あの雨の日から、ふたりは

第5章 昨日までと同じ道


 月曜日。

 駅を出た美織は、人の流れの向こうに見覚えのある背中を見つけた。

 仕事用のシャツ。肩にかけたバッグ。整えられた髪。土曜日に見た私服の湊とは、もうすっかり違う。

 それでも、美織の目には前よりよく見えるようになっていた。

「朝倉さん」

 呼ぶ。

 湊が振り返る。

「あ。おはようございます」

「おはようございます」

 湊は少し歩調を緩め、美織が隣へ並ぶのを待った。

 それだけなら、先週までと同じだった。

 けれど美織は、隣を歩き始めてから一度だけ湊の横顔を見る。

 土曜日の、少し力の抜けた服装。

 写真展で猫を見ながら笑っていた顔。

 雑貨屋で「これ好きそう」とポーチを差し出した時の表情。

 今目の前にいるのはいつもの朝倉湊なのに、知っているものが少し増えたせいで、見え方まで変わった気がする。

「……何ですか?」

「え?」

「今、見ました?」

「見てないです」

「見てましたよ」

「いやいや自意識過剰じゃないですか」

 美織がツンと平然と返すと、湊が笑う。

「そうかなぁー」

「そうですよ」

 言い切ってから、美織も少し笑った。

 図星なのは、自分が一番よく知っている。


   *


 湊のほうも同じだった。

 美織は仕事の日の姿へ戻っている。

 髪はきちんとまとめられ、耳元には銀色のしずく型のピアス。仕事用のバッグに、少し輪郭のはっきりしたメイク。

 土曜日に見た美織とは違う。

 けれど今は、その奥に別の顔があることを知っている。

 猫の写真を見る時は目元がやわらかくなる。

 好みの雑貨を見つけると、少しだけ考える時間が長くなる。

 珈琲の話をすると、言葉がいつもより早くなる。

 気が緩むと、敬語の端が抜ける。

 知る前には戻れない、というほど大げさなことではない。

 ただ、同じ「大庭さん」なのに、一つの姿だけではなくなった。

「そういえば」

 美織が切り出す。

「写真展、よかったですね」

「よかったです」

「黒猫の写真、好きだったな」

「あの小さいやつ?」

「そう」

「大庭さん、結構長く見てましたよね」

「そんなに見てました?」

「見てました」

 美織が横目で湊を見る。

「朝倉さん、人のこと見てるじゃないですか」

 湊は少し考えることもなく答えた。

「大庭さんは見ますよ」

 ストレート!美織の足が、ほんのわずかに乱れた。

「……そうですか」

「はい」

 湊は何事もなかったようにニコニコ歩いている。

 美織は横顔を見る。

 たぶん、この人に深い意味はまったくない。

 気になるものを見る、というくらいのことなのだろう。

 けれど、あまりに普通の声で言われると、こちらだけが意味を拾いそうになる。

 美織は前を向いた。

「……そういうとこですよ」

「何がですか?」

「なんでもない」

「え、気になります」

「気にしなくていいです」

 湊はしばらく本当に気になっている顔をしていたが、美織は教えなかった。


   *


 昼休み。

 美織が真帆といつものコンビニへ行くと、先に湊と瀬尾がいた。

 目が合う。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです」

 今では会釈だけではなく、自然に声も出る。

 真帆が横から小声で言った。

「もう普通に喋るんだ」

「知り合いだからね」

「知ってるけどさぁぁ」

 向こうでは瀬尾が湊へ何か言っている。

 美織には聞こえない。

 ただ、瀬尾がこちらを見て笑ったあと、湊が少し困ったような顔をしたので、たぶんろくでもないことを言われている。

「何話してるんだろ」

「気になる?」

「ちょっと」

 真帆がにやっとする。

「へえ」

「その顔やめて」

「何も言ってない」

「顔が言ってる」

「顔は喋らん」

 美織は笑いながら棚へ向かった。

 その日の昼食を選びながら、湊と目が合うたびに少し会話をする。

「今日それですか」

「うん。前に朝倉さんがまあまあって言ったやつは避けた」

「信用されてる」

「そこだけは」

「そこだけ?」

 美織が笑う。

 真帆はその横顔を見て、前よりずっと自然に砕けた言葉が混じるようになったことに気づいた。

 本人はたぶん、まだそこまで意識していない。
ちら、と連れの瀬尾を見ると、小さく頷かれた。

このふたり、ほんとにね、と言わんばかりに。
まったくね、と苦笑が漏れた。


   *


 午後。

 美織のスマートフォンが震えた。

 湊からだった。

『昨日帰ったら、こうなってました』

 写真には、窓辺で身体を長く伸ばした小虎さん。

 前足も後ろ足も力が抜けて、見事なくらい床へ溶けている。

 美織は画面を見た瞬間、可愛すぎて口元を押さえた。

『長い』

 送る。

『猫ですから』

『説明になってません』

『小虎さんなので』

 美織は笑いを堪えた。

「また小虎さん?」

 真帆が隣から言う。

「うん」

「最近、よく来るね」

「そうでもないよ。たまに」

「その“たまに”が嬉しそうなんだよねえ」

「猫だから」

「はいはい」

 真帆はそれ以上言わなかった。

 美織も、言い訳したいわけではなかった。

 ただ、小虎さんの写真が来ると嬉しい。

 そしてそれとは別に、湊がこれを見て自分へ送りたいと思ったことも、少し嬉しい。

 その二つを、美織はまだわざわざ分けて考えなかった。


   *


 その日の夜。

 美織は自宅で簡単なパスタを作り、盛り付けた皿を何となく撮った。

 写真を見てから、一度スマートフォンを置く。

 少しして、また手に取った。

 送る必要はない。

 でも、湊ならたぶん普通に見る。

 そう思って送った。

『今日はこれ』

 数分後。

『美味しそう』

 そのあと、もう一つ。

『料理するって言ってましたもんね』

 さらに少しして。

『いつか食べてみたいです』

 美織は画面を見たまま止まった。

「……」

 重い、とは思わなかった。

 むしろ湊らしい。

 食べてみたいから、食べてみたいと言っただけ。

 それなら、美織もそのまま返せばいい。

『じゃあ、いつか機会があったら』

 送信。

 数分して既読がつく。

 返信は来ない。

 その代わり、湊の顔がなんとなく浮かんだ。

 たぶん、少し嬉しそうにしている。

 美織は自分で想像して、少し笑った。


   *


 その週から、LINEのやり取りはさらに気楽になった。

 毎朝必ず「おはよう」と送るわけではない。

 一日の終わりに長電話をするわけでもない。

 むしろ、内容のない連絡のほうが多かった。

『今日、外出なので昼いません』

『了解です』

『雨降りそうです』

『傘あります』

『さすが』

『あの日から学びました』

『僕、悪くないですよね?』

『天気予報が悪い』

『よかった』

 仕事帰りに美織が見つけた珈琲豆のパッケージ。

 小虎さんが紙袋へ頭を突っ込んでいる写真。

 駅前に期間限定で出ている菓子店。

 真帆からもらった焼き菓子が美味しかったという話。

 誰かへ報告する必要などないものが、少しずつ二人の間に流れるようになった。

 それでも互いの生活を奪うほどではない。

 返信が一時間後でも、翌朝でも気にしない。

 忙しければそこで会話は終わる。

 翌日会えば、その続きが自然に始まる。

 その気軽さが、二人にはちょうどよかった。


   *


 週の半ば。

 帰りの時間が重なった。

「今日、ご飯どうします?」

 湊が駅へ向かいながら聞く。

「また自然に誘う」

「だめでした?」

「だめじゃないけど」

 美織は少し考えた。

「今日は作る気力ないから、行く」

 言ってから、自分でも少しだけ目を瞬いた。

 もう「行きます」と言い直さなかった。

 湊も何も指摘せず、自然に笑う。

「何食べたいです?」

「魚かな」

「じゃあ、この前の定食屋?」

「別のとこ開拓したい」

「了解です」

 スマートフォンで近くを探し、駅から少し外れた小さな和食店へ入った。

 美織は鯖の塩焼き。

 湊は鶏の照り焼き。

「朝倉さんって、自炊する?」

「しますけど、簡単なのばっかりです」

「何作るの」

「炒めものとか、スープとか。あとパスタ」

「パスタ便利だよね」

「大庭さんの、昨日の美味しそうでした」

「普通だよ」

「食べてないからわからない」

「じゃあ何で美味しそうって言ったの」

「見た目」

「朝倉さんも見た目で判断するじゃん」

「料理はいいでしょう」

「人はだめなの?」

 美織が笑う。

 湊も笑った。

「人は、見た目だけじゃわからないので」

 その言い方があまりに普通で、美織は少しだけ箸を止めた。

「……そうだね」

 確かに正論だ、と今度は敬語へ戻さなかった。

 湊はそれを聞いて、目元を少しやわらかくした。


   *


 食後。

 店を出ると、夜の空気が少し湿っていた。

 駅まで歩く途中で、美織がふと思い出す。

「そうだ。珈琲の話、まだしてなかった」

「おすすめ?」

「うん。豆なら、深煎りより中煎りくらいが好き。酸味強すぎないやつ」

「へえ」

「あと、駅からちょっと離れるけど、焙煎してる店があって。そこのブレンド美味しいよ」

「行ってみたいです」

「ほんと?」

「大庭さんがそこまで言うなら」

「じゃあ今度行く?」

 言ってから。

 美織が一瞬止まった。

 自分から週末の話を出した。

 湊も一拍だけ驚いた顔をした。

 けれど、すぐに笑う。

「行きたいです」

「じゃあ、土曜とか」

「空いてます」

「私も」

 会話はそれだけで決まった。

 前なら、休日に会う約束はもう少し「約束らしさ」があった。

 今は、帰り道で次の予定がそのまま生まれる。

 美織はその変化を不思議に思いながらも、嫌ではなかった。


   *


 土曜日。

 二人は駅から少し離れた、小さな焙煎所兼カフェへ行った。

 外から見ると古い一軒家のような店だった。

 木の扉。

 小さな看板。

 店内へ入ると、珈琲豆の香りが濃い。

「いい匂い」

 湊が言う。

「でしょ」

 美織は少し得意そうだった。

「私ここ、豆買う時たまに来るの」

「大庭さんのおすすめ店なんですね」

「そう。ここめちゃくちゃオススメ」

 湊は店内を見回す。

 豆の瓶。

 手書きの説明。

 奥で回る焙煎機。

 美織は店員と少し話しながら、いつもの豆と、季節限定のブレンドを見比べている。

 湊はその様子を見ていた。

 仕事とも、猫とも違う。

 美織が自分の好きなものを選んでいる時の顔。

 それを見るのが、少し楽しい。

「朝倉さん、どれ飲む?」

「おすすめで」

「まさかの丸投げ」

「任せます」

「じゃあ、んー、これ」

 美織が選んだのは、苦味はしっかりしているけれど後味の軽いブレンドだった。

 二人で窓際へ座る。

「どう?」

 美織が聞く。

 湊は一口飲んでから、少し考える。

「……美味しいです」

「感想、普通」

「詳しくないので」

「香りとか、苦味とか」

「大庭さんが楽しそうなのはわかります」

「それは珈琲の感想じゃないね?」

 美織が笑う。

 湊も笑った。

「でも、本当に美味しいです」

「ならよかった」

 そのあと、美織は豆の違いや、家での淹れ方を話した。

 湊は詳しくないなりに質問する。

 途中から、話題は家での過ごし方、小虎さん、仕事、真帆と瀬尾へと移っていった。

「瀬尾さんって、あのコンビニで一緒だった人?」

「そうです。同期」

「スポーツやってそう」

「大学までサッカーです」

「やっぱり」

「なんでわかるんですか」

「体つき」

「大庭さん、結構見てますね」

「人間観察です」

「僕のことも?」

 湊が軽く聞く。

 美織は一瞬止まって、カップを口元へ運びながら答えた。

「まあ、朝倉さん色々目立つから」

「また見た目」

「事実でしょ?」

 笑う。

 湊はそれ以上追及しなかった。

このポンポンとテンポのいい会話が楽しいから。


   *


 その日の午後。

 カフェを出たあと、二人は近くの商店街を歩いた。

 パン屋へ寄る。

 小さな古本屋を覗く。

 雑貨店で、美織がまた猫の小物を見つける。

 予定はしていなかった。

 でも、次に何をするかをいちいち決めなくても時間は進んだ。

 帰り道。

「来週、どうします?」

 湊が言う。

 美織は少し笑う。

「もう来週の話?」

「何かしたいことあります?」

「そうだなあ」

 少し考える。

「もうちょっと遠いところ、行ってみる?」

「遠いところ?」

「電車で三十分とか四十分くらい。大きい公園とか、向こうの街とか」

「いいですね」

「じゃあ探そ」

「探します」

 いつの間にか、週末を一緒に過ごすことが特別な提案ではなくなり始めていた。


   *


 会社では、その変化を真帆が先に見つけた。

「美織」

「ん?」

「最近、月曜に休日の話増えたね」

 昼休み。

 真帆がサラダの蓋を開けながら言う。

「そう?」

「写真展行った。珈琲屋行った。次はちょっと遠く行くらしい」

「話してるからでしょ」

「それはそうなんだけど」

 真帆は少し笑う。

「楽しそうでいいなと思って」

 美織はすぐには返さなかった。

 楽しい。

 そこは否定する理由がない。

「うん。楽しいよ」

 素直に言う。

 真帆はそれ以上、何も足さなかった。

「じゃあよかった」

 それだけ。

 美織も笑った。


   *


 湊の会社では、瀬尾がもっと雑だった。

「お前また週末、大庭さん?」

「はい」

「もう普通に週末一緒じゃん」

「毎週ではないです」

「だいたいじゃん」

「そうですか?」

「自覚ないのすごいな」

 瀬尾が笑う。

 そこへ久世が資料を持って通りかかる。

「ふたりして何の話?」

「朝倉、最近休日までご機嫌なんですよ」

「余計なこと言わないでください」

 久世は湊を見る。

「例の人?」

「大庭さんです」

「そう」

 久世は特に驚かず頷く。

「楽しいならいいんじゃない」

「楽しいです」

 即答。

 久世は少しだけ笑った。

「ならいいな」

 既婚者らしい余裕というより、他人の時間へ必要以上に口を出さない人の言い方だった。

 湊もそれ以上説明しなかった。


   *


 六月最後の土曜日。

 二人は電車で四十分ほどの街へ出かけた。

 大きな公園と、古い建物を残した商業エリアがある場所だった。

 観光地というほど混んではいない。

 休日に歩くには、ちょうどいい。

 駅を出ると、美織が地図を見る。

「まず公園?」

「そのあと昼にします?」

「うん。歩いてから食べたい」

「了解です」

 湊が自然に美織の歩幅へ合わせる。

 もう、それをどちらも意識しない。

 公園は広かった。

 梅雨の曇り空の下でも、木々の緑は濃い。

 池の近くには紫陽花が残り、犬を散歩させる人、ベンチで本を読む人、家族連れがいる。

「こういうとこ、久しぶりかも」

 美織が言う。

「大庭さん、休日家多いですもんね」

「そう。だから外出るなら、こういうのもいいね」

「誘ってよかったです」

「朝倉さんが?」

「この場所見つけたの僕なので」

「あ、そっか」

「大庭さんが遠いところって言ったから探したんですけど」

「共同研究?」

「そういうことにしましょう」

 美織が笑う。

 ベンチへ座り、しばらく池を見る。
ああ、空気がなんだ美味しい。
 会話がなくても、気まずくない。

 この一か月で、その沈黙にも慣れた。


   *


 昼は、古い建物を改装した洋食店へ入った。

 窓際の席。

 美織はオムライス。

 湊はハンバーグ。

「あ、そういえば」

 美織が水を飲みながら言う。

「朝倉さん、何歳でしたっけ」

 湊が目を瞬く。

「言ってなかったでしたっけ」

「聞いた気もするけど、ちゃんと覚えてない」

「二十六です」

「え」

「え?」

「年下なんだ」

 湊が笑った。

「大庭さんは?」

「二十八」

「二つ上」

「そう」

 美織は少しだけ湊を見る。

 落ち着いているから、同じくらいかと思っていた。

「なんか意外」

「またですか」

「うん。朝倉さん、年齢わかりづらい」

「大庭さんもです」

「それ褒めてる?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

 二人で笑う。

 その会話が、後の呼び方を少しだけ近くした。


   *


 午後。

 商業エリアを歩きながら、二人は小さな焼き菓子店へ寄った。

 美織が真帆への土産を選ぶ。

「これ、真帆好きそう」

「佐伯さん?」

「うん。甘いの好きだから」

「仲いいんですね」

「同期だからね。入社からずっと」

「瀬尾もそうです」

「朝倉さんと瀬尾さん、全然タイプ違うよね」

「よく言われます」

「でも仲いい」

「楽なんですよ。言いたいこと言うから」

「朝倉さん、瀬尾さんには敬語なの?」

「最初の癖が抜けなくて。向こうは普通に崩れてますけど」

「へえ」

 美織は少し考える。

「私も真帆には全然違う喋り方だな」

「聞いてみたいです」

「なんで」

「大庭さん、もっと砕けるんだろうなって」

「今でも結構砕けてきてるけど」

「そうですね」

「認めるんだ」

「嬉しいので」

 美織が足を止めそうになる。

 湊は何でもない顔で続ける。

「最初、ずっと丁寧だったじゃないですか」

「初対面だったからね」

「最近、普通に話してくれること増えたので」

「……そうだね」

 美織は少しだけ目を細めた。

 自分でも、わかっていた。

 気づけば敬語が抜ける。

 言い直さないことも増えた。

 湊の前で、ちゃんとしなければ、と考える時間が減った。

 それはたぶん、湊が最初から変に構えない人だったからだ。


   *


 夕方。

 駅へ戻る途中、二人は少し静かな道を歩いていた。

 休日を一緒に過ごすのも、これで何度目かになる。

 朝に待ち合わせること。

 昼を一緒に決めること。

 帰る時間を相談すること。

 どれも、一か月前にはなかった。

「濃い一か月だったなぁ」

 美織が言った。

 湊が横を見る。

「何がですか?」

「だって、五月の終わりまで朝倉さんのこと知らなかったんですよ、私」

「ああ」

「顔も名前も会社の場所も」

「僕もです」

「それが今、休日に電車四十分乗って一緒に歩いてる」

 美織は少し笑う。

「変なの」

「変ですか?」

「変っていうか、不思議」

「僕は結構、自然ですけど」

「そうなの?」

「はい」

 湊は前を見ながら言う。

「最初から話しやすかったので」

 美織はその言葉を聞いて、少し黙った。

 湊が続ける。

「大庭さんと喋ってると、何の話でも結構楽なんですよね。だから会ったら話すし、またどっか行こうって思うし」

 照れた様子もなく、事実を並べるような言い方だった。

 美織は思わず笑った。

「朝倉さん、本当にそのまま言うよね」

「変でした?」

「ううん、らしいなって思っただけ」

 美織は少し考えてから答えた。

「私も、朝倉さんといる時間、好きですよ」

 言葉にしたあと、自分でも驚くほど自然だった。

 人として好き。

 一緒にいる時間が好き。

 それ以上の説明は、今はいらない。

 湊の表情が少しとろんとやわらかくなる。

「よかった」

「またその顔」

「出てます?」

「出てる」

 顔に?と声を揃えて二人で笑う。


   *


 駅が近づいた頃。

 湊がふと、美織を呼んだ。

「大庭さん」

「ん?」

 返事が完全に砕けている。

 湊は少しだけ笑ったあと、言った。

「ずっと思ってたんですけど」

「何?」

「仕事じゃない日まで“大庭さん”って、ちょっと固いですよね」

 美織が歩きながら湊を見る。

「そう?」

「最近、話し方もこんな感じですし」

「こんな感じって」

「前より普通に話してくれるし」

「まあ……そうかも」

 湊は少しだけ迷ってから続けた。

「美織さん、って呼んでもいいですか」

 美織は足を止めなかった。

 でも、返事までに数秒かかった。

 苗字ではなく、名前。

 たったそれだけなのに、距離が一段近くなる感じがする。一段というより一足飛びか。

 でも嫌ではない。

 むしろ、この一か月を考えれば不自然でもない。

「……いいよ」

 美織が答える。

 湊の口元が少し上がる。

「美織さん」

 すぐ呼んだ。

「すぐ言うんだ」

「許可もらったので」

「律儀なんだか早いんだか」

 美織は笑う。

 それから、少し考えた。

「じゃあ、私も朝倉さんじゃ変かな」

「変じゃないですけど」

「二十六なんだよね」

「はい」

「じゃあ……湊くん?」

 今度は湊のほうが一瞬止まった。

「……はい」

「何、その間」

「いや」

 湊が少しだけそろっと視線を逸らす。

「思ったより、いいですね」

「何が」

「湊くん、って呼ばれるの」

 美織は笑った。

「じゃあ、湊くん」

「はい、美織さん」

 呼び合ってから、二人とも少しだけ可笑しくなった。

 急に別人になるわけではない。

 これまで積み重ねてきたものが、そのまま名前へ置き換わっただけだ。

 それでも、音にすると少し新しい。


   *


 改札の前。

「じゃあ、また月曜」

 美織が言う。

「はい。また月曜、美織さん」

「……まだちょっと慣れない」

「僕は結構好きです」

「そういうことすぐ言う」

「本当なので」

 美織は少し笑った。

「じゃあね、湊くん」

 今度は湊が、わかりやすく嬉しそうな顔をした。

「はい。また」

 手を小さく振りながら別々のホームへ向かう。


   *


 帰りの電車。

 美織は窓に映る自分を見ながら、今日一日を思い出した。

 公園。

 洋食。

 焼き菓子。

 四十分の電車。

 そして、名前。

「……湊くん、か」

 口に出すと、まだ少し照れくさい。

 けれど嫌ではない。

 五月三十日まで、存在すら知らなかった人。

 五月三十一日の帰りに初めて声をかけられた。

 六月に入って、朝の道で会うようになった。

 昼に会うようになった。

 帰りに一緒に歩くようになった。

 ご飯を食べた。

 LINEを交換した。

 猫の写真をもらった。

 休日に出かけた。

 珈琲を飲んだ。

 少し遠くへ行った。

 そして今日、苗字ではなく名前で呼ぶようになった。

「……濃いなあ、一か月」

 美織は小さく笑った。

 でも、急いだ感じはしなかった。

 一つ一つは、その時自然だった。

 振り返ると、こんなに増えていた。

 そのことが、ただ面白かった。


   *


 湊は帰宅すると、玄関で小虎さんを見つけた。

「ただいま」

 靴を脱いで部屋の奥に呼びかける。

 少しして、小虎さんが足元へ来る。

「今日から、美織さんって呼ぶことにしました」

 言ってから、湊は少し笑ってしゃがみこむ。

「美織さん」

 もう一度、確かめるように言う。

 うん、響きがいい。綺麗な名前。

 それだけで、少し嬉しい。

「向こうは、湊くんです」

 小虎さんは何も答えない。

「……いいですよね」

 猫へ同意を求める。

 当然、返事はない。

 湊は笑いながら、小虎さんを優しく撫でた。


 六月が終わる。

 名前も知らなかった人が、朝に会えば声をかける人になった。

 何でもない写真を送り合う人になった。

 帰りにご飯を食べる人になった。

 休日に会う人になった。

 おすすめを教えたくなる人になった。

 少し遠くへ行ってみたい人になった。

 そして、名前で呼ぶ人になった。

 まだ、何か大きく変化したわけではない。

 ただ、

 二人の間に積み重なった時間だけは、もう確かにあった。
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