外れ夫と結婚したのに、気付けば憧れの愛され妻と呼ばれていました
夏休みが終わり沙絵が祖父母宅から自宅に戻ったときは喪失感で苦しかった。
「また来るね」と言った彼女の言葉を信じ再会を待ち望んでいた。
けれどその後、長期休みになっても沙絵が祖父母宅に遊びに来ることはなかった。
たった一カ月だけの思い出。
けれど蒼真にとって幸福でかけがえのない時間だった。間違いなく初恋だった。
当時の蒼真はいつも沙絵のことを考えていた。
彼女と会えなくなり連絡を取る方法もなく何年も経ち、少しずつ記憶が色褪せていったけれど、ふとした拍子に懐かしく思い出す。
だから、沙絵の苗字を聞いた瞬間、心臓が大きな音を立てた。
雪丸運輸との提携に向けて動くという決定をして会議は終了した。
蒼真が個人の執務室に戻ると、理玖が後から追ってくる。ふたりきりになると理玖が探るような目を向けてきた。
「さっき様子がおかしかったけど、友崎社長となにかあるのか?」
仕事ではなくプライベートの質問だった。
表に出したつもりはなかったが、長年の親友だけあって、理玖には隠せなかったようだ。
「まだ分からない。知り合いと同じ苗字だった」
「知り合い?」
理玖は怪訝そうにしながら、応接セットのソファに腰を下ろす。
蒼真は彼の対面の椅子に腰を下ろした。すると理玖がはっとしたような表情で蒼真を見た。
「もしかして初恋の彼女の名前が友崎?」
蒼真は思わず顔をしかめた。
「なに言ってるんだ?」
沙絵との思い出は理玖にだって話していないはずだ。しかし理玖はにやりと口角を上げた。
「なにってお前から聞いたんだけど? ひと夏の美しい思い出」
蒼真は理玖を睨みつけた。
「いつ話した?」
「半年前くらい。蒼真が珍しく酔っ払ったときだよ」
覚えがある。体調が悪いときに接待で飲んだせいか、アルコールがいつも以上に体に回ってしまったのだ。
決して酒が苦手という訳ではないが、年に二回くらいそんなことがある。
失言をしないように気を付けているが、理玖が相手だったことでガードが緩くなり、心の内に秘めていたものを吐き出してしまったのかもしれない。
蒼真は気持ちが沈むのを感じた。自己嫌悪で頭が痛い。
「俺しか聞いてないから安心しろ」
安心できないが、自業自得なので理玖を責めるわけにはいかない。
ため息を吐くと、理玖がタブレットを差し出してきた。
「これを見ろ。会議では出さなかった雪丸運輸について更に深堀りした情報だ」
蒼真はちらりと画面を見た。次の瞬間、時間が止まった気がした。
画面に表示されていたのは、雪丸運輸社長、友崎幸三の家族情報だった。
【次女、友崎沙絵】
(本当に沙絵だったのか!)
胸の奥から何かがこみ上げる。
どんなに再会を願い待ち続けても会えなかった。
だから偶然会う可能性など、ほとんどないと思っていたのに。
遠い過去の記憶が、現実味を帯びて迫ってきているような高揚感に蒼真はごくりと息を飲んだ。
「その様子だと本当に初恋の君なのか?」
「変な呼び方をするのは止めろ」
蒼真は文句を言いながらも否定はしなかったため、理玖は事実を察したようだ。ますます張りきった様子で続ける。
「友崎家に娘はふたりいるな。どっちが蒼真の思い出の彼女なんだ?」
「……次女だ」
蒼真は家族構成の長女の欄に目を遣った。
【長女、友崎杏華】
年齢は沙絵よりも二歳上の二十八歳。蒼真と同学年のようだ。雪丸運輸に就職はせずアパレル業界に入っている。
蒼真は複雑な気持ちで杏華の情報を読んだ。
(姉がいるなんて話は一度もしていなかったよな)
沙絵とは毎日のように過ごし、沢山の話をした。当然家族の話も。
沙絵は父親は仕事で多忙、母親は病気で亡くなったと。祖父母とは久しぶりに再会したが、とても優しくしてくれてうれしいと言っていた。
姉に関しては存在していないかのように、話題にならなかった。
(どうしてなんだ?)
おしゃべりだった沙絵が、姉の存在を一度も口にしないなんてことがあるだろうか。そもそもなぜ沙絵だけが祖父母宅に預けられていたのか。
蒼真が眉根を寄せて考え込んでいると、理玖が「いい考えがある!」と声を高くした。
「いい考え?」
「ああ。友崎家との提携を成功させるために、縁談を申し込んだらどうだ? 政略結婚っていうやつだ」
蒼真はすっと表情を消した。
と言うのも、とにかく複雑な心境になったからだ。
政略結婚など自分とは何ら関係のないことだと思っていた。他企業との提携はあくまでビジネス。そこにプライベートを持ち込むつもりは一切なかった。
しかし沙絵との縁談だと思うと、悪くない、むしろ前向きな気持ちになったのだ。
黙り込んだ蒼真の様子を伺いながら理玖が続ける。
「うちのCEOと友崎家の社長令嬢が親戚になれば、間違いなく提携が成功する。ヴィアスペースの弱点を補強し、蒼真の初恋も実る。一石二鳥ってやつだ」
理玖はこれ以上の案はないというように、自分の提案に満足している。
「提携の条件が結婚? 馬鹿な事を言うな」
「どこが? 合理的な判断じゃないか。初恋をこじらせて、まともに恋愛をできない蒼真にとってもいい話だろ?」
「俺は別に初恋をこじらせてなんていない。ただ気に入る相手がいないだけだ」
「じゃあ嫌なのか?」
蒼真は返す言葉に詰まった。
その様子を見た理玖がにやりと笑う。
「決定だな」
蒼真はひそりと息を吐いた。
(落ち着こう)
これは仕事だ。余計なことを考えて惑わされてはいけない。
そう言い聞かせるが、理玖を止める言葉はどうしても出てこなかった。