あの雨の日から、ふたりは
第3話 また会う理由
18時少し前。
美織はパソコンの時計を見た。
十七時五十二分。
今日の作業はほぼ終わっている。
残ったメールを一通返し、デスクの上を整える。
17時56分。
もう一度時計を見る。
「……何してるんだろ、私」
小さく呟いた。
別に、待ち合わせに浮かれているわけではない。
傘のお礼について話す。
たぶん、ご飯へ行く。
それだけ。
それでも、人を待たせるのは嫌だった。
その理由を、美織はそれ以上掘り下げなかった。
18時前に会社を出ると、入口の少し離れたところに湊がいた。
スマートフォンを見るでもなく、周囲を眺めながら待っている。
美織に気づくと、すぐに顔がやわらいだ。
「あ、大庭さん。お疲れさまです」
「お疲れさまです。待ちました?」
「いえ。僕も今来たところです」
たぶん本当にそうなのだろう。
変な駆け引きをする感じがない。
それが美織には楽だった。
「じゃあ、駅前まで戻ります?」
「いいですね」
二人で歩き出す。
朝も歩いた道。
昼にも少しだけ歩いた道。
夕方になると、同じ場所でも空気が違う。
仕事を終えた人。
自転車のベル。
信号待ちの列。
昼の雨の名残が少しだけ残る路面。
「大庭さん、何系が好きですか?」
「食べ物?」
「はい。お礼って言ってもらいましたけど、僕も普通にご飯食べたいので」
「今日は私が出しますよ」
「いや、全部は」
「傘のお礼ですから」
美織は当然のように言う。
湊は少し考えたあと、変に押し問答を続けなかった。
「じゃあ、今日は甘えます」
「はい」
「店は大庭さんに任せてもいいですか」
「もちろん」
美織は少し考える。
「駅前の商業ビルの上に、創作料理のお店があるんです。行ったことはないんですけど、評判いいみたいで」
「いいですね」
「じゃあ、そこにしましょうか」
「お願いします」
片方が提案して、もう片方が受け取る。
何かを決めるのに、妙な駆け引きがない。
それが、二人にとって最初から少し楽だった。
*
駅前の商業ビルの最上階。
店内は照明が落ち着いていて、大きな窓から街の灯りが見えた。
高級すぎるわけではない。
でも、いつもの平日の夕食より少しだけ特別に見える。
案内されたのは窓際の席だった。
向かい合って座る。
そこで初めて、美織は少しだけ姿勢を正した。
さっきまで並んで歩いていた時には意識しなかったのに、真正面に座ると「二人で食事をする」という事実が急に輪郭を持つ。
相手は、昨日まで名前も知らなかった男性だ。
しかも、かなり顔がいい。
そう思った自分を、美織は内心で少しだけ呆れた。
だから何だという話である。
「改めて、昨日はありがとうございました」
美織は、きちんと笑って頭を下げた。
「こちらこそ。今日はごちそうになります」
「まだ食べてないですけど」
「あ、確かに」
湊が笑う。
美織も笑う。
その一往復で、少し入っていた力が抜けた。
最初の話題は、仕事だった。
美織の仕事はデザイン関係。
湊はIT系で、開発寄り。
会社がこれだけ近いのに、業界はまるで違う。
「朝倉さん、パソコン得意そうですよね」
「仕事聞いた後に言ってません?」
美織は一瞬だけ止まった。
「……ばれた?」
「今のはわかります」
「でも見た目もなんとなく」
「どういう見た目ですか」
「説明できない」
「適当ですね」
「そうとも言う」
美織が笑う。
湊は、最初に店内で見た時の「隙のない人」という印象が、また少し変わっていくのを感じていた。
もちろん、きちんとしている。
言葉遣いも丁寧。
店員への態度もやわらかい。
でも、話していると時々、妙に率直な一言が出る。
湊はそれを面白いと思った。
美織の側も、湊への印象を少しずつ更新していた。
これだけ整った外見なら、もっと自分がどう見えるかを意識していても不思議ではない。
けれど湊には、それがほとんどない。
知らないことは知らないと言う。
話を格好よくまとめようとしない。
美織の冗談を、少し考えてから真面目に受け取る時もある。
女性慣れしているというより、人に対して素直なのだと思った。
その感じが、妙に安心する。
「休みの日って、何してるんですか?」
美織が聞く。
「家にいること多いです。猫いるので」
美織の顔が変わった。
「猫?」
「はい」
「飼ってるんですか?」
「小虎さんっていうんですけど」
「……さん?」
「小虎さんです」
湊は真面目だった。
美織は一度唇を閉じて耐えようとしたが、無理だった。
「なんで“さん”なんですか」
「なんでって……小虎さんなので」
「答えになってない」
笑いがこぼれる。
それまでの整った笑顔とは違う。
目元までやわらかくなる。
「写真、あります?」
「ありますよ」
湊がスマートフォンを出す。
画面に、茶色い縞模様の猫。
美織は自然に身を乗り出した。
「……いいなあ」
「猫、好きなんですか?」
「大好きです」
声の温度が、少し変わった。
「本当は飼いたいんですけど」
「飼わないんですか?」
「今は無理かな。仕事で遅くなる日もあるし、一人暮らしだから。好きだからこそ、中途半端に迎えたくなくて」
湊は画面から美織へ視線を移した。
「そうなんですね」
「子猫とか見たら危ないですけどね。連れて帰りたくなる」
「でも我慢するんですね」
「します」
美織は小虎さんの写真を見たまま答えた。
「責任持てないのに飼うほうが、たぶん嫌だから」
湊は少し黙った。
その言葉を、ただの猫好きの話として聞き流さなかった。
この人は、自分が欲しいかどうかだけで決めない人なのだ。
「……優しいですね」
美織が顔を上げる。
「え?」
「猫に」
「ああ」
美織は少し困ったように笑った。
「そうなのかな」
「僕はそう思います」
湊は、本当にそう思っただけだった。
美織はそれ以上返さず、また画面を見る。
褒められ慣れていないわけではない。
仕事でも、外見でも、社交辞令はいくらでもある。
でも今の言葉は、自分でもあまり意識していなかった部分へ触れた気がした。
だから、少しだけ返し方に困った。
この時点ではまだ、それだけだった。
*
食事が進むにつれて、会話の間に短い沈黙が入るようになった。
話題が尽きたからではない。
料理を食べる。
窓の外を見る。
飲み物を口にする。
それから、またどちらかが話す。
沈黙を埋めなくても気まずくならない。
美織は途中で、それに気づいた。
初対面に近い相手との食事では、普通もう少し「何か話さなければ」と思う。
今日は、それがあまりない。
湊も同じだった。
楽しいけれど、盛り上げ続ける必要がない。
静かでも退屈ではない。
まだ理由はわからない。
ただ、居心地がいい。
食事を終え、伝票が置かれる。
美織が先に手を伸ばした。
「今日は私が払います」
「でも、結構ちゃんと食べましたよ」
「傘一本分です」
「傘、高くなりましたね」
「人件費込みです」
「人件費?」
「駅まで送ってもらったので」
湊が笑う。
「じゃあ今日は甘えます」
「そうしてください」
「その代わり」
「その代わり?」
湊は少し考えてから言った。
「次があるなら、その時は僕が払います」
美織の手が一瞬だけ止まった。
次。
そこに大きな意味はない。
食事が楽しかったから、また行くかもしれない。
大人同士なら、それくらいは自然だ。
美織もそう受け取った。
「じゃあ、そうしましょう」
頷く。
湊も、それ以上何も足さなかった。
*
店を出て、エレベーターで一階へ降りる。
駅前は夜の人通りが増えていた。
改札前まで来る。
昨日と同じ場所。
でも、昨日より互いに知っていることが少し増えている。
名前。
会社。
仕事。
猫。
笑い方。
「今日はありがとうございました」
湊が言う。
「こちらこそ。お付き合いありがとうございます」
「楽しかったです」
美織は一拍だけ置いた。
社交辞令として返すこともできる。
でも。
「私も。楽しかったです」
それは普通に本心だった。
「じゃあ、また」
「はい。また」
二人は別々のホームへ向かう。
美織は帰宅後、髪をほどきながら一日を振り返った。
朝。
昼。
夜。
同じ人と三度会った。
「……濃いな、今日」
思わず笑う。
でも、疲れてはいなかった。
むしろ、穏やかな気分だった。
明日の朝も、同じ時間なら会うかもしれない。
そう考えて。
ほんの少しだけ、楽しみだと思った。
それを恋だとは考えない。
物語の始まりだとも思わない。
自分は、昨日たまたま雨に降られて、感じのいい人に助けられただけだ。
ただ、その人と今日も会って、少し話して、一緒に食事をした。
その結果、明日の通勤路に、知っている顔がひとつ増えた。
それだけで、いつもの道がほんの少しだけ違って見える。
同じ頃。
湊は自宅で、小虎さんのご飯を用意していた。
「今日、また会いました」
小虎さんは食器を見ている。
「朝も、昼も。夜はご飯行って」
餌を置く。
「猫、好きなんですって」
小虎さんはすぐに食べ始めた。
「小虎さんの写真、かなり真剣に見てました」
湊は少し笑う。
それから、ふと今日の美織の顔を思い出した。
店員へ向ける丁寧な笑顔。
独り言を拾われて笑った顔。
小虎さんを見た時の、力の抜けた目元。
同じ人なのに、少しずつ違う。
そのことが、なんとなく面白かった。
「また会うと思います」
小虎さんは食事に夢中で、もちろん返事はない。
湊も、それ以上は考えなかった。
五月三十一日。
雨の日に、二人は出会った。
六月一日。
名前を呼び、一緒に笑い、また会うかもしれない理由がいくつか増えた。
まだ二人の生活は、ほとんど何も変わっていない。
けれど、いつもの通勤路の中に。
昨日まではいなかった一人が。
ほんの少しだけ、輪郭を持ち始めていた。
18時少し前。
美織はパソコンの時計を見た。
十七時五十二分。
今日の作業はほぼ終わっている。
残ったメールを一通返し、デスクの上を整える。
17時56分。
もう一度時計を見る。
「……何してるんだろ、私」
小さく呟いた。
別に、待ち合わせに浮かれているわけではない。
傘のお礼について話す。
たぶん、ご飯へ行く。
それだけ。
それでも、人を待たせるのは嫌だった。
その理由を、美織はそれ以上掘り下げなかった。
18時前に会社を出ると、入口の少し離れたところに湊がいた。
スマートフォンを見るでもなく、周囲を眺めながら待っている。
美織に気づくと、すぐに顔がやわらいだ。
「あ、大庭さん。お疲れさまです」
「お疲れさまです。待ちました?」
「いえ。僕も今来たところです」
たぶん本当にそうなのだろう。
変な駆け引きをする感じがない。
それが美織には楽だった。
「じゃあ、駅前まで戻ります?」
「いいですね」
二人で歩き出す。
朝も歩いた道。
昼にも少しだけ歩いた道。
夕方になると、同じ場所でも空気が違う。
仕事を終えた人。
自転車のベル。
信号待ちの列。
昼の雨の名残が少しだけ残る路面。
「大庭さん、何系が好きですか?」
「食べ物?」
「はい。お礼って言ってもらいましたけど、僕も普通にご飯食べたいので」
「今日は私が出しますよ」
「いや、全部は」
「傘のお礼ですから」
美織は当然のように言う。
湊は少し考えたあと、変に押し問答を続けなかった。
「じゃあ、今日は甘えます」
「はい」
「店は大庭さんに任せてもいいですか」
「もちろん」
美織は少し考える。
「駅前の商業ビルの上に、創作料理のお店があるんです。行ったことはないんですけど、評判いいみたいで」
「いいですね」
「じゃあ、そこにしましょうか」
「お願いします」
片方が提案して、もう片方が受け取る。
何かを決めるのに、妙な駆け引きがない。
それが、二人にとって最初から少し楽だった。
*
駅前の商業ビルの最上階。
店内は照明が落ち着いていて、大きな窓から街の灯りが見えた。
高級すぎるわけではない。
でも、いつもの平日の夕食より少しだけ特別に見える。
案内されたのは窓際の席だった。
向かい合って座る。
そこで初めて、美織は少しだけ姿勢を正した。
さっきまで並んで歩いていた時には意識しなかったのに、真正面に座ると「二人で食事をする」という事実が急に輪郭を持つ。
相手は、昨日まで名前も知らなかった男性だ。
しかも、かなり顔がいい。
そう思った自分を、美織は内心で少しだけ呆れた。
だから何だという話である。
「改めて、昨日はありがとうございました」
美織は、きちんと笑って頭を下げた。
「こちらこそ。今日はごちそうになります」
「まだ食べてないですけど」
「あ、確かに」
湊が笑う。
美織も笑う。
その一往復で、少し入っていた力が抜けた。
最初の話題は、仕事だった。
美織の仕事はデザイン関係。
湊はIT系で、開発寄り。
会社がこれだけ近いのに、業界はまるで違う。
「朝倉さん、パソコン得意そうですよね」
「仕事聞いた後に言ってません?」
美織は一瞬だけ止まった。
「……ばれた?」
「今のはわかります」
「でも見た目もなんとなく」
「どういう見た目ですか」
「説明できない」
「適当ですね」
「そうとも言う」
美織が笑う。
湊は、最初に店内で見た時の「隙のない人」という印象が、また少し変わっていくのを感じていた。
もちろん、きちんとしている。
言葉遣いも丁寧。
店員への態度もやわらかい。
でも、話していると時々、妙に率直な一言が出る。
湊はそれを面白いと思った。
美織の側も、湊への印象を少しずつ更新していた。
これだけ整った外見なら、もっと自分がどう見えるかを意識していても不思議ではない。
けれど湊には、それがほとんどない。
知らないことは知らないと言う。
話を格好よくまとめようとしない。
美織の冗談を、少し考えてから真面目に受け取る時もある。
女性慣れしているというより、人に対して素直なのだと思った。
その感じが、妙に安心する。
「休みの日って、何してるんですか?」
美織が聞く。
「家にいること多いです。猫いるので」
美織の顔が変わった。
「猫?」
「はい」
「飼ってるんですか?」
「小虎さんっていうんですけど」
「……さん?」
「小虎さんです」
湊は真面目だった。
美織は一度唇を閉じて耐えようとしたが、無理だった。
「なんで“さん”なんですか」
「なんでって……小虎さんなので」
「答えになってない」
笑いがこぼれる。
それまでの整った笑顔とは違う。
目元までやわらかくなる。
「写真、あります?」
「ありますよ」
湊がスマートフォンを出す。
画面に、茶色い縞模様の猫。
美織は自然に身を乗り出した。
「……いいなあ」
「猫、好きなんですか?」
「大好きです」
声の温度が、少し変わった。
「本当は飼いたいんですけど」
「飼わないんですか?」
「今は無理かな。仕事で遅くなる日もあるし、一人暮らしだから。好きだからこそ、中途半端に迎えたくなくて」
湊は画面から美織へ視線を移した。
「そうなんですね」
「子猫とか見たら危ないですけどね。連れて帰りたくなる」
「でも我慢するんですね」
「します」
美織は小虎さんの写真を見たまま答えた。
「責任持てないのに飼うほうが、たぶん嫌だから」
湊は少し黙った。
その言葉を、ただの猫好きの話として聞き流さなかった。
この人は、自分が欲しいかどうかだけで決めない人なのだ。
「……優しいですね」
美織が顔を上げる。
「え?」
「猫に」
「ああ」
美織は少し困ったように笑った。
「そうなのかな」
「僕はそう思います」
湊は、本当にそう思っただけだった。
美織はそれ以上返さず、また画面を見る。
褒められ慣れていないわけではない。
仕事でも、外見でも、社交辞令はいくらでもある。
でも今の言葉は、自分でもあまり意識していなかった部分へ触れた気がした。
だから、少しだけ返し方に困った。
この時点ではまだ、それだけだった。
*
食事が進むにつれて、会話の間に短い沈黙が入るようになった。
話題が尽きたからではない。
料理を食べる。
窓の外を見る。
飲み物を口にする。
それから、またどちらかが話す。
沈黙を埋めなくても気まずくならない。
美織は途中で、それに気づいた。
初対面に近い相手との食事では、普通もう少し「何か話さなければ」と思う。
今日は、それがあまりない。
湊も同じだった。
楽しいけれど、盛り上げ続ける必要がない。
静かでも退屈ではない。
まだ理由はわからない。
ただ、居心地がいい。
食事を終え、伝票が置かれる。
美織が先に手を伸ばした。
「今日は私が払います」
「でも、結構ちゃんと食べましたよ」
「傘一本分です」
「傘、高くなりましたね」
「人件費込みです」
「人件費?」
「駅まで送ってもらったので」
湊が笑う。
「じゃあ今日は甘えます」
「そうしてください」
「その代わり」
「その代わり?」
湊は少し考えてから言った。
「次があるなら、その時は僕が払います」
美織の手が一瞬だけ止まった。
次。
そこに大きな意味はない。
食事が楽しかったから、また行くかもしれない。
大人同士なら、それくらいは自然だ。
美織もそう受け取った。
「じゃあ、そうしましょう」
頷く。
湊も、それ以上何も足さなかった。
*
店を出て、エレベーターで一階へ降りる。
駅前は夜の人通りが増えていた。
改札前まで来る。
昨日と同じ場所。
でも、昨日より互いに知っていることが少し増えている。
名前。
会社。
仕事。
猫。
笑い方。
「今日はありがとうございました」
湊が言う。
「こちらこそ。お付き合いありがとうございます」
「楽しかったです」
美織は一拍だけ置いた。
社交辞令として返すこともできる。
でも。
「私も。楽しかったです」
それは普通に本心だった。
「じゃあ、また」
「はい。また」
二人は別々のホームへ向かう。
美織は帰宅後、髪をほどきながら一日を振り返った。
朝。
昼。
夜。
同じ人と三度会った。
「……濃いな、今日」
思わず笑う。
でも、疲れてはいなかった。
むしろ、穏やかな気分だった。
明日の朝も、同じ時間なら会うかもしれない。
そう考えて。
ほんの少しだけ、楽しみだと思った。
それを恋だとは考えない。
物語の始まりだとも思わない。
自分は、昨日たまたま雨に降られて、感じのいい人に助けられただけだ。
ただ、その人と今日も会って、少し話して、一緒に食事をした。
その結果、明日の通勤路に、知っている顔がひとつ増えた。
それだけで、いつもの道がほんの少しだけ違って見える。
同じ頃。
湊は自宅で、小虎さんのご飯を用意していた。
「今日、また会いました」
小虎さんは食器を見ている。
「朝も、昼も。夜はご飯行って」
餌を置く。
「猫、好きなんですって」
小虎さんはすぐに食べ始めた。
「小虎さんの写真、かなり真剣に見てました」
湊は少し笑う。
それから、ふと今日の美織の顔を思い出した。
店員へ向ける丁寧な笑顔。
独り言を拾われて笑った顔。
小虎さんを見た時の、力の抜けた目元。
同じ人なのに、少しずつ違う。
そのことが、なんとなく面白かった。
「また会うと思います」
小虎さんは食事に夢中で、もちろん返事はない。
湊も、それ以上は考えなかった。
五月三十一日。
雨の日に、二人は出会った。
六月一日。
名前を呼び、一緒に笑い、また会うかもしれない理由がいくつか増えた。
まだ二人の生活は、ほとんど何も変わっていない。
けれど、いつもの通勤路の中に。
昨日まではいなかった一人が。
ほんの少しだけ、輪郭を持ち始めていた。