四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜
雨の誕生日と、小さな飴玉
今日は、夕凪の二十五歳の誕生日だった。
朝、目を覚ました夕凪は、窓の外を見て小さくため息をついた。
「……雨かぁ」
窓ガラスには、細かな雨粒がいくつもついている。
雨の日だけ開く喫茶店「あまなぎ」にとって、雨は営業日。
だから、雨が降ること自体は嫌いではない。
けれど――。
「今日くらい、晴れてほしかったなぁ」
二十五歳の誕生日。
できれば青い空の下で迎えたかった。
そんなことを思いながら、夕凪は身支度を整え、店へ向かった。
「あまなぎ」は、夕凪の家と同じ建物にある。
店内を掃除し、テーブルを拭き、コーヒー豆を確認する。
パンも焼く。
今日も、誰かがこの店を必要としてくれるかもしれない。
そう思うと、不思議と心が落ち着いた。
やがて、雨の中を歩く人影が見えた。
扉が開く。
カラン、カラン。
「いらっしゃいませ」
顔を上げた夕凪は、少し驚いた。
「……蒼くん」
そこにいたのは、以前から「あまなぎ」に来ている高校三年生の蒼だった。
「こんにちは、夕凪さん」
「こんにちは。今日も勉強?」
「はい。家だと集中できなくて」
蒼はいつものように、少し照れくさそうに笑った。
最近、陸や空と一緒に来ることもある。
三人とも高校三年生。
受験を控えていて、以前よりも勉強する時間が増えているらしい。
けれど、今日は蒼一人だった。
「好きな席、どうぞ」
「ありがとうございます」
蒼は窓際の席に座った。
雨の向こうには、四浦の海が見える。
今日は雨で少し霞んでいて、海と空の境目が分からない。
蒼は鞄から参考書とノートを取り出した。
「何にする?」
「ココアと……焼きたてパンのサンドイッチ、お願いします」
「はい。少々お待ちください」
夕凪は厨房へ向かった。
パンを切り、具材を挟む。
焼きたてのパンから、ふわっと香ばしい香りが広がる。
その間に、ココアを作る。
温めたミルクにココアを溶かし、最後に少しだけ甘さを加える。
「お待たせしました」
蒼のテーブルに、焼きたてパンのサンドイッチと、温かいココアを置いた。
「わあ……おいしそう」
「勉強の前に、ちゃんと食べてね」
「はい」
蒼はサンドイッチを一口食べた。
「……おいしい」
「よかった」
それから蒼は、しばらく勉強をしていた。
ペンを走らせる音。
ページをめくる音。
そして、ときどきココアを飲む音。
「あまなぎ」には、そんな静かな時間が流れていた。
しばらくして、蒼が参考書から顔を上げた。
「夕凪さん」
「ん?」
「ちょっと聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「夕凪さんって……何歳なんですか?」
突然の質問に、夕凪は少し目を丸くした。
「私?」
「はい」
「今日、誕生日だから……二十五歳になったよ」
「今日?」
「うん。今日が誕生日」
「……おめでとうございます」
蒼は少し驚いたような顔をして、それから笑った。
「ありがとうございます」
「ありがとう」
夕凪も笑った。
「じゃあ、夕凪さんって二十五歳なんですね」
「そうだよ」
「若いですね」
「蒼くんからしたら、どうなんだろうね」
「大人って感じします」
「二十五歳でも?」
「はい」
蒼は少し考えてから、また質問した。
「夕凪さんって、好きな食べ物なんですか?」
「好きな食べ物?」
「はい」
「うーん……いっぱいあるよ」
夕凪は笑った。
「パンケーキも好きだし、チーズケーキも好き。プリンも好きだし、唐揚げも好き」
「甘いもの、好きなんですね」
「うん。結構好き」
「じゃあ、好きな人とかいます?」
その言葉に、夕凪の手が少し止まった。
「好きな人?」
「はい」
蒼は自分で聞いておきながら、少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
夕凪は少し考えた。
「今はいないかな」
「……そうなんですか」
「うん」
蒼は、参考書の端を指でなぞりながら黙った。
それから、ぽつりと言った。
「僕……」
「うん?」
「夕凪さんのこと、ちょっと気になってます」
夕凪は静かに蒼を見る。
蒼は頬を少し赤くしながら続けた。
「前から、いろんな話を聞いてもらって……」
「うん」
「なんていうか、もっと夕凪さんのこと知りたいなって」
「……そっか」
夕凪は優しく笑った。
嬉しくないわけではない。
誰かに「気になる」と思ってもらえることは、素直に嬉しい。
けれど、蒼は高校三年生。
今は受験という大切な時期でもある。
「蒼くん」
「はい」
「気持ちを伝えてくれて、ありがとう」
「……はい」
「でも、今は受験が一番大事だと思う」
「分かってます」
蒼は頷いた。
「だから、今すぐどうこうしたいわけじゃないです」
「うん」
「ただ……もっと夕凪さんのこと知りたいなって思って」
夕凪は少しだけ笑った。
「じゃあ、まずは受験を頑張ろう」
「はい」
「それで、落ち着いたら、またいろんな話をしよう」
「……約束ですか?」
「約束っていうほどじゃないけど」
夕凪は笑った。
「雨の日に、あまなぎでね」
「はい」
蒼も笑った。
それから、また参考書へ視線を戻した。
夕凪は厨房へ戻る。
蒼はペンを握った。
さっきまでより、少しだけ心が軽くなっている気がした。
それからしばらくして、蒼は参考書を閉じた。
「夕凪さん、お会計お願いします」
「はーい」
蒼は財布を取り出し、ココアと焼きたてパンのサンドイッチのお代を支払った。
「ごちそうさまでした」
「こちらこそ、ありがとう」
蒼が鞄を肩にかける。
そして、扉へ向かおうとしたときだった。
「あ、蒼くん」
「はい?」
夕凪が厨房から小さな袋を持ってきた。
「これ、サービス」
「なんですか?」
「飴玉」
袋の中には、いくつかの小さな飴玉が入っていた。
蒼は不思議そうに見つめる。
「勉強してるとさ、急に糖分が欲しくなるときあるでしょう?」
「あー……あります」
「でも、勉強中だと、わざわざお菓子を買いに行ったりするのも面倒だし、集中が切れちゃうこともあるでしょ」
「確かに」
「だから、糖分が欲しくなったときに食べて」
夕凪は袋を蒼の手に渡した。
「これなら、勉強の途中でも一個食べられるから」
「……ありがとうございます」
蒼は、飴玉の入った小さな袋を見つめた。
「夕凪さんって、本当に優しいですね」
「そうかな?」
「はい」
蒼は笑った。
「大事に食べます」
「うん。でも、無理して勉強しすぎないでね」
「はい」
「ちゃんと寝ることも大事だからね」
「分かってます」
蒼は扉を開けた。
カラン、カラン。
外はまだ雨だった。
「じゃあ、また来ます」
「うん」
「雨の日に」
「雨の日にね」
蒼は小さく手を振って、雨の中へ歩いていった。
夕凪は扉の前から、その背中を見送った。
やがて蒼の姿が雨の向こうへ消えていく。
夕凪は店内へ戻った。
そして、窓の外を見る。
雨に霞んだ四浦の海。
静かに揺れる海面。
今日は、晴れてほしいと思っていた。
二十五歳の誕生日だから。
けれど――。
雨の日だからこそ、蒼は「あまなぎ」に来てくれた。
そして、蒼の気持ちを少し知ることができた。
「……不思議な誕生日だな」
夕凪は小さく笑った。
二十五歳になった日に、
ひとつ、新しい「気になる」が生まれた。
それは、今すぐ答えを出すようなものではない。
蒼には、蒼の大切な未来がある。
まずは受験。
そして、その先にある未来。
いつか蒼が大人になって、また「あまなぎ」の扉を開けてくれたとき。
そのときには、今日とは違う景色が見えるのかもしれない。
夕凪は、そんな未来を少しだけ想像した。
けれど今は――。
蒼が持って帰った小さな飴玉が、勉強の合間に少しでも力になればいい。
そう思った。
雨は、まだ降っている。
窓ガラスを伝う雨粒の向こうで、四浦の海が静かに揺れている。
その海を眺めながら、夕凪はそっと呟いた。
「蒼くん、頑張ってね」
その声は、雨音に溶けていった。
二十五歳の誕生日。
雨の日の「あまなぎ」に、
小さな気持ちと、
小さな飴玉が残った。
そして今日も、
雨は誰かの心を少しだけ静かにしていた。
朝、目を覚ました夕凪は、窓の外を見て小さくため息をついた。
「……雨かぁ」
窓ガラスには、細かな雨粒がいくつもついている。
雨の日だけ開く喫茶店「あまなぎ」にとって、雨は営業日。
だから、雨が降ること自体は嫌いではない。
けれど――。
「今日くらい、晴れてほしかったなぁ」
二十五歳の誕生日。
できれば青い空の下で迎えたかった。
そんなことを思いながら、夕凪は身支度を整え、店へ向かった。
「あまなぎ」は、夕凪の家と同じ建物にある。
店内を掃除し、テーブルを拭き、コーヒー豆を確認する。
パンも焼く。
今日も、誰かがこの店を必要としてくれるかもしれない。
そう思うと、不思議と心が落ち着いた。
やがて、雨の中を歩く人影が見えた。
扉が開く。
カラン、カラン。
「いらっしゃいませ」
顔を上げた夕凪は、少し驚いた。
「……蒼くん」
そこにいたのは、以前から「あまなぎ」に来ている高校三年生の蒼だった。
「こんにちは、夕凪さん」
「こんにちは。今日も勉強?」
「はい。家だと集中できなくて」
蒼はいつものように、少し照れくさそうに笑った。
最近、陸や空と一緒に来ることもある。
三人とも高校三年生。
受験を控えていて、以前よりも勉強する時間が増えているらしい。
けれど、今日は蒼一人だった。
「好きな席、どうぞ」
「ありがとうございます」
蒼は窓際の席に座った。
雨の向こうには、四浦の海が見える。
今日は雨で少し霞んでいて、海と空の境目が分からない。
蒼は鞄から参考書とノートを取り出した。
「何にする?」
「ココアと……焼きたてパンのサンドイッチ、お願いします」
「はい。少々お待ちください」
夕凪は厨房へ向かった。
パンを切り、具材を挟む。
焼きたてのパンから、ふわっと香ばしい香りが広がる。
その間に、ココアを作る。
温めたミルクにココアを溶かし、最後に少しだけ甘さを加える。
「お待たせしました」
蒼のテーブルに、焼きたてパンのサンドイッチと、温かいココアを置いた。
「わあ……おいしそう」
「勉強の前に、ちゃんと食べてね」
「はい」
蒼はサンドイッチを一口食べた。
「……おいしい」
「よかった」
それから蒼は、しばらく勉強をしていた。
ペンを走らせる音。
ページをめくる音。
そして、ときどきココアを飲む音。
「あまなぎ」には、そんな静かな時間が流れていた。
しばらくして、蒼が参考書から顔を上げた。
「夕凪さん」
「ん?」
「ちょっと聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「夕凪さんって……何歳なんですか?」
突然の質問に、夕凪は少し目を丸くした。
「私?」
「はい」
「今日、誕生日だから……二十五歳になったよ」
「今日?」
「うん。今日が誕生日」
「……おめでとうございます」
蒼は少し驚いたような顔をして、それから笑った。
「ありがとうございます」
「ありがとう」
夕凪も笑った。
「じゃあ、夕凪さんって二十五歳なんですね」
「そうだよ」
「若いですね」
「蒼くんからしたら、どうなんだろうね」
「大人って感じします」
「二十五歳でも?」
「はい」
蒼は少し考えてから、また質問した。
「夕凪さんって、好きな食べ物なんですか?」
「好きな食べ物?」
「はい」
「うーん……いっぱいあるよ」
夕凪は笑った。
「パンケーキも好きだし、チーズケーキも好き。プリンも好きだし、唐揚げも好き」
「甘いもの、好きなんですね」
「うん。結構好き」
「じゃあ、好きな人とかいます?」
その言葉に、夕凪の手が少し止まった。
「好きな人?」
「はい」
蒼は自分で聞いておきながら、少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
夕凪は少し考えた。
「今はいないかな」
「……そうなんですか」
「うん」
蒼は、参考書の端を指でなぞりながら黙った。
それから、ぽつりと言った。
「僕……」
「うん?」
「夕凪さんのこと、ちょっと気になってます」
夕凪は静かに蒼を見る。
蒼は頬を少し赤くしながら続けた。
「前から、いろんな話を聞いてもらって……」
「うん」
「なんていうか、もっと夕凪さんのこと知りたいなって」
「……そっか」
夕凪は優しく笑った。
嬉しくないわけではない。
誰かに「気になる」と思ってもらえることは、素直に嬉しい。
けれど、蒼は高校三年生。
今は受験という大切な時期でもある。
「蒼くん」
「はい」
「気持ちを伝えてくれて、ありがとう」
「……はい」
「でも、今は受験が一番大事だと思う」
「分かってます」
蒼は頷いた。
「だから、今すぐどうこうしたいわけじゃないです」
「うん」
「ただ……もっと夕凪さんのこと知りたいなって思って」
夕凪は少しだけ笑った。
「じゃあ、まずは受験を頑張ろう」
「はい」
「それで、落ち着いたら、またいろんな話をしよう」
「……約束ですか?」
「約束っていうほどじゃないけど」
夕凪は笑った。
「雨の日に、あまなぎでね」
「はい」
蒼も笑った。
それから、また参考書へ視線を戻した。
夕凪は厨房へ戻る。
蒼はペンを握った。
さっきまでより、少しだけ心が軽くなっている気がした。
それからしばらくして、蒼は参考書を閉じた。
「夕凪さん、お会計お願いします」
「はーい」
蒼は財布を取り出し、ココアと焼きたてパンのサンドイッチのお代を支払った。
「ごちそうさまでした」
「こちらこそ、ありがとう」
蒼が鞄を肩にかける。
そして、扉へ向かおうとしたときだった。
「あ、蒼くん」
「はい?」
夕凪が厨房から小さな袋を持ってきた。
「これ、サービス」
「なんですか?」
「飴玉」
袋の中には、いくつかの小さな飴玉が入っていた。
蒼は不思議そうに見つめる。
「勉強してるとさ、急に糖分が欲しくなるときあるでしょう?」
「あー……あります」
「でも、勉強中だと、わざわざお菓子を買いに行ったりするのも面倒だし、集中が切れちゃうこともあるでしょ」
「確かに」
「だから、糖分が欲しくなったときに食べて」
夕凪は袋を蒼の手に渡した。
「これなら、勉強の途中でも一個食べられるから」
「……ありがとうございます」
蒼は、飴玉の入った小さな袋を見つめた。
「夕凪さんって、本当に優しいですね」
「そうかな?」
「はい」
蒼は笑った。
「大事に食べます」
「うん。でも、無理して勉強しすぎないでね」
「はい」
「ちゃんと寝ることも大事だからね」
「分かってます」
蒼は扉を開けた。
カラン、カラン。
外はまだ雨だった。
「じゃあ、また来ます」
「うん」
「雨の日に」
「雨の日にね」
蒼は小さく手を振って、雨の中へ歩いていった。
夕凪は扉の前から、その背中を見送った。
やがて蒼の姿が雨の向こうへ消えていく。
夕凪は店内へ戻った。
そして、窓の外を見る。
雨に霞んだ四浦の海。
静かに揺れる海面。
今日は、晴れてほしいと思っていた。
二十五歳の誕生日だから。
けれど――。
雨の日だからこそ、蒼は「あまなぎ」に来てくれた。
そして、蒼の気持ちを少し知ることができた。
「……不思議な誕生日だな」
夕凪は小さく笑った。
二十五歳になった日に、
ひとつ、新しい「気になる」が生まれた。
それは、今すぐ答えを出すようなものではない。
蒼には、蒼の大切な未来がある。
まずは受験。
そして、その先にある未来。
いつか蒼が大人になって、また「あまなぎ」の扉を開けてくれたとき。
そのときには、今日とは違う景色が見えるのかもしれない。
夕凪は、そんな未来を少しだけ想像した。
けれど今は――。
蒼が持って帰った小さな飴玉が、勉強の合間に少しでも力になればいい。
そう思った。
雨は、まだ降っている。
窓ガラスを伝う雨粒の向こうで、四浦の海が静かに揺れている。
その海を眺めながら、夕凪はそっと呟いた。
「蒼くん、頑張ってね」
その声は、雨音に溶けていった。
二十五歳の誕生日。
雨の日の「あまなぎ」に、
小さな気持ちと、
小さな飴玉が残った。
そして今日も、
雨は誰かの心を少しだけ静かにしていた。