あの雨の日から、ふたりは
第2章 いつもの道に君がいる
第1話 昨日までと違う朝
六月二日。
朝の駅前は、昨日と変わらない顔をしていた。
改札から吐き出される人の流れ。信号が青へ変わる電子音。
足早に歩く会社員と、その隙間を縫う自転車。
前日の雨を忘れたように空は明るく、ビルの間を抜ける風
にだけ、まだ少し湿り気が残っていた。
美織はいつものように駅を出て、会社へ向かった。
ただ、昨日までとひとつだけ違う。
人混みを、少し見るようになっていた。
探している、というほどではない。
けれど、前方に背の高い人がいると一度だけ視線が向く。
少し癖のある髪が見えると、横顔まで確認しそうになる。
違う人だとわかれば、それで終わり。
美織は自分でも、その変化を少し面白く思った。
五月三十日までは、顔も姿も声も名前も知らなかった。
それが今は、朝倉湊という名前を知っている。
声も、笑った時の目元も、小虎さんという茶トラの猫と
暮らしていることも知っている。
一度「誰か」になった人は、もう完全な背景には戻らない
らしい。
「大庭さん」
横から名前を呼ばれて、美織は振り向いた。
「あ」
今しがた頭に浮かべていた人が、そこにいた。
湊は仕事用のバッグを肩へかけ、リムレスの眼鏡の向こうで、
昨日と同じ穏やかな顔をしている。
「おはようございます」
「おはようございます、朝倉さん」
返した声が、自分で思っていたより少しだけ明るかった。
湊はそれを気にした様子もなく、自然に歩調を合わせる。
二人はそのまま並んで歩き始めた。
約束はしていない。
けれど昨日もこうして歩いたからか、わざわざ
「一緒に行きますか」と確認する必要を、
どちらも感じなかった。
「昨日はありがとうございました」
湊が言った。
美織は横を見る。
「え。お礼したの、私のほうですよね」
「ご飯、ごちそうになったので」
「傘のお礼です」
「でも美味しかったです」
「それならよかったです」
昨日の店の料理の話から、今日の仕事へ話題が移る。
六月に入ったのに朝はまだ少し涼しいこと。
駅前の工事がいつ終わるのかわからないこと。
美織の会社では月初の確認作業が多いこと。
湊のほうも、今日は午前中に打ち合わせが続くらしい。
特別な話はひとつもしていない。
けれど、美織にはそれが少し楽しかった。
会社へ向かうだけだった10分の道に、
昨日までなかった要素がひとつ増えたような感じがする。
しかも相手は、普通なら街で見かけたら、誰もが一度くらい
振り返りそうなほど目立つ人。
顔がいい。
背も高い。
スタイルがいい。
服もセンスがいい。
朝からずいぶん景色がいいな、と、少しだけ芸能人でも眺める
ような気楽さで思う。
それでいて、話してみると妙に構えなくていい。
その組み合わせが、美織には今のところ純粋に面白かった。
会社のビルが見えてくる。
「じゃあ、私はここで」
「はい。今日も頑張りましょう」
「朝倉さんも」
「また」
湊が言う。
美織も自然に返した。
「また」
その言葉が、昨日より少しだけ現実味を帯びていた。
六月二日。
朝の駅前は、昨日と変わらない顔をしていた。
改札から吐き出される人の流れ。信号が青へ変わる電子音。
足早に歩く会社員と、その隙間を縫う自転車。
前日の雨を忘れたように空は明るく、ビルの間を抜ける風
にだけ、まだ少し湿り気が残っていた。
美織はいつものように駅を出て、会社へ向かった。
ただ、昨日までとひとつだけ違う。
人混みを、少し見るようになっていた。
探している、というほどではない。
けれど、前方に背の高い人がいると一度だけ視線が向く。
少し癖のある髪が見えると、横顔まで確認しそうになる。
違う人だとわかれば、それで終わり。
美織は自分でも、その変化を少し面白く思った。
五月三十日までは、顔も姿も声も名前も知らなかった。
それが今は、朝倉湊という名前を知っている。
声も、笑った時の目元も、小虎さんという茶トラの猫と
暮らしていることも知っている。
一度「誰か」になった人は、もう完全な背景には戻らない
らしい。
「大庭さん」
横から名前を呼ばれて、美織は振り向いた。
「あ」
今しがた頭に浮かべていた人が、そこにいた。
湊は仕事用のバッグを肩へかけ、リムレスの眼鏡の向こうで、
昨日と同じ穏やかな顔をしている。
「おはようございます」
「おはようございます、朝倉さん」
返した声が、自分で思っていたより少しだけ明るかった。
湊はそれを気にした様子もなく、自然に歩調を合わせる。
二人はそのまま並んで歩き始めた。
約束はしていない。
けれど昨日もこうして歩いたからか、わざわざ
「一緒に行きますか」と確認する必要を、
どちらも感じなかった。
「昨日はありがとうございました」
湊が言った。
美織は横を見る。
「え。お礼したの、私のほうですよね」
「ご飯、ごちそうになったので」
「傘のお礼です」
「でも美味しかったです」
「それならよかったです」
昨日の店の料理の話から、今日の仕事へ話題が移る。
六月に入ったのに朝はまだ少し涼しいこと。
駅前の工事がいつ終わるのかわからないこと。
美織の会社では月初の確認作業が多いこと。
湊のほうも、今日は午前中に打ち合わせが続くらしい。
特別な話はひとつもしていない。
けれど、美織にはそれが少し楽しかった。
会社へ向かうだけだった10分の道に、
昨日までなかった要素がひとつ増えたような感じがする。
しかも相手は、普通なら街で見かけたら、誰もが一度くらい
振り返りそうなほど目立つ人。
顔がいい。
背も高い。
スタイルがいい。
服もセンスがいい。
朝からずいぶん景色がいいな、と、少しだけ芸能人でも眺める
ような気楽さで思う。
それでいて、話してみると妙に構えなくていい。
その組み合わせが、美織には今のところ純粋に面白かった。
会社のビルが見えてくる。
「じゃあ、私はここで」
「はい。今日も頑張りましょう」
「朝倉さんも」
「また」
湊が言う。
美織も自然に返した。
「また」
その言葉が、昨日より少しだけ現実味を帯びていた。