外れ夫と結婚したのに、気付けば憧れの愛され妻と呼ばれていました
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
蒼真は礼儀正しく謝罪をしてから、沙絵の手を引き足早にホテルのエントランスに向かった。
後ろを振り返らないが、彼の大きな手が、沙絵の小さな手をしっかり掴んでいる。
沙絵よりも二十センチ以上高い長身に、広い背中。彼の後ろ姿を眺めていると、沙絵の心は揺れた。
皆が厄介事に巻き込まれたくなくて遠巻きにしていた中、蒼真は男の前に立ちふさがり沙絵を守ってくれた。
理性的ではない相手に対して怯むことなく堂々と対峙していた姿は、正直言ってかっこよかった。
彼が来てくれてほっとしたし、あのとき頼りにしてしまった。
彼は形ばかりとはいえ婚約者だから、義務感で助けてくれたのだろうか。
(でも、佐枝さんと話しているときは放っておかれた。あのときだって、私が困っていて助けて欲しがっているのが分かったはずなのに)
世間体を考えれば、あのときだって、婚約者として寄り添うべき場面だったのではないだろうか。
彼の考えが分からない。本人的には明確な判断基準があるのかもしれないが、沙絵の目から見ると謎でしかない。
(機嫌が悪くなるきっかけも、優しさをくれるタイミングもよく分からないし)
そんなことを考えている内に、いつの間にかホテルのエントランスを通過し、駐車場に到着していた。
沙絵はここまで電車を利用したが、蒼真は車で来ていたようだ。
蒼真の車を見たことがないから、どこに停まっているか分からない。
周囲を見回しながらしばらく移動すると、白い車の前で蒼真がぴたりと足を止めた。
世界的に有名なドイツの外車。国産メーカに比べると大きな車体のセダンで、洗練された高級感を感じるデザインだ。
想像とは少し違った。
勢いがある新進気鋭のCEOである彼が乗るのは華やかで目立つ車のイメージがあったが、実際は、落ち着いた経営者が乗る車というイメージだ。
蒼真は、振り向くと車に背中を預けるようにした。完璧なバランスの美しい瞳が沙絵に向けられる。
鼓動が跳ねるのを感じながら、沙絵は口を開いた。
「あの、助けてくれてありがとうございました」
きっと冷ややかな眼差しと共に「別に」や「仕方なく」など素っ気ない返事がくると思っていた。
けれど蒼真の反応は沙絵の予想とは違っていた。
「災難だったな」
彼の涼し気な表情から感情を窺うことはできない。けれど声に棘はない。
沙絵は少し安心して、微笑んだ。
「今日は少し不運でした……あの人のことを知っていたんですか?」
「直接は知らないが、悪評は聞いていた。かなり感情的で怒りが抑えられないタイプみたいだから、距離を置いていたんだけどな」
蒼真がそう言って肩をすくめた。
「ごめんなさい、私のせいですね」
沙絵が身を小さくすると、蒼真がどこか呆れたように眉を上げる。
「お前のせいじゃないだろ。あんなところで喚く方がどうかしてる」
「そうですね。でも私を庇ったせいで彼に逆恨みされてしまうかもしれないです。迷惑をかけてしまってごめんなさい」
「迷惑とは思ってない。まあ、もう気にするな。俺の方で対処しておくから、今後の心配もしなくていい」
蒼真は沙絵と違って不安を感じてはいないようだ。言葉通り、対処方法をもう考えてあるのだろう。
「帰るぞ」
蒼真が運転席側のドアを開きながら、沙絵も乗るように目で合図をした。
「は、はい」
(送ってくれるんだ……)
ここまで連れて来られたから予想はしていたが、タクシーで帰るように言われる可能性もあると思っていた。
沙絵は助手席側のドアを開けて、自分では素早いと思う動きで乗り込んだ。
もたもたしていたら蒼真を苛つかせてしまうかもしれないと心配だったのだ。
しかし彼は気を悪くすることも、面倒がることもなく、沙絵の自宅方面に車を走らせた。
車内での会話はあまりなかったが、気詰まりではなかった。
不安を感じない安全運転に、程よいボリュームの音楽。むしろ乗り心地はよかった。
「送ってくれてありがとうございました」
車が自宅前に停車したので、沙絵はシートベルトを外してお礼を言った。
蒼真のことだから、沙絵が降りたらすぐに去ると思っていたが、意外にも彼も車から降りてきた。
「あの……」
まだ何か用があるのだろうか。僅かに首を傾げた沙絵を蒼真が見つめる。
「怖い思いをして疲れてるだろう。ゆっくり休めよ」
「……え?」
(……気遣ってくれてるの?)
思いがけない優しい言葉に、沙絵は驚き瞬きをした。彼がこんな思いやりを見せるなんて、思ってもいなかったのだ。
「早く行け。家に入るまで見てる」
「あ……はい」
沙絵は戸惑いながらも蒼真に言われた通り門から少し距離がある玄関に向かった。
(なんで急に優しいの?……こんなの普通の婚約者みたいじゃない)
今日は彼に失望したはずだった。けれど、そんなことはなかったかのように沙絵の胸は揺れている。
蒼真のことが気になって仕方なく、後ろを振り向いた。彼はまだ車に戻らず沙絵の様子を窺っている。
目が合うと彼の口が動いた。
(おやすみ? そう言ったの?)
心臓がどくんと跳ねる。
「お、おやすみなさい」
沙絵はぺこりと頭を下げると、今度こそ玄関に向かった。
家の中に入り、玄関に背中を預けた。
(なんだか……調子が狂う)
冷たくて素っ気なくて、ビジネス結婚だと言い切る結婚相手。今日だって、彼の言動で失望させられた。
(でも、優しさばかりを思い出す)
沙絵が単純すぎるのだろうか。
分からないが確かなのは、沙絵の中で蒼真への印象がはっきりと変化したことだった。