外れ夫と結婚したのに、気付けば憧れの愛され妻と呼ばれていました

翌日。沙絵は仕事中に体調を崩して昼過ぎに早退することになった。

最近悩みが多くてよく眠れないでいた影響が出たようだ。

ふらふらしながら自宅に戻り、軽くシャワーを浴びてベッドに入ると、気絶するように眠りに落ちた。

目が覚めると、外はすっかり暗くなっていた。

時計を見ると午後七時を過ぎている。

「ずいぶん長く寝ちゃったな……」

おかげで頭の中は大分すっきりしている。沙絵はベッドから降りて部屋を出てリビングに向かった。

空腹だから簡単なものでも作るつもりだった。

ところが誰もいないはずのキッチンには蒼真が居た。

(えっ、料理してるの?)

沙絵は驚きもう一度時計を見た。先ほどと大して変わらない。時計の針は七時を回ったところだ。

気配に気づいたのか背中を向けていた蒼真が振り向いた。

「起きたのか」
「う、うん。蒼真さん、なにしてるの?」

同居してから彼が料理をしているところを見たことがない。だから沙絵は彼が料理ができないのだと思っていた。

「夕食をつくってる」
「どうして急に? 今日はどうしてこんなに早いの?」

沙絵は思わず首を傾げた。今夜の蒼真の行動は本当に不可解だ。

「沙絵が体調を崩したと聞いたから、仕事を切り上げてきた。さっき様子を見に行ったら熱はない様子だったから食事を取れると思って準備していた」

完全に予想外の返事だった。

「でもどうして私が体調を崩したことを知っているの?」

沙絵は蒼真には何も伝えていないのに。

「電話をしてもずっと電源がオフになっていて、おかしいと思ったんだ。それで会社の電話にかけたら、沙絵が早退したと言われた」
「だから心配して早く帰ってきてくれたの?」

驚いた。同時に心が温かく満たされていく。沙絵は優しい喜びをかみしめた。

「心配してくれてありがとう」
「ああ。顔色は悪くないけど、まだゆっくりしていた方がいい。座っていて」

蒼真の眼差しは思いやりに溢れ優しかった。

沙絵は彼の善意に甘えて、ソファに座り夕食が出来上がるのを待っていた。

十五分後、ダイニングテーブル上に、胃に優しそうな料理が並んだ。

鶏肉と卵の雑炊と、ホウレンソウのおひたし。シンプルながらも今の沙絵が求めていたメニューだ。

濃すぎない味も気分にぴったりだった。

なにより蒼真が沙絵の為につくってくれたことがうれしい。

疲弊した心がじわりと癒されていくような気がした。

ほっとしながら食後のお茶を飲んでいると、蒼真が改まった様子で声をかけてきた。

「少し話してもいいか?」

沙絵の心臓がドクンと跳ねた。

「大丈夫だけど」

(話って、婚約者後退のこと?)

まさか彼も杏華との結婚を望んでいるのだろうか。

「最近元気がないけど、なにか困ってることがあるのか?」
「え?」

予想とはまったく違う話題だった。

「もし悩みがあるなら話してくれないか? 力になれるかもしれない」

蒼真の口ぶりと眼差しは真剣なものだった。本当に沙絵を心配しているのが伝わってくる。
沙絵の心はぐらりと揺れた。

(お姉さんのことをどう思っているのか聞いてもいい?)

ずっと聞きたくて、でも勇気が出なかった。

今だって怖い。でも思いがけない彼の優しさが沙絵を勇気づけた。

迷いはほんの僅かな時間で、沙絵は決心して蒼真を見つめた。

「お姉さんから、婚約者の交代をしたいと言われたの」
「は? 婚約者の交代って、どういうことだ?」

蒼真は杏華からまだ何も聞いていいないようだった。その証拠に、顔色を変えるほどの驚きを見せた。
沙絵はその反応に勇気づけられて言葉を続ける。

「蒼真さんとお姉さんが婚約を結び、私は高月さんの婚約者に。お姉さんは相手を交換したいと主張している。私には蒼真さんも望んでいるって言ってたわ」

蒼真の顔色が目に見えて悪くなっていく。

「あり得ない。そんな話は聞いたことがないし、俺は認めない」

彼の声は掠れていたが、はっきりといた意志を感じるものだった。

「蒼真さんは、お姉さんを気に入っているんじゃないの? 毎日連絡を取り合ってるのは好意を持っているからじゃないの?」
「彼女が沙絵の家族だから相談に乗っていただけだ。特別な感情なんてない」

その瞬間、沙絵の強張っていた体から力が抜けていった。

(よかった……結局はお姉さんが勝手に言ってただけだったんだ)

蒼真にとっては、親族付き合い。義務のようなものだったのだ。

沙絵の心を苛んでいた憂鬱さが、すっと消えていくようだった。

けれど蒼真の方は先ほどよりも浮かない表情だ。

「最近元気がなかったのは、俺が原因だったんだな」

罪悪感を抱いているような彼の声を聞いた沙絵は慌てて否定した。

「違うよ。私がお姉さんに惑わされただけだから。蒼真さんは悪くないから」
「でも、沙絵が惑わされたのは俺に信用がないからじゃないのか?」
「信用してないわけじゃないんだけど……」

沙絵はそれ以上言葉が続かず口ごもった。

確かにふたりの間には、何かあったときにお互いを信じあえるような絆がない。

「……政略結婚だから仕方ないよ」

少し迷ってから沙絵は淡々と言った。

顔には出さないながらも、切なさがくすぶる。

本当はこんな寂しい関係は終わりにしたい。本当の気持ちを伝えて彼ともっと心を寄せ合えたら。

婚約者なのだと胸を張って言えるようになれたら。

(でもそこまで望むわけにはいかないよね)

結婚の経緯を思い出すと、本音を飲み込むしかない。

蒼真も同じような気持ちなのか、沈黙が続く。

けれどしばらくすると、蒼真が口を開いた。

「今回の件は曖昧な態度を取っていた俺の責任だ。これ以上の誤解を招かないように責任を持って対処する」
「うん。そうしてもらえると助かる。これ以上放っておいて婚約者交代なんて噂になったら、会社としてもよくないから」

沙絵は胸の痛みを隠して、物分かりよく事を納めることを選ぶしかなかった。

「分かってる。だけど会社のことより前に、沙絵との関係をはっきりしておきたい」
「私との関係?」

沙絵は戸惑いながら蒼真を見つめた。彼は真剣な目で沙絵を見つめている。

「ああ。俺はこの結婚をただの政略結婚で終わらせたくない。お互いを想い合い唯一無二の存在になる。そんな夫婦になりたいんだ」
(唯一無二の存在)

その言葉が耳に届いた瞬間、沙絵は息が止まるような衝撃を受けた。

言葉の意味を飲み込むにつれて、鼓動が高く早くなっていく。

「……私でいいの?」

半信半疑で問う声は掠れていた。

蒼真は少しの躊躇いもなく頷き、懇願するような目を沙絵に向けた。

「夫として誠実に尽くし、どんなときでも沙絵の味方でいると誓う。だから沙絵も、俺をひとりの男として見てくれないか?」

沙絵は信じられない思いで蒼真を見つめていた。

彼がこんな……心を打つ告白をしてくれるなんて思ってもいなかった。

けれど同時に、これまでの蒼真の言動が脳裏を過った。

冷たく素っ気ない機嫌が悪い俺様な態度。でも困ったときは守ってくれた少し分かりづらい優しさ。

(今日だって心配して早く帰ってきて、料理をしてくれた)

それは世間体や義務感ではなく、彼の真心だったのだ。

素直に受け止めたら、彼は沙絵に愛情を向けてくれていた。

それなのに沙絵は自分に自信がなくて、悪い方ばかりに考えていた。

でも今こそ勇気を出して素直になりたい。

沙絵は覚悟を決めて蒼真に向き合った。

「私も同じ気持ちです。蒼真さんと本当の夫婦になりたい」
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