外れ夫と結婚したのに、気付けば憧れの愛され妻と呼ばれていました
9 月日が流れて
置手紙ひとつ残して家を出てから一年半が経った。

あの後、沙絵は母方の祖父母を頼って、埼玉西部の小さな町に移り住んだ。

ここは沙絵が幼い頃、何度か訪れたことがあり、僅かながら土地勘があった。何より杏華との関わりがない。

父が聡子と再婚してからは、祖父母との交流も激減しており、沙絵が身を寄せるにはぴったりの場所だった。

殆ど身ひとつで転がり込んだ沙絵を、祖父母は優しく受け入れて、シングルマザーとして出産するという沙絵の決心を応援してくれた。

沙絵は同年の七月、妊娠三十四週で双子の赤ちゃんを出産し、祖父母の助けを借りながら双子を育てている。

長男は智(さと)司(し)。長女は泉(いず)美(み)と名付けた。生まれたときはとても小さく、一カ月ほど保育器に入った双子だが、生後八か月になる今は健康そのもので、家の中をハイハイで駆け回っている。

子育ては想像していた以上に大変で、何度もくじけそうになったけれど、子供たちの顔を見ていると、どんなに辛いときでも頑張ろうと思える。

沙絵にとって心の支えになっていた。

「すみません、遅くなりました!」

沙絵は午後五時ぎりぎりに保育園に駆け込んだ。

「お帰りなさい」

いつも双子の面倒を見てくれる保育士の牧田先生が笑顔で迎えてくれる。彼女は沙絵よりも一回り年上で園内ではベテランだ。

聡志も泉美も牧田先生が大好きで懐いているので、沙絵も安心して預けている。

「マーマ―」

沙絵に気付いた双子が、興奮したような声を上げる。

あと少しで一歳の誕生日を迎える双子は、ひと月前から簡単な単語を話しはじめ、最近とてもおしゃべりになっている。

沙絵の顔を見ると「マーマー」や「マンマ」としきりにアピールをしてくるのだ。

ひな鳥のようなその姿は本当に可愛くて、どんなに疲れているときも頑張ろうと思う。

「聡志、泉美、お待たせ」
「ままあ!」
双子がよちよちと近づいてくる。二人とも同じ月齢の子に比べて身長が高く、成長が早い。
走り出すまでそう時間はかからないだろう。

「ただいま~」

沙絵は智司と泉美を連れて、祖父母宅に帰宅した。

祖父母宅は古いが部屋数には余裕があるので、二階の二部屋を沙絵と双子の為のスペースとして使わせてもらっている。

「みんなお帰り」

祖父母が夕食の準備をしながら待っていてくれた。

「じじー」「ババ―」

祖父母が大好きな双子は、迎えに来てくれた祖父母にそれぞれ甘えている。

沙絵は双子の相手を祖父母に任せて、素早く手を洗い台所に入った。

祖母が下ごしらえをしてくれていた食材を使い、夕食を仕上げていく。

今日のメニューは、柔らかい野菜の煮物と魚の干物。豆腐の味噌汁だ。

大きな鍋に野菜を入れていると、祖母も台所にやってきた。

「沙絵、手伝うわよ」

「ここは大丈夫。おばあちゃんはゆっくりしていて」

高齢の祖母にあまり無理はさせたくなくて遠慮した。しかし祖母はどこか浮かない表情で沙絵の隣に立った。

「ねえ沙絵、聡志と泉美ももう一歳になるわね」
「うん、来週の誕生日は家でパーティーをしてあげようと思ってる。おばあちゃんも参加してね」

祖母は楽しみにしていると微笑んでくれると思っていた。ところが彼女は憂い顔で思いがけない言葉を口にした。

「あの子たちの父親……日堂さんには本当に知らせなくていいの?」

祖母の声は気遣うようなものだったが、それでも沙絵の心臓はきりりと痛んだ。

「……いいの。彼は私のことを怒ってるだろうから。今更子供を産んだなんて知らせたら困らせるだけだよ」

突然の別れから一年半が経ったが、沙絵は蒼真のことを一度も忘れたことがない。

そして、深い罪悪感を抱いている。

杏華に脅されたとはいえ、沙絵の行動は蒼真を酷く傷つけただろう。約束を破ってしまった。

今でも思い出すと胸が痛い。あの頃の記憶が悪夢となって、夜中に何度も目を覚ます。

それでも、間違っていたとは思わない。

沙絵が家を出てからすぐに、ヴィアスペースにコンプライアンス違反の恐れがありと、大々的に報道がされた。その騒動で蒼真は新たな取引先を失った。

時間と共に鎮静化したが、沙絵はその騒動の原因が杏華にあるのではないかと疑っていた。

あれは、沙絵が戻らないよう、脅しのメッセージだったのではないか。それ以降の報道がないため、どうやって収束したのか詳細は分からない。

それでも沙絵は蒼真の元に戻るつもりはなかった。

きっと彼は新しい暮らしを始めている。邪魔をしたくはなかった。

けれど祖母は納得がいかないようだった。

「でも、彼は沙絵をここまで探しにきていたじゃないか?」

沙絵の脳裏に当時の記憶が蘇り、胸を抉った。

沙絵が家を出た一か月後。どうやって見つけたのか、蒼真が祖父母を訪ねてきたのだ。

沙絵は酷く動揺しながらも、祖父母に沙絵は来ていないと嘘をつくように頼み込んだ。

祖父母は躊躇いながらも、沙絵の必死な様子を見て、聞き入れてくれた。

蒼真は町のホテルに数日祝迫してから、東京に帰って行った。

沙絵はそれからもしばらくの間は、自宅から出られずに引きこもったのだ。

不安は続いたが、この町に沙絵はいないと判断したのか、それ以降は蒼真が訪れることはなかった。

「もう一年以上前の話だよ。きっともう忘れてる」
「そんなことないよ。やっぱり連絡をした方がいいんじゃない? 子供たちも父親と会いたいと思っているよ」

今日の祖母はいつになく執拗だ。沙絵はぎゅっと手を握り締めた。

子供たちの父親を沙絵の勝手で奪ってはいけないと分かっている。

(でもまだ早い)

杏華は沙絵が先に子供を産むことに対して病的なほど拒否感を持っていた。

その杏華は孝也と一年以上前に孝也と盛大な結婚式を上げたが、出産したという話は聞いていない。

危険が去ったわけではないのだ。今戻るのは危険すぎる。

「おばあちゃん、ごめんね。でももう少し見守っていてほしい」

祖母は残念そうにしながらも、それ以上は何もいわなかった。
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