あの雨の日から、ふたりは

第3章 声をかけていい人



 六月四日。

 駅を出たところで、美織はすぐに見つけた。

 少し前を歩く、高い背。
人の流れの中でも頭ひとつ抜けるほどではないけれど、
一度覚えてしまえば見失いにくい。やわらかく癖のある髪と、
見慣れてきた仕事用のバッグ。

 昨日なら、ここで一度迷った。

 今日は迷わなかった。


「朝倉さん」

 呼ぶと、湊が振り返った。

 その顔が、ほんの一瞬で明るくなる。


「おはようございます」

「おはようございます」


 美織は早歩きで追いつきながら、少しだけ笑った。


「今日はちゃんと声かけました」

「あ」

 湊も昨日の会話を思い出したらしい。

「ありがとうございます」

「お礼言われるほど?」

「言いましたから。声かけてほしいって」

「律儀ですね」

「大庭さんが?」

「朝倉さんが」


 そんな話をしながら、二人はいつもの道を歩き出した。

 昨日、改札前で湊は「また明日」と言った。

 約束ではなかった。

 何時にどこで、と決めたわけでもない。

 それでも今朝こうして会えたことで、その言葉が少しだけ
形になった気がした。

 美織にとっては、会社へ向かう10分に増えた、
ちょっとした楽しみ。

 湊にとっては、何を話すか決めなくても、
一緒に歩いているだけで心地いい時間。

 二人はまだ、その違いを比べる必要もなかった。


   *


 その日の昼。

 美織は同僚の佐伯 真帆(さえき まほ)と一緒に、
いつものコンビニへ向かった。

 真帆は美織と同期で、別部署ながら入社以来、よく昼を
一緒にしている。背は美織より10cmちいさく、かわいらしい。
マロンブラウンのミディアムボブに、やわらかな色の
カーディガン。小柄で、歩く時のテンポも軽い。
今日もボートネックのトップスにフレアスカート、
足元は低いワンストラップシューズだった。
綺麗めビジネススタイルの美織とは対照的だ。

「今日こそ、新しいやつ食べようかな」

「昨日もそれ言って定番買ってなかった?」

「安全を選んだの」

「じゃあ今日も安全じゃない?」

「今日は攻める日」

「昼ご飯にそんな覚悟いる?」

 そんな他愛ない話をしながら店へ入る。

 弁当の棚へ向かう途中で、美織は見覚えのある横顔に気づいた。

 湊だった。

 今日は一人ではない。

 隣にいるのは、美織より少し背の高い男性。黒髪の短髪で、
シャツにスラックス。肩や腕に適度な厚みがあり、学生時代に
スポーツをしていたと言われれば納得する体つきだった。

 美織と湊の目が合う。

 互いに、ごく自然に会釈をした。

 湊の隣の男性も、美織の隣の真帆も、その一瞬を見ていた。

 美織はそのまま棚へ向かった。

 真帆は数歩ついてきたあと、美織の腕へそっと寄る。

「……ねえ」

「なに」

「ねえ、ねえ、ちょ……ちょっと待って」

「何が」

 真帆は声を落とした。

「なに、あの人?!」

 美織は一度、湊のいる方向を見る。

「朝倉さん?」

「名前まで知ってると。何故」

「なぜって、知り合いだからね」

「いや、そうじゃなくて」

 真帆が美織の袖を軽く引いた。

「破壊力えぐくない?」

「何の」

「顔の。あとなんかこう、全体の」

 真帆はテンションがあがると、身振り手振りリアクションが
大きく必死に伝えようとするので、美織は思わず笑った。

「全体って、語彙力どこいったの」

「背高いし、スタイルいいし、眼鏡まで似合ってたよ。
何あれ。ドラマの人?芸能人?」

「んー、会社員」

「見ればわかる」

「向かいの会社の人だよ」

 真帆の目がさらに丸くなる。

「この前言ってた?」

「そう」

「え。待って、あの『向かいの会社の人』?」

「うん」

「ひゃー!情報量省略しすぎじゃない?」

「何を足せばよかったの」

「少なくとも、ものすごいイケメン、はいるでしょ」

 美織は湊の顔を思い出しながら少し考えた。

「顔いいよね、うん」

「認めるんだ」

「見ればわかるし」

「美織、すごいの見つけたね……」

 真帆は少しわくわくした顔で言った。

「私が見つけたわけじゃないよ。向こうが傘に入れてくれたの」

「その説明から、あれが出てくるのおかしくない?」

「実際そうなんだから仕方ないでしょ」

 美織は笑いながら、新商品のパスタを手に取った。

 真帆はまだ何か言いたそうだったが、無理に続けなかった。

 美織が隠している様子ではないことも、まだ本人が何か特別な
話として扱っていないことも、付き合いの長い真帆にはそう
なんとなくわかった。

 ただ。

 さっき会釈をした時、美織の表情がほんの少し柔らかくなった
ことだけは、覚えておくことにした。
そして、相手の彼は、嬉しそうに見えたことも。


   *


 一方。

 コンビニの店内の反対側では、瀬尾 直哉(せお なおや)が
湊の様子を横でじっと見ていた。

「なあ」

「はい?」

「今の人、誰?」

「大庭さんです」

「いやいや、名前じゃなくて」

 湊が少し首を傾ける。

 瀬尾は小さく息を吐いた。

「いや……すげえ美人だなと思って。びっくり」

 湊は美織がいた棚のほうを一度見た。

 それから、ああ、とごく自然に笑った。

「そうでしょう?」

「…………」

「何ですか」

「お前のじゃねえだろ」

「そういう意味じゃないですけど」

「じゃあどういう意味だよ」

「美人なのは事実なので、同意したまでです」

 湊は本当にそれだけのつもりらしい。

 瀬尾はしばらくその顔を見て、笑った。

「お前、たまに面白いな」

「瀬尾に言われたくないなぁ」

「で、あの人が傘の?」

「そう」

「朝一緒に歩いてた人でもある?」

「よく見てますね」

「会社入るとこ見えたから。久世さんも言ってたぞ」

「何をですか」

「最近お前がご機嫌だって」

「まだ言ってるんですか、それ」

「だって今日も機嫌いいじゃん」

「普通です」

「はいはい」

 瀬尾はおにぎりを籠へ入れながら、横目で湊を見る。

 湊とは同期だった。

 見た目も性格もあまり似ていない。瀬尾は思ったことをすぐ
口にするし、困っている人がいれば少し強引にでも手を貸す。
湊はもっと穏やかで、自分からぐいと前へ出ることは少ない。

 それでも不思議と気が合った。

 だから瀬尾には、湊の「普通」がいつもより少し楽しそうに
見えていることがわかる。

「まあ、楽しそうでいいんじゃない」

「だから普通ですって」

「そういうことにしとく」

 こいつ、気づいてないのかと思ったが、何も言及はせずに
瀬尾は笑った。なんだか面白くなりそうだとも思った。



 それから数日。

 二人の日常は、急に特別なものへ変わったわけではなかった。

 朝、駅で見つければ声をかける。

 昼のコンビニで会えば、少し話す。

 帰りの時間が合えば、駅まで一緒に歩く。

 会わない日もある。

 それでも、会えば自然に隣へ並ぶことだけは、
もう迷わなくなっていた。

 美織は以前より、通勤中に周囲を見るようになった。

 湊は、背の低い人の流れの向こうに美織の柔らかい髪を
見つけるのが少し上手くなった。

 どちらも、それを大げさには考えない。

 ただ、朝の道に知っている人がいるのは悪くなかった。


   *


 六月に入って最初の週末。

 二人は会わなかった。
当たり前だ。休日なのだから。

 美織は朝をゆっくり過ごした。

 目が覚めたのは10時近く。洗濯機を回している間に珈琲を
淹れ、髪をひとつにまとめる。昼前には音楽を流しながら
冷蔵庫の中身を確認し、残っていた野菜でスープを作った。

 誰かと会う予定のない休日は、もともと好きだった。

 時間を気にせず起きる。

 食べたいものを作る。

 途中でソファに座ってしまっても誰にも咎められない。

 その快適さは、何も変わっていない。

 ただ、午後になってスマートフォンを手に取った時。

 美織は一瞬だけ、朝倉 湊のことを思い出した。

 連絡先は、まだ仕事用のメールしか知らない。

 もちろん、用事もない。

「……まあ、そうだよね」

 それだけ言って、スマートフォンを伏せた。

 会わない休日は休日で、普通に過ぎていった。
それはいつもと変わらない、当たり前の日常だった。


 同じ頃。

 湊は自宅の窓辺で、寛いでいる小虎さんへスマートフォンの
カメラを向けていた。撮影会である。

「小虎さん、そのまま」

 茶トラの前足が、珍しくきれいに揃っている。

 画面を確認する。

 かなりいい。

「大庭さん、こういうの好きそう」

 口に出したところで、湊は少し止まった。

 送ろうとして。

 送り先がない。

「あ」

 正確には仕事用のメールアドレスなら知っている。

 でも、土曜の午後に猫の写真だけを添付してわざわざ
会社用のアドレスへ送るのは、さすがに違う。

「……ですよねぇ」

 小虎さんへ同意を求める。

 当然、返事はない。

 湊は写真を保存して、スマートフォンを置いた。
今度会えば、プライベートの連絡先を聞けばいい。




 週明け。

「おはようございます」

「おはようございます」

 駅前で会い、自然に並ぶ。

「休み、何してました?」

 湊が聞く。

「もうかなり寝ました。ぐっすり」

「やっぱり」

「何、その納得」

「この前言ってたので」

「ちゃんと実行しましたよ。十時近くまで」

「いい休日ですね」

「朝倉さんは?」

「小虎さんの写真撮ってました」

 美織がぱっとすぐに反応する。

「写真?」

「はい」

「見せてください」

「今?」

「今」

 湊は笑って、歩きながらスマートフォンを取り出した。

 信号待ちで画面を見せる。

 窓辺で前足を揃えた小虎さん。

「……いい」

「いいですか」

「すごくいい。これ欲しいなぁ」

「写真ですか?」

「はい。保存したい気持ちが湧き上がってます」

「じゃあ送ります」

 言ったあとで、二人とも一瞬だけ黙った。

 目を合わせて、美織が先に笑う。

「仕事のメールに猫送ります?」

「昨日、それ考えてやめました」

「へー、考えたんだ」

「送り先、そこしか知らなかったので」

 湊は少しだけ迷ってから言った。

「……よかったら、連絡先交換します?」

 美織も一度だけ考えた。

 でも、小虎さんの写真をもらうために仕事用メールを使うより
そのほうがずっと自然で気安い。

「そうですね」

 二人は信号を渡った先で一度立ち止まり、個人の連絡先を
改めてよろしくお願いしますと交換した。

 大きな出来事ではない。

 それでも、美織のスマートフォンの連絡先に
「朝倉 湊」が入り、湊のほうにも「大庭 美織」が入った。

 名前が、仕事の名刺から日常の中へ一段移った。
もうただの顔見知りではない、一部の人として。


   *


 その日の昼過ぎ。

 美織のスマートフォンが短く震えた。

『週末の小虎さんです』

 添付された猫の写真が一枚。

 美織は開いた瞬間、口元を緩めた。

『これは保存です』

 少しして返信。

『実物のほうがいいです』

『猫バカ飼い主だ』

『どうも飼い主です』

 美織は笑った。

 その様子を隣の席から真帆が見つける。

「猫?」

「うん」

「見せて」

 美織は画面を少し傾けた。

「かわいい!」

「うん、小虎さん」

「小虎さん?」

「朝倉さんの猫」

 真帆の顔がゆーっくり美織へ戻る。

「……あのイケメンの?」

「そう」

「うそうそ、個人連絡先まで進んだの?」

「猫の写真送ってもらうのに仕事メール変でしょ」

「理由が猫」

「理由が猫」

 美織は真顔で返した。

 真帆は数秒額を抑えて耐えてから、ふふ、と笑う。

「はー…美織らしい」

「何が」

「なんでもない」

 それ以上は追及しなかった。


   *


 個人の連絡先を知っても、二人のやり取りが急に増えたわけではなかった。

 毎朝メッセージを送ることもない。

 夜遅くまで話し続けることもない。

 ただ、何かを見つけた時に送れるようになった。

 湊からは、小虎さんの妙な寝相。

 美織からは、会社近くで見つけた新しい珈琲の店。

『これ、朝倉さん好きそう』

『今度通ったら見てみます』

 美織が休日に作った煮込み料理。

『作りすぎた』

『何日分ですか』

『聞かないで』

 湊が帰宅すると、小虎さんが紙袋へ頭だけ突っ込んでいた。

『何してると思います?』

『猫』

『正解です』

 内容はどうでもいいものばかりだった。

 でも、どうでもいいものを送れる相手が一人増えた。

 それは二人の日常を、ほんの少しだけ広げた。




 数日後。

 帰りの時間が重なり、二人は駅までの道を歩いていた。

「今日、どうします?」

 湊が聞く。

 美織は横を見る。

「どうします、って?」

「このまま帰るか、何か食べるか」

 あまりに普通の聞き方で、美織は笑った。

「自然に聞くようになりましたね」

「嫌でした?」

「嫌じゃないです」

 いいえ、と首を横に振ってすぐに答えてから、
自分でも少しだけ可笑しくなった。

 嫌ではない。

 むしろ、仕事帰りに誰かと適当に食事をするのは久しぶり
だったし、湊となら話題を用意する必要もない。

「じゃあ軽く食べます?」

「はい」

 入ったのは駅近くの定食屋だった。

 最初に行った最上階の店とは違う。

 仕事帰りの会社員が普通に入り、テレビの音が少し聞こえて、
メニューには焼き魚、生姜焼き、唐揚げ、蕎麦が並んでいる。

 美織は焼き魚。

 湊は生姜焼き。

「朝倉さん、意外としっかり食べますね」

「意外と?」

「もっと少食そう」

「何でですか」

「なんとなく」

「またそれですか」

「便利なんですよ」

「えーとそれは、僕の見た目です?」

「まあ、見た目からの予測ですね」

 湊が箸を置き、少し考えを追求したくなったのか
美織をじっと見る。

「僕、どういう見た目なんですか」

「え」

「少食そうって、どういう」

 美織は深く考えずに答えた。

「だって顔がいいんだもん」

 言ってから。

 止まった。

 湊も止まった。

 美織は数秒、箸を持ったまま固まり、
そろーっとゆっくり視線を逸らした。

「……今の忘れてください」

「無理です」

「ああ、早い」

「無理なものは無理です」

「忘れて」

「すみません。無理です」

 湊の口元が明らかに緩んでいる。

「笑わないでください」

「笑ってないです」

「笑ってる」

「……ちょっと嬉しいので」

 その返しがあまりにそのままで、本当に嬉しそうだから美織は
さらにどういう顔をしていいか困った。

 容姿を褒められること自体は珍しくないはずなのに、湊は
妙に素直に喜ぶ。

 そして喜ばれると、言った美織のほうがじわじわ恥ずかしく
なる。空気を切り替えねば。

「生姜焼きを食べてください」

「はい」

 湊はまだ少し笑っていた。

 美織は焼き魚へ視線を戻しながら、内心で思う。

 真帆が言っていたことを、そのまま本人へ言ってしまった。

 しかも、かなり雑な形で。

 ――まあ、事実だけど。

 だって、生姜焼き食べてるだけでも格好いい。綺麗に、でも
美味しそうに食べる。その事実を本人へ再確認する必要は
なかったので、黙っておいた。




 翌日。

 瀬尾は昼休みに、湊が自席でスマートフォンを見て
少し肩を揺らしえ笑っているのを見つけた。

「大庭さん?」

 湊が顔を上げる。

「なんでわかるんですか」

「最近その顔してる時だいたいそうじゃん」

「どの顔ですか」

「ちょっと楽しそうな顔」

 へら、と瀬尾は湊の真似をするが、湊は画面へすぐ視線を戻す。

 美織から、昨日の定食屋の近くにある珈琲店について
メッセージが来ていた。

『昨日言ってた店、ここです』

 地図のリンクがついている。

「……別に、普通ですよ」

「はいはい」

 瀬尾はそれ以上からかわなかった。

 湊自身が何も隠していない以上、面白がって追及するほどの
ことでもない。

 ただ。

「朝倉」

「はい?」

「お前、あの人と喋ってる時、楽そうだな」

 湊は少し考えた。

「楽ですよ」

 即答だった。

 瀬尾は「だろうな」と笑った。
そこは気づいてるんだな、と思った。




   *




 六月の半ばを過ぎた頃。

 朝、会う。

 昼に会う。

 帰りに会う。

 会えなければ、個人の連絡先へ短いメッセージがポンと
来ることもある。

 それでも二人は、毎日を互いのためにわざわざ組み替えて
いるわけではなかった。

 美織には美織の仕事がある。

 湊には湊の仕事がある。

 美織は真帆と昼を食べるし、片桐から急ぎの修正を頼まれれば
頭を抱えながら残業もする。

 湊は瀬尾と案件の相談をし、久世にレビューを頼み、PCに
集中すれば昼休みが当然ずれる。

 互いの生活はそれぞれに進んでいる。

 その中で、タイミングが合えば一緒になる。

 そのくらいが、今はちょうどよかった。



*




 ある日、美織は朝から外部の打ち合わせへ向かう予定があり、
いつもの駅を使わなかった。

 昼もそのまま外で済ませた。

 夕方、会社へ戻ってからスマートフォンを見る。

 湊からの連絡はない。

 当たり前だ。

 今日どこへ行くか伝えていない。

 美織は少し考えてから、自分から送った。

『今日は朝から外に出てました』

 数分して返信が来る。

『そうだったんですね』

 その下にもう一つ。

『今日、全然見ないなと思ってました』

 美織は画面を見て、少しだけ笑った。

『探してました?』

 送ってから、自分でも少し意地悪だったかなと思う。

 返信はすぐには来なかった。

 数分後。

『ちょっと』

 四文字。

 美織は小さくふ、と息を漏らした。

「……ちょっと、なんだ」

「何が?」

 隣から真帆の声が飛んでくる。

 美織はスマートフォンを伏せて何事もなかったような顔をする。

「何でもない」

「今笑ってた」

「笑ってない」

「笑ってたよ」

「時間だよ。仕事しよ、真帆」

「はいはい」

 真帆は楽しそうに自席へ戻った。


 
 その数日後。

 湊は仕事帰りの駅前で、一枚のポスターに足を止めた。

 大きく写った、窓辺の猫。

 期間限定の写真展だった。

 以前なら、猫だ、と見るくらいで通り過ぎていたかもしれない。

 今日はタイトルを読む。

 会期を見る。

 会場を見る。

 そして、最初に浮かんだのは小虎さんではなかった。

 (大庭さん、好きそう。)

 スマートフォンでポスターを一枚撮った。

 送ろうとして。……スマホを、ポケットに仕舞う。

 少し考えて、やめた。

 これは、会った時に話したい気がした。


   *


 翌日の帰り。

 二人はいつものように駅へ向かっていた。

 六月の夕方は明るい。

 西日の色がビルの窓へ薄く映り、歩道には仕事を終えた
人の流れが続いている。
その流れを崩さないように歩いていて、いずれ駅に吸い込まれる
人たちの一部が自分たちだ。

「そういえばですね」

 思い出したように、湊が言った。

「はい?」

「猫の写真とか、見るの好きです?」

 美織は横を見て、顔を上げて湊を見上げた。

「好きですよ」

「駅前でポスター見たんですけど、今、猫の写真展やってる
みたいです」

「え」

 美織の反応は早かった。

「どこですか?」

「この駅から何駅か行ったところ。今月いっぱいくらいだったと
思います」

「へえ。行きたい」

 美織は嬉しそうにほとんど独り言のように言った。

 湊は一度前を見た。

 それから、少しだけ息を整えるような間を置いた。

「……じゃあ」

「はい?」

「今度、一緒に行きませんか」

 美織が驚いた顔で湊を見る。

 平日の朝ではない。

 昼休みでもない。

 仕事帰りに流れで食事へ行くのとも少し違う。

 写真展へ行くなら、たぶん休日になる。

 湊もそこをわかっているのだろう。

 いつもよりほんの少しだけ、返事を待つ顔をしていた。
待て、をされる犬のようで笑いそうになる。我慢。

「休みの日、ですよね」

「はい」

「朝倉さんも猫の写真展、行きたいんですか?」

「見たいです」

 湊はそこまでは迷わず答えた。

 少し考えて、付け足す。

「……大庭さんと見たら、たぶん面白いかなとも思って」

 美織は一瞬、黙った。

 言葉の意味を深読みしたわけではない。

 ただ、その言い方が湊らしいと思った。

 自分と行きたいから、とは言わない。

 でも、美織と見たら面白そうだと思ったことは、そのまま言う。

 何の駆け引きもない。

「じゃあ……行きましょうか」

 答えると。

 湊の顔が、じんわりとまたわかりやすくほどけた。

「ほんとですか?」

「はい」

 美織は笑う。

「またその顔」

「どの顔ですか」

「嬉しい時の顔」

「そんなに出てます?」

「出てます」

 湊は少し困ったように笑った。

 美織の頭には、あの日の大型犬がまた浮かぶ。

 見つけた、と走ってきた時と同じ。

 会えたことも。

 お茶へ行けたことも。

 こうして約束ができたことも。

 この人は、嬉しいと本当に顔に出る。

まるで喜んでしっぽを振ってるみたいなんだもの。

 美織はそれを、もうかなり面白がっていた。


   *


 駅の改札前で、二人は予定を確認した。

「今度の土曜なら空いてます」

 美織が言う。

「僕も空いてます」

「じゃあ土曜」

「時間、あとで送ります」

「お願いします」

「場所も調べておきます」

「そこまでしてくれるんですか」

「誘ったので」

「ほんと律儀」

「前にも言われました」

 笑う。

「じゃあ、また明日」

 湊が言った。

 今度は、もう言ったあとで驚かない。

「はい。また明日」

 美織も普通に手を振って返す。

 そのあとに、土曜日の約束まである。

 数週間前まで、名前すら知らなかった人。

 今は明日も会うかもしれなくて、休日にも会う予定がある。

 その変化を、美織は不思議には思った。

 でも、不自然だとは思わなかった。
なんだか、わくわくしていた。




 翌日の昼。

 真帆は美織から週末の予定を聞いて、箸を止めた。

「へ、待って」

「何」

「猫の写真展?」

「うん」

「朝倉さんと?」

「うん」

「休日に?」

「そう」

 真帆は数秒、美織を見つめた。

「……美織」

「何」

「あんたやるわ、すごいの見つけたね」

「またそれ?」

「だって、平日の目の保養が休日にまで進出してる」

「ちょっと、言い方」

「楽しみ?」

 美織は少し考えた。

 考えるまでもない気もした。

「そりゃ、楽しみ」

 素直に答える。

 真帆はそこで、にこっと笑った。

「そっか」

 それ以上は何も言わなかった。

 美織も、自分の答えを言い直さなかった。


   *


 湊のほうでも、瀬尾が同じ話を聞いた。

「土曜、猫の写真展行くんですよ」

「へえ。誰と」

「もちろん大庭さんと」

 瀬尾は飲んでいたお茶を一度置いた。

「……お前、さらっと言うな」

「何がですか」

「いや、いいけど。楽しみ?」

「はい」

 即答。

 瀬尾は笑う。

「わかりやす」

「何がですか」

「何でもない」

 湊は怪訝そうな顔をして、またパソコンへ向かった。

 瀬尾はその横顔を見ながら思う。

 こいつ、まだ本当に何も考えてないな。

 ただ、楽しみなのだけは間違いない。

 それなら今は、それでいいのだろう。




 六月。

 会社へ行く途中で声をかける人ができた。

 昼に会えば会釈をする人ができた。

 猫の写真を送りたくなる人ができた。

 どうでもいいものを見つけた時、ふと思い出す人ができた。



 そして今度の土曜日。

 二人は初めて、仕事とは関係のない日に

待ち合わせをする。


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