いつもの席で、また明日

最終章 いつもの窓際の席

最終章 いつもの窓際の席

 琴葉と別れてから、季節が一つ変わった。

 夏の終わりに聞こえていた蝉の声はいつの間にか消え、朝晩の空気が少しずつ冷たくなっていた。

 悠介の生活は、驚くほど普通に続いていた。

 朝起きる。

 会社へ行く。

 仕事をする。

 昼を食べる。

 夕方になれば帰る。

 たまに同期と飲みに行き、休日には友人と出かけることもある。

 仕事にも慣れた。

 上司から任されることが増え、後輩から質問されることも増えた。

 何か面白いことがあれば笑うし、疲れれば早く寝る。

 琴葉がいなくなったからといって、日常が止まることはなかった。

 それが少し不思議だった。

 大学時代の悠介に、いつか琴葉と別れる日が来ると教えたなら、きっともっと大変なことを想像したと思う。

 何も手につかなくなるとか、毎日思い出して苦しくなるとか、何か大きく変わるものだと思ったかもしれない。

 実際は違った。

 傷ついていても腹は減る。

 朝になれば目は覚める。

 月曜日になれば仕事へ行かなければならない。

 そして、そうやって毎日を繰り返しているうちに、琴葉を思い出さない時間が少しずつ増えていった。

 忘れたわけではない。

 ただ、思い出が生活の真ん中から少しずつ端へ移動していった。

 それだけだった。



 十一月のある土曜日。

 悠介は久しぶりに商店街を歩いていた。

 特に目的はなかった。

 午前中に用事を済ませ、昼を食べる場所を考えながら歩いているうちに、気づけば昔と同じ道へ入っていた。

 角を曲がる。

 少し色の褪せた外壁。

 小さな木の看板。

 黒板には白い文字で、

『本日の珈琲』

 と書かれている。

 喫茶ひより。

 悠介は店の前で立ち止まった。

 最後に来たのは二か月ほど前だった。

 琴葉と別れたあと、一人で窓際に座った日。

 それ以来、何となく来ていなかった。

 避けていたわけではない。

 ただ、行く理由が少し薄くなっていた。

 悠介は扉を開ける。

 小さなベルが鳴った。

「いらっしゃい」

 聞き慣れた声。

 店主がカウンターの奥から顔を上げる。

「久しぶり」

「お久しぶりです」

「元気そうだね」

「まあまあです」

「今日は仕事?」

「休みです」

「珍しいね、この時間」

「何となく来ました」

「それが一番いいよ」

 店主が笑う。

 悠介も少し笑った。

 店内を見る。

 休日の昼過ぎということもあって、いつもより客が多かった。

 カウンターに一人。

 奥のテーブルに老夫婦。

 大学生らしい二人組。

 そして窓際の席は、

 空いていた。

 悠介はそこへ向かった。



「いつもの?」

 店主が聞く。

「お願いします」

「今の季節ならホットでいい?」

「はい」

「了解」

 悠介は椅子へ座る。

 向かいには誰もいない。

 それがもう、以前ほど不自然には感じられなかった。

 窓の外を人が歩いている。

 親子。

 買い物袋を持つ夫婦。

 自転車で通り過ぎる高校生。

 大学生らしい二人が笑いながら駅の方向へ向かっている。

 昔、自分たちもあんなふうに歩いていたのだろうかと思う。

「どうぞ」

 店主が珈琲を置く。

「ありがとうございます」

「仕事は?」

「順調です」

「そう」

「最近ちょっと任されること増えて」

「いいじゃない」

「その分忙しいですけど」

「若いうちは忙しいくらいがいい」

「店主みたいなこと言いますね」

「店主だからね」

 悠介が笑う。

「そういう意味じゃないです」

「分かってるよ」

 店主はカウンターへ戻る。

 相変わらずだった。

 その変わらなさがありがたかった。



 珈琲を飲みながら、悠介はスマートフォンを取り出した。

 何となく写真を開く。

 最近の仕事関係の写真。

 友人と食べた料理。

 会社の飲み会。

 旅行先の風景。

 指を動かしているうちに、少し古い写真が出てきた。

 青い水槽。

 その前に並んだ二人。

 初めて一緒に撮った写真だった。

 一枚目では少し固い。

 二枚目では琴葉が笑っていて、悠介もつられて笑っている。

「消さないでくださいよ」

 あの日、琴葉が言った。

「機種変しても?」

「そこまで?」

「せっかく二人で撮った最初の写真だから」

 悠介は、そのやり取りまで覚えていた。

 写真は今も残っている。

 消そうと思ったことはない。

 見ないようにしたこともない。

 ただ、以前ほど頻繁には開かなくなった。

 悠介は少しだけ写真を見てから、画面を閉じた。

 悲しくはなかった。

 少し懐かしかった。

 それで十分だった。



「そういえば」

 店主がカウンターから言った。

「はい?」

「琴葉ちゃん、先月来たよ」

 悠介の手が少し止まった。

「……そうなんですか」

「うん」

「いつ?」

「三週間くらい前かな」

「一人で?」

「一人」

 悠介は珈琲を見る。

「元気そうでした?」

「元気そうだったよ」

「そっか」

「仕事忙しいって」

「でしょうね」

 それ以上聞くべきか少し迷った。

 東京でどうしているのか。

 今も出版社で働いているのか。

 仕事は楽しいのか。

 誰か新しい人がいるのか。

 聞こうと思えば聞けた。

 けれど、悠介は聞かなかった。

「何か言ってました?」

 代わりにそれだけ聞く。

 店主は少し考える。

「特には」

「そっか」

「珈琲じゃなく紅茶飲んで」

「そこは変わらないですね」

「変わらないね」

 店主が笑う。

「ここ座ってたよ」

 窓際の席。

 悠介は向かいの椅子を見る。

「そうなんだ」

「君のことは聞かなかった」

 店主が言う。

「……はい」

「でも」

「何ですか?」

「帰る時、この席ちょっと見てた」

 悠介は何も言わなかった。

 店主もそれ以上は話さなかった。



 琴葉がここに座った。

 三週間前。

 自分と同じように一人で。

 紅茶を飲んで。

 窓の外を見て。

 何を考えていたのだろう。

 悠介のことを思い出したのかもしれない。

 何も考えていなかったのかもしれない。

 その答えを知る必要はないと思った。

 以前なら知りたかった。

 琴葉が何を考えているのか。

 今日は何をしたのか。

 今何を食べたいのか。

 明日は何時に起きるのか。

 何でも知りたかった。

 今は違う。

 知らなくてもいい。

 知らないままでも、あの時間がなくなるわけではない。



 店の扉が開いた。

 ベルが鳴る。

 悠介は反射的に顔を上げた。

 知らない女性だった。

 一瞬だけ、自分でもおかしくなった。

 まだどこかで期待していたらしい。

 偶然、琴葉が入ってくることを。

 そんな都合のいいことが起きれば、何かが変わるかもしれないと。

 けれど実際には何も起きない。

 琴葉は来ない。

 悠介は珈琲を飲む。

 それでいいと思った。



 夕方になり、客が少しずつ減っていった。

 窓から差し込む光が低くなる。

「もうこんな時間か」

 悠介が時計を見る。

「長居したね」

 店主が言う。

「大学の頃はもっといましたよ」

「そうだった」

「迷惑でした?」

「今さら?」

「今だから聞ける」

「別に。空いてたし」

「じゃあよかった」

 悠介は少し笑った。

「俺たち、相当来てましたよね」

「相当だね」

「週何回くらい?」

「多い時は五回」

「そんなに?」

「いたよ」

「ほぼ毎日じゃん」

「だから注文覚えたんだよ」

「確かに」

 悠介は窓際の席を見る。

「最初、琴葉がここ座ってましたよね」

「そうだね」

「俺、隣のテーブルで」

「覚えてるよ」

「本当に?」

「君、すごい店内見てたから」

「琴葉にも言われた」

「入る店間違えた人みたいだった」

「それも言われた」

 二人で笑う。

 少しして、店主が言った。

「いい時間だった?」

 悠介は顔を上げる。

「何がですか」

「ここで過ごした時間」

 悠介は少し考えた。

 でも答えはすぐに出た。

「はい」

「ならいいね」

「それだけ?」

「それ以上何かいる?」

 悠介は笑った。

「いらないかも」

「でしょ」

 店主はそれ以上何も言わなかった。

 人生について語ることもなければ、恋愛について教えることもしない。

 ただ、カウンターの中でいつものようにカップを拭いている。

 悠介はその距離感が好きだった。



 店を出る前。

 悠介は会計を済ませた。

「また来ます」

「うん」

「次いつか分からないですけど」

「店やってるうちはいつでも」

「来年も?」

「多分」

「再来年も?」

「さあねえ」

「前、同じ話した気がする」

「琴葉ちゃんと?」

「はい」

「ならまた来年確認しなよ」

「そうします」

 扉へ向かう。

 ベルが鳴る。

 外へ出ると、冷たい風が吹いた。

 悠介はコートのポケットへ手を入れる。

 その時、指先に鍵が触れた。

 琴葉からもらったキーケース。

 今も使っている。

 革は以前より柔らかくなり、角の色が少し変わっていた。

 買った時より、今の方が自分のものらしく見える。

 悠介は一度だけそれを見て、またポケットへ戻した。



 駅までの道を歩く。

 何百回も歩いた道。

 商店街を抜ける。

 横断歩道。

 あの日、琴葉へ告白した場所。

 信号は赤だった。

 悠介は立ち止まる。

 目の前には何人かの人がいる。

 学生。

 会社員。

 買い物帰りの女性。

 青になる。

 人が歩き始める。

 悠介も歩く。

 あの日と違って、隣に琴葉はいない。

 それでも信号は変わる。

 道は続く。

 駅へ向かう。



 ホームへ着く。

 電車まで少し時間があった。

 ベンチに座る。

 向かいのホームに電車が入ってくる。

 扉が開き、人が降りる。

 悠介はぼんやりそれを見ていた。

 その時。

 一人の女性が視界に入った。

 長い髪。

 コート。

 本を抱えている。

 胸が一瞬だけ跳ねた。

 琴葉。

 そう思った。

 でも顔を上げた女性は、全く知らない人だった。

 悠介は小さく息を吐く。

 そして笑った。

 まだ間違えることがある。

 たぶん、しばらくはあるのだろう。

 似た髪型。

 似た声。

 同じ香り。

 紅茶。

 本屋。

 雨。

 そういうものを見るたびに思い出す日もある。

 それでいい。

 忘れる必要はない。



 電車へ乗る。

 窓際に座る。

 街が流れていく。

 スマートフォンを取り出す。

 琴葉とのトーク画面を開いた。

 最後のやり取りから、もう何か月も経っている。

 送ろうと思えば送れる。

『元気?』

 それだけでいい。

 きっと返事は来るだろう。

 琴葉なら、たぶん返してくれる。

 でも悠介は送らなかった。

 嫌いだからではない。

 話したくないからでもない。

 今は、それぞれの生活をちゃんと歩いているから。

 無理に昔へ戻らなくてもいいと思えた。

 悠介は画面を閉じた。



 十二月。

 クリスマスイブ。

 今年、悠介はひよりへ行かなかった。

 仕事だった。

 帰宅したのは午後九時過ぎ。

 駅前にはイルミネーションが灯り、カップルや家族連れで賑わっている。

 悠介はコンビニで夕食を買った。

 以前なら少し寂しいと思ったかもしれない。

 でも今年は、それほどでもなかった。

 家へ着く。

 コートを脱ぐ。

 スマートフォンを見る。

 友人からのメッセージ。

 会社のグループ。

 家族。

 琴葉からはない。

 当然だった。

 悠介も送らない。

 それでも一瞬だけ思った。

 東京は今、どんな夜だろう。

 仕事は終わっただろうか。

 今年は誰かと過ごしているのだろうか。

 すぐに考えるのをやめた。

 知らなくていい。

 それは悲しいことではなかった。

 ただ、お互いの人生が別々に続いているということだった。



 さらに季節が進んだ。

 三月。

 久しぶりに大学の近くへ行く用事があった。

 仕事で取引先へ向かう途中だった。

 少し時間があったので、悠介は大学の正門まで歩いた。

 春休み中で人は少ない。

 中庭の桜はまだ蕾だった。

 一年前。

 二年前。

 琴葉とここに立った。

「来年も見ましょうね」

 そう言われた。

「再来年も」

 約束した。

 結局、今年は一人だった。

 悠介は桜を見上げる。

「約束破ったな」

 誰に言うでもなく呟いた。

 でも不思議と、それほど悲しくなかった。

 約束は守れなかった。

 だからといって、約束した時の気持ちまで嘘になるわけではない。

 あの時は本当に、来年も一緒にいると思っていた。

 それで十分だった。



 六月。

 雨の日。

 仕事が早く終わった。

 悠介は駅へ向かう途中、ふと思い立って商店街へ入った。

 傘に雨粒が当たる。

 喫茶ひより。

 扉を開く。

 ベルが鳴る。

「いらっしゃい」

 店主が顔を上げる。

「雨の日に珍しいね」

「何となく」

「いつもの?」

「お願いします」

 悠介は窓際を見る。

 空いている。

 座る。

 外は雨。

 三年前とも、四年前とも似た景色。

 店主が水を運んでくる。

 一つ。

 そのあとカウンターへ戻ろうとして、一瞬だけ手が止まった。

 何かを思い出したように、隣のテーブルに置こうとしていたもう一つのグラスを持ち直す。

 ほんの一瞬のことだった。

 悠介は気づいた。

 でも何も言わなかった。

 店主も言わない。

 水は一つ。

 今は、それで正しい。



 珈琲が運ばれる。

 悠介は窓の外を見る。

 雨の中、一人の大学生らしい女性が走っている。

 折り畳み傘。

 少し曲がっている。

 悠介は思わず笑った。

「どうしたの?」

 店主が聞く。

「いや」

「何?」

「昔思い出して」

「ああ」

 店主も窓の外を見る。

「傘?」

「はい」

「壊れてるね」

「ですね」

 二人で笑う。

 それだけだった。



 悠介は珈琲を飲みながら思う。

 もしあの日、講義が休講にならなかったら。

 もしこの道へ入らなかったら。

 もしひよりを見つけなかったら。

 もし琴葉の傘が壊れなかったら。

 きっと二人は出会わなかった。

 人生には、そういう偶然がたくさんあるのだろう。

 出会わないまま終わる人。

 少しだけ話す人。

 長く一緒にいる人。

 そして、大切だったのに離れていく人。

 昔の悠介なら、最後まで一緒にいられなかった恋を失敗だと思ったかもしれない。

 でも今は違う。

 琴葉と出会ったことで本を読むようになった。

 誰かの好きなものを知る楽しさを覚えた。

 何でもない日を誰かと過ごすことが、こんなに幸せなのだと知った。

 人を好きになるということが、特別な日に何かをすることではなく、相手の明日を自然に自分の生活へ入れていくことなのだと知った。

 そして、好きなまま離れることもあるのだと知った。

 それらは全部、琴葉と出会わなければ知らなかったことだった。

 だから、あの恋は失敗ではない。

 終わった。

 ただ、それだけだ。



 雨は少しずつ弱くなっていった。

 悠介は時計を見る。

「そろそろ帰ります」

「うん」

 会計を済ませる。

「また来る?」

 店主が聞く。

「来ますよ」

「いつ?」

「分かりません」

「じゃあまたそのうち」

「はい」

 悠介は扉を開ける。

 外へ出る。

 雨はほとんど止んでいた。

 傘を閉じる。

 商店街を歩く。

 駅までの道。

 空にはまだ雲が残っている。

 でも西の方だけ少し明るい。

 悠介は歩きながら、ふと琴葉のことを思い出した。

 元気だろうか。

 ちゃんとご飯を食べているだろうか。

 本は今もたくさん読んでいるだろうか。

 茶色の栞はまだ使っているだろうか。

 分からない。

 それでいい。

 もしどこかで偶然会ったなら、その時は普通に笑える気がした。

「久しぶり」

 と。

 そしてきっと、琴葉も、

「久しぶり」

 と返す。

 それだけでいい。



 駅前の横断歩道。

 信号は赤。

 悠介は立ち止まる。

 隣には誰もいない。

 以前なら、そのことを寂しいと思った。

 今はただ一人で立っている。

 信号が青になる。

 悠介は歩き出す。

 途中で空を見上げる。

 雨上がりの雲の隙間から、ほんの少しだけ夕方の光が差していた。

 綺麗だと思った。

 誰かに送ろうとは思わなかった。

 写真も撮らなかった。

 ただ自分で見た。

 それも悪くなかった。



 あの日。

 小さな喫茶店の窓際で本を読んでいた女の子を見つけた。

 名前も知らなかった。

 話したこともなかった。

 ただ、そこにいると少しだけ嬉しかった。

 やがて名前を知った。

 一緒に歩いた。

 同じものを食べた。

 何時間も話した。

 恋をした。

 手をつないだ。

 何度も「また明日」と言った。

 明日が当たり前に続くと思っていた。

 そして、いつかその言葉を言わない日が来た。

 それでも。

 言えなくなったからといって、言っていた日々まで消えるわけではない。

 明日を約束できた日が確かにあった。

 その人と過ごす明日を楽しみに眠れた夜があった。

 会えることを当たり前に思えるほど、近くにいた時間があった。

 それは、きっと幸せだった。

 悠介は駅へ向かって歩いていく。

 もう隣に琴葉はいない。

 けれど、あの頃の自分たちを否定する必要もない。

 別々の街。

 別々の仕事。

 別々の毎日。

 きっと琴葉も今、自分の場所で今日を生きている。

 そして悠介も、自分の明日へ向かっている。

 もう二人で同じ「また明日」を言うことはないのかもしれない。

 それでもあの言葉は、これからもずっと、悠介の中で温かいまま残っていく。

 運命だったとは思わない。

 永遠だったとも思わない。

 ただ、人生の途中で偶然出会い、好きになり、一緒に過ごした。

 それだけの恋だった。

 けれど悠介にとっては、それで十分だった。

 何でもなかったはずの日々が、振り返れば一番大切な時間になっていた。

 そして今日も、明日は来る。

 誰かと一緒でも。

 一人でも。

 それぞれの場所で。

 悠介は歩いていく。

 あの小さな喫茶店を背にして。

 いつもの席に残った記憶と、もう言わなくなった言葉を胸のどこかに置いたまま。

 「また明日」

 それは別れの言葉ではなく、二人が確かに幸せだった日々の名前だった。

――完――
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