たそがれ色のカフェオレ
第三章 脈あり、脈なし、脈あり
恋をすると、世界が変わる——と、よく言う。
嘘だ。世界は何も変わらない。変わるのは自分の方だ。それも、ろくでもない方向に。
まず、陽菜多は毎朝、鏡の前で三十分悩むようになった。二十歳の女子大生が、四十六歳の男の人に「素敵だな」と思ってもらえる服とは、いったい何なのか。大人っぽいワンピースを着てみれば、七五三みたいだと鏡の中の自分が言う。いつものパーカーだと、子供だと思われる気がする。
次に、講義が頭に入らなくなった。近代文学のノートの隅には、気がつくとコーヒーカップの落書きが増えていく。教授が「恋愛小説において、年齢差というものは」と言っただけで、心臓が跳ねた。教授はただ、漱石の話をしていただけなのに。
そして——これがいちばん重症なのだが——「小暮さんは私をどう思っているか」を推理することに、一日の思考の八割を費やすようになった。
証拠その一。小暮さんは、陽菜多が来ると、レコードをかけ替える。ジャズから、少し明るめのボサノヴァに。
——これは、脈あり、では?
証拠その二。テスト期間中に一週間行けなかったとき、次に顔を出したら、小暮さんは「おっ」と言った。「おっ」だ。そして「久しぶりだね」と言って、頼んでもいないのに、トーストに蜂蜜を多めにかけてくれた。
——これは、かなり、脈あり、では?
証拠その三。でも小暮さんは、常連の田口のおじいちゃんが来ても「おっ」と言う。蜂蜜は、たぶん田口さんのトーストにも多めにかかっている。
——脈、なし……。
「……というのを、毎晩ベッドの中でやってるわけ」
真弓は、ため息をついて、ストローでアイスティーをかき回した。六月の学食は蒸し暑くて、二人ともぐったりしていた。
「あのねえ、陽菜多。はっきり言っていい?」
「やだ」
「言うけど。——相手は四十六よ。あんたが生まれたとき、もう二十六。社会人。下手したら、あんたのオムツ替えられる年よ」
「オムツの話はしないで」
「本気なの?」
真弓の声が、ふいに真剣になったので、陽菜多は顔を上げた。
「遊びで聞いてるんじゃないの。あんた、その人と、どうなりたいの? 付き合いたいの? 結婚したいの? 相手が六十のとき、あんたはまだ三十四よ。そういうこと、考えてる?」
「……考えてるよ」
陽菜多は、小さな声で言った。
「考えてる。毎晩考えてる。考えて、考えて、考えるほど、無理だってわかるの。小暮さんには奥さんの思い出があって、私なんか、きっと『若いお客さん』で、それ以上でも以下でもなくて。年の差のことだって、世間は絶対、変な目で見るし。お父さんとお母さんは泣くだろうし。でもね、真弓」
「うん」
「理屈で消せる火なら、とっくに消えてるよ」
真弓は、しばらく黙っていた。それから、アイスティーを一気に飲み干して、言った。
「——わかった。応援する」
「え?」
「あたしの戦歴に、参謀としての勝ち星をひとつ追加してあげる。ただし条件がひとつ」
「な、なに?」
「泣くときは、あたしの前で泣くこと。一人で泣くのは、なし」
陽菜多は、じわっと目頭が熱くなるのを感じた。まだ何も始まってもいないし、何も終わってもいないのに。
「……うん。約束する」
恋する女子大生に必要なのは、素敵な服でも、大人っぽい香水でもなく、こういう友達なのだった。
嘘だ。世界は何も変わらない。変わるのは自分の方だ。それも、ろくでもない方向に。
まず、陽菜多は毎朝、鏡の前で三十分悩むようになった。二十歳の女子大生が、四十六歳の男の人に「素敵だな」と思ってもらえる服とは、いったい何なのか。大人っぽいワンピースを着てみれば、七五三みたいだと鏡の中の自分が言う。いつものパーカーだと、子供だと思われる気がする。
次に、講義が頭に入らなくなった。近代文学のノートの隅には、気がつくとコーヒーカップの落書きが増えていく。教授が「恋愛小説において、年齢差というものは」と言っただけで、心臓が跳ねた。教授はただ、漱石の話をしていただけなのに。
そして——これがいちばん重症なのだが——「小暮さんは私をどう思っているか」を推理することに、一日の思考の八割を費やすようになった。
証拠その一。小暮さんは、陽菜多が来ると、レコードをかけ替える。ジャズから、少し明るめのボサノヴァに。
——これは、脈あり、では?
証拠その二。テスト期間中に一週間行けなかったとき、次に顔を出したら、小暮さんは「おっ」と言った。「おっ」だ。そして「久しぶりだね」と言って、頼んでもいないのに、トーストに蜂蜜を多めにかけてくれた。
——これは、かなり、脈あり、では?
証拠その三。でも小暮さんは、常連の田口のおじいちゃんが来ても「おっ」と言う。蜂蜜は、たぶん田口さんのトーストにも多めにかかっている。
——脈、なし……。
「……というのを、毎晩ベッドの中でやってるわけ」
真弓は、ため息をついて、ストローでアイスティーをかき回した。六月の学食は蒸し暑くて、二人ともぐったりしていた。
「あのねえ、陽菜多。はっきり言っていい?」
「やだ」
「言うけど。——相手は四十六よ。あんたが生まれたとき、もう二十六。社会人。下手したら、あんたのオムツ替えられる年よ」
「オムツの話はしないで」
「本気なの?」
真弓の声が、ふいに真剣になったので、陽菜多は顔を上げた。
「遊びで聞いてるんじゃないの。あんた、その人と、どうなりたいの? 付き合いたいの? 結婚したいの? 相手が六十のとき、あんたはまだ三十四よ。そういうこと、考えてる?」
「……考えてるよ」
陽菜多は、小さな声で言った。
「考えてる。毎晩考えてる。考えて、考えて、考えるほど、無理だってわかるの。小暮さんには奥さんの思い出があって、私なんか、きっと『若いお客さん』で、それ以上でも以下でもなくて。年の差のことだって、世間は絶対、変な目で見るし。お父さんとお母さんは泣くだろうし。でもね、真弓」
「うん」
「理屈で消せる火なら、とっくに消えてるよ」
真弓は、しばらく黙っていた。それから、アイスティーを一気に飲み干して、言った。
「——わかった。応援する」
「え?」
「あたしの戦歴に、参謀としての勝ち星をひとつ追加してあげる。ただし条件がひとつ」
「な、なに?」
「泣くときは、あたしの前で泣くこと。一人で泣くのは、なし」
陽菜多は、じわっと目頭が熱くなるのを感じた。まだ何も始まってもいないし、何も終わってもいないのに。
「……うん。約束する」
恋する女子大生に必要なのは、素敵な服でも、大人っぽい香水でもなく、こういう友達なのだった。