たそがれ色のカフェオレ

第六章 柱時計の止まった日

九月の半ば、地主の榊原のおじいちゃんが、亡くなった。

 通夜から三日後、喪服のかわりみたいな黒いポロシャツを着た小暮さんは、店を開けながら、ぽつりと言った。

「息子さんから、連絡があってね。土地は、売ることにしたそうだ」

「……そんな」

「年内いっぱいは、いていいって。それが、精一杯の温情だとさ」

 署名は三千筆を超えていた。SNSの記録会には、テレビ局から取材の話も来ていた。でも、土地の持ち主が売ると決めたら、借りている側にできることは、もうほとんどないのだと、法学部の教授は言った。

「みんなには、ほんとに感謝してる。商店街のみんなも、条件闘争ってやつに切り替えて、いい補償を勝ち取ったしね。陽菜多ちゃんたちが騒いでくれたおかげで、開発会社もずいぶん譲歩したんだよ。……ただ、うちの店だけは、どうにもならなかった。それだけの話」

「それだけって……そんな言い方——」

「陽菜多ちゃん」

 小暮さんの声は、おだやかだった。おだやかで、だからこそ、取りつく島がなかった。

「実はね、決めたことがあるんだ。店を閉めたら、長野に行こうと思ってる」

 柱時計の音が、止まったような気がした。

「女房の実家がね、小さな民宿をやってたんだけど、義父さんも歳で、たたむって話が出てて。佳澄ちゃんが、継ごうかって言ってる。それで、コーヒーを淹れる人間が要るだろうって」

「……佳澄さんと、一緒に?」

「まあ、共同経営ってやつかな」

 陽菜多は、自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。カフェオレのカップを、両手で持った。持っていないと、手が震えそうだった。

 長野。佳澄さん。共同経営。

 単語のひとつひとつが、石つぶてみたいに飛んできた。

「……それって」

 声が、掠れた。

「それって、佳澄さんと、その、再婚——とか、そういう……」

 言ってから、後悔した。聞く権利なんて、私にはない。私はただの客だ。カウンターの端の、若い常連客だ。

 小暮さんは、少しの間、黙っていた。それから、静かに言った。

「……周りは、そう思うだろうね。義父さんも、たぶん、それを望んでる」

 否定して。

 お願いだから、否定して。

 陽菜多は祈った。でも小暮さんは、それ以上、何も言わなかった。ただ、窓際の席を見て、それから、少し笑った。あの、目尻まで届かない笑い方で。

「陽菜多ちゃんも、来年は三年生か。就活とか、始まるんだろ? ……いつまでも、こんなおじさんの店に入りびたってちゃ、だめだよ」

 その一言が、とどめだった。

 優しい声だった。優しい声で、線を引かれた。あなたはこちら側、私はあちら側。若い人は、若い人の世界へ。

「……ごちそうさまでした」

 陽菜多は、四百五十円をきっちり置いて、店を出た。

 カラン、というドアベルの音が、背中で鳴った。あの音が、こんなに冷たく聞こえたのは、初めてだった。

 商店街を、どう歩いたのか覚えていない。気がつくと、駅前の噴水の縁に座っていて、スマホが真弓からの着信で光っていた。

『もしもし、陽菜多? 例のテレビ取材の件だけど——って、あんた、泣いてるの?』

「……真弓ぃ……」

『わかった。十五分で行く。動くんじゃないわよ』

 本当に十五分で駆けつけてきた真弓は、ハンカチと缶のミルクティーを差し出し、隣に座って、陽菜多が泣きやむまで、一時間、何も聞かずにいてくれた。

 噴水の水音を聞きながら、陽菜多は思った。

 失恋って、告白してフラれることだと思っていた。違うのだ。告白する前に、扉がしまっていくのを、ただ見ていることしかできない——そういう失恋も、あるのだ。

 そしてそれは、フラれるより、ずっとずっと、痛かった。
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