、
自分がするべきことを。
忘れない。
名前を呼ぶ。
存在していたと伝える。
たとえ写真から消えても。
記録から消えても。
世界中の誰もが忘れても。
自分だけは。
奏太は扉の向こうへ呼びかけた。
「美月」
「何?」
いつもの妹の声。
奏太は笑った。
「なんでもない」
そして小さく、
誰にも聞こえない声で続けた。
「絶対、忘れないから」
窓の外。
夜の町。
どこか遠くで、
一つの壁を叩く音がした。
コン。
続いて、
もう一つ。
コン、コン。
まるで、
存在を忘れられた誰かが、
こちら側へ知らせようとしているように。
――私は、ここにいる。
と。
――完――


