あの雨の日から、ふたりは
第5話 もう少しだけ
駅の入口が見えてくる。
このまま改札へ入れば、それぞれのホームへ向かう。
自然な終わりだった。
湊が少しだけ歩調を緩めた。
「あの」
「はい?」
「もし時間あったら……少し、お茶しませんか」
美織が湊を見る。
さっきまであれだけ素直に喋っていたのに、誘った途端だけ少し様子が変わった。
「なんか、このまま帰るのも……」
言葉が続かない。
理由をうまく説明できないらしい。
美織は、その不器用さが少し可笑しくなった。
「急なナンパ……?」
「違います」
返事が早い。
美織が吹き出す。
「そこは即答なんですね」
「いや、だって違うので」
「じゃあ、何ですか?」
「……それを今、うまく言えなくて困ってます」
湊は少しだけ視線を逸らした。
ただ、このまま帰るのが惜しかった。
もう少し一緒にいたかった。
たぶん、そういうことなのだろう。
美織にもなんとなくわかった。
私も、名残惜しかった、とは言わない。
「いいですよ」
そう答えた瞬間。
湊の顔が、ぱっとほどけた。
「ほんとですか」
「はい。そんなに喜びます?」
「……喜んでました?」
「かなり」
湊は少しだけ照れたように目を逸らした。
美織は、その様子を見ながら思う。
この人、ずるいな。
何も狙っていないのに、するすると距離が近くなる。
近づこうとしている感じがないから、こちらも身構える理由がない。
気づけば、昨日より今日のほうがずっと喋りやすくなっている。
*
駅前の商業エリアにあるコーヒーショップへ入った。
ガラス張りの明るい店内には、仕事帰りの会社員や、パソコンを広げる学生がいる。
昨日の最上階のレストランよりずっと気軽で、生活の途中へそのまま座れるような店だった。
美織はカフェラテ。
湊はブラックコーヒー。
窓際の二人席に向かい合って座る。
「なんか、昨日より気楽ですね」
美織はカップを両手で包みながら言った。
「昨日、緊張してました?」
「少しは。ほとんど初対面ですし」
「そうですよね」
「朝倉さん、全然そう見えなかったけど」
「僕も緊張してましたよ」
「本当に?」
「本当に」
美織は少し疑うように湊を見る。
「傘の時から普通でしたよね」
「普通に見えるようにしてたわけじゃないです。あれは……声かける前が一番悩みました」
「そうなんですか?」
「かなり」
湊はコーヒーへ目を落とした。
「怪しいかなとか。傘渡したら、連絡先聞きたい人みたいに見えるかなとか」
美織は思わず笑った。
「そこまで考えてたんですか」
「考えました」
「でも声かけた」
「走って帰りそうだったので」
「……あの日、本当に助かりました」
美織の声が少しだけ真面目になる。
「駅までまだ結構ありましたし。途中で傘なしで走ってる人、見たじゃないですか。あれ見て、私も普通にああなってたなって」
「パソコン入ってましたもんね」
「そう。だから、改めてありがとうございます」
湊は一瞬だけ美織を見て、それから穏やかに笑った。
「どういたしまして」
今度は互いに、余計な遠慮を足さなかった。
*
「そういえば、小虎さんって何歳なんですか?」
美織が尋ねると、湊の目元が少し変わった。
「三歳です」
「三歳かあ」
「昨日の写真、まだ見ます?」
「見ます」
答えが早かった。
湊は笑いながらスマートフォンを取り出す。
「そんな即答します?」
「猫に関してはします」
画面には、窓辺で丸くなっている小虎さん。
段ボール箱へ無理に収まろうとしている小虎さん。
湊のパソコンのキーボード前を陣取っている小虎さん。
美織は一枚ずつ真剣に見る。
「この顔いい」
「これ、作業させてくれなかった時です」
「絶対わかってやってる」
「ですよね」
「猫って、人間が困る位置を正確に知ってますよね」
「知ってます」
湊の返事にも妙な実感があって、美織は笑った。
「朝倉さん、家で仕事とかするんですか?」
「仕事というより、気になったこと調べ始めると止まらなくなる時があります。コード試したり」
「休日にも?」
「休日にも」
「ちゃんと休んでます?」
「小虎さんに止められます」
「なるほど。優秀」
「僕よりですか」
「そこはまだ比較材料が足りないので」
「よかった」
会話はそのまま休日の話へ移っていく。
「大庭さんは、休みの日何してるんですか?」
「予定なかったら、まず寝ます」
美織は迷わず答えた。
「結構寝ます」
「意外です」
「何が意外なんですか」
「朝ちゃんとしてるので」
「平日はちゃんと起きますよ。休みだから寝るんです」
「何時くらいまで?」
「前の日によりますけど……十時とか十一時とか」
「結構ですね」
「引きました?」
「いや、健康的だなと」
「絶対思ってない」
美織が目を細める。
湊は少し笑った。
「起きたら、音楽かけてご飯作ることが多いです。時間ある時に、平日作らないもの作ったり」
「料理好きなんですね」
「好きです。自分が食べたいもの作るだけですけど」
「それが一番いい気がします」
「朝倉さんは? 小虎さんとずっと家?」
「家も好きです。出かけるの嫌いじゃないですけど、予定ないなら無理に作らないですね」
「わかります」
美織はすぐに頷いた。
「私も、何も予定ない休日、好きです」
一人で過ごす時間を、どちらも退屈とは思わない。
誰かと会わなくても、それぞれに一日はちゃんと満ちる。
だからこそなのかもしれない。
こうして一緒にいても、ひとりの時間を削られている感じがしなかった。
「猫成分も補給しますけど」
美織が付け足す。
「猫成分?」
「必要なんですよ。定期的に」
「何ですか、それ」
「不足すると猫カフェを検索し始めます」
湊が吹き出した。
その笑い方を見て、美織も笑う。
数日前までなら、知り合ったばかりの男性に「猫成分」なんて言ったかどうかはわからない。
でも湊なら、そのくらい言っても変に受け取らない。
そういう安心感だけは、もう少しずつできていた。
*
会話は、猫から珈琲へ、珈琲から音楽へ、また仕事へと行ったり来たりした。
聞かれたことに答え、その答えの中で気になったことをまた聞く。
途中、何度か沈黙もあった。
美織がカフェラテを飲む。
湊が窓の外を見る。
店内のBGMが聞こえる。
それでも気まずくない。
話題がなくなっても、帰ろうとは思わない。
先に時計へ気づいたのは美織だった。
「あ」
「どうしました?」
「結構、喋ってましたね」
湊も時間を見る。
「ほんとだ」
思っていたより長くいた。
「そろそろ帰ります?」
「……そうですね」
湊は頷く。
けれど、二人ともすぐには立たなかった。
数秒して、美織がカップを置く。
ほぼ同時に湊も立ち上がった。
タイミングが重なって、二人で笑う。
そういうどうでもいいことまで、なんとなく楽しかった。
*
改札の前。
二日前、初めて互いの名前を知った場所だった。
「今日はありがとうございました」
美織が言う。
「こっちこそ。急に誘ってすみません」
「全然。楽しかったです」
湊の顔がやわらかくなる。
「僕もです」
美織は小さく頷いた。
「じゃあ、また」
いつものようにそう言った。
湊も頷く。
「はい、また明日」
美織は一歩だけ動きかけて、止まった。
「……明日?」
湊も、自分が何を言ったのかそこで気づいたらしい。
「あ」
少しだけ目を見開く。
「いや、その……会えたら」
言い直し方が妙に不器用で、美織は笑った。
「はい。会えたら」
「……はい」
今度は湊が少し照れたように笑う。
待ち合わせをしたわけではない。
何時に駅で、と決めたわけでもない。
それでも「また」は、いつかの話ではなくなった。
明日、また顔を見られるかもしれない。
そんな小さな予感が、初めて言葉になった。
*
帰りの電車。
美織は吊り革につかまりながら、窓に映る自分をぼんやり見た。
今日は朝から、ずっと湊とすれ違っていた。
自分は見つけたのに声をかけなかった。
昼は時間がずれた。
帰りも、会わないと思っていた。
なのに最後には、後ろから走ってきた。
――見つけた。
あの時の声と顔を思い出す。
「……ほんと、面白い人」
格好いいのに、妙に曇りがない。
大人なのに、会えたことをあんなにそのまま喜ぶ。
距離を詰めようとしている感じがないのに、気づけば昨日より近く感じる。
美織は窓の外へ視線を移した。
会社へ行く日々に、妙な楽しみが増えた。
今のところ、それで十分だった。
*
同じ頃。
湊は玄関を開けると、靴を脱ぎながら言った。
「小虎さん、ただいま」
茶トラの小虎さんが、部屋の奥からこちらを見る。
「今日、大庭さんに会えました」
言ってから、湊は自分で少し笑った。
今日の報告がそこから始まったことが、なんとなくおかしい。
「朝も昼も会わなかったんですけど」
バッグを置く。
「帰りに前歩いてて」
小虎さんが尻尾を一度、床へ落とす。
「走りました」
今度は、自分でもはっきり笑った。
「……見つけたら、普通に嬉しかったんですよね」
急がなくてもよかった。
追いつかなければ、また別の日に会えたかもしれない。
でも、今日は一度も話していなかった。
だから姿を見つけた時、ああ、いた、と思った。
話せる、と思った。
それだけで足が速くなった。
「お茶もしました」
小虎さんはもう興味を失ったように顔を逸らした。
「聞いてます?」
返事はない。
湊は気にせず続ける。
「大庭さん、休みの日かなり寝るらしいです」
小虎さんの耳だけが少し動く。
「ちゃんとしてる人だと思ってたんですけど。いや、ちゃんとしてるんですけど」
湊は少し考える。
仕事の話をする時の落ち着いた声。
店員へ向ける丁寧な笑顔。
気が緩んだ時に少し砕ける口調。
猫の写真を見る時の真剣な顔。
「猫成分」と大真面目に言うところ。
「思ってたより、いろんな顔する人なんですよね」
小虎さんは、もう餌の置いてあるほうへ歩き始めている。
「あ、ご飯ですね」
湊もそちらへ向かった。
少ししてから、ふと一人で笑った。
「また明日って言っちゃいました」
会えるかわからないのに。
それでも、会えたらいいと思った。
六月三日。
二人の間に、約束らしい約束はまだなかった。
ただ、別れ際の「また」が少しずつ、
次の日のほうを向き始めていた。
駅の入口が見えてくる。
このまま改札へ入れば、それぞれのホームへ向かう。
自然な終わりだった。
湊が少しだけ歩調を緩めた。
「あの」
「はい?」
「もし時間あったら……少し、お茶しませんか」
美織が湊を見る。
さっきまであれだけ素直に喋っていたのに、誘った途端だけ少し様子が変わった。
「なんか、このまま帰るのも……」
言葉が続かない。
理由をうまく説明できないらしい。
美織は、その不器用さが少し可笑しくなった。
「急なナンパ……?」
「違います」
返事が早い。
美織が吹き出す。
「そこは即答なんですね」
「いや、だって違うので」
「じゃあ、何ですか?」
「……それを今、うまく言えなくて困ってます」
湊は少しだけ視線を逸らした。
ただ、このまま帰るのが惜しかった。
もう少し一緒にいたかった。
たぶん、そういうことなのだろう。
美織にもなんとなくわかった。
私も、名残惜しかった、とは言わない。
「いいですよ」
そう答えた瞬間。
湊の顔が、ぱっとほどけた。
「ほんとですか」
「はい。そんなに喜びます?」
「……喜んでました?」
「かなり」
湊は少しだけ照れたように目を逸らした。
美織は、その様子を見ながら思う。
この人、ずるいな。
何も狙っていないのに、するすると距離が近くなる。
近づこうとしている感じがないから、こちらも身構える理由がない。
気づけば、昨日より今日のほうがずっと喋りやすくなっている。
*
駅前の商業エリアにあるコーヒーショップへ入った。
ガラス張りの明るい店内には、仕事帰りの会社員や、パソコンを広げる学生がいる。
昨日の最上階のレストランよりずっと気軽で、生活の途中へそのまま座れるような店だった。
美織はカフェラテ。
湊はブラックコーヒー。
窓際の二人席に向かい合って座る。
「なんか、昨日より気楽ですね」
美織はカップを両手で包みながら言った。
「昨日、緊張してました?」
「少しは。ほとんど初対面ですし」
「そうですよね」
「朝倉さん、全然そう見えなかったけど」
「僕も緊張してましたよ」
「本当に?」
「本当に」
美織は少し疑うように湊を見る。
「傘の時から普通でしたよね」
「普通に見えるようにしてたわけじゃないです。あれは……声かける前が一番悩みました」
「そうなんですか?」
「かなり」
湊はコーヒーへ目を落とした。
「怪しいかなとか。傘渡したら、連絡先聞きたい人みたいに見えるかなとか」
美織は思わず笑った。
「そこまで考えてたんですか」
「考えました」
「でも声かけた」
「走って帰りそうだったので」
「……あの日、本当に助かりました」
美織の声が少しだけ真面目になる。
「駅までまだ結構ありましたし。途中で傘なしで走ってる人、見たじゃないですか。あれ見て、私も普通にああなってたなって」
「パソコン入ってましたもんね」
「そう。だから、改めてありがとうございます」
湊は一瞬だけ美織を見て、それから穏やかに笑った。
「どういたしまして」
今度は互いに、余計な遠慮を足さなかった。
*
「そういえば、小虎さんって何歳なんですか?」
美織が尋ねると、湊の目元が少し変わった。
「三歳です」
「三歳かあ」
「昨日の写真、まだ見ます?」
「見ます」
答えが早かった。
湊は笑いながらスマートフォンを取り出す。
「そんな即答します?」
「猫に関してはします」
画面には、窓辺で丸くなっている小虎さん。
段ボール箱へ無理に収まろうとしている小虎さん。
湊のパソコンのキーボード前を陣取っている小虎さん。
美織は一枚ずつ真剣に見る。
「この顔いい」
「これ、作業させてくれなかった時です」
「絶対わかってやってる」
「ですよね」
「猫って、人間が困る位置を正確に知ってますよね」
「知ってます」
湊の返事にも妙な実感があって、美織は笑った。
「朝倉さん、家で仕事とかするんですか?」
「仕事というより、気になったこと調べ始めると止まらなくなる時があります。コード試したり」
「休日にも?」
「休日にも」
「ちゃんと休んでます?」
「小虎さんに止められます」
「なるほど。優秀」
「僕よりですか」
「そこはまだ比較材料が足りないので」
「よかった」
会話はそのまま休日の話へ移っていく。
「大庭さんは、休みの日何してるんですか?」
「予定なかったら、まず寝ます」
美織は迷わず答えた。
「結構寝ます」
「意外です」
「何が意外なんですか」
「朝ちゃんとしてるので」
「平日はちゃんと起きますよ。休みだから寝るんです」
「何時くらいまで?」
「前の日によりますけど……十時とか十一時とか」
「結構ですね」
「引きました?」
「いや、健康的だなと」
「絶対思ってない」
美織が目を細める。
湊は少し笑った。
「起きたら、音楽かけてご飯作ることが多いです。時間ある時に、平日作らないもの作ったり」
「料理好きなんですね」
「好きです。自分が食べたいもの作るだけですけど」
「それが一番いい気がします」
「朝倉さんは? 小虎さんとずっと家?」
「家も好きです。出かけるの嫌いじゃないですけど、予定ないなら無理に作らないですね」
「わかります」
美織はすぐに頷いた。
「私も、何も予定ない休日、好きです」
一人で過ごす時間を、どちらも退屈とは思わない。
誰かと会わなくても、それぞれに一日はちゃんと満ちる。
だからこそなのかもしれない。
こうして一緒にいても、ひとりの時間を削られている感じがしなかった。
「猫成分も補給しますけど」
美織が付け足す。
「猫成分?」
「必要なんですよ。定期的に」
「何ですか、それ」
「不足すると猫カフェを検索し始めます」
湊が吹き出した。
その笑い方を見て、美織も笑う。
数日前までなら、知り合ったばかりの男性に「猫成分」なんて言ったかどうかはわからない。
でも湊なら、そのくらい言っても変に受け取らない。
そういう安心感だけは、もう少しずつできていた。
*
会話は、猫から珈琲へ、珈琲から音楽へ、また仕事へと行ったり来たりした。
聞かれたことに答え、その答えの中で気になったことをまた聞く。
途中、何度か沈黙もあった。
美織がカフェラテを飲む。
湊が窓の外を見る。
店内のBGMが聞こえる。
それでも気まずくない。
話題がなくなっても、帰ろうとは思わない。
先に時計へ気づいたのは美織だった。
「あ」
「どうしました?」
「結構、喋ってましたね」
湊も時間を見る。
「ほんとだ」
思っていたより長くいた。
「そろそろ帰ります?」
「……そうですね」
湊は頷く。
けれど、二人ともすぐには立たなかった。
数秒して、美織がカップを置く。
ほぼ同時に湊も立ち上がった。
タイミングが重なって、二人で笑う。
そういうどうでもいいことまで、なんとなく楽しかった。
*
改札の前。
二日前、初めて互いの名前を知った場所だった。
「今日はありがとうございました」
美織が言う。
「こっちこそ。急に誘ってすみません」
「全然。楽しかったです」
湊の顔がやわらかくなる。
「僕もです」
美織は小さく頷いた。
「じゃあ、また」
いつものようにそう言った。
湊も頷く。
「はい、また明日」
美織は一歩だけ動きかけて、止まった。
「……明日?」
湊も、自分が何を言ったのかそこで気づいたらしい。
「あ」
少しだけ目を見開く。
「いや、その……会えたら」
言い直し方が妙に不器用で、美織は笑った。
「はい。会えたら」
「……はい」
今度は湊が少し照れたように笑う。
待ち合わせをしたわけではない。
何時に駅で、と決めたわけでもない。
それでも「また」は、いつかの話ではなくなった。
明日、また顔を見られるかもしれない。
そんな小さな予感が、初めて言葉になった。
*
帰りの電車。
美織は吊り革につかまりながら、窓に映る自分をぼんやり見た。
今日は朝から、ずっと湊とすれ違っていた。
自分は見つけたのに声をかけなかった。
昼は時間がずれた。
帰りも、会わないと思っていた。
なのに最後には、後ろから走ってきた。
――見つけた。
あの時の声と顔を思い出す。
「……ほんと、面白い人」
格好いいのに、妙に曇りがない。
大人なのに、会えたことをあんなにそのまま喜ぶ。
距離を詰めようとしている感じがないのに、気づけば昨日より近く感じる。
美織は窓の外へ視線を移した。
会社へ行く日々に、妙な楽しみが増えた。
今のところ、それで十分だった。
*
同じ頃。
湊は玄関を開けると、靴を脱ぎながら言った。
「小虎さん、ただいま」
茶トラの小虎さんが、部屋の奥からこちらを見る。
「今日、大庭さんに会えました」
言ってから、湊は自分で少し笑った。
今日の報告がそこから始まったことが、なんとなくおかしい。
「朝も昼も会わなかったんですけど」
バッグを置く。
「帰りに前歩いてて」
小虎さんが尻尾を一度、床へ落とす。
「走りました」
今度は、自分でもはっきり笑った。
「……見つけたら、普通に嬉しかったんですよね」
急がなくてもよかった。
追いつかなければ、また別の日に会えたかもしれない。
でも、今日は一度も話していなかった。
だから姿を見つけた時、ああ、いた、と思った。
話せる、と思った。
それだけで足が速くなった。
「お茶もしました」
小虎さんはもう興味を失ったように顔を逸らした。
「聞いてます?」
返事はない。
湊は気にせず続ける。
「大庭さん、休みの日かなり寝るらしいです」
小虎さんの耳だけが少し動く。
「ちゃんとしてる人だと思ってたんですけど。いや、ちゃんとしてるんですけど」
湊は少し考える。
仕事の話をする時の落ち着いた声。
店員へ向ける丁寧な笑顔。
気が緩んだ時に少し砕ける口調。
猫の写真を見る時の真剣な顔。
「猫成分」と大真面目に言うところ。
「思ってたより、いろんな顔する人なんですよね」
小虎さんは、もう餌の置いてあるほうへ歩き始めている。
「あ、ご飯ですね」
湊もそちらへ向かった。
少ししてから、ふと一人で笑った。
「また明日って言っちゃいました」
会えるかわからないのに。
それでも、会えたらいいと思った。
六月三日。
二人の間に、約束らしい約束はまだなかった。
ただ、別れ際の「また」が少しずつ、
次の日のほうを向き始めていた。