たそがれ色のカフェオレ

第四章 シリウスに黒い雲

異変に気づいたのは、七月の初めだった。

 その日、店に入ると、空気が違った。小暮さんはいつも通り「いらっしゃい」と言ったけれど、カップを拭く手が、止まっては動き、動いては止まった。カウンターの隅に、見慣れない封筒が置いてあった。分厚い、事務的な感じの封筒。差出人のところに〈東邦アーバン開発株式会社〉と印刷してあるのが、ちらりと見えた。

「陽菜多ちゃん、今日はレポート?」

「あ……はい。あの、小暮さん、何かあったんですか?」

「ん? なんで?」

「だって、レコード、かかってないから」

 小暮さんは、はっとしたように壁の棚を見て、それから、降参、というふうに苦笑いした。

「……観察力あるね、陽菜多ちゃんは」

 話はこうだった。

 この商店街の一帯に、再開発の計画が持ち上がっている。駅前から続く古い区画を取り壊して、十四階建ての複合ビルを建てる。地権者への説明はもう始まっていて、はんこを押した店も、ぽつぽつ出てきている。

「うちはね、借地なんだ。地主の榊原さんが『小暮ちゃんが続けたいなら、わしは売らん』って言ってくれてるんだけど……先週から、入院しちゃってね。息子さんの代になったら、たぶん、売る。あの人は昔から、この商店街を『しみったれた通り』って呼んでたから」

「そんな……」

「まあ、時代の流れってやつだよ」

 小暮さんは、笑おうとした。でも、その笑顔は、いつもの目尻の皺まで届いていなかった。

「この店はさ、女房との約束で建てた店だから。ここがなくなるってことは——なんて言うのかな。あいつの席が、この世からなくなるってことなんだよね」

 陽菜多は、窓際の席を見た。シリウスがいつも寝ている、あの席。あそこが、奥さんの席だったのだと、そのとき初めて気がついた。

 その夜、陽菜多は眠れなかった。

 布団の中でスマホを握りしめ、〈東邦アーバン開発〉を検索した。〈商店街 再開発 反対〉を検索した。〈借地権 立ち退き〉を検索した。法律の言葉は難しくて、半分もわからなかった。

 でも、ひとつだけ、わかったことがある。

 ——私は、小暮さんの「若いお客さん」のままでいたくない。

 好きだと言う勇気は、まだない。ないけれど、あの人が大切にしているものを、一緒に守ることはできるかもしれない。恋する乙女の力なんて、たかが知れている。たかが知れているけど、ゼロじゃない。

 翌日から、陽菜多は動いた。

 まず、ゼミの担当教授に相談した。近代文学の教授は役に立たなかったが、「それなら」と、法学部で都市計画を研究している友人の教授を紹介してくれた。

 次に、真弓を巻き込んだ。真弓は「参謀の初仕事がデモ活動とはね」とぼやきながら、SNSで〈昭和の名喫茶シリウスを記録する会〉というアカウントを立ち上げた。店の許可をもらって写真を撮り、カフェオレの湯気と、猫のシリウスと、柱時計を投稿した。

 三週間で、フォロワーは八千人になった。土曜日の店には、若いお客さんが並ぶようになった。

「……なんだか、えらいことになったねえ」

 小暮さんは、注文の列に目を白黒させながら、それでも、少しうれしそうだった。

「商店街の会合でもね、『シリウスさんとこの若い子たちの動き、ありゃなんだい』って話になってさ。はんこ押しかけてた金物屋の親父さんが、『もうちょっと様子を見る』って言い出した」

「ほんとですか!?」

「陽菜多ちゃん」

 小暮さんは、ふいに、まっすぐ陽菜多を見た。

「ありがとう。……なんで、ここまでしてくれるの」

 心臓が、大きな音を立てた。

 言うなら、今かもしれない。あなたが好きだから。あなたの大切なものは、私にも大切だから。言葉は、喉のすぐそこまで来ていた。

「……カフェオレが」

「ん?」

「ここのカフェオレが、なくなったら、困るから」

 ——言えなかった。

 二十歳の勇気は、四百五十円のカフェオレの後ろに、隠れてしまった。

「そっか」小暮さんは笑った。「じゃ、一生分、淹れなきゃな」

 一生分。

 その言葉を、陽菜多は帰り道、何度も口の中で転がした。ただの冗談だとわかっているのに、砂糖菓子みたいに甘くて、なかなか溶けてくれなかった。
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