あの雨の日から、ふたりは
第4章 仕事じゃない日に会う人
土曜日の朝。
美織は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から入る光は白っぽく、梅雨の合間らしい曇り空だった。雨の気配はない。枕元のスマートフォンで天気予報を確認すると、一日を通して降水確率は低い。
「よし」
小さく言ってから、美織は自分で少し笑った。
別に、気合いを入れるような予定ではない。
猫の写真展へ行く。
朝倉 湊と。
休日に。
それだけだ。
楽しみではある。
写真展も楽しみだし、湊と仕事以外の場所で会うのも、少し面白そうだと思っている。
だからといって、何か特別な意味をつける必要はない。
ベッドから起き、顔を洗い、珈琲を淹れる。いつもの休日と同じようにゆっくり支度を始めた。
*
服は、いつもより少しだけ考えた。
仕事の日のようにきちんとしすぎるのは違う。
かといって、近所へ買い物へ行く時のような完全な普段着でもない。
美織はクローゼットの前でしばらく眺めたあと、やわらかなアイボリーのトップスに、落ち感のある濃色のマキシ丈ワンピースを重ねた。胸元は開きすぎず、身体の線も拾いすぎない。薄手のカーディガンを一枚持ち、靴は長く歩いても疲れにくい革のフラットシューズ。
仕事の日より小さめのバッグへ財布やハンカチを入れる。
化粧ポーチの端についている、小さな猫のワンポイントが目に入った。
「……今日は堂々としてていいか」
猫の日だから、と誰に言うでもなく呟く。
髪は仕事の日のようにきっちりまとめず、胸元まである髪をゆるくハーフアップにした。メイクも仕事用の輪郭をはっきりさせるものではなく、元々のやわらかな目元をそのまま残す。
鏡を見る。
仕事へ行く自分より、少し力が抜けている。
これでいい。
その時、ふと真帆の声が頭に蘇った。
――平日の目の保養が休日にまで進出してる。
「……言い方」
美織はひとりで笑った。
でも、まあ。否定はしない。
あれだけ見栄えのいい人が私服になったら、どうなるんだろう。
純粋に少し興味があった。
*
湊のほうも、いつもの休日より少しだけ早く支度を終えていた。
小虎さんへ朝ご飯を出し、洗濯物を干し、シャワーを浴びる。
クローゼットの前で迷う時間は、美織ほど長くなかった。
白に近い淡いグレーの半袖ニット。
薄手のネイビーのシャツ。
チャコールのパンツ。
歩きやすい、きれいめのシューズ。
普段通りの延長だった。
ただ、鏡の前で襟元を一度整えた自分に気づいて、湊は少しだけ首を傾げた。
「……まあ、人に会うので、ちゃんとしないと」
小虎さんは窓辺で尻尾を揺らしている。
「今日行くのはなんと写真展です」
返事はない。
「猫です」
当然、返事はないが、耳がピクっと動いた。
「大庭さんも猫好きなので」
そこまで説明してから、何を言い訳しているんだろうと思って笑った。
楽しみなのは本当だ。
それだけだった。
*
待ち合わせは、写真展の会場に近い大きな駅だった。
約束の10分前。
美織は改札を出て、柱の近くを見回した。
そして、すぐに見つけた。
――いた。
湊は少し離れた場所でスマートフォンを見ていた。
仕事の日と同じ人なのに、背景が違うだけで印象が変わる。
ネクタイはない。
肩の力が抜けた薄手のシャツ。
パンツも、仕事の日より柔らかい生地に見える。
それでも、背の高さと肩幅、長い脚のバランスは隠れない。むしろシンプルな私服のほうが、体格の良さがそのまま出ている。
髪も少しセットがやわらかく見えた。
リムレス眼鏡は同じなのに、仕事の時よりずっと軽い。
美織は数歩手前で、真帆の言葉を思い出した。
――目の保養、休日に進出。
その意味を、妙に実感する。
――なんだあれ、ま、眩しい……。
心の中でそう思って、自分でも少し可笑しくなった。
会社という背景がないぶん、街の中で余計に目立つ。
もし知らない人としてすれ違っていたら、一度くらい見てしまったと思う。
でも今は、その人がこちらを知っている。
美織が近づく気配に気づき、湊が顔を上げた。
「あ」
その瞬間。
湊の目が、明らかに少し大きくなった。
「おはようございます」
「おはようございます」
美織はいつも通り挨拶をした。
湊は返しながら、もう一度美織を見る。
仕事の日とは違う髪。
やわらかい色。
身体の線を拾いすぎない、揺れるワンピース。
小さめのバッグ。
そして、仕事中より少しだけ素に近い目元。
――わー。
湊の中に、何の準備もなく感想が落ちてきた。
いい。
すごくいい。
何がどういいのか、まだ言葉にはできない。
綺麗なのは前から知っている。
でも、今朝の美織は会社で見る「大庭さん」と少し違う。
きちんとしていることは変わらないのに、全体がやわらかい。
湊はその違いを、思っていた以上に新鮮に感じた。
「……なんです?」
美織が不思議そうに聞く。
「あ、いや」
「今、見ましたよね」
「見ました」
素直に認めたので、美織のほうが少し困る。
「仕事の時と、雰囲気違いますね」
「変ですか?」
「全然」
湊は一度だけえーと、と言葉を探した。
「……すごく、いいです」
「…………」
美織は返事を一拍失った。
さらっと言う。この人。
本人は褒め方を工夫したわけでも、反応を見ようとしたわけでもない。
たぶん、本当にそう思っただけだ。
そのまっすぐさに、美織は少しだけ視線を逸らした。
「朝倉さんも、全然違いますね」
「そうですか?」
「はい」
「変です?」
美織はさっき自分が聞いたのと同じ質問をされて、少し笑った。
「……いいです」
湊が一瞬止まる。
今度は美織のほうが先に笑った。
「お返し」
「ああーやられた」
湊も笑う。穏やかな空気になる。
それだけで、待ち合わせの最初にあった少しのぎこちなさがほどけた。
*
写真展の会場は、駅から歩いて20分ほどのギャラリーだった。
入口には、大きな猫の写真が何枚も並んでいる。
窓辺で眠る三毛猫。
真っ白な長毛猫。
段ボールから顔だけ出した黒猫。
それを見た瞬間、美織の歩く速度が少し上がった。
「お、速くなりましたね」
隣から湊が言う。
「気のせいです」
「いいえ、気のせいじゃないです」
「猫がいるので」
「いますね。写真ですけど」
「猫は猫です」
美織が真顔で言う。
湊はそれもそうだ、と笑った。
仕事中なら、こういう会話をする美織をまだほとんど知らなかった。
真面目な顔をして、好きなものに一直線。
普段はキリっとして、隙がない人の印象がある。
最近は砕けてきたのはもちろんある。
これもまた、今日はじめて見る部分だった。
*
展示は思っていたより広かった。
街角で暮らす猫。
家猫。
保護猫。
子猫。
老猫。
一枚ごとに短い説明が添えられ、撮影された場所や、その猫の背景が書かれている。
美織は足を止める時間が長かった。
可愛いだけではなく、写真の構図や光の入り方も見ている。季節を考える。
湊は最初、その横で同じ写真を見ていた。
けれど、少しすると二人は別々の作品へ散るようになった。
美織が一枚を長く見る。
湊がその先の写真へ進む。
しばらくすると、
「朝倉さん、これ」
と美織が呼ぶ。
どれそれ、と湊が戻る。
「この顔見て」
写真の中で、猫がものすごく不満そうな顔をしている。
湊が吹き出した。
「小虎さんも、たまにこういう顔します」
「するんだ」
「僕が話しかけすぎた時」
「やっぱり話しかけすぎなんですよ」
「でも聞いてほしいじゃないですか」
「猫に?」
「猫に」
湊は実に真面目だった。
美織は口元を隠してあははと笑う。
「朝倉さん、ほんと面白いですね」
「ほんと?」
「はい。最初、もっと隙がない人だと思ってた」
「そんなふうに見えてたんですか」
「見た目が」
「また見た目」
「しょうがないでしょ。目立つんだから」
美織はそう言って、また写真へ向き直る。
湊は一瞬だけ笑って、その横顔を見る。
言葉遣いも笑い方も少しずつ砕けてきている。
仕事の日なら見えにくかった表情も増えている。
湊は、その変化を面白いと思った。
自分の前でそうなっているという意識まではない。
ただ、知らなかった美織が増えるのが楽しかった。
*
子猫の写真が並ぶ一角で、美織は長く足を止めた。
手のひらに収まりそうな黒い子猫。
耳が大きく、身体はまだ細い。
「……かわいい」
声が、明らかに柔らかくなる。
湊は写真より先に、美織の横顔を見た。
「大庭さん、ほんと子猫好きですね」
「好き」
即答だった。
「前に言ってましたね。飼うなら子猫からって」
「うん」
美織は写真を見たまま頷いた。
「でも今は無理だからね」
「仕事ですか?」
「そう。家はペット可なんだけど、帰り遅い日もあるし。子猫って最初、本当に手かかるでしょう」
「そうですね」
「具合悪くなっても気づけない時間が長いの嫌だし。留守番も心配だし」
美織は少しだけ笑った。
「好きだからこそ、今は迎えない」
湊はその言葉を聞いて、一度だけ頷いた。
「やっぱり、そこ好きです」
美織が振り向く。
「そこ?」
「そういう考え方」
湊は写真を見たまま続けた。
「欲しいからすぐ、じゃないところ。ちゃんと相手の生活まで考えるところ」
「…………」
美織は一瞬、言葉に詰まった。
外見を褒められる時より、こういうほうが返しに困る。
自分が意識して選んでいることを、そのまま見つけられたような感じがする。
「……朝倉さん」
「はい?」
「そういうの、さらっと言いますよね」
「変でした?」
「変じゃないけど」
美織は少しだけ目を逸らした。
「ちょっと照れます」
湊はそこで初めて、思ったことをそのまま言いすぎたかもしれないと思ったらしい。顔に書いてある。
「あ、すみません」
「また謝る」
「じゃあ謝らないです」
「即答、そして極端」
二人で顔を合わせて笑った。
*
展示を見終わる頃には、昼を過ぎていた。
「そろそろお腹すきましたね」
外に出て周囲を見渡して湊が言う。
「たしかにすきました」
「何食べます?」
「そこから?」
「そこからです」
「何か決めてたわけじゃないんだ」
「写真展しか決めてないです」
「潔い」
正直だ、と美織は笑った。
「じゃあ、歩きながら探します?」
「いいですね」
二人はそのまま駅とは反対側へ歩き始めた。
写真展へ行く。
今日決めていたのはそこまでだった。
昼食も、帰る時間も決めていない。
だからこそ、展示が終わった時点で「じゃあ今日はここで」と別れても不思議ではなかった。
でも、どちらもそれを言わなかった。
まだ一緒にいてもいい。
二人とも、自然にそう思っていた。
*
昼食は、ギャラリー近くの小さなカフェに入った。
大きな窓と木のテーブル。
美織はサンドイッチと珈琲。
湊はパスタ。
「やっぱり珈琲なんですね」
「好きだから」
「家でも飲むって言ってましたよね」
「飲みます。朝も」
「豆とかこだわるんですか」
「すごく詳しいわけじゃないけど、好きなのはあるよ」
言ってから、美織が少しだけ止まる。
「……あります」
湊が笑う。
「今、また出ましたね」
「聞かなかったことにしてください」
「無理です」
「その返し好きですね」
「大庭さんが何回も言うので」
美織は少し恥ずかしそうにしながらも、もう最初ほど本気で直そうとはしていなかった。
湊も、そのほうが自然に見えた。
「今度、おすすめ教えてください」
「朝倉さん、珈琲飲むんですか?」
「飲みます。好きですよ?でも詳しくはないです」
「じゃあ、小虎さんの写真のお礼に教えます」
「小虎さん、働きますね」
「本人知らないけど」
また笑う。
仕事の話をしなくても、話題は尽きない。
会社という共通点がなくても、それぞれの休日や家での過ごし方、食べ物、音楽、小虎さんの話で時間が進む。
美織は途中で思った。
この人といる時、話題を探す感じがない。
沈黙になっても困らない。
だから疲れない。
湊も似たことを感じていた。
相手を楽しませなければ、と力を入れなくていい。
美織は自分で面白いものを見つけるし、湊が何気なく話したこともきちんと拾う。
ずっと喋っている必要がないのに、気づけば会話が続いている。テンポがいいし、心地いい。
その感覚を、湊はかなり気に入った。
*
食後。
駅へ戻ろうと歩き始めたところで、美織が通り過ぎようとしていた一軒の店へ目を止めた。
ウィンドウの中に、猫の雑貨が並んでいる。
マグカップ。
小さなポーチ。
文房具。
キーホルダー。
吸い込まれそうだな、と気づいた湊が美織を見る。
「……見たいです?」
「ちょっと」
「行きましょう」
「やった。いいんですか」
「僕も見たいです」
「小虎さん用?」
「自分用かも」
美織が目を丸くする。
「朝倉さん、猫グッズ持つんだ」
「持ちますよ」
「なんか意外」
「またですか」
「今日、意外なこと多い」
美織は笑いながら店へ吸い込まれた。
*
店内で、美織が手に取るものには少し傾向があった。
大きく猫の顔が描かれているものより、よく見れば猫だとわかるもの。
色も、派手なものより落ち着いたもの。
湊はそれに気づいていた。
しばらくして、小さなポーチを一つ手に取る。
外側はほとんど無地。
ファスナーの引き手だけが、小さな猫の形になっている。
「ねぇ、大庭さん、これ好きそう」
美織が振り返る。
湊の手元を見る。
数秒、黙る。そして湊の顔を見る。
「……なんでわかったんですか」
「え?」
「こういうの、すごく好き」
「へー、そうなんですね」
「いや、当てた人が驚くのおかしいでしょ」
「なんとなくです」
「また便利な言葉」
美織は笑ってポーチを受け取る。
手の中で裏返して見る。
確かに好みだった。
目立たない。
でも、自分だけは猫だとわかる。
「いいな、買おうかな」
「気に入りました?」
「うん!」
また砕けた返事が出た。
今度は美織も気づいたが、言い直さなかった。
湊も何も言わなかった。
ただ少しだけ嬉しそうに笑った。
*
店を出る。
午後の街は、朝より人が増えていた。
気づけば、待ち合わせから何時間も経っている。
美織はバッグの中の新しいポーチを思い出す。
湊と会った。
写真展を見た。
昼を食べた。
雑貨店まで寄った。
それでも、長かったという感じがしない。
むしろ駅へ近づくにつれて、
――もう終わるんだ。
と思った。
少し先を歩く人の間を見ながら、美織はその感覚を面白く思う。
一人の休日も好きだ。
今日、一日誰にも会わなくてもそれはそれで楽しい。
それは何も変わらない。
でも今日は、誰かと過ごしても疲れなかった。
それが新しい。
湊のほうも、似たことを考えていた。
休日は小虎さんと家にいるのが好きだ。
一人で好きなことをしていても困らない。
それなのに今日は、帰る時間が近づいても「やっと一人になれる」とは思わなかった。
まだ話せる気がした。
それが、自分には少し意外だった。
*
改札の前。
「今日はありがとうございました」
美織が言う。
「こっちこそ」
「写真展、よかった」
「よかったですね」
「小虎さん以外の猫もちゃんと見れたし」
「基準が小虎さんなんですね」
「そりゃそうでしょ」
美織が笑う。
そこで、ほんの少しだけ間が空いた。
平日の帰りなら、
「じゃあ、また明日」
と言える。
今日は土曜日だった。
次に会うのは、たぶん月曜日。
「じゃあ……また月曜」
美織が言った。
湊の顔がやわらかくなる。
「はい。また月曜」
その言葉を聞いて、美織は少しだけ安心したような気がした。
休日に会ったからといって、何かが変わるわけではない。
月曜になれば、また会社へ行く。
駅から同じ道を歩く。
それまでの日常に、今日の一日が一枚増えただけだ。
*
帰りの電車。
美織は座席に座ると、バッグの中から買ったポーチを取り出した。
ファスナーの先の、小さな猫。
「……なんとなく、ね」
湊が選んだもの。
プレゼントではない。
自分で買った。
それでも、見ると今日を思い出す。
私服の湊。
写真展。
珈琲。
猫雑貨。
そして、待ち合わせで言われた言葉。
――すごく、いいです。
ああいうの、よくないよ朝倉さん。
美織はポーチをバッグへ戻した。
「……しかし目の保養、強かったな」
真帆の言葉を思い出して、ひとりで少し笑う。
でも今日増えたのは、それだけではなかった。
仕事では見えなかった話し方。
猫雑貨を普通に見るところ。
美織が好きそうなものを、なんとなく当てるところ。
仕事以外の場所でも、やっぱり喋りやすいこと。
知らなかった要素が、また増えた。
そのことが、普通に楽しかった。
*
一方。
帰宅した湊は、玄関を開けると小虎さんへ言った。
「ただいま」
茶トラが部屋の奥からこちらを見る。
「今日、写真展行ってきました」
靴を脱ぐ。
「大庭さん、すごい楽しそうでした」
バッグを置く。
そこで、朝の美織を思い出す。
仕事の日とは違う髪。
やわらかい服。
少し力の抜けた表情。
「……私服、ほんとよかったです」
言ってから、少し照れた。
「わー、いいなって思いました」
小虎さんは無言だった。
「いや、変な意味じゃなくて」
誰に弁解しているのか自分でもわからない。
湊は笑って、小虎さんの背を撫でる。
「仕事の時と違って、なんか柔らかくて」
それに。
猫を見ている時の顔。
雑貨を選んでいる時の迷い方。
珈琲の話をする時。
言葉遣いが少し崩れた時。
今日だけで、また知らなかった美織が増えた。
「ずっと一緒にいても、疲れなかったんですよね」
湊はぽつりと言った。
一人の休日は好きだ。
それは今日を過ごしたからといって変わらない。
でも。
「また、どっか行けたらいいですね」
小虎さんは何も答えない。
湊も、それ以上の理由は考えなかった。
月曜日になれば、二人はまた会社へ行く。
仕事の日の服を着て。
いつもの駅を使って。
いつもの道を歩く。
ただ、次に顔を合わせた時。
二人はもう、仕事をしていない相手の顔も知っている。