『飛鳥の皇子は、私の“残業”を許さない』


淡い期待だった。いや、盛大な勘違いだった。

歴史の教科書に載る飛鳥時代といえば、のどかで、スピリチュアルで、ゆったりとした時間が流れているイメージだった。だが、現実は違った。

私が配属されたのは、当代随一の天才と謳われる最高権力者――厩戸皇子(うまやどのおうじ)の直属部署。

世間では「一度に十人の話を聞き分ける生ける神」などと崇められているが、現代のビジネスパーソンである私の目から見れば、彼の本性はただ一つ。


「超効率主義のロジハラ(論理ハラスメント)社長」。


その人だった。

この飛鳥の宮廷は、最新のイノベーションである「仏教」と「大陸の先進政治」を急速に導入しようとするあまり、現代のITベンチャー企業も真っ青の「超高密度な中央集権型ブラック組織」と化していたのである。


「遅い。凡人の手際というのは、なぜこうも非効率なのだ」


執務室の奥、一段高い畳の上から、冷徹な声が降ってくる。

みずらに結った艶やかな黒髪、切れ長の涼しげな瞳。大陸から輸入された最高級の紫の絹をまとったその姿は、確かに息を呑むほど美しい。現代でアイドルをやれば一瞬で天下を取れる顔面だ。

しかし、その美貌の前に積まれているのは、ファンレターではなく、山のような木簡の束。現代でいう「未処理のタスク」の山だ。


「依、結論から話せ。法隆寺の建築資材に関する予算表は、すべて揃ったか?」


皇子が愛用の扇でトントンと顎を叩きながら、私を値踏みするように睨む。

「……それが、皇子」

私は冷や汗を流しながら、手元で検品していた木簡の束を提示した。

「明日までに提出予定の『資材予算・最終稿』ですが……。全五十枚でワンセットのはずのところ、なぜか【杉の調達費用】を記した三十五枚目の木簡が、一枚だけ紛失しております」


「何?」


皇子の目が、氷のように冷たく細められた。

当時の公文書である木簡の紛失は、現代で言えば「国家機密データの破損」あるいは「会計データの隠蔽」に相当する。予算の横領や、政治的陰謀を疑われる大罪だ。

「締め切りは明朝だぞ。その部屋には誰が出入りした」

「紛失が発覚する直前、この執務室には、書類を運び込んだ下級官吏や、現場の職人など、ちょうど十人の者がおりました。現在は、彼らを全員、外の廊下に待機させてあります」


皇子はふっと重いため息をつくと、整った鼻の頭を指先で擦った。

「面倒だな。……おい、その十人を全員、ここに集めろ。僕が直接、デバッグ(検分)してやる」

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