外れ夫と結婚したのに、気付けば憧れの愛され妻と呼ばれていました
彼は真っすぐ席に戻らず広間の出入り口に向かう。
沙絵は少し迷ってから後を追った。
騒がしさに疲れを感じたので、パウダールームに行って休憩するつもりだ。
広間を出ると蒼真が歩を緩めた。ふたり並ぶ形になる。
すると突然温度を感じない声が頭上から降りてきた。
「お義姉さんの社交性はたいしたものだな。君も見習った方がいいんじゃないか?」
「え?」
驚き顔を上げる。蒼真と目があった。まったく笑っていない、冷ややかな目。
沙絵の心臓がどきんと跳ねた。
さきほどまでの愛想の良さは欠片も見られない。
(なんで急に機嫌が……いえ、そうじゃない。素に戻ったんだ)
今は周りに人の目はなく、装う必要がないのだから。
(だからって嫌みを言うことないのに)
「姉は外面がいいんです」
「社交に於いて重要なことじゃないか」
「見習うのは、私がいいことだと感じることだけにしています」
沙絵は気持ちを沈むのを感じながら返す。蒼真が皮肉な笑みを浮かべた。
「いいことじゃないのか? 少なくとも周囲からの評判はいい。今日、彼女の評価は上がった」
沙絵は一瞬言葉に詰まった。蒼真がこんな発言をするとは思ってもいなかったのだ。
お見合いの日、彼は杏華の本性の一部を見たはずだ。そのときは杏華の言動に呆れて、確実に軽蔑の目を向けていた。
(それなのに、今日はお姉さんを見習えって言うなんて……)
彼は世間の評判が良ければ中身はどうでもいいと思っているのだろうか。
共感はできない。でも沙絵は自分の考えを言葉にはしなかった。
彼からはビジネス婚だと線を引かれているのだから。
お互いを理解したり、気持ちを分かり合うために言葉を尽くすような関係ではないのだ。
「そうかもしれないですね」
沙絵は素っ気なく言うと、蒼真から離れて化粧室に向かった。
彼は追いかけてはこなかった。
パウダールームの鏡に映る沙絵は、浮かない顔をしていた。
割り切つるもりではいるものの、蒼真に対する失望が憂鬱な気持ちにさせる。
(彼がお姉さんに共感するなんてね)
沙絵は憂鬱さを抱えながら化粧室を出た。蒼真の姿は見当たらない。
ひとりで会場に戻ろうとしたそのとき「沙絵さん」と後ろから呼び止められた。
沙絵は足を止めて振り返る。同年代と思われるスーツ姿の男性が小走りに近づいてくるところだった。
ひょろりとした長身で、センターパートのミディアムヘア。蒼真のような際立った美形ではないが、ヘアスタイルもスーツも本人によく似合っている。
見覚えがないが相手は沙絵のことを知っている。
「あの、なにかご用でしょうか?」
戸惑いながら尋ねると、男性はがっかりしたように肩を落とした。
「沙絵さんを見かけたから挨拶をしようと思ったんですけど、俺のこと覚えてないみたいですね」
「え? あの、申し訳ありません……」
(面識がある人だったの? 仕事関係かな……どうしよう、全然覚えてない)
沙絵は罪悪感と気まずさに苛まれながら、頭を下げる。まったく記憶にないため、胡麻化しようがなかった。
「佐枝智成です。以前、友崎家にお邪魔したときに挨拶させて貰ったんですよ」
名前を聞いてはっとした。
(佐枝って、さっきお姉さんが言っていた人だ!)
こんなにすぐに会うとは思ってもいなかった。けれど名乗られてもまだ彼と挨拶をした記憶を思い出せない。
「あの頃、沙絵さんはまだ高校生だったかな。人見知りで杏華さんばかり話していましたね」
(そんな前の話なんだ)
どうりで覚えていないはずだ。
「すみません、思い出せなくて」
沙絵が正直に伝えると、智成は苦笑いになった。
「残念だけど、もう十年近く前のことだから仕方ないですね」
残念そうな口ぶりは、少しわざとらしく感じる。
「……佐枝さんは記憶力がいいんですね」
「そういうわけじゃないけど、友崎家の美人姉妹と初めて会った日だからインパクトが有ったんだよ。それに杏華さんと同じ大学だから沙絵さんの話を聞くことも多かったし」
「姉と同級生なんですか?」
沙絵の胸中で佐枝への警戒心が強くなった。
(同級生なら家同士の付き合いよりも、ずっと親しい関係なんじゃない?)
先ほどの杏華の不自然で唐突に感じた佐枝の話題。昔一度会っただけなのに親し気に話しかけてきた佐枝の態度。
(もしかして、お姉さんになにか吹き込まれているのかも)
そうだとしたら関わりたくない。考えすぎだとしても、初対面同然の相手に対して必要以上に馴れ馴れしくされるのは好きじゃない。
とくに智成はパーソナルスペースが狭いタイプのようで、やたらと距離を縮めてくる。
沙絵は会話を切り上げて離れようとしたが、佐枝はおしゃべりで上手くタイミングが掴めない。
そのとき、ふと視線を感じた。
辺りを見回すと沙絵から見て左斜めの方向に蒼真が居た。