外れ夫と結婚したのに、気付けば憧れの愛され妻と呼ばれていました
妊娠が分かってから三日後。沙絵は強い腹痛を感じて不安になり、再び産婦人科を受診した。
胎児に問題はなく妊婦でも飲める薬を貰うだけで済んだ。
(赤ちゃんにどうかしたのかと思って怖かったけど、大げさに騒ぎ過ぎたかも)
妊娠中の過ごし方など、早く調べた方が良さそうだ。
(大したことがなくてよかったな)
ほっとしながら待合室に向かい会計を済ませる。全て終わったそのとき、思いがけなく杏華と会った。
「沙絵? あんたどうして産婦人科にいるの?」
「それは……お姉さんことどうして?」
「私は乳がんと子宮がん検査にきたのよ。高月家から言われて仕方なくね。でも沙絵は違うわよね……まさか、あんた妊娠してるの?」
鋭い杏華の指摘を受けて、沙絵は誤魔化すことができず顔に出してしまった。
「……本当なの?」
杏華の顔色ががらりと変わった。怒りからか頬が紅潮し、まるで何かの敵を見るような目で沙絵を睨む。あまりに過剰な反応だ。
沙絵は訳が分からず、けれど嫌な予感でいっぱいになり後ずさった。
「わ、私、急いでるから」
早くこの場から去りたい。本能のまま沙絵は踵を返して杏華から離れようとした。
けれど杏華は驚く程素早く、沙絵の腕を掴んだ。
「ちょっと来なさい!」
「えっ?」
杏華は驚く程の力で沙絵をひっぱり出口に向かう。
「離して。私、まだ薬を受け取ってなくて……」
「薬なんて後でいいでしょ!」
本当に訳が分からなかった。杏華の身勝手は今に始まったことではないが、今の彼女はなにかに急き立てられているかのように見えるのだ。
抵抗したかったが、お腹の子供が心配で無理ができなかった。
杏華が向かったのは病院の駐車場だった。目を引く赤いスポーツカーのロックを解除して助手席に沙絵を押し込む。自分は運転席に座ると、取りつかれたような目で沙絵を見つめた。
「お、お姉さん、本当にどうしたの?」
豹変は異常に鋭い勘で沙絵の妊娠を察してからだ。
(私が妊娠しているのが気にいらないってこと? でもどうして……)
「妊娠してること誰に話したの?」
「え……まだだけど。お父さんにはもう少し安定してから伝えようと思って」
「蒼真君は?」
「今、海外出張中だから」
そう答えた瞬間、杏華の目が輝いた。
「ねえ、本当にどうしたの? 今日、なんだか変だよ?」
杏華の行動が突飛なのはいつものことだが、なにか根本的に違う気がする。
険しい表情で黙り込んでいた彼女は、考えをまとめたのか沙絵を改めて見つめた。
静かな瞳にたしかな冷酷さを感じて、沙絵の背中は粟立った。
杏華はもう怒鳴らなかった。
「ねえ……今すぐ消えてくれない?」
彼女はとても落ち着いている。沙絵は恐怖を覚えて息を飲んだ。
いつものように怒鳴ってくれた方がましだと思った。静かな今の方が逆らうのは危険だと感じる何かがある。
それでも、そんな無茶苦茶な要求に従えるわけがない。
「無理なことを言わないで。お姉さん少し混乱しているみたいだわ。私帰るからお姉さんも帰って休んで」
そう言って助手席のドアを開けようとする。けれど杏華がロックをした。
(まさか監禁する気?)
「ねえ沙絵、私はお願いしてるんじゃないの。命令しているのよ」
「命令って……どうして私がそんな理不尽な命令に従わなくてはいけないの?」
「従わないのなら、ヴィアスペースと雪丸運輸が無事ではいられないわよ?」
「……え?」
沙絵は信じられない思いで杏華を見つめた。
彼女はもうよく知っている我儘な姉ではない。全くの別人のように感じる。
「ど、どういうことなの?」
「言葉の通りよ。沙絵が私より先に妊娠するなんて許せない。今すぐ下ろすか、ここから出て二度と戻らないか決めて」
「そんなことできるわけないでしょ!」
沙絵はかっとして声を荒げた。
(私が先に妊娠するのが許せない?)
なんて身勝手でくだらない理由なのだろう。
聞き入れる必要なんてない。当然突っぱねたが、杏華はぞっとするような笑みを浮かべる。
「私に従わないなら、あんたが大切にしている雪丸運輸は終わりよ。大好きな蒼真君が必死に築き上げたヴィアスペースだって耐えられるか分からないわね」
「一企業をお姉さんの気分で潰せるわけがないわ」
「高月グループの力があればできるわよ」
「私怨で他企業を攻撃したら、高月グループだって無事じゃ済まない。あり得ないわ」
強気で反論しながらも杏華の自信に溢れた表情を見ていると不安がぬぐえない。
「それがあり得るのよ。孝也は私の言う通りにするって約束しているの。信じられないなら試してみる? でもそのときはまず雪丸運輸が終わるわ。実のお母さんの大切な会社なんでしょ? 沙絵のせいで潰れてもいいの?」
それは間違いなく強迫だった。卑劣で身勝手。けれど効果は抜群だった。
杏華の言っていることが本当だとは思えない。けれど試す勇気なんてない。
「私が先に妊娠したからって、そこまでするの?」
「当然よ。あんたにはなにひとつ譲る気がないから。あんただけいい思いをさせないわよ」
杏華の目を見ていると、言葉の全てが本心なのだと思った。
なぜここまでライバル視され憎まれているのか分からない。沙絵は子供の頃からずっと杏華の我儘に耐えて、譲ってきたのに。
沙絵の方が我儘な杏華を嫌っているはずだった。けれど違った。沙絵が思う以上に、杏華の憎悪は大きい。
「明日までに返事をして。明後日までに実行して」
「無理よ! 蒼真さんに黙って出て行けって言うの? それに仕事を放って出て行ける訳がないでしょ?」
「当然蒼真君にもお父さんにも相談することは許さないわ。全部黙って実行して」
杏華がドアのロックを解除した。
沙絵は震える手でドアを押し開けて車を降りる。次の瞬間、杏華はエンジンをかけて駐車場を飛び出して行った。
(どうして……)
沙絵はショックのあまり覚束ない足を無理やり動かして、病院を出た。