外れ夫と結婚したのに、気付けば憧れの愛され妻と呼ばれていました
混乱したまま自宅に戻り、ノートパソコンを開いた。
高月グループについての情報を集める。
(本当にヴィアスペースを潰すほどの力があるの?)
旧財閥だとしても、世界展開をしているような企業に手を出すのは無理ではないだろうか。
けれどネットで調べられる情報なんてたかが知れている。
結局、答えなんて得られるわけがなかった。
ただ、高月家は戦前から続く名門で、有力家系との婚姻を繰り返しその人脈は政治家など一般人では考えられないほど広がっている。
家系図を遡れば皇族が降嫁しているような名門だ。
(できるかもしれない……)
企業を潰すのは正々堂々とした手段に限らない。ライバルを蹴落とすためには汚い手を使う人間なんていくらいでもいる。高月グループだって例外ではないはずだ。
ヴィアスペースすら倒れてしまうなら、雪丸運輸なんて像がありを踏み潰すようなものだろう。
それでも決断できなかった。
蒼真と離れるなんてできない。だからと言って子供を降ろすなんて沙絵にはできない。
結論が出ないまま眠れない夜を過ごした。
翌朝重い体を動かして支度をしていると、蒼真から連絡が入った。
《おはよう。昨日は電話できなくてごめんな》
蒼真はホテルにひとりでいるようだった。窓の外にロンドンの街並みが見える。
彼の顔を見た瞬間、昨日から張り詰めていた心が緩んで思わず涙が滲んでしまった。
《沙絵? どうしたんだ? 具合が悪いのか?》
画面の向こうで蒼真が慌てふためている。
「……大丈夫、なんでもないよ。ただ寂しくなっただけ」
蒼真はきょとんとした顔をしたが、すぐに満面の笑みに変わっていった。
《寂しい思いをさせてごめん》
「ううん」
《沙絵を泣かせたくないけど、うれしいと思ってしまったな。沙絵が俺と離れて寂しいなんて言ってくれると思わなかった》
「寂しいよ……」
(蒼真さんがいないところで私は生きていけるのかな)
もう彼が生活の一部だった。この先の人生をずっと寄り添って歩むと信じていたのだ。
《俺も沙絵が恋しいよ。でも本当にごめん。少し仕事で問題があって出張が数日伸びそうなんだ。本当にごめんな》
なにも知らない蒼真は、心から申し訳なさそうな声で言う。
「新しい取引先との契約が上手くいきそうにないの?」
「いや違うんだ。他ブランドでもヴィアスペースでの独占契約が結べそうなんだ。明日打ち合わせをしてくる。これが決まればうちは更に飛躍できる」
蒼真の声は弾んでいた。彼がこの仕事にどれだけの熱意を持っているのかが伝わってくる。
はっきり聞いたことが有るわけではないが、沙絵は蒼真が仕事に対して非常に貪欲で上を目指していることに気付いていた。そんな彼を応援したいと思っていた。
「私のことは気にせず仕事に集中して」
《沙絵のことを気にしないなんて無理に決まってる。仕事を片付けたらすぐに帰る。休みをとってふたりでゆっくり過ごそう》
蒼真は甘い笑みで未来の約束をする。
沙絵は答えられずに曖昧に頷いた。
蒼真との電話を終えた沙絵の迷いは、より一層深くなっていた。
蒼真の仕事を守りたい。でも離れたくない。
心が定まらないまま、沙絵は家を出た。
雪丸運輸に出社して、いつものように担当業務を熟す。
社長令嬢ということもあり、沙絵の元には社内での情報アクセスに高い権限を持っている。
昼過ぎ、車両事業部から衝撃的な報告が届いた。
「……車が出せなくなった?」
報告書を読んだ沙絵は、信じられない思いで掠れた声を出した。
記事によると、城東の車庫に停めてあったトラックからホイールが盗まれて、配送予定に支障が出ているとのことだった。
沙絵はマウスを掴む手が震えるのを抑えられなかった。
ただの車上荒らしかもしれない。けれど沙絵の勘が違うと告げていた。
昨日の杏華の目は普通ではなかった。沙絵に向ける目には怨念が籠っていた。
(もしお姉さんの仕業だとしたら……)
これは沙絵に対する警告ではないだろうか。従わなければ雪丸運輸をもっと攻撃すると。
沙絵は深く深呼吸をした。
(落ち着かなくちゃ)
こんなときこそ冷静に考える必要がある。まだ杏華が絡んでいると決まっている訳ではないのだから。
しかしタイミングを見計らったように、杏華からメッセージが届いた。
【トラックの件は警告よ。よく考えて今日中に返事をしなさい】
沙絵の心臓が狂ったように音を立てた。
スマホを持つ手が震えて止まらない。
(お姉さんは本気だ)
雪丸運輸は今日のようなトラブルが続いたら耐えられない。蒼真の会社だって、こんな犯罪まがいの手を使われたらどうなるか分からない。
杏華の後ろには高月グループがいるのだ。
沙絵は焦燥感にかられながら返信を打つ。
【分かった。でもすぐには出ていけない。仕事だって急に辞めたら迷惑をかける】
すぐに既読がついた。
【会社のことは私からお父さんに伝えるから大丈夫よ。社員がひとりいなくなるくらい問題ないわ】
杏華の言う通りだ。寂しいことだが、会社は沙絵がいなくても問題なく回っていく。
それでも胸が痛くなるのを抑えられなかった。
これからどうするのか。具体的な計画が有るわけではないが、沙絵は何かに突き動かされるように私物を纏めてエコバッグに詰めた。
パソコンの中身を整理して、定時と共にオフィスを出る。
自宅に戻ると一番大きなキャリーケースを取り出して、必要最低限のものを詰めた。
杏華に言われるがまま出ていくのが正しいのかまだ迷いがある。
でも、今の彼女は正常ではない。このまま無視をしたら会社だけではなく、お腹の子まで狙ってくるかもしれない。そう思うくらいの敵意を感じて、沙絵は混乱していた。
父は当てにならない。訴えたところで、誤解があると沙絵を宥めて曖昧なまま収めようとするのが目に見えている。
そして蒼真は……。彼はきっと沙絵を信じて動いてくれる。でも高月グループを相手にして彼に犠牲を払わせる訳にはいかない。
沙絵は手早く荷物を纏めると、脱力して崩れ落ちた。
先日断捨離をしたばかりの部屋に、沙絵の荷物は少ない。蒼真に買って貰った服がクローゼットにかかっているだけだ。
これからの生活の中で、新しいものを揃えていきたいと思っていたのに。
しばらく座り込んでいた沙絵は、ゆっくり立ち上がると、便箋を取り出した。
【結婚できなくなりました。家を出ます。約束を守れなくてごめんなさい。でも探さないでください】
あまりに素っ気ない文面だが、それしか伝えることができなかった。かといって黙って出ていったら蒼真は手を尽くして探そうとするだろう。
沙絵の我儘で出て行ったと思ってもらった方が彼の為だ。
封筒に入れて全てを整えると、杏華にメッセージを送った。
【今から家を出ます。これで満足?】
【満足よ。二度と戻らないで】
待ち構えていたのか。すぐに返信があった。
杏華がなぜここまでするのか結局理解できなかった。でもそれももうどうでもいいことだ。
沙絵はキャリーケースを持って家を出た。