たそがれ色のカフェオレ
第五章 ライバルは、思い出
八月の終わり、その女の人は、突然あらわれた。
夏休みの間も、陽菜多はせっせと店に通っていた。その日も、いつものカウンターの端でレポートはとっくに終わっていたので、意味もなく法学の本を広げていた。
カラン、とドアベルが鳴って、入ってきたのは、白いブラウスの、きれいな人だった。四十歳くらいだろうか。すっと背筋が伸びていて、営業スマイルではない、静かな微笑を浮かべていた。
小暮さんが、カップを、落とした。
ガシャン、と音がして、白い破片がカウンターに散った。陽菜多は、小暮さんがカップを落とすところを、初めて見た。
「……久しぶり、修一郎さん」
「…………佳澄ちゃん」
かすみ、ちゃん。
その響きだけで、陽菜多の胸に、冷たいものがすうっと走った。
女の人は、窓際の席——シリウスの席、奥さんの席に、迷わず座った。まるで、そこが自分の席だと知っているみたいに。シリウスは逃げなかった。それどころか、女の人の膝に、ひらりと乗った。
「シリウス、大きくなったわねえ。あんた、あたしが拾ってきたときは、手のひらに乗ったのよ」
あたしが、拾ってきた。
陽菜多の頭の中で、いくつもの推理が、音を立てて組み上がっては崩れた。元恋人? 昔の常連? それとも——。
「コーヒー、ブラックで。——あの人がいつも飲んでたのと、同じやつ」
小暮さんは、黙って豆を挽き始めた。その背中が、陽菜多の知らない背中だった。
女の人はコーヒーを飲み、小暮さんと、二言三言、小さな声で話し、そして一時間ほどで帰っていった。帰り際、なぜか陽菜多の方をちらりと見て、ふっと笑った——ような気がした。
「……今の方、どなたですか」
気がついたら、聞いていた。声が、我ながら情けないほど、揺れていた。
「ん? ああ……佳澄ちゃん。女房の妹さん」
妹。
ほっとした——のは、二秒だけだった。
「今、旦那さんと別れて、こっちに戻ってきてるんだって。……あの人ね、昔から女房にそっくりなんだよ。声も、コーヒーの飲み方も」
小暮さんは、遠い目をして、窓際の席を見ていた。
その目を見て、陽菜多は理解した。理解したくなかったけれど、理解してしまった。
私のライバルは、あの佳澄さんじゃない。
八年前に亡くなって、それでもこの店のいちばんいい席に、今も座り続けている人。歳を取らない人。カップの位置ひとつ、レコードの一枚一枚に住んでいる人。
——思い出と、どうやって戦えばいいんだろう。
思い出は、喧嘩もしないし、老けもしないし、お皿も割らない。完璧なままで、ずっとそこにいる。生きている人間は、絶対に、思い出には勝てない。
その夜、陽菜多は真弓に電話をかけて、約束通り、泣いた。
「……あのね、真弓。私、ずるいこと考えたの。佳澄さんが憎いって、一瞬思ったの。奥さんの妹さんで、奥さんに似てて、小暮さんの昔を全部知ってて。私の知らない小暮さんを、あの人は全部知ってるんだよ。私には二十年分の小暮さんしか——ううん、たった四か月分の小暮さんしか、ないのに」
『陽菜多』
「それでね、もっとずるいこと考えたの。奥さんが生きてたらよかったのにって、思えない自分がいるの。ひどいよね。小暮さんは今でも奥さんが大事なのに、私……私は……」
『陽菜多。聞きなさい』
真弓の声は、静かだった。
『あんたは、ひどくなんかない。それはね、恋してる人間の、普通の心よ。きれいなだけの恋なんて、この世にないの。妬いて、ずるくなって、自分が嫌になって——それでも相手の幸せを願っちゃうから、恋は切ないんじゃない』
「…………うん」
『で、参謀として聞くけど。あんた、どうする? 撤退する?』
陽菜多は、涙を手の甲でぬぐった。窓の外に、夏の終わりの月が出ていた。
「……しない。撤退、しない」
『よろしい』
「勝てなくてもいい。思い出に勝てなくてもいいの。ただ私、ちゃんと伝えたい。なかったことに、したくない」
電話の向こうで、真弓が笑った気配がした。
『あんた、四月よりずっと、いい顔してるわよ。見えないけど』
夏休みの間も、陽菜多はせっせと店に通っていた。その日も、いつものカウンターの端でレポートはとっくに終わっていたので、意味もなく法学の本を広げていた。
カラン、とドアベルが鳴って、入ってきたのは、白いブラウスの、きれいな人だった。四十歳くらいだろうか。すっと背筋が伸びていて、営業スマイルではない、静かな微笑を浮かべていた。
小暮さんが、カップを、落とした。
ガシャン、と音がして、白い破片がカウンターに散った。陽菜多は、小暮さんがカップを落とすところを、初めて見た。
「……久しぶり、修一郎さん」
「…………佳澄ちゃん」
かすみ、ちゃん。
その響きだけで、陽菜多の胸に、冷たいものがすうっと走った。
女の人は、窓際の席——シリウスの席、奥さんの席に、迷わず座った。まるで、そこが自分の席だと知っているみたいに。シリウスは逃げなかった。それどころか、女の人の膝に、ひらりと乗った。
「シリウス、大きくなったわねえ。あんた、あたしが拾ってきたときは、手のひらに乗ったのよ」
あたしが、拾ってきた。
陽菜多の頭の中で、いくつもの推理が、音を立てて組み上がっては崩れた。元恋人? 昔の常連? それとも——。
「コーヒー、ブラックで。——あの人がいつも飲んでたのと、同じやつ」
小暮さんは、黙って豆を挽き始めた。その背中が、陽菜多の知らない背中だった。
女の人はコーヒーを飲み、小暮さんと、二言三言、小さな声で話し、そして一時間ほどで帰っていった。帰り際、なぜか陽菜多の方をちらりと見て、ふっと笑った——ような気がした。
「……今の方、どなたですか」
気がついたら、聞いていた。声が、我ながら情けないほど、揺れていた。
「ん? ああ……佳澄ちゃん。女房の妹さん」
妹。
ほっとした——のは、二秒だけだった。
「今、旦那さんと別れて、こっちに戻ってきてるんだって。……あの人ね、昔から女房にそっくりなんだよ。声も、コーヒーの飲み方も」
小暮さんは、遠い目をして、窓際の席を見ていた。
その目を見て、陽菜多は理解した。理解したくなかったけれど、理解してしまった。
私のライバルは、あの佳澄さんじゃない。
八年前に亡くなって、それでもこの店のいちばんいい席に、今も座り続けている人。歳を取らない人。カップの位置ひとつ、レコードの一枚一枚に住んでいる人。
——思い出と、どうやって戦えばいいんだろう。
思い出は、喧嘩もしないし、老けもしないし、お皿も割らない。完璧なままで、ずっとそこにいる。生きている人間は、絶対に、思い出には勝てない。
その夜、陽菜多は真弓に電話をかけて、約束通り、泣いた。
「……あのね、真弓。私、ずるいこと考えたの。佳澄さんが憎いって、一瞬思ったの。奥さんの妹さんで、奥さんに似てて、小暮さんの昔を全部知ってて。私の知らない小暮さんを、あの人は全部知ってるんだよ。私には二十年分の小暮さんしか——ううん、たった四か月分の小暮さんしか、ないのに」
『陽菜多』
「それでね、もっとずるいこと考えたの。奥さんが生きてたらよかったのにって、思えない自分がいるの。ひどいよね。小暮さんは今でも奥さんが大事なのに、私……私は……」
『陽菜多。聞きなさい』
真弓の声は、静かだった。
『あんたは、ひどくなんかない。それはね、恋してる人間の、普通の心よ。きれいなだけの恋なんて、この世にないの。妬いて、ずるくなって、自分が嫌になって——それでも相手の幸せを願っちゃうから、恋は切ないんじゃない』
「…………うん」
『で、参謀として聞くけど。あんた、どうする? 撤退する?』
陽菜多は、涙を手の甲でぬぐった。窓の外に、夏の終わりの月が出ていた。
「……しない。撤退、しない」
『よろしい』
「勝てなくてもいい。思い出に勝てなくてもいいの。ただ私、ちゃんと伝えたい。なかったことに、したくない」
電話の向こうで、真弓が笑った気配がした。
『あんた、四月よりずっと、いい顔してるわよ。見えないけど』